(1)コレクションの概要
角・丸・甲丸(楕円)の様々な大きさの100点の水晶印材は、3段の桐箱に
納められ、仕切りの中に1〜2本収納されていた。
全ての水晶にインクルージョンが入っていたのが大きな特徴です。
ラベルはなく、その代わりに、薄板に番号とメモが書き込まれていた。
水晶印材がいくら流行した時期とは言え、水晶細工の職人たちも不純物が入った
部分は避けたと思う。百瀬氏が、インクルージョン入りの印材に惹かれて、買い
上げると知った職人達が持ち込んだものと考えるのが自然であろう、と掘会長は
述べています。
(2)コレクションの逸品
下の角型印材は、赤い星のようなインクルージョンがあり、百瀬氏の次のような
メモが残されている。
『和田博士の所謂モナヂット(モナズ石)にして、甲州に産すると文献に記されあれど
未だ現品を見ざるもの。たまたま今回の研究で判明せし逸品なり。大正12年1月29日』
これは、モナズ石入りとありますが、結晶の形などから、柘榴石の可能性が高いと
堀会長は述べています。
これは、品のある薄い紫色で、雨塚山産の可能性が高いと思われます。
4.3 標本ラベルの意味
印材1点、1点に和紙に木版(?)印刷した統一フォーマットに黒インクで記号が書き込まれた
ラベルが柱面下部か底面に貼付けてあります。
No 記号 形 径×長さ 産地
1 2.6-2.8 63号 丸 9mm×36mm 雨塚山?
2 仁甲丸一 19号 角 14mm×36mm ?
3 1甲?? 乙久号 丸 14mm×36mm 水晶峠
4 5.5-4.4 44号 楕円 10mm×12mm×56mm 水晶峠?
5 甲丸代丸 1号 丸 14mm×36mm 八幡山
6 6.0-4.8 128号 楕円 10mm×13mm×46mm 向山
7 20丸一 24号 楕円 11mm×15mm×38mm 竹森
8 6.5-5.2 30号 楕円 9mm×11mm×46mm 水晶峠?
単純には、印材1個が1分1朱余り(約1,400文)となり、当時蕎麦が16文で
食べられたことから、蕎麦90杯分、現在の価格では約5万円となり、非常に
高価だったことが分かります。
明治6年(1873年) 藤村紫朗山梨県令着任
水晶工芸の振興に力を入れる。
ウイーン万博に水晶玉出品
明治10年(1877年) 第1回内国勧業博(上野公園)に
水晶玉、硯、印材、眼鏡等150点出品。
印材はじめ、加工の中心は玉宮村(今の竹森周辺)や
宮本村(御岳)であった。
明治18年(1885年) 御岳大火。以降、加工の中心甲府へ移る。
明治20年代 水晶印の篆刻技術完成。
熟練した彫刻師が1日かかって実印で3本
認印で5本と手作業なので効率は良くなかった。
明治27年(1894年) 「山梨鑑」の広告欄に14の加工業者の名が見える。
明治30年(1897年)以降 行商人(六郷町)による売込み
印材を中心とする水晶細工品全国に浸透。
水晶細工は古くから郵便条例16条の「宝石」に該当するとして、郵送することが
できなかった。このため、運賃が高く日数もかかる「通運便」(日本通運便か?)
にするしかなく不便であった。
明示23年7月、水晶製品の郵送が許可になり、後に通信販売の途も開かれた。
明治34年(1891年) 「峡中文学」誌の広告欄に国華堂の通信販売広告。
認め印材 30銭〜1円
篆刻料 1文字30銭〜1円
”中川”の認印を作ると、安くて90銭、高ければ3円だった。(今の4,000円〜12,000円)
現在では、100円ショップで認印が買える時代ですから、依然として高いものだったのでしょう。
明治36年(1903年) 「甲斐物産商会」が通販誌「甲斐物産商報」発行。
明治40年(1907年) 甲府の大水害を契機に水晶採掘が禁止される。
この頃から、加工業者の転廃業が相次ぐ。
明治44年(1911年) 水晶研磨に金剛砂に代りカーボランダム導入し効率向上。
大正7年(1918年) ブラジルから原石輸入開始。
この頃から、水晶加工品(ネックレスなど)の輸出急増。
印材業者も輸出品に転換。
六郷町の印材行商も第2次隆盛期を迎える。
昭和元年(1925年) 原正、印章の電気篆刻機発明。3倍効率アップ。
昭和6年(1931年) 水晶加工品の生産高、最高の210万円(現在の60億円)記録。
昭和7年(1932年)以降 世界恐慌の影響で輸出品の価格暴落。生産調整
価格協定不調。瑪瑙細工への転換が図られる。
米沢某が印章の噴砂式篆刻機完成。効率飛躍的に向上。
昭和9年(1934年) 新宿・三越の「山梨開発展示会」出展水晶製品5,200点の
中に多数のガラス製品混入が判明し大騒ぎ。
昭和2、3年ごろから、観光地土産品などにガラス品を水晶製品と偽った販売するものが
現れ、山梨県特産水晶の名声を傷つけた。
昭和10年(1935年) 米沢氏は、印章の通販誌「山梨水晶」を毎月10万部発行し
認印50銭と従来の1/5に”価格破壊”
昭和12年(1937年) 戦時体制への移行で、水晶は宝石として輸入禁止。
昭和15年(1940年) 奢侈品として水晶細工の製造禁止。
昭和16年(1941年) 水晶振動子など軍需産業へ転換。
昭和21年(1946年) 敗戦後、進駐軍兵士向けに指輪など爆発的に売れる。
昭和25年(1950年)頃 ガラス製品を偽って売るものが現れ、声価失墜。
昭和32年(1957年) 大牟田産業科学博で某業者がガラス製品を水晶と偽って販売。
全国的に報道され、水晶の声価またまた失墜。
昭和34年(1959年) 水晶販売業者登録条例制定の動きがあったが、罰則規定が
違憲との結論で、条例化断念。
この後、業者の自覚もあり、不正販売は激減した。
皆さんなら、いくらと鑑定しますか?
(4)【No8】の標本など、水晶原石のままだったら、見栄えしないので、標本として採集するか
疑問ですが、印材になったものを見てみると味わいがあり、コレクションに加えようと言う
気になりますから不思議なものです。
水晶産地でも、”頭付き”、”綺麗なもの”、”×××式双晶”だけを探すのではなく
結晶面やインクルージョンなどにも注目すれば、一段と採集が楽しくなりそうです。