甲斐国 『 甲州金 』







                  甲斐国 『 甲州金 』

1. はじめに

    平成26年を迎えた。平成元年に転勤で山梨県に家族そろって移り住んで丸25年、四半世紀が
   過ぎた。父親も転勤族だった私にとって、一番長く住民票をおいた街は甲府になりそうだ。

    山梨転勤を命ぜられると、『甲府勤番』、と自嘲気味に話す人がいた。江戸時代、幕府の直轄
   地だった甲斐国に常在し、甲府城の守衛や城米の管理、武具の整備や甲府町方支配を担った
   『甲府勤番』には、不良幕臣が左遷される、「島流し」ならぬ「山流し」のイメージがあったとされる
   からだ。
    2年ほど経った頃、いずれは山梨を去るのだから、と山梨に勤務した記念に『水晶の日本式双
   晶』を買おうと決めた。そのころになって、水晶の魅力や価値が多少はわかりはじめた妻に相談
   したら、「良いんじゃない」、と言うことで探してみた。ミネラル・ウオッチングで訪れて知り合った
   黒平町のFさんの口利きで、『小尾八幡山産・母岩付き日本式双晶』を入手することができた。
    今では市場などで目にすることのない一品だし、仮にあったとしてもあの値段ではとても絶対に
   入手できないはずだ。

    
       『小尾八幡山産母岩付き日本式双晶』
         【横23cm、山梨在勤記念に購入】

    平成25年の秋も深まった頃、山梨に住んで25年になる記念の一品を買おうと思いたち、迷わず、
   『甲州金』、だと決めた。ただ、問題なのは「甲州金」は金の粒を叩いて円板にして、刻印すれば
   簡単に造れるので”贋物(にせもの)”が多いのだ。
    地元の方にお願いし探していただいたところ、”本物”とお墨付き(鑑定書)がついたのが何枚か
   あり、それらの中から「一分金無背」、「二朱金背重」、「一朱金背定」の3枚を購入した。

    わが国最初の金貨は天平宝字4年(760年)に造られた「開基勝宝」が最初だが、現在までに
   発見されたのが三十数枚と余りにも少なく、流通貨幣ではなかったようだ。
    「甲州金」は16世紀に造られたと考えられ、わが国最初の流通金貨で、何よりも画期的なのは、
   金貨に打刻された額面で価値が決まる計数貨幣である点だろう。
    1両(りょう)=4分(ぶ)=16朱(しゅ)の4進法の制度は、江戸幕府がソックリ真似たことを下の
   ページで紹介した。

    ・ 山梨中央銀行 「金融資料館」
     ( Yamanashi Chuo Bank Financial Museum , Kofu City , Yamanashi Pref. )

     徳川の治世になって、地方独自の貨幣制度を認めるのは幕府の支配体制に緩みを生じる、と
    廃止を画策する動きもあったが、「甲州金」は享保17年(1732年)に製造が中止されるまで発行
    が続けられた。製造中止の背景には、甲州での金の産出量が減少したこと、全国的に小判な
    どの通貨が行き渡ってきたことなどがあげられる。
     甲州金は、発行が中止された後も甲斐国を中心に流通していて、明治4年の太政官布告に
    よって禁止されるまで通用していた。
     幕末になると、幕府の許可を得ないで「地方貨」と呼ばれる多種・多様な貨幣が領内通用を
    目的に発行され、為政者のおそれは現実のものとなった。「地方貨」の中には、領内の鉱山で
    豊富に産する銅・鉛・鉄などで造ったものがあり、今後調べてみたいテーマの一つだ。
     ( 2014年1月 調査 )

2. 『甲州金』

    今回入手した3種類の甲州金の表裏写真を下に示す。

       
                   表                             裏
                                          【無背 ふくべは両替屋の印】
                            一分金【重さ 3.6g】

       
                   表                             裏
                                                【背重】
                            二朱金【重さ 1.8g】

       
                   表                             裏
                                                【背定】
                            一朱金【重さ 0.9g】

                              『甲州金』

3. 『甲州金』の研究

 3.1 『甲州金』の由来
      甲斐国には、金貨を製造する特権を与えられた「金座」として、山下、志村、野中、松木の
     四家があった。山下、志村、野中の三座がいつ誕生し、いつ頃滅びたのか一切記録が残って
     いない。徳川時代になってからも、「甲州金座」として独占的に甲州金を造った松木家当主・
     松木源十郎が残した「甲州金座録」から甲州金の由来が読みとれる。

      『 一、 松木は本姓源である。近衛院の仁平3年(1153年)3月、源三位頼政が鵺(ヌエ)退
           治のころ、祖先・松木俊哲が鉄の燈籠を鋳て、その功績によって鋳物師の頭になっ
           た。
        一、 いずれの頃か、松木刑部太夫が甲斐国に来て、武田信虎に仕え、名を桂淋と改め
           蔵前衆に採りたてられた。
        一、 桂淋、国益を考えて勢州の野田金に準じて、狭州から山金を取り寄せて貨幣を鋳て
           信虎に献上し、通用を勧めた。信虎は喜び、金峰・保・白嶺などの金山採掘を命じた。
        一、 当時、金山採掘を職としていたのは、野中、志村、山下の三家だった。
        一、 信玄時代の極印役(金座)は、松木を加えた四家だった。
        一、 その頃までに、甲州金には数品あり、「黄金図録」には100品を載せてあるが、その
           実は知らない。
        一、 露金(つゆきん)という貨幣は、多くは裏に文字はないが稀にはある。目方は不定
           で、分量に応じて、一両は4匁8分、一分は1匁2分、一朱は3分、朱中は1分5厘、
           糸目は7厘5毛、小糸目は、3厘7毛5才、目方に応じて極印を打つ。
            後には、朱中金はあったが、糸目・小糸目の金はない。
            「木葉金」と云うは2分判であるが、1分判もある。西郡秋山村の土中から出たとい
           ふ「駒形金」は目方が4匁8分で、少しづつ過不足がある。
        一、 天正10年(1582年)武田氏滅びて家康の時に、国法の改正と共に、金座・四座も
           停止となり、甲州金の通用も禁ぜられて皆引き揚げられた。
        一、 甲斐国の民が挙(こぞ)って嘆願し、再度吟味の上、由緒正しきが故に、慶長6年
           (1601年)12月、桂淋の倅・松木五郎兵衛一人だけ元通りに金座を許された。
        一、 甲府検断職を勤め、五郎兵衛剃髪して了在と号し、子孫は幕府に勤仕し、野田と
           改姓す。
        一、 元禄9年(1696年)までに吹き足す金子、その高50万両と云い伝ふ。     』

      ・ 「甲州金」は、蔵前衆として武田家に仕えた松木桂淋が試鋳貨をこしらえて、武田信玄の
       父・信虎(1494〜1574年)に通用を勧めた、とある。
        信虎が甲斐国を統一したのが大永2年(1522年)で、甲斐追放になったのが天文10年
       (1541年)までの間の出来事だと思われる。
      ・ 「甲州金」は、桂淋の独創ではなく、勢州(伊勢国・今の三重県)の「野田金」を真似て、
       狭州(若狭国・今の福井県)の山金(金鉱石から製錬した金)を取り寄せて造ったものらし
       い。
        狭州で金が採れた話は聞いたことがなく、どこかの間違いだろう。信虎が金の採掘を命じ
       た金峰は現在の長野県川上村の梓金山、保は保金山、白嶺は北岳など南アルプスの山
       並みを指すところから、御座石(ございし)金山だろう。
      ・ 永禄10年(1567年)、今川氏を破り、富士・安倍金山を手に入れた信玄は、金座四家に
        量目(重さ)を表示した金貨の製造を命じた。
      ・ 当時の甲州金は、重さがマチマチで、分・朱・朱中・糸目などキリの良い単位だけでなく、
       中銀「金融資料館」にもあるのだが、下の写真のように、半端な重さをそのまま打刻したも
       のもあった。
        一分+朱中+糸目=1匁2分+1分5厘+7厘5毛=1匁4分2厘5毛=1.425匁。当時の
       1匁は現在の3.75グラムではなく、3.73グラムだったとされ、5.31525グラムになる。

        
          一分朱中糸目(いちぶしゅなかいとめ)

      ・ 通用禁止を命ぜられた甲州金だが、民の強い要望で領内での流通が認められた。以前
       から金座の地位にあった三家が没落するなか、唯一松木金座のみに製造が許さた。
        この裏には、甲府奉行はじめ、江戸幕府の総奉行として家康の絶大な信頼を得ていた
       大久保長安の画策があったのだろう。
        一つには、長安と松木家はともに蔵前衆として武田家に仕えていた仲だった。
        慶長6年5月、家康が伏見に銀座を設け、慶長金銀貨(大判・小判・一分金・丁銀・豆板銀)
       を鋳造した。この金銀貨が全国に流通すると、家康は甲斐での甲州金の使用禁止を命じ
       たが、甲斐奉行でもあった長安が騒動とならぬよう、家康に甲斐国の事情を説明し、納税
       以外での甲州金の流通を認めさせた。

      ・ 元禄8年(1695年)に江戸幕府の小判改鋳が行われるが、これまでに造られた甲州金は
        50万両(重さにして8.95トン)という膨大な量だ。

 3.2 『古甲金』と『新甲金』
      甲州金には、武田時代に造られた『古甲金』と徳川時代になって造られた『新甲金』の2つに
     分類できる。ただ、元禄8年の小判改鋳前・後で分ける説もあるが、ここでは前説に従う。

      『古甲金』は裏面が”石目打ち(石の上で叩いた跡)”と呼ばれるように微細な凹凸があり、
     額面も一両やニ分といった高額なものや、上の写真に示した一分朱中糸目などという端数の
     ついたものもある。

      『新甲金』は裏面が平滑で、額面も一分、二朱、一朱、朱中の4種類に限られている。

      私が入手した上の写真の甲州金は、全て『古甲金』に比べ入手しやすいとされる『新甲金』だ。

      『新甲金』は背(裏)面に極印がないものと打たれているものがあり、有無と文字や花押(か
     おう)によって製造した時代がおおよそ特定できる。
      「両替商」のものと思われる極印が打たれているものもある。

背極印      極  印  の  意  味 製造した
 時代
     備    考
 なし
(無背)
  江戸初期  金純度81〜83%
 忠
(ただ)
 元和2年(1616年)から甲州を領した
二代将軍秀忠の次男・徳川忠長の忠
江戸初期  花押も打刻されている。
金純度81〜83%
甲・安
(やす)
 宝永元年(1704年)甲州領主となった
柳沢吉保の幼名・房安の安
 宝永4年
(1707年)
 「安」の打刻位置が
下の「下安(しもやす)」と
中央の「中安(なかやす)」がある。
「中安」は後で造られたとみられる。
金純度61%
甲・重
(しげ)
 慶安4年(1651年)甲斐国甲府藩主となり
甲府宰相と呼ばれた三代将軍家光の
三男・徳川綱重の重
正徳4年
(1714年)
 金純度75%   
甲・定
(さだ)
享保年間の若年寄筆頭・水野忠定の定 享保12年
(1727年)
 金純度72%   

 3.3 『甲州金』の換算
      江戸時代、金貨は領内で製造したが、銀貨と銅貨は原材料が入手できず造れなかった。さ
     らに、税として納めるのは幕府の勅許で発行した全国通用の金貨や銀貨そして銅銭だった。
     そのため、多くの金銀銅貨が甲斐国に入ってきて、「甲州金」、略して「甲金」と交換して併用
     した。その換算率は、現在の為替レートと同じように、時代によって変動した。

      大まかには、甲金1両が銀48匁だった。全国通用の金1両が銀50匁、銭4貫文だったから
     金1両と甲金1両の価値はニヤリー・イコールだった。しかし、時代によって甲金の価値が高い
     「甲金高」になったり、逆に「甲金安」になったりした。

      江戸時代の甲斐国には、他の地域に見られない、特別な年貢の納め方があった。『大小切
     (だいしょうぎり)』という金納制だ。
      年貢の額を2/3(大切:おおぎり)と1/3(小切:しょうぎり)に分け、小切分は、米4石1斗4升
      につき金1両の計算でお金を納める。大切分についても、その1/3、つまり全体の2/9は米の
      相場に応じてお金で納める、という税法だ。税金の5/9(56%)をお金で納めることになる。

       時代が下って米の値段が上がり、その分だけお金の価値が下がると、この税法は農民に
      とって有利になった。農民たちは、こんな都合のよい税法は、信玄公が始めたものと信じて
      いた。

       徳川時代になると、一国2通貨制になり、「甲金安」になると、交換で得られる金銀銅貨が
      少なくなり、税金の支払いや生活に必要な他国の産物を買うために余計に「甲金」を支出す
      ることになり、農民は2重の苦しみを味わうことになった。
       円安の現在、ガソリンや食料品などを外国からドルで買い、その上税金をドルで払うことを
      想像すると当時の農民の苦しみが少しは理解できるだろう。

4. 『甲州金』の謎

    金貨の発展段階として、最初は砂金だった。砂金は、クシャミしただけでも飛びそうだし、持ち
   運ぶときに袋が破れでもしたら悲劇だ。塊にすれば、と誰しも考え、溶かした砂金を竹を割ったよ
   うな鋳型に流し込んだ「竹流金(たけながしきん)」のような棹金(さおきん)が生まれた。
    これだと持ち運びには便利だが使うのには不便だということで、叩いて板にして、必要なだけ切
   り取って使う「板金(いたがね)」や「のし金」になった。

    ・ 夏の観光旅行・トロッコ列車
      − 北陸ミネラル・ウオッチング行 -
     ( Sightseeing and Mineral Watching in Hokuriku Area , Summer 2013 )

    一方で、叩いて延ばして木の葉形に整えたり、表面に槌目模様を入れるなどして”装飾性”を
   加え、”贈答品”のニーズに応えるべく生まれたのが「蛭藻金(ひるもきん)」や無銘大判と呼ばれ
   る延金(のべがね)だろう。このように、金貨の形態は進化した。

    甲州金は、それまであった日本の貨幣やお手本となった中国の貨幣に見られない特徴を持っ
   ている。それらの謎を解き明かしてみたい。

 4.1 形
      わが国で鋳造された貨幣は、富本銭、和同開珎、そして皇朝十二銭と呼ばれる12種類の
     貨幣すべてが手本となった中国の「開元通宝」と同じ『円形方孔』だ。つまり、外形は丸で中央
     に四角い孔が開いている。甲州金以前に造られた唯一の金貨、「開基勝宝」も例外ではない。

         
            「開元通宝」               「開基勝宝」

      甲州金が生まれたのは16世紀の中ごろ、室町時代で、中国は明の時代だ。当時、明から
     輸入した銅貨・「永楽通宝」は、その品質の良さからわが国の基準通貨の位置を占めていた。
     当時の文書に、”永(えい)1貫文”とあるのは、”永楽通宝で1,000枚”という意味だ。
      また、それ以前に輸入されていた唐から宋そして元時代の銅貨も広く使われていた。これ
     らも全て『円形方孔』だ。

      
            「永楽通宝」

      これに対して、甲州金は孔が開いていない『無孔銭』、別称『小町銭(こまちせん)』だ。

 4.2 デザイン
  (1) 「へり飾り」
       お手元に500円硬貨があれば見ていただきたい。周縁に、丸い点々の「へり飾り(Denticle)」
      があるのに気づかれるだろう。明治3年以降にわが国で発行された近代貨幣の多くに西洋
      の貨幣を真似た「ヘリ飾り」があり、現行貨幣の500円や記念硬貨などにもこのデザインは
      引き継がれている。
       中国から輸入した「渡来銭」や甲州金以前にわが国で発行した貨幣で「へり飾り」を持った
      ものはない。

      
              500円貨の「へり飾り」

      甲州金の一分金や二朱金の表面周縁部を見ると丸い「ヘリ飾り」が見てとれ、今から400年
     以上も昔に造られた貨幣と現行貨幣のデザイン上の共通点だ。

  (2) 額面表示
       甲州金以前に造られたわが国や中国のお金には、ほとんどの場合、額面は表示していな
      い。これは、銅貨は1枚が1文、銀貨は10文、金貨は100文と材質で額面が決まっていたので
      額面を表示する必要がなかった。新しい銅貨が発行されると新貨1枚が旧貨10枚に相当した
      ので、むしろ額面が表示されていない方が混乱を招かなかったかもしれない。

       中国銭の一部には、「折二銭(せつにせん)」あるいは「当二銭(とうにせん)」と呼び1枚
      が2文に通用するものがあるが、少し外形が大きく重さも重いので区別していたようだ。
       甲州金は、額面が表示してあり、近代貨幣と同じ要件を備えている。

 4.3 製造技術
      甲州金以前、わが国で造られた貨幣は溶けた金属を鋳型に流し込む”鋳造(ちゅうぞう)”と
     いう方法で造られた。中国の貨幣も同じだ。
      甲州金は、金の粒を叩いて(打製)丸く延ばし、表裏面に刻印を打つ”圧印”という近代貨幣
     とよく似た製造方法でつくられた。
      ”圧印”を英語では、Stamping(スタンピング)あるいは、Coinning(コイニング)、と言うのは、
     この技術がコイン(硬貨)を製造する手段としてスタート・発展したことを意味しているように、
     欧米のコインは”圧印”で製造してあるものがほとんどだ。
      小川氏の「古銭の収集」に、”西洋古銭を収集する人のために”、という一章がある。その初
     心者心得には次のようにある。

      『 ・・・・・・・・・
        第六 にせものに注意すること。初心者にはちょっと無理かもしれませんが、ただ一つ、
           わかりやすいきめ手は、西洋銭には鋳造したものがないということです。全部両面に
           文様の型を当て、打って造ったものです。鋳造してあるものは、にせものと考えてさ
           しつかえありません。
        ・・・・・・・・・・・                                             』

     このように、甲州金を @形、Aデザイン、B製造方法から見てくると、それまであったわが国
    や中国から輸入した貨幣と全く違っている。このようなことから、甲州金はわが国貨幣の『突然
    変異』
、とまで呼ぶ人がいるほどだ。

     甲斐国の独創との考えも否定できないが、何か手本になるものがあってそれを真似たと考え
    る方が合理的であろう。甲州金は、明治以降になって造られた近代貨幣と共通点が多い。近代
    貨幣は、明治維新の改革の一つとして、イギリス(香港)から輸入した造幣機械を輸入して明治
    3年から銀貨を製造したしたのがその始まりだ。つまり、外国から輸入した機械、外国貨幣と同じ
    方法、そして外国人の指導で造ったのだった。

     ・ 陶貨
     ( Coins made of Cray , Tokyo )

     甲州金の手本となる国はどこか。中国ではないことは明らかだとすると、ポルトガルではない
    だろうか。天文12年(1543年)、種子島に漂着したポルトガル人は鉄砲を伝え、これを契機に西
    洋からキリスト教をはじめいろいろな文物が持ち込まれ、”コンペイトウ”や”カステーラ”のように、
    日本語化したポルトガル語もあるほどだ。
     西洋人がものを買ったときに支払った金貨を”見た”情報が甲斐国に伝わり、それを真似たの
    だろう。(現物が甲斐まできたことも考えられるが・・・・・・)

5 .おわりに

 (1) 4進法の謎
      甲州金は、1両=4分=16朱、というように、下位の単位の4倍が上位の単位になる4進法だ
     ったとされるが、朱中は朱の1/2の価値で、朱中以下、糸目、小糸目、小糸目中の単位はそれ
     ぞれ、上位の単位の1/2の価値だったので2進法だ。
      武田の幣制を引き継いだ、江戸幕府の幣制でも、18世紀末から「二分金(銀)」や「二朱金
     (銀)」が生まれており、4進法というより2進法と呼ぶべきではないだろうか。

      最近、”ビット・コイン”という言葉を耳にする。これを買っておいて、支払いに充てることもでき
     その際、手数料が金融機関にくらべごくわずかだというのが人気の秘密らしい。これには、相
     場があり、日々変動していて、暴騰したり、逆に暴落することもあるらしいが資産運用に活用し
     ている人も多く、利用者は1,000万人を越えたと報じていた。

      ネット上での購入・支払いなので情報はデジタル・エレクトロニクスの基本となっている2進法
     で、やり取りされている筈だ。もっとも、コンピュータに指示・命令する言語は、16進法だ。

      イギリスとその植民地のように、ごく最近まで12進法を守り続けた国々もあり、なぜ、甲斐国
     の幣制が10進法でなく2進、あるいは4進法だったのか、興味あるところだ。

      【閑話休題】
      昔からマザーグースで歌い継がれてきた唄に、「6ペンスコイン」がある。唄の最後に”そして
     花嫁の左の靴に6ペンス”というくだりがあり、イギリスでは古くから結婚式で「6ペンスコイン」
     が”幸せのコイン”として使われてきた。
      結婚式の時に、「花嫁は左の靴の中に」、「新郎は胸ポケットに」入れて使うらしい。

      1シリング=12ペンスの12進法だ。6ペンスは、1/2シリングに相当する。モームの小説に「月
     と6ペンス」がある。月は”夢”、6ペンスは”現実”の寓意らしく、結婚の両面を言い当てていて
     妙だ。

      
             6ペンス銀貨
         【オーストラリア 1958年】

 (2) 『石部金吉金甲』
      これを略した『石部金吉』のほうが馴染みがあるかもしれない。いまどき、これを正しく読める
     (当然意味がわかる)読者はそうそう多くないだろう。「いしべきんきちかなかぶと」、と読み、
     その意味は”正直で、間違いのない”、つまり”質のよい男性”を指す誉(ほ)め言葉だ。
      これはもとを正せば、「石目」打ちで造られ、「金」や「吉」そして「甲」が刻印された甲州金が
     質の良い金でできていたことからでた言葉で、最初は『石目金吉金甲』だったのが訛って、
     「石部」に変わったと考えられる。
      このほかにも、「金に『糸目』はつけない」、とか「太鼓判を押す」など、甲州金の量目や形状
     が起源と思われる諺が残されている。

      ”地方の時代”、と言われて久しい。中央からの画一的な押し付けでなく、その地方地方に合
     ったガバナンスやビジネス・モデルを試行し、効果が得られたものは他の地方にも適用して、
     いこうと言う趣旨だったと記憶する。
      ところが、現実は逆で、総理経験者2人が談合し、一人が地方の首長選に出馬し、原発廃止
     を争点にしようとしているらしい。

      今から400年以上前、都から遠く離れた甲斐国で発生した貨幣の制度が江戸幕府のスタン
     ダードになった。甲斐国に制度そのものが突然生まれたわけでなく、武田家家臣団の中に、
     システムを考え、試行・維持・改善した多くの人々がいたはずだ。武田家滅亡と同時に、家康
     は旧武田家家臣の中から有能なテクノラートを数多く召し抱え、新たな課題を与え、彼らの能
     力を存分に生かした。大久保石見守長安は家康によって召し出された一人だ。

      いつの世も”人”が主役だ。その意味で、教育は何にもまして大切で、今年も子どもたちに
     鉱物の魅力や不思議を伝えていきたい。

6. 参考文献

 1) 赤岡 重樹:甲斐貨幣の変遷(二) 甲斐路No5:山梨郷土研究会,昭和37年
 2) 小川 浩著:古銭の収集<新版>,徳間書店,昭和41年
 3) 樋口 清之:お金と日本人,講談社,昭和61年
 4) 甲府市:市制百周年記念 まんが甲府の歴史,甲府市,1989年
 5) 鬼丸 智彦:猿楽を舞う如く −天下の金山奉行 大久保長安−,2009年
 6) 山梨中央銀行編:山梨中銀 金融資料館 リーフレット,同行,2013年
 7) 山梨中央銀行編:山梨中銀 金融資料館,同行,2013年
 8) 山梨中央銀行編:お金のはなし あれこれ,同行,2013年
 9) 日本貨幣商協同組合編:日本貨幣カタログ 2014,同組合,2013年
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