山梨県の鉱山札研究 「大金山出張所札」













         山梨県の鉱山札研究 「大金山出張所札」

1. はじめに

    甲斐國(現在の山梨県と長野県や愛知県の一部)では、他国に先駆けて金貨が流通し、その
   貨幣制度(単に幣制)は江戸幕府の幣制のお手本になったことをHPに掲載した。
    他国と同様に、銀や銅そして鉄の貨幣も流通してはいたが、甲斐國では江戸時代になっても
   金貨「甲州金」の製造が特別に許されていた。

    ・ 甲斐国 『 甲州金 』
     ( Gold Coins of Kai Province , Yamanashi Pref. )

    これは、甲斐国が豊富な金に恵まれていたことの証(あかし)であると同時に、平坦地が少なく
   標高が高いため、当時の経済のもとだった”お米”が獲れず、その代りになる産物の一つが金だ
   ったのだろう。
    そのため、人々の”金(GOLD)”に対する執念は強く、江戸時代さらに明治時代になっても官民
   を挙げて金の探査・採掘は続けられた。

    ミネラル・ウオッチングのストーブ・リーグの徒然(つれづれ)に、山梨県内の古書店を巡っている
   と、『保(ほ)金山』関連の資料をいくつか発見し、入手した。
    「保金山」は、「大金山(おおがねやま)金山」、とも呼ばれ、山梨県南部の南巨摩郡早川町に
   あった武田時代に開抗した古い金山だ。手に入れた資料から、幕末から明治初頭にかけて、保
   金山を巡って次のような出来事があったことが浮かび上がってきた。

    ・ 天保12年(1841年)、甲斐の百姓出身の真下(ましも) 専之丞が幕府勘定役兼金山奉行と
      して故郷に錦を飾り、保金山で試掘を行った。
    ・ 明治11年(1878年)、大金山にあった山梨県第二課の出張所が鉱山札・「大金山出張所札」
      を発行している。

    今後、フィールドで「保(大金山)金山」の跡をたどるとともに、「大金山出張所札」を探してみる
   つもりだ。
     ( 2014年1月 調査 )

2. 保(大金山)金山

 2.1 早川町の金山
      「早川町誌」などによれば、南巨摩郡早川町には、十指に余る金山があったことが知られて
     いる。
      代表的なものだけでも、保、土ノ小屋、茂倉、大島、西ノ宮、奥沢、稲沢、遠沢、広島、ねじ
     切り、黒桂(つづら)、雨畑などだ。
      「山梨県 地学のガイド」によれば、雨畑川上流の長畑にあった甲永鉱山のように、昭和の
     末まで休山しつつ存続した金山もあった。
      大正5年(1916年)の南巨摩郡の地図を下に示す。上の金山と同じ名前の地名や沢などを
     見つけられるだろう。

       
                      山梨県南巨摩郡【大正5年に加筆】

 2.2 保金山
      早川町の保集落は、上の地図に □ で囲った場所にあり、富士川にそそぐ早川沿いで
     保川を北に、大金山(1325m)を南西に背負っている。

       ♪♪ 保は山家(やまが)でも、御城下でござる
                          むかしゃ お奉行の住みどころ
  ♪♪ 

      この地に残る金山節の一節だが、この歌詞のように、かつては奉行所や御伝馬宿があった。
     貞亨5年(1688年)の遠藤次郎左衛門の検地帳に、『先年 御陣屋(有)候村ニ御座候得共』
     とあり、古くは陣屋があったことが裏付けられる。

      沢筋には数多くの間歩(まぶ:坑道)があった。それらの配置を想像で復元した図面がある
     ので引用する。

       
                        保金山配置想像図
                 【「保金山と真下専之丞」から引用・加筆】

      保集落は、大金山金山をはじめとする数多くの金坑の人・もの・金(かね)を管理し、採掘した
     金の保管・輸送などの拠点だった。この周辺にあった金坑を『保金山』と総称する所以(ゆえん)
     だろう。

      戦国時代、保金山があった河内(かわうち)地方と呼ばれる富士川沿いの甲斐國の南は
     武田氏の一族・穴山氏の領地だった。
      穴山氏は、”定住しない不思議な一族”、と言われるようだ。穴山氏が河内に最初に入った
     のは穴山信介の時代で、1418年ごろとされる。それ以前の穴山氏は、中央本線に「穴山」駅
     があることから推測できるように、韮崎市周辺に居住していた可能性が高いようだ。
      戦乱が続く戦国時代、どの武将も平坦で肥沃な米作りに適した領地を占領しようとするのに
     信介はなぜ富士川や早川沿いの山間部に移って行ったのだろうか。
      南の駿河の押さえとしてして武田氏の一族を配置した、などともっともらしい説もあるが、この
     地域が金の産出地帯であったことと無関係であるまい。なぜなら、穴山氏のルーツは『鉱山師
     (やまし)』だった、という説があるくらいだ。
      私の推測、”山に穴(坑道)を掘る”、から”穴山”氏、は単純すぎるだろうか。

      16世紀の末、武田勝頼の時代、河内地方は穴山梅雪が治めていた。天正10年(1582年)、
     信長・家康軍が武田領内に攻め込むと、勝頼に見切りをつけ、早々と家康に内通したのも、
     単なる戦闘武将でなく、テクノラート(鉱山師)の梅雪にとっては当然の選択だったのだろう。

      穴山氏の時代の金山経営については、不明な点が多いが、直接経営した『直山(じきやま)』
     かそれに近い形態だったのではないだろうか。なぜなら、江戸時代末期の天保年間に真下
     専之丞が保金山で試掘したのは、幕府勘定役兼金山奉行の”公”の立場だった。明治初頭、
     山梨県の出張所が鉱山札を発行しているのは、山梨県によって金山が運営されていた証拠
     だ。

      真下専之丞にしろ山梨県にしろ、地元住民が”武田氏の時代と同じやり方”での金山経営を
     望めばそれに従わざるを得なかったはずだ。それを無視したのが、明治5年8月、政府が全国
     一律の新しい税制を敷くことにし、武田時代からあった甲斐國の税制『大小切(だいしょうぎり)』
     の廃止を通告した時に、すべての農民が反対し、特に県東部(郡内地方)の農民たちは蜂起し
     県庁に迫り、県に「願いの趣き聞き届け候事」の印状を出させて、一旦は大小切廃止撤回に
     成功したかに見えた。東京から派遣された武装兵士をバックに、県は一転強圧的な手段に出
     て、3,000名が逮捕され、大小切は廃止された。

      【閑話休題】
       江戸幕府創草期、最大の一揆(乱)が「島原の乱」だ。その原因は、@ キリシタン弾圧
      A 領主による苛酷な税(苛政) があげられている。それ以外に、この地は有馬氏などの
      キリシタン大名に統治されていた時期があった。その時代は、統治する側と農民の間に
      同じ神を信仰する連帯感があり、決して楽ではないが家族揃って暮らしていけた。しかし、
      キリシタン大名が追放になり、新しい領主による苛酷な税と納められない農民に対する厳し
      い罰に、多くの農民がキリシタン大名による統治時代の再来を願っての一揆だったとする
      研究者もいるようだ。
       孔子だったかの本に、『苛政は虎よりも猛し』、とあるが、現在の中国農民の生の声がそう
      らしい。

3. 保金山と真下 専之丞

    天保12年(1841年)、保金山に異色の金山奉行が着任した。これから2年間、幕府勘定役兼
   金山奉行として保金山に入山した真下 専之丞は甲斐國塩山(現甲州市)の百姓出身だ。奉行
   職と言えば武士でしかも禄高が高くなければ就任できない役職だ。
    専之丞は後に陸軍奉行にまで累進し、頼ってくる同郷出身者に手を差し伸べ、その中には女流
   文学者・樋口一葉の父・則義もいた。
    身分制度が厳しい徳川時代にあって、百姓から奉行職まで登り詰めた専之丞の足跡を追って
   見る。

    寛政11年(1799年)   甲斐國山梨郡中萩原村の百姓・益田仙右衛門の子として生まれる。
                   幼名 鶴田 藤助
    文化2年(1805年)    正念寺 諦厳法師に学ぶ。
    文政8年(1825年)    江戸にでて、幕臣・小原氏の下僕となる。東作と改名
    文政12年(1829年)   平馬新作と改名
    天保元年(1830年)    代官手代となり、石和代官所に赴任
                   谷村出張所に勤務し公事方を担当
    天保7年(1836年)    旗本・真下家の家禄を購入し、真下専之丞と改名
                   蕃書調所調役、勤番衆などを務める。
    天保12年(1841年)   7月5日 江戸城支配兼金山奉行となる。
                    8月 下妻市蔵を伴って保金山に入山、10月江戸に帰る。
    天保13年(1842年)    5月保金山に再度入山、12月まで試掘し、都合により休山、封印
    慶応2年(1866年)     5,000石の陸軍奉行並支配に昇進
    慶応4年(1868年)     明治維新
                    維新後、横浜で私塾「融貫塾」をひらく。
    明治8年(1875年)     10月17日 死去(77歳)

    太平の世が長く続いた江戸時代末期、戦での勲功による出世や加増など期待できず、収入が
   増えず物価だけが上昇(インフレ)する世の中に見切りをつけ士分株を売る武士も生まれてきた。
    専之丞は士分の身分を買い、やがて旗本・真下家の養子となり、家督を譲られ、幕府の要職を
   得た。

    専之丞の着任を道中の宿場に伝える「お触書(ふれがき)」が残されているので引用する。

     『 一、 御証文写御先触二包箱入
            真下 専之丞様
       一、 御証文写御先触共一包箱入
            下妻 市蔵様
         右ハ就御用ニ明二十九日 江戸御出立
         被成候間 則差越申候 御書面
         之通 用意可有之候 尤道中
         無滞可被相触候    以上
         丑
(天保12年)八月二十八日
           御伝馬役 高野新左衛門
           従内藤新宿 保宿村
           問屋
           名主   中                  』

    従来、天保10年とされていた専之丞の金山奉行就任は、このお触書で天保12年だったことが
   わかる。それにしても、7月5日に就任し、8月29日に江戸を出立するという慌(あわ)ただしさだ。
    この当時の時代背景を読むと納得だ。

    天保7年   諸国で大飢饉(天保の大飢饉) 米価暴騰し、各地で一揆や打ちこわし多発
    天保8年   大塩平八郎の乱
            浦賀奉行がアメリカ商船・モリソン号を砲撃
    天保10年  渡辺崋山、高野長英らモリソン号を砲撃を批判し処罰(蕃社の獄)
    天保11年  アヘン戦争勃発
    天保12年  老中・水野忠邦 幕政改革に着手(天保の改革)

    天保10年、水戸藩主・徳川斉昭が”内憂外患”の意見書を幕府に提出したのに代表されるように
   まさに、国内外とも多事多難な時代で、幕府財政立て直しの一環として金山開発が急がれたの
   だ。

    保金山は、柳沢吉保・由里が統治した時代(1704年-1724年)、すでに金鉱脈は絶えたものと
   され、放置されていた。専之丞が江戸を出立したのが8月末だから、保金山に入ったのは9月初
   だったと思われる。このころ、青山吉十郎と金山生助が試掘を行っていたが成果は得られていな
   かった。
    しかし、滞在2ケ月足らずの10月末に専之丞は江戸に戻った。百姓出身の専之丞の栄達を同
   僚にそねまれ、「押し込め」の処分を受ける。
    翌天保13年5月、許されて再び保金山に赴(おもむ)く。今回は、御普請役・杉山戸右衛門と
   地元の市川代官・小林藤之助の手代・小榑厳作を伴い、山中に陣屋を建てて試掘に励んだよう
   だ。保金山とは言っても、上の配置想像図に示すように、間歩は判ってだけでも7箇所あり、専之
   丞が建てた陣屋がどこだったか、口伝も残されていない。
    大金山金山か、猿猴(えんこう)間歩(まぶ:坑道)付近の可能性が高いが、大金山なら保集落
   から2kmと近く、猿猴間歩だと徒歩で3時間はかかる。

    5月から12月まで、半年余り試掘したが、留山(とめやま)にして江戸に戻っているのは、良い
   結果が得られなかったためと考えられる。しかし、幕府は専之丞の2年間の労苦をねぎらって、
   この後要職を与えている。

4. 「大金山出張所札」と明治期の大金山金山

    今回観察した「大金山札」は、額面が10銭と1円の2種で、それぞれの表裏の写真を示す。

         
            表               裏
                   10銭札

         
            表               裏
                   1円札

                 「大金山出張所札」

    荒木豊三郎氏の「日本古紙幣類鑑」には、金山出張所20銭札の存在が書かれている。明治
   10年頃には、1厘、半銭(5厘)、1銭、2銭の銅貨、5銭、10銭、20銭、50銭、1円の銀貨、1円、2円
   5円、10円、20円の金貨そして1円、2円、5円、10円、20円の紙幣があった。他の鉱山や炭鉱の
   「鉱山札」と同じよう「出張所札」が紙幣の代用だったとすると、もっと少額のものや高額のものも
   あった可能性がある。

    「大金山出張所札」に書かれている文字と押されている朱印から、当時の大金山金山の稼行の
   実態を推測できる。1円札について、表裏面の文字と朱印を再現してみる。

      
             表                裏
                1円札の文字と朱印

 (1) この札の目的は?
      表に、「預リ証」、とある。金の試掘で働く人の労賃、資材を納入する商人や農民などへの
     支払い代金を預かった、という形にして、正金(現金)の代わりにこの「預り証」を渡したのだろ
     う。これ以前やこれ以降にも鉱山や炭鉱などでみられる『鉱山札』、『鉄山札』、『炭鉱札』、と
     同類だ。

 (2) 発行日と交換期限は?
      発行したのは明治11年1月、正金との交換期限は11年12月、となっていて、1年間有効だっ
     た。

 (3) 発行元は?
      明治維新にともない、甲斐國 → 三部代官(さんぶだいかん) → 鎮撫府(ちんぶふ)
     → 甲斐府(明治元年11月) → 甲府県(明治2年) 、とめまぐるしく呼び名が変わり、明治
     4年(1871年)11月、「廃藩置県」によって山梨県が誕生した。
      表面に『山梨縣第貳課 出張所』、と印刷され、表裏面に『大金山 第貳課 出張所』の朱印
     が押してある。これを発行したのは、山梨県庁にあった第二課だ。

      明治維新政府はわが国の近代化を進めるためにも、特に殖産興業に力を入れ、明治2年2月
     民間による鉱山開発を許可し、地下資源産物の掘削を奨励した。具体的には、試掘に手当金
     を出す積極策を打ち出した。

      「山梨県史」の明治2年鉱坑の篇に、政府が山梨県(当時は甲斐府)に水晶山に開発につい
     て、照会した一文が載っている。

      『 明治2年3月25日 東京出張所ヨリ本県水晶山開発ノ照会アリ 其書信ニ曰(いわく)

       一、 3月19日 会計官ヨリ呼出状到来 相曾忠之助出頭 権判事中村荘蔵面会左ノ通
       甲州水晶山ノ事
       旧県知事赤松孫太郎心得
       右ハ甲斐府管轄ニ於テ産スル由承候間 急速取調 開拓ノ見込書被差出候様致シ度
       尤此儀 先般長岡左京亮殿ニモ被取立度被存 甲州産ニテ当所ニ罷在候者ヘ内談
       此者請合候処 無程病死ニ付其儘ニ相成候
       右水晶玉ノ儀 横浜外国人殊ニ懇望候間 是非久々取立度候事

       一、 御入用ノ儀ハ千両ニテモ貳千両ニテモ申出候ハハ御下ケ相成候事
        此儀 千、弐千両位ノ見込ニテハ如何哉 開拓ト申テハ余程ノ御入用相掛リ候儀ト
        私兼テ心得居候ヘ共見込モ無御座候間承置候事 ・・・・・・・・・・・・・           』

      水晶山の開発に資金が必要な場合、申し出次第 1,000両でも2,000両でも、すぐに下げ渡
     すという政府の方針だ。

      明治政府は鉱業振興のための施策を次々と打ち出し、明治3年10月に工部省を設け鉱業
     関係の指導にあたり、明治5年に「鉱業条規」を制定、同6年には「日本坑法」を公布した。

      政府の試掘資金貸し出し施策を真っ先に利用したのは、黒平村、下帯那(しもおびな)村、
     上帯那村の人々で、明治2年8月だった。この後も、申請者や試掘場所を変えて、次々と申請
     が提出され、試掘が進められた。明治9年には、宮本村入会向山(私のHPにある「向山鉱山」)
     から128貫(480kg)の採掘に成功した。続いて10年には、50貫(188kg)の産出をみた。
      これに勢いづいて、御岳の神主・相原稲葉が明治12年2月、宮本村や向山の官有地6ヶ所で
     試掘を出願した。

      これらは水晶採掘の例だが、金についても同じように試掘申請が出され、採掘が試みられた
     と思われる。

      この「預り証」が発行された明治11年1月の国内の状況を調べてみる。

       明治9年8月   金禄公債証書発行条例(秩禄(ちつろく)処分)
                 国立銀行条例改正 紙幣発行増額を狙う。
            10月  士族の反乱相次ぐ
            11月  地租改正反対(竹槍)一揆、翌年の地租 3%→2.5%に引き下げ。
       明治10年2月  西南戦争勃発
                  紙幣乱発、物価騰貴
             9月  西南戦争終結

      相次ぐ国内での士族の反乱、農民一揆を鎮圧・収拾するため、多額の資金が必要になり、
     地租(税金)を引き下げたため、歳入が減り、政府のお金が不足し、紙幣を乱発するありさま
     だ。明治2年、「千両でも弐千両でも・・・・」、と言っていたが、政府の台所は”火の車”で、
     地方に交付する予算も苦しくなっていたのだろう。

      そこで、窮余の一策として、山梨県では現金に代わる”紙切れ”を発行してその場をしのごう
     と考えたのだろう。こうして生まれたのが「出張所札」だ。
      発行元・山梨県庁第二課の大金山にあった出張所の業務内容が直接殖産興業を指導した
     のか、単に金銭出納業務を行うだけだったのか、今後の調査してみるつもりだ。

5. おわりに

 (1) 「鉱山札の研究」
      今までにも、阿瀬銀山など鉱山で使われた鉱山札、泉屋鉄山などの砂鉄採掘〜たたら製鉄
     の勘定場で使われた鉄山札などについて、手に入れるたびに何回かHPに掲載した。しかし、
     山梨県内で「鉱山札」が発行された事実があることは全く知らなかった。

      趣味の一つ、「古銭(コイン)」の会が長野県にあることを知り、2013年12月の月例会に初め
     て参加した。この会は、2013年で創立40周年を迎え、540ページの40周年記念誌を発行して
     いたので、購入した。その中の某会員の記事を読み、山梨県にも鉱山札・「大金山出張所札」
     があることを知り、このページをまとめた次第だ。

      この会でも、会員が重複して持っている古銭や資料を持ち寄って、格安で売買することがあ
     り、山梨県飯田村で鋳造されたとされる「寛永通宝 甲斐飯田銭」を何枚か入手できた。ここ
     数年、探してもなかなか見つからなかったのが嘘のようだ。

         
                 地元紙の取材                 会長の孫娘も参加
                           2014年新年例会風景

      今年は午(うま)年、『 馬には乗ってみよ、人には添うてみよ 』 、でミネラル・ウオッチング
     はじめ、いろいろな新しいことに挑戦し、第3の人生をより有意義なものにしたいというのが、
     年頭の所感だ。

 (2) 保金山の想い出
      保金山の場所でミネラル・ウオッチングをしたことはないが、近くの保川でパンニングでの
     砂金採集を試みたことがあった。たしか、たった一粒採集できたはずだ。

      ・ 山梨県早川町保川の砂金
       (Placer Gold of Ho River , Hayakawa Town , Minamikoma County , Yamanashi Pref.)

      最近では保金山の産出鉱物を市場で見かけることはほとんどなくなったが、10年ほど前には、
     保金山の「自然金」をミネラル・ショーで、組標本の中に入った「金鉱石」を骨董市だったかで
     手に入れたことがあった。このくらい、高品質の金鉱石を産出し、全国的にも有名だったようだ。

      ・ 2005年6月東京国際ミネラル・フェア
      ( Tokyo International Mineral Fair 2005 , Tokyo )

      ・ 骨董市での鉱物標本探し
       (Mineral Hunting at Flee Market)

      暖かくなったら、保金山辺りを探査してみたい。

6. 参考文献

 1) 田中 収編著:山梨県 地学のガイド,コロナ社,昭和62年
 2) 三井 啓心:保金山と真下専之丞(1) 峡南の郷土 40,峡南郷土研究会,平成12年
 3) 望月 金人:穴山氏の祖先は金属師か(3) 峡南の郷土 40,峡南郷土研究会,平成12年
 4) 諏訪コインクラブ編:40周年記念誌 諏訪コインクラブ創立40周年の歩み,同会,2013年
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