山梨県産 水晶印材コレクション

1.初めに

 私が所属する鉱物同志会の会誌「水晶」に堀会長が執筆した「百瀬康吉
水晶コレクション」と題する記事が頭の片隅に残っていた。
 このコレクションは、彼が最後まで秘蔵し、手放さないで子孫に伝えられた
「水晶印材コレクション」である。
 3月に甲府市で開催された骨董市を覗いて見ると、水晶印材を出品している
お店があり早速何本か購入した。
 それらの内の何本かは、「山」、「星」などのインクルージョンが入った
山梨県産の水晶の特徴を備えた印材だったからで、購入したもの1点、1点良く
見ると類稀な天然の美しさがあり、”自然は偉大な芸術家”と改めて認識させ
られます。
印材として水晶がもてはやされた時代はとうに過ぎ去り、今後作られることも
少ないので、大切に保管していきたい。
(2003年3月入手)

2.「百瀬康吉水晶コレクション」

 すでに私のHPで紹介したことがあるように、百瀬康吉氏は水晶に興味を持ち
明治30年代から大正初期にかけて、膨大な数の水晶を蒐集した。
 この話は、東京の和田維四郎、神保小虎などにも伝わり、彼らが来甲したり
百瀬自身が持参して上京し、鑑定を仰いだりしていた。
 百瀬のコレクションは大正8年に山梨師範学校(現山梨大学)に寄贈され
「水晶館」に現在でも保管されている。

3.「百瀬水晶印材コレクション」

 2000年に、TVの「何でも鑑定団」に「水晶印材コレクション」が持ち込まれ
堀会長が鑑定の担当になった。
 これは、百瀬氏が最後まで秘蔵して寄贈しなかったコレクションであることが
ご子孫の話で明らかになった。
 堀会長は最初、何故百瀬氏が印材にこだわったのか理解できなかったそうだが
詳しく調べるにつれ、この疑問は氷解した。『このコレクションはある意味では
「水晶館」に保管されている大型標本よりも重要性が高い。』
と述べています。

(1)コレクションの概要
  角・丸・甲丸(楕円)の様々な大きさの100点の水晶印材は、3段の桐箱に
 納められ、仕切りの中に1〜2本収納されていた。
 全ての水晶にインクルージョンが入っていたのが大きな特徴です。
  ラベルはなく、その代わりに、薄板に番号とメモが書き込まれていた。
  水晶印材がいくら流行した時期とは言え、水晶細工の職人たちも不純物が入った
 部分は避けたと思う。百瀬氏が、インクルージョン入りの印材に惹かれて、買い
 上げると知った職人達が持ち込んだものと考えるのが自然であろう、と掘会長は
 述べています。
水晶印材コレクション【水晶より引用】

(2)コレクションの逸品
下の角型印材は、赤い星のようなインクルージョンがあり、百瀬氏の次のような
メモが残されている。

『和田博士の所謂モナヂット(モナズ石)にして、甲州に産すると文献に記されあれど
 未だ現品を見ざるもの。たまたま今回の研究で判明せし逸品なり。大正12年1月29日』
   

モナズ石入り【水晶より引用】

  これは、モナズ石入りとありますが、結晶の形などから、柘榴石の可能性が高いと
 堀会長は述べています。

4.「水晶印材」採集品

 今回、私が骨董市で購入した水晶印材は、全部で8点でした。
   内訳は、紫水晶1点、透明1点、インクルージョン入り6点です。
4.1 本当に水晶製か?
  骨董市などで購入する場合、本物の水晶かどうかが気になります。原石なら
ともかく、印材のように加工されたものは判別が難しい。水晶印材が流行った時期に
  原材料の水晶の供給が間に合わないことや、安価な値段で売り込むためにガラス製を
  水晶製と偽って全国的に 販売し、”甲州商人”の悪辣さが顰蹙(ひんしゅく)を
  買った事もあったくらいです。
  しかも、購入するまでは お店の商品ですから、一番簡単・確実なモース硬度を
  利用した傷をつける鑑定法など採れる筈もなし。今回決め手になったのは
  @インクルージョンが入っている。
   これだけ手の込んだものを作るガラス技術はない。
  A山入りを生かすため、水晶の錐面まで使ったものがある。
   偽物なら、わざわざ見栄えの悪い形にしない。
  B1点、1点に、古色を感じる同じ形式のラベルが糊付けされている。
  C見た目の輝きが強い。(屈折率が高い)
  D手に持った感じ”ヒンヤリ”してガラスより比熱が大きい。
   C、Dは、感覚的なものですから、時としてハズレることもあります。
4.2 「水晶印材」採集品解説
【No1】紫丸印
   山梨県で紫水晶が産出したのは、”□□□”だったと、黒平の故老に聞き、小さな標本を
   譲ってもらった事があった。
   それを見ると、とても印材になるような大きさのものが山梨県で産出したとは思われず
   この印材の紫水晶は、他所から運び込まれたものだと思います。
   「水晶宝飾史」によれば、明治末に山梨県での水晶採掘が禁止になると
    県外産の水晶を業者間で争奪したそうで、紫水晶は、次の2箇所のもので
   あった。
   @宮城県小原坑(雨塚山のこと)
   A鳥取県藤屋坑

   これは、品のある薄い紫色で、雨塚山産の可能性が高いと思われます。
紫丸印36mm【雨塚山?】
【No2】透明角印
   何点かあった中で、傷、インクルージョンが全くなく、透明度も高いので購入した。
   産地は、特徴がないので不明です。
透明角印36mm【産地?】
【No3】白山入り丸印
   富士山の頂きのように白い山の入ったもので、水晶峠産に間違いないと思います。
山入り丸印36mm【水晶峠】
【No4】草山入り丸印
   角閃石と思われる草色の山が入ったもので、先端部分や反対側には、真っ白い
   角閃石の短柱状結晶が入っており、これも水晶峠産に間違いないと思います。
草山入り丸印56mm【水晶峠】
【No5】緑星山入り丸印
   緑泥石と思われる緑色の小さな結晶が山の一部をなして入っているもので
   八幡山産に間違いないと思います。(私のHP参照下さい。)
   山の部分を生かそうとしたのか、水晶の錐面部分も使っており、完全な円柱に
   なっていません。
緑星山入り丸印36mm【八幡山】
【No6】黒星入り丸印
   黒雲母と思われる黒色六角板状の小さな結晶が入っているもので、向山産に
   間違いないと思います。
黒星入り丸印46mm【向山】
【No7】マリモ入り丸印
   白雲母と思われる球状結晶集合体と角閃石と思われる小さい柱状が入っている
   もので、竹森産に間違いないと思います。
マリモ入り丸印46mm【竹森】
【No8】星草入り丸印
   角閃石と思われる両錐板状結晶(色色、黄色)と針状結晶が入っているもので
   水晶峠産だろうと思います。
星草入り丸印46mm【水晶峠?】

4.3 標本ラベルの意味
印材1点、1点に和紙に木版(?)印刷した統一フォーマットに黒インクで記号が書き込まれた
ラベルが柱面下部か底面に貼付けてあります。

No     記号     形   径×長さ     産地
1   2.6-2.8  63号   丸  9mm×36mm    雨塚山?
2   仁甲丸一 19号   角  14mm×36mm    ?
3   1甲??  乙久号  丸 14mm×36mm    水晶峠
4   5.5-4.4  44号  楕円  10mm×12mm×56mm 水晶峠?
5   甲丸代丸  1号   丸  14mm×36mm  八幡山
6   6.0-4.8 128号  楕円  10mm×13mm×46mm 向山
7   20丸一  24号  楕円  11mm×15mm×38mm 竹森
8   6.5-5.2  30号  楕円  9mm×11mm×46mm  水晶峠?

5.山梨県水晶細工【印材】のミニ歴史

 水晶が玉、数珠などに何時ごろから加工され始めたのかいくつかの伝承が
  残されているに過ぎない。
  南北朝時代(1330〜1400年)  甲斐生まれの普明国師が甲州から水晶を
                 取り寄せて、京都で数珠玉に加工させた?
  享保年間(1716〜1735年)   御岳金桜神社の神職が上洛時、原石を
                 持参し、京都で玉に加工させた?
  江戸中期以降(1750年〜)   四国金毘羅山に詣でる人々が原石を
                 持参し、京都で玉に加工させた。
  天保5年(1834年)       玉屋弥助(京都?)が水晶加工を伝える。
  嘉永7年(1854年)       「甲州買物独案内」に名産として
                  数珠、眼鏡、緒〆などがある。
  安政7年(1860年)       土屋宗助「大福帳」に、置物、根付と並んで
                 印材とある
のが初見である。
  文久2年(1862年)       土屋宗助「萬注文帳」に
                 『一金2分3朱 印材2ツ』とある。

 単純には、印材1個が1分1朱余り(約1,400文)となり、当時蕎麦が16文で
  食べられたことから、蕎麦90杯分、現在の価格では約5万円となり、非常に
  高価だったことが分かります。

  明治6年(1873年)       藤村紫朗山梨県令着任
                  水晶工芸の振興に力を入れる。
                  ウイーン万博に水晶玉出品
  明治10年(1877年)       第1回内国勧業博(上野公園)に
                  水晶玉、硯、印材、眼鏡等150点出品。
                  印材はじめ、加工の中心は玉宮村(今の竹森周辺)や
                  宮本村(御岳)であった。
  明治18年(1885年)       御岳大火。以降、加工の中心甲府へ移る。
  明治20年代           水晶印の篆刻技術完成。
                  熟練した彫刻師が1日かかって実印で3本
                  認印で5本と手作業なので効率は良くなかった。
  明治27年(1894年)       「山梨鑑」の広告欄に14の加工業者の名が見える。
  明治30年(1897年)以降     行商人(六郷町)による売込み
                  印材を中心とする水晶細工品全国に浸透。

    水晶細工は古くから郵便条例16条の「宝石」に該当するとして、郵送することが
   できなかった。このため、運賃が高く日数もかかる「通運便」(日本通運便か?)
   にするしかなく不便であった。
    明示23年7月、水晶製品の郵送が許可になり、後に通信販売の途も開かれた。

  明治34年(1891年)     「峡中文学」誌の広告欄に国華堂の通信販売広告。
                 認め印材  30銭〜1円
                 篆刻料   1文字30銭〜1円

    ”中川”の認印を作ると、安くて90銭、高ければ3円だった。(今の4,000円〜12,000円)
    現在では、100円ショップで認印が買える時代ですから、依然として高いものだったのでしょう。

  明治36年(1903年)     「甲斐物産商会」が通販誌「甲斐物産商報」発行。
  明治40年(1907年)      甲府の大水害を契機に水晶採掘が禁止される。
                 この頃から、加工業者の転廃業が相次ぐ。
  明治44年(1911年)      水晶研磨に金剛砂に代りカーボランダム導入し効率向上。
  大正7年(1918年)      ブラジルから原石輸入開始。
                 この頃から、水晶加工品(ネックレスなど)の輸出急増。
                 印材業者も輸出品に転換。
                 六郷町の印材行商も第2次隆盛期を迎える。
  昭和元年(1925年)      原正、印章の電気篆刻機発明。3倍効率アップ。
  昭和6年(1931年)      水晶加工品の生産高、最高の210万円(現在の60億円)記録。
  昭和7年(1932年)以降    世界恐慌の影響で輸出品の価格暴落。生産調整
                価格協定不調。瑪瑙細工への転換が図られる。
                米沢某が印章の噴砂式篆刻機完成。効率飛躍的に向上。
  昭和9年(1934年)      新宿・三越の「山梨開発展示会」出展水晶製品5,200点の
                中に多数のガラス製品混入が判明し大騒ぎ。

   昭和2、3年ごろから、観光地土産品などにガラス品を水晶製品と偽った販売するものが
   現れ、山梨県特産水晶の名声を傷つけた。

  昭和10年(1935年)     米沢氏は、印章の通販誌「山梨水晶」を毎月10万部発行し
                認印50銭と従来の1/5に”価格破壊”
  昭和12年(1937年)     戦時体制への移行で、水晶は宝石として輸入禁止。
  昭和15年(1940年)     奢侈品として水晶細工の製造禁止。
  昭和16年(1941年)     水晶振動子など軍需産業へ転換。
  昭和21年(1946年)     敗戦後、進駐軍兵士向けに指輪など爆発的に売れる。
  昭和25年(1950年)頃    ガラス製品を偽って売るものが現れ、声価失墜。
  昭和32年(1957年)     大牟田産業科学博で某業者がガラス製品を水晶と偽って販売。
                全国的に報道され、水晶の声価またまた失墜。
  昭和34年(1959年)     水晶販売業者登録条例制定の動きがあったが、罰則規定が
                違憲との結論で、条例化断念。
                この後、業者の自覚もあり、不正販売は激減した。

6.おわりに

(1)いつごろ作られたものか?
   山梨県水晶細工【印材】の歴史をまとめてみると、印材の隆盛期は、大きく2回あった
   ようです。
   第1回  明治30年頃
   第2回  大正7年頃
   確率的には、この時期のものがたくさん残されているはずです。
   私の入手したものは、殆どが山梨県産で、紫水晶だけ県外産の水晶を使っていると
   考えられ、県外産水晶が導入され始めた明治末から大正初期に作られたものだろうと
   推定しました。
(2)何のために作られたものか?
   骨董店の店先には、印材が40本近く並んでおり、その中からインクルージョンのあるものを
   中心に8本選びました。
   ということは、これらの印材は「百瀬水晶印材コレクション」のように、インクルージョンを
   楽しむためのものではなかったことになります。
   標本1点、1点にはラベルがあり、書き込まれた記号は、今でいうカタログ番号のような気が
   します。
   これは印材の行商人が持ち歩いた見本だったのではないかと考えています。
   形や寸法だけを見せる見本なので、インクルージョンや傷が入った”クズ水晶”を
   使ったのではないでしょうか。
(3)どの位の価値があるのか?
   「何でも鑑定団」を見ていませんので、百瀬康吉氏の「水晶印材コレクション」の鑑定額が
    いくらだったか知りませんが、100個あれば、50〜100万円が私の鑑定額です。

    皆さんなら、いくらと鑑定しますか?

(4)【No8】の標本など、水晶原石のままだったら、見栄えしないので、標本として採集するか
   疑問ですが、印材になったものを見てみると味わいがあり、コレクションに加えようと言う
   気になりますから不思議なものです。
   水晶産地でも、”頭付き”、”綺麗なもの”、”×××式双晶”だけを探すのではなく
   結晶面やインクルージョンなどにも注目すれば、一段と採集が楽しくなりそうです。

7.参考文献

1)堀 秀道:水晶No14 百瀬康吉水晶コレクション,鉱物同志会,2001年
2)山梨県水晶商工業協同組合編纂:水晶宝飾誌,甲府商工会議所,昭和43年
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