山梨県産 水晶印材コレクション-その10-
             「水晶判」引札

1. 初めに

   2003年3月に甲府市で開催された骨董市で水晶印材を出品しているお店があり
  早速8本まとめて購入した。
   この中に、インクルージョン入りが6本、その内『山入り』のものは1本だけだった。

     「山入り」【2003年3月入手】

   それ以来、山梨県は無論、各地の骨董市や骨董店を訪れる毎に、山梨県産の
  水晶製品に眼を光らせていた。その結果、既に130本あまりの水晶印材が集まり
  その経緯と「山梨県水晶細工【印材】のミニ歴史」については、HPに何回か記載
  した。

 ・山梨県産 水晶印材コレクション
 ・山梨県産 水晶印材コレクション-その2-
 ・山梨県産 水晶印材コレクション-その3-
 ・山梨県産 水晶印材コレクション-その4-
 ・山梨県産 水晶印材コレクション-その5-
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 ・山梨県産 水晶印材コレクション-その9-

   2008年4月、北関東で開かれた骨董市を訪れると、今から120年ほど前の明治22年
  (1889年)の略暦をいれた「水晶判」の引札(ひきふだ)があったので、少し高かった
  が迷わずに買った。
   発行元は山梨県甲府柳町2丁目の「南陽堂」という印判版木彫刻店だった。この頃
  水晶印が人気になる第一期(明治30年ごろ)を数年後に控え、宣伝活動にも熱が入っ
  ていたと考えられる。
   「南陽堂」のその後については、甲府に帰省した際に調べてみたい。

  【後日談】
   このページを読んだ千葉の石友・Mさんから次のようなメールをいただき、「南陽堂」
  のその後を知ることができた。

   『 甲府柳町二丁目 南陽堂 田草川徳次郎、とは 現在はお孫さんが田草川印房
    を受け継いでいる。
     ただし、住居表示が変わって、甲府市中央になっている。              』

     ここに、石友・Mさんに厚く御礼申し上げる。

   1枚の引札を見ていると、当時の人々の暮らしぶりがよく分かる。水晶印に関連する
  「引札」を目にしたのは初めてだが、他にもある可能性は高く、継続して探して見ようと
  考えている。
   ( 2008年4月入手 同月見直し )

2. 「引札(ひきふだ)」とは

   引札は、1枚摺りの版画(江戸時代から明治中期は木版、明治後期になると石版画)
  で、現在のチラシやカレンダーの機能をもったポスターのようなものだったらしい。年末
  年始あるいは開店の挨拶そして売出しなどに顧客に配ったものなどがある。
   引札の登場は17世紀後半まで遡るといわれ、文化・文政の頃から広告手段として
  の地位を確かなものにしたようだ。
   配布時期やその目的によって描かれる代表的な図案は、次の通りである。店の名前
  取り扱い品、商品名などはどの引札にも入っている。

   年末・年始・・・・・・七福神、干支(えと)などの縁起物や略歴(カレンダー)
   開店・・・・・・・・・・・美人や七福神、干支(えと)などの縁起物
   売出し・・・・・・・・・縁起物と「大勉強」などの文字

       
               年賀                   略歴
            
                      売出し
                    各種の引札

3. 「水晶判」引札

    今回入手した「水晶判」引札の全体と「略歴」(現在のカレンダー)の部分を
   下に示す。

       
             全体                  略歴部分
                    「水晶判」引札

 (1) 発行元と印刷時期
     赤、黄、緑など目立つ色を基調にしたバックに、おかめの面、まゆ玉、打出の小槌
    鯛などのお目出度い品々や大福帳や千両箱など商売繁盛を祈る品々がちりばめら
    れている。
     真中には、略歴が配置されている。用紙と略歴の縦横比は同じになっていて、この
    意匠(デザイン)を考えた人の感覚(センス)の素晴らしさを感じる。

     略歴の上の”扇”の中には、『 水晶判 』、とあり、この引札の発行元の主な商売が
    『 水晶印 』 であることを示している。

     略歴の左には、『 御印判版木彫刻処 甲府柳町二丁目 南陽堂 田草川 徳次郎』
    と、この引札の発行元の名前がある。
     甲府柳町は、甲府城(現舞鶴公園)から南にあり、古くから商店街として栄えた町で
    甲府市の老舗デパート「岡島」もこの町でスタートしている。

     引札欄外左下に、『 団扇(うちわ)加留多(カルタ)製造所 ・・・下谷区スキヤ町・・・
    横山良八 』
、とありこの引札が東京下谷区(現在の台東区)で作られたことを示して
    いる。

     横山良八は、楊洲周延画の 錦絵「幻灯写心競(くらべ)女史演説」 をこの引札の1年後
    1890年(明治23)に彫るなど、当時の人気彫師だったようだ。

     略歴の下に、『 明治21年11月14日印刷 同16日発行 』、とあり、年末迄まだ
    余裕がある時期だったので、年末に配布するのには十分間に合った、と思われる。
     枠外、左上に 『 御届 明治20年10月 』、とあり、他の多くの引札のように商品や
    商店名の部分を空白にしたもの(見本)を多数印刷しておき、注文に応じて重ね印
    刷(加刷)したとも考えられる。

 (2) 略歴
      「略歴」とは、現在のカレンダーで、1年の暦を1枚にまとめたものである。その
     当時、テレビは無論ラジオもなかったので、今日が何月何日で何曜日かを正しく
     知る手段は限られていた。そんな中で、この略歴は、人々の生活にとって大いに
     役立ったことだろう。
      中央に神武天皇即位紀元2549年とある。この暦が使われた明治22年(1889年)
     は、明治憲法が発布されるなど、近代国家としての体裁を何とか整え、国の威信
     を内外に誇示し始めたころだった。
      ( 昭和15年(1940年)の紀元2600年でピークを迎える )

      両脇に、大の月、小の月別に、ついたちの干支、旧暦で何月何日にあたるか、
     そして月の最終日は何日か、などが判るようになっている。
      その内側上段に、四方拝(元旦)から始まって、新嘗祭(現在の勤労感謝の日)
     に至るまでの祝祭日が記されている。
      その下の段には、年中行事が書かれているが、節分、冬至など現在でも私たち
     に身近なものもあれば、『はんげ生(半夏生:はんげしょう)』、などのように忘れ去
     られたものもある。
      『申子』『庚甲』などがあり、何か信仰に関係ありそうだとは思うのだが私には意
     味不明である。
      「日曜表」は、その月の日曜日が何日かを示したもので、学校教育が庶民の子
     弟にも普及し始めたりで、7曜日がひとつのサイクルになり、お休みの日を知る必
     要があったのだろう。
      一番下の段右側には、円と方位が描かれていて、「鬼門」や「金神」など、旅行
     縁組など避けるべき方位や『 万(よろず)よし 』、というに何をやっても差し障り
     ない方角がある。
      下段左側は、「大安」「仏滅」などでなじみの深い「六曜」とその意味があり、毎月
     一日の六曜が判るようになっていて、冠婚葬祭の日取りを決めるのに役にたって
     いたのだろう。

4. おわりに

 (1) 水晶印の宣伝
      「水晶宝飾史」によれば、この「水晶判」引札が発行された時期の山梨県の水晶
     印を取り巻く状況は次のようになっていた。

      明治20年代         水晶印の篆刻技術完成。
                      熟練彫刻師が1日かかって実印で3本、認印で5本と
                      手作業なので効率は良くなかった。
      明治23年7月        水晶製品の郵送が許可になる。
                      後に通信販売の途も開かれた。
      明治27年(1894年)     「山梨鑑」の広告欄に14の加工業者の名が見える。
      明治30年(1897年)以降  行商人(六郷町)による売込み
                      印材を中心とする水晶細工品全国に浸透。
      明治34年(1891年)    「峡中文学」誌の広告欄に国華堂の通信販売広告。
      明治36年(1903年)    「甲斐物産商会」が通販誌「甲斐物産商報」発行。

       この引札が発行された明治21年には、全国的な通信販売網は整っていなかっ
      たので、この引札は、限られた範囲の顧客に配られたものと考えられる。

       明治30年代になると通信販売や行商による売り込みなどが主流になり、「引札」
      の出る幕はなくなってしまった、とも考えられる。

       「水晶判」の引札が発行された期間は、明治20年から30年の限られた期間で
      それだけ現存するものも少なく、貴重なので、大切に保管するとともに、次世代に
      伝えて行きたいと考えている。

 (2) 「南陽堂」のその後
      このページを書いた後、現在「南陽堂」がどうなっているか調べたくなった。イン
     ターネットで調べると、関西に「南陽堂」なる印鑑を扱うお店があるようだが、甲府
     周辺では見当たらなかった。

      このページを読んだ千葉の石友・Mさんから、HPの年号の誤りの指摘を含め
     次のようなメールをいただいた。これで「南陽堂」のその後を知ることができた。

      『 甲府柳町二丁目 南陽堂 田草川徳次郎、とは 現在はお孫さんが田草川
       印房を受け継いでいる。
        ただし、住居表示が変わって、甲府市中央になっている。         』

        「田草川印房」地図

    (”田草川(たくさかわ)”という苗字は、甲府周辺ではさほど珍しいものではない。)

      2008年GWには甲府に戻り中川農園の手入れをする予定なので、そのついでに
     「田草川印房」を訪れ、「引札」のコピーをお渡しし、徳次郎の人となりについて
     教えていただこうと思っている。

      このような貴重な情報を教えていただいた石友・Mさんに厚く御礼申し上げる。

5.参考文献

 1) 山梨県水晶商工業協同組合編纂:水晶宝飾史,甲府商工会議所,昭和43年
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