山梨中央銀行 「金融資料館」









            山梨中央銀行 「金融資料館」

1. はじめに

    ミネラル・ウオッチングや孫娘一家を連れての観光旅行で県外の都市を訪れたり、通過すると、
   街角に、「○十△銀行」などの看板を見かけることがある。全国チェーンのファスト・フード店や
   コンビニ、そしてファミレスなどが広まり、どこの都市も画一化され似たような景観になる中で、
   この看板を見ると”その地域に根付き発展した金融の歴史”を感じさせてくれ、なぜか心が落ち
   着く。

    これらの番号をつけた銀行は、旧制高等学校の一高(東京)から八高(名古屋)まで、設立順に
   番号をつけたナンバー・スクールと同じように、日本全国に153あった国立銀行が前身らしい。
    山梨県では、明治7年(1874年)6月に”産業を盛んして豊かな山梨を作ろう”という目的で銀行
   類似会社「興益社」が設立され、明治10年(1877年)に「第十国立銀行」になった。明治30年(18
   97年)、「第十銀行」に改組し、昭和16年(1941年)12月、有信銀行と合併して「山梨中央銀行」が
   誕生した。
    地元では、「山梨中央銀行」は”ちゅうぎん”の愛称で呼ばれ、わが家にとって「ゆうちょ銀行」と
   並んでメイン・バンクの一つになっている。

    山梨中央銀行創立50周年事業の一環として、平成4年(1992年)7月に、金融関係資料を展示
   する「山梨中銀 金融資料館」を開設した。
    開設して間もないころ、当時の勤務地が山梨県内だったこともあり、一度訪れたことがあったが
   20年近く昔のことで、記憶も薄れかけていた。

    そんなとき、記憶を呼び覚ましてくれるできごとがあった。2013年11月、「湯之奥金山博物館」
   主催の山梨県大月市や上野原市の金山遺跡巡検に参加した。

    ・ 湯之奥金山博物館 - 2013年11月 秋の遺跡見学会 -
    ( THE Yu-No-Oku MUSEUM OF GOLD MINING HISTORY
                          Visiting Old GOLD Mine , Nov. 2013 , Yamanashi Pref. )

    このとき、小松学芸員が配ってくれた資料の中に、「金融資料館」のリーフレットがあった。そこ
   には、『 江戸時代の幣制のルーツは、甲斐武田氏の甲州金だった 』、とある。

    
          「金融資料館」リーフレット
           【山梨中央銀行 発行】

    12月のある日、甲府市街に出かけ、用件が片付いたので、「金融資料館」を訪れてみる気にな
   った。記憶にある通りを進むと道しるべがあり、迷わずに着いた。建物の外観は、銀行の研修所
   か寮を思わせ、ビルの一階部分が「金融資料館」だ。

    
            「金融資料館」のあるビル

    館内には、係員(男性・女性)がおり、頼めば展示品を案内・解説してくれる。私の興味の中心
   は、次の2点だ。

     ・ 武田氏から徳川氏(江戸)時代に甲斐で製造した金貨 「甲州金」
     ・ 甲斐で鋳造した寛永通宝 「甲斐飯田銭」

    これらの金貨や鉄貨をはじめ、「国立第十銀行」時代に発行した紙幣そして古代から現代まで
   の国内外の貨幣や紙幣などの ”現物” をジックリと見せていただいた。
    お金の歴史や山梨で生まれたお金などもわかりやすく展示しているので、こどもから大人まで
   楽しみながら学べるだろう。

    武田氏時代の甲州金で状態の良いものは1枚が700万円前後と高価で、安全面からレプリカを
   展示している博物館がほとんどらしい。古い貨幣の”現物”を間近に見られる施設はそうそうない
   ので、機会をもうけて訪れると良いだろう。
    なお、このページで使用した図の一部は、参考文献 3) 4) 5) の山梨中央銀行の資料から引用
   させていただいた。
    ( 2013年12月 訪問 )

2. 「山梨中銀 金融資料館」

 2.1 場所
      JR甲府駅の南口に出て、「平和通り」を300mも進み、市役所の手前で左に折れ、そのまま
     道なりに300mみ行くと左手に「山梨中銀 金融資料館」の入口がある。駅から歩いて15分だ。
      車の場合、広い無料駐車場が構内にあるので、利用するとよいだろう。

       地図

 2.2 利用案内
      ・ 開館時間 : 午前9時〜午後5時(入館は4時まで)
      ・ 開館日   : 日曜日〜木曜日(ただし、祝日と12/29〜1/4は休館)
      ・ 入館料  : 無料
      ・ 電話    : 055-223-3090
      ・ HP     :  「山梨中銀金融資料館」

      銀行の附属設備だが、日曜日も開いているので、レジャーなどで訪れた際に、電車の待ち
     時間を使って見て回ることも可能だ。

3. 「山梨中銀 金融資料館」

    山梨中央銀行創立50周年事業の一環として、平成4年(1992年)7月に、金融関係資料を展示
   する「山梨中銀 金融資料館」を開設した。
    この施設は、次のような3つ展示コーナーで構成している。

     (1) 山梨中央銀行史
     (2) 貨幣史
     (3) テーマ展示

      
                        展示 展示マップ

 3.1 山梨中央銀行史
      明治7年(1874年)6月に”産業を盛んして豊かな山梨を作ろう”という目的で銀行類似会社
     「興益社」が県令(県知事)・藤村 紫朗の意を受け奔走した栗原 信近の手で設立された。
     「興益社」の活動で注目すべきは、明治9年(1876年)に取り扱いを開始した「興産金」、と称す
     る貯蓄金の受け入れだ。これが、わが国で初めて民間で取り扱われた貯蓄預金だ。その当時
     の通帳(「興産金預り通」)と説明書が展示してある。

        
           創始者・栗原 信近            「興産金預り通」と説明書

      愚考するに、「興益社」は、明治維新を数年後に控えた万延元年(1860年)4月に幕府内に
     誕生した、「御国益御役所」のフィロソフィを受け継ぐものだったのではないだろうか。
      「御国益御役所」は、安政5年(1858年)に日米修好通商条約を締結した際に四港(よんこう:
     横浜、新潟、神戸、長崎)が開港された。これに伴う物価騰貴による人々の生活苦を救済し、
     国産奨励を趣旨とした国益優先の政策に則(のっと)ったものだった。しかし、効果が上がらず、
     文久2年(1862年)8月、わずか2年余りで「国益会所」は廃止になってしまった。

        
                      日米修好通商百年 記念切手
       【1860年、条約締結のため、咸臨丸で太平洋を横断した百年後の1960年発行】

       横浜開港百年記念切手【1958年発行】

      「興益社」の設立に先立つ明治6年(1873年)、東京の第一から大坂の第五までの4つの国
     立銀行が設立された。(第三国立銀行は営業開始前に解散したため存在しない)
      「国立銀行」とはアメリカの"Ntional bank"(現在では国法銀行と訳すことが多い)の直訳で
     あり、「国法によって立てられた銀行」という意味である。したがって民間資本が法律に基づい
     て設立して経営したものであり、国が設立して経営した銀行ではない。
      後の「日本銀行」と同じように、金貨との交換義務を持つ兌換紙幣の発行権を持っていた。
      明治9年(1876年)の国立銀行条例の改正で、不換紙幣の発行や、金禄公債を原資とする
     事も認められるようになると急増し、明治12年(1879年)までに153の国立銀行が開設された。
     (これ以降は設立許可は認められなかった)。
      国立銀行は設立順に番号を名乗っており、これを「ナンバー銀行」と呼ぶこともある。これら
     のナンバー銀行のうち、「第四銀行」のように現存するものもあるが、現存する「八十二銀行」
     は、「第十九銀行」と「六十三銀行」が合併し、両者の数字の和(19+63=82)を取って名付けら
     れた。
      明治15年(1882年)に中央銀行である「日本銀行」が開設されると、条例で紙幣発行は唯一
     「日本銀行」のみが行なえるようになった。(旧国立銀行の紙幣は暫くの間は流通していた)。

      「興益社」は、明治10年(1877年)に「第十国立銀行」になった。9番目に認可されたが、9が
     ”苦”に通じるところからこれを嫌って、10番目に開設した、というエピソードが残されている。

      
                第十国立銀行本店

      第十国立銀行は、創業に際して12万円の紙幣(旧国立銀行券)、その後明治11年から12年
     に8万円の紙幣(新国立銀行券)を発行した。
      旧銀行券には、『斐甲』 『梨山』 『行銀立国十第』 の朱印が押されている。

      
                     旧1円券                          新1円券
                                   第十国立銀行券

      明治17年(1881年)に起こった松方デフレは、国内経済を極度に疲弊させ、深刻な不況を
     もたらしたが、第十銀行はこれらを乗り切った。明治33年(1900年)に起こった資本主義恐慌
     にも経営は揺るがず、逆に不況のたびに吸収・合併し規模を大きくした。
      この間、明治30年(1897年)に、「第十銀行」に改組し、昭和16年(1941年)12月1日、有信
     銀行と合併して「山梨中央銀行」が誕生した。新銀行発足からわずか1週間後の12月8日、わ
     が国は太平洋戦争に突入し、戦災、敗戦、そして戦後の復興を経て現在に至っている。

 3.2 貨幣史
      このコーナーでは、古代から現代に至るお金の歴史を”現物”を中心に展示している。

  (1) 古代【お金がなかった時代の人々の生活】
       貨幣経済が生まれる過程を @ 「自給自足」→ A 「物々交換」→ B 「物品貨幣」
      → C 「宝貝」 の順 で説明している。

               

 @ 「自給自足」
     今から2,000年以上前の弥生時代の
    人々は、生きていくために、自分であわや
    お米などを作ったり、鳥や魚を捕えたりする
    「自給自足」の生活を送っていた。

     このような生活では、お金など全く不要で
    自分で動き回って、食べ物や着る物などを
    見つけていた。


             

 A 「物々交換」
     相手が持っている自分が欲しい物と
    自分が持っている物を交換する、
    「物々交換」で手に入れるように
    なった。


             

 B 「物品貨幣」
     「物々交換」では、相手(自分)が
    持っている物と自分(相手)が欲しい物とが
    合わないことがよくあった。そこで、

     1) 誰もが欲しがるもの
     2) 分けたり、計ったりでき、
        しかも、価値が変わらないもの
     3) かさばらず、持ち運びが楽で
       腐ったりせずに保管できるもの

      これらの条件を持つ物が仲立ちとして
     用いるようになった。
      これが「物品貨幣」、または「現物貨幣」と
     いわれるもので、鏃(やじり)、稲、砂金
     布などが用いられるようになった。


             

 C 「宝貝(たからがい)」
     今からおよそ3,000年くらい前の中国では
    インド洋沿岸など南の海で採れる美しい
    「宝貝」をお金として用いていた。

     こうしたことから、お金や経済に関係する
    漢字には、『貝』がつく字が多い。

     財、貯、買、貸、貨、販、資、購・・・・・・


     【後日談】
      文化人類学の最新の研究では、類人猿が欲しいものを手に入れる手段が明らかになってき
     ている。オスの場合、威嚇(いかく)や暴力で奪い取るし、メスの場合、売春(?)で手に入れる
     ことすらある、と書いてある。
      万物の霊長、などと言っている人類だが、”サル”並み、あるいはそれ以下で、似たような手
     段も使ったのだろう。

  (2) 古代【8世紀〜12世紀;わが国最初の流通貨幣】
       中国では、紀元前8世紀の周末になると、丸いお金が誕生した。日本の飛鳥時代(600〜
      700年頃)、、「遣隋使」や「遣唐使」として、役人・学者・僧を送り、中国の進んだ文化を取り
      入れようとした。この人々によって、中国で作られたお金が日本に持ち込まれた。

       わが国最初の流通貨幣は、和銅元年(708年)に鋳造された「和同開珎(わどうかいちん、
      かいほう)、といわれている。
       ( 7世紀後半に鋳造された「富本銭」が発掘されたが、流通したのかなど不明な点が多い)

       「和同開珎」は、中国の「開元通宝(かいげんつうほう)」を手本にして作られ、銀銭と銅銭
      の2種類があった。

       

       以後、250年の間に、「和同開珎」の他に12種類の貨幣が発行された。これらをまとめて、
      『皇朝十二銭』という。はじめは、貨幣がなかなか流通しなかったため、朝廷は貨幣を貯めた
      者に位階を授けたり(蓄銭叙位令)、役人の給与を貨幣で払うなどして普及に努めた。
       しかし、皇朝十二銭は改鋳のたびに質を低下させた。「和同開珎」発行からおよそ200年後、
      延喜7年(907年)に発行した「延喜通宝」は、銅と鉛を混ぜた質の悪さだ。
       さらに、新しい種類の貨幣を発行するたびに、新銭1枚を旧銭10枚と交換したことなどから、
      庶民の間に”銭離れ”が起こり、天徳2年(958年)の「乾元大宝(けんげんたいほう)」を最後
      に、貨幣の鋳造が停止された。
       こうして、再び籾(もみ)や布などの「物品貨幣」が使われるようになった。

  (3) 中世【12世紀〜15世紀;渡来銭の使用】
       平安時代の末期(12世紀)になると、農業や手工業が発達して交易が盛んになり、それに
      伴って、貨幣の需要が急速に高まった。しかし、材料となる銅が不足し、しかもわが国が貨幣
      の鋳造を停止して250年余りが経ち、技術も立ち枯れていたため、日宋貿易を通じて流入し
      た中国の貨幣(宋銭)がわが国の貨幣として使用されるようになった。
       日宋貿易では、わが国は砂金、水銀、硫黄などを輸出し、代わりに大量の銅貨(宋銭)を
      輸入した。
       宋銭は、鎌倉時代にも引き続き幕府公認の貨幣として流通し、続く室町時代には、主に
      明銭が輸入された。それでもなお銭貨が不足したため、渡来銭を真似て民間で質の悪い
      私鋳銭(鐚銭:びたせん)が大量に造られた。
       こうした状態は、江戸時代の初頭まで続いた。

       
                      代表的な渡来銭

  (4) 近世【15世紀〜16世紀;戦国武将と金銀貨幣】
       戦国時代に入ると、各地の大名による城下町の建設や楽市などの商業振興策によって、
      商工業が飛躍的に発達した。その結果、高額貨幣の需要が増大し、諸大名によって金銀貨
      が作られ、渡来銭と併存して流通するようになった。
       また、金銀貨は新兵器・鉄砲の購入費や敵を懐柔するための”贈答”、そして戦で手柄の
      あった部下への”恩賞”として使われることが多くなり、諸大名はこぞって金銀山の開発に努
      め、各地で鉱山の争奪戦を繰り広げるようになった。
       これらは、砂金や金塊のままであったり、武田氏の「蛭藻金」や毛利氏の「石州銀」などの
      ように楕円形に打ち延ばしただけの単純な形のものが多かった。

       
                   戦国時代の貨幣

  (5) 近世【15世紀〜16世紀;武田氏の幣制―甲州金】
       戦国大名によって造られた金銀貨が重さを基準にした「秤量(ひょうりょう)貨幣」であった
      のに対して、甲州金は7段階におよぶ量目体系にもとずく「計数貨幣」であった。しかし、甲州
      金も古くは「碁石金」や「延金」などの「秤量貨幣」で、鋳造や秤量の技術が進歩に伴って、
      次第に「計数貨幣」化していったと考えられる。
       1両(りょう)=4分(ぶ)、1分=4朱(しゅ)、1朱=2朱中(しゅなか)、・・・・・・・・・・と、4進法
      と2進法を組み合わせた、現在考えても巧妙な制度だった。
       ”中”は、”なかば=半分”からきたと考えられ、上位の単位の半分の価値を示しているよう
      だ。「朱中」が2枚で、「朱」になるという理論だ。

          

      「甲州金」は、武田時代は金座・松木、志村、野中、山下の四家で造っており、それぞれの
     家の名前が刻印されている。
      江戸時代になっても、甲斐の「甲州金」は製造を続けることが幕府から許され、松木家だけ
     がその任にあたり、甲斐の金貨は「甲金(こうきん)」呼ばれていた。

     【後日談】

      ・ 「小糸目中(こいとめなか)」は、1両の1/256の価値で、1両=4,000文、つまり銅銭4,000
        枚と等価だとすると、銅銭16枚の価値になる。
        「小糸目中」は見るからに小さく扱いが大変だったのではないだろうか。こんな小額貨幣
        まで金にしたのは、武田氏の領内に銀山や銅山が極めて少なかったためだろう。
      ・ お金や商取引にまつわる諺に、「金に糸目はつけない」や「太鼓判を押す」などがあるが、
        これらは、甲州金の量目や形状に由来する、と言われる。

  (6) 近世【17世紀〜19世紀;江戸時代の幣制】
       慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いで勝った徳川家康は、翌慶長6年5月、伏見に「銀座」
      をおき、慶長金銀貨幣を鋳造する。
       金貨は甲州金の四進法の貨幣単位を持つ計数貨幣で、銀貨は「丁銀(ちょうぎん)」、「豆
      板銀(まめいたぎん)」、と呼ばれる秤量貨幣だった。
       このように、性質の異なる金貨と銀貨を併用したのは、関東では古くから金が流通してい
      たのに対し、関西では古くから銀を量(はか)って通貨としてきた伝統があったからだ。
       寛永3年(1626年)、水戸の商人・佐藤 新助が幕府の内許を得て、「寛永通宝」という銅
      貨を鋳造した。同13年(1636年)になって、幕府は江戸(芝・浅草)と近江(坂本)で寛永通宝
      の鋳造をはじめ、これを全国通用の銭貨と定め、それまで錯雑していた銭貨を寛永銭一本に
      絞った。それ以降、年号に関係なく、「寛永通宝」は明治初年に至るまで継続して鋳造・発行
      された。
       こうして、江戸時代の幣制は、下の図のように、金貨・銀貨・銅貨(銭貨)の『三貨制』がとら
      れた。

       

       大判(10両)は小判(1両)10枚、小判1両は銀60匁(225g)、銭貨なら4貫文(4,000枚)と
      固定相場でスタートしたが、市場での換算比率は変動し、相場が形成されるようになり、
      金・銀・銭のスムースな流通を図るために生まれたのが両替商だった。
       このコーナーの一角に、両替商の店先を再現している。

        両替商

       「千両箱」が置いてあるが、これに千両(小判1,000枚)を入れると重さは25kgくらいになり、
      義賊・鼠小僧次郎吉がこれを担いで屋根の上を飛び回った、というのはフィクションだとわか
      る。

  (7) 近現代【明治初期;幣制の混乱と円の誕生】
       明治維新になり、わが国の近代化を急務とする明治新政府にとって、徳川の世が終わった
      ことを庶民に知らせる意味でもの幣制の整備は急務だった。しかし、通貨制度を整備するゆ
      とりはなく、旧幕藩時代の金銀銭貨や藩札などをそのまま通用させた。その一方、新政府は
      両・分・朱単位の太政官札や民部省札を発行したり、民間の為替会社に紙幣を発行させる
      など、幣制は混乱した。
       明治4年(1971年)、「新貨条例」を制定し、1.5グラムの金を1円とした近代洋式製法による
      新貨幣を発行し、十進法による近代的な貨幣制度を確立した。「円」の誕生だ。
       明治5年(1872年)、「明治通宝」を発行し、藩札や太政官札などの整理に取り組んだ。

       
                  明治初期の紙幣と硬貨

  (8) 近現代【明治;日本銀行の設立】
       明治5年(1872年)、政府紙幣の回収と殖産興業資金の供給を目的として、国立銀行条例
      が制定され、各地に設立された国立銀行が紙幣を発行したのは先に述べたとおりだ。
       明治10年(1877年)の西南戦争の勃発で、戦費調達のため、政府紙幣や国立銀行紙幣が
      乱発され、明治13年(1880年)には、政府紙幣の価値は下落の極みに達し、政府の財政は
      窮乏した。これは、厳しい緊縮財政と紙幣の回収・整理で収束したが、この過程で、金銀の
      現物の裏付けを持った「兌換紙幣」の発行を一か所で行い、紙幣の乱発を防ぎ通貨の安定
      化を図ることの必要性が認識された。
       明治14年(1881年)、各地の国立銀行を廃止し、中央銀行を創設して金融制度の統一を
      図った。この中央銀行が、明治15年(1882年)に設立された、唯一「兌換紙幣」の発行権を
      もった「日本銀行」だ。

       日本銀行券は、明治18年(1885年)に銀貨と引き換えできる兌換銀券として発行された。
      明治30年(1897年)、金本位制が採用され、0.75グラムの金を1円とする貨幣法が制定され
      金貨と引き換えできる日本銀行兌換券が発行された。

       
                    日本銀行兌換紙幣

  (8) 近現代【昭和初期;管理通貨制度への移行】
       金本位制下では、日本銀行が発行できる銀行券の総額は、保有する金の範囲内と定めら
      れていた。しかし、昭和に入り、軍費を中心に資金需要が急増したため、日本銀行が保有す
      る金の量を超えて銀行券を発行する必要性に迫られた。
       昭和6年(1931年)、イギリスが金本位制を離脱したため、わが国も同年12月に金の輸出を
      禁止し、日本銀行券の兌換は原則停止された。
       昭和16年(1941年)には、金の保有量に制約されることなく、銀行券が発行できるようにな
      り、その翌年には日本銀行法が制定され、法律上も兌換の義務がなくなり、わが国は管理
      通貨制度に移行した。

       
                    日本銀行不換紙幣

     3.3 テーマ展示
  (1) 甲州財閥
      ここには、『甲州財閥』について展示している。「甲州財閥」とは、郷土意識で緩やかな資本
     連合を持っていた山梨出身の実業家を意味する総称で、明治中期から昭和初期にかけて鉄
     道会社や電力会社・証券金融会社を設立または買収し、各方面へ幅広く展開した。

      甲州財閥の先駆者として、若尾逸平、雨宮敬次郎、根津嘉一郎の3人を紹介している。

             

      【若尾 逸平】
       文政3年(1820)不毛の地“原七郷”の巨摩郡在家塚村(南アルプス市)の貧農の子に生まれ
      た。幕末時に天秤棒一本の行商から身を起こして、開港時の横浜と甲州を股にかけ、生糸・
      水晶などの商いにより巨万の富を築いた。
       維新動乱の折、彼は新政府にたびたび大金を献納し、名主格を仰せ付けられた。また、蚕
      種製造人大総代・生糸改会社副社長に任じられて、蚕糸業の支配権を強化すると同時に、
      山梨県官金為替の取り扱いを拝命するなど、着々と新体制のなかでの地位を固めていった。
        明治10年代のわが国経済は、激変の繰り返しであった。機敏で洞察力の鋭い彼にとって、
      こうした経済混乱は絶好の活躍の舞台となった。なかでも、本県では、松方デフレによる米
      価の下落と、地租の急騰による生活の困窮から、滞納による強制処分や、土地売買質入れ
      が相次ぎ、多くの農家が小作農に転落し、本県は、全国屈指の地主資本集中県となった。
      とりわけ、疲弊した農家への貸し付けが巨額であった若尾の蓄財は、群を抜くものであり、
      明治23年第1回貴族院多額納税者議員に選ばれたとき 「彼の直接国税納付額は、選出さ
      れた全国多額納税者議員中の3位」といわれる全国屈指の大富豪にのし上がった。その後、
      明治21年、横浜正金銀行の取締役に、22年甲府市の初代市長に、23年帝国議会、貴族院
      多額納税議員に、それぞれ選ばれた。25年に東京馬車鉄道を買収、26年に若尾銀行を創
      立するなど、社会的地位を確立し、名実共に実業界の雄として君臨することとなった。
       また、議員時代、鉄道敷設法の実現に努力し中央線の開通に貢献した。その後、49連隊
      の設置にあたっては、兵営敷地として10万坪の土地を寄付(2代目、民造)するなど社会的に
      も貢献した。        大正2年(1913)9月7日没。94歳。

      【雨宮 敬次郎】
       弘化3年(1846)、山梨郡牛奥村(甲州市)に生まれた。14歳の時、商人を志して行商生活
      に入った。やがて、彼の足は江戸や開港後の横浜に向けられた。彼の商業には投機性が
      強く、後に「投機界の魔王」と呼ばれたが、このころの活動に根ざしていたと考えられる。
       明治9年(1876)から10年にかけて欧米に遊び、帰国後、軽井沢で開墾事業を進め、50戸
      余りの一村落をつくった。これは後に雨宮新田とも雨宮村とも呼ばれた。
       彼は鉄道の発達と製鉄事業の興起をしきりに力説、経営もそれらに重点が置かれた。明治
      21年、甲武鉄道,24年、川越鉄道の取締役となって、彼の経営は鉄道にのびていった。彼が
      社長となった日本鋳鉄会社も、東京に水道が敷設されるについて、鉄管を外国から輸入す
      る代わりに、国内でそれを鋳造しようという考えから設立されたものであり、また、仙人鉄山
      の開発も、同じ構想に基づいたものであった。
       明治36年、中央線が甲府まで開通したが、その時、雨宮が、家の近くに鉄道を引っ張って
      来ることを約束したという話が伝えられている。一説には、勝沼周辺の住民が土地を買収さ
      れることや、煤煙による被害をおそれて反対したからだとも伝えられているが、塩山へ中央
      線が回ったのは、雨敬の政治力によるものだというのである。こうした話に象徴された彼の
      豪胆な性格と偉大さが、一つの伝説を生み出したのかもしれない。
       明治44年(1911) 1月20日没。63歳。

      【根津 嘉一郎】
       万延元年(1860)山梨郡正徳寺村(山梨市)に生まれた。幼名栄次郎・のち隆三といい、兄
      にかわって家を相続するとき嘉一郎と改めた。村会議員を振り出しに郡会議員、県会議員、
      村長、衆議院議員、貴族院(勅選)議員を歴任。また実業界に雄飛して縦横に活躍。東武鉄
      道、南海鉄道、帝国石油、日清製粉、日本セメント、日本麦酒鉱泉、東京電燈、富国生命な
      ど有力事業200余社を創設または経営し、「鉄道王」とうたわれ、甲州財閥の巨頭であると
      ともに、わが国、実業界における世界的巨人とたたえられた。また、私財を惜しみなく投じて
      公共事業の振興に努め、7年制の武蔵高等学校(現在・武蔵大学)の創設をはじめ、全国の
      学校教育に尽くし、郷里山梨県においても平等小学校、県立図書館の建設、県下全小学校
      に対するピアノ寄贈のほか、根津橋をはじめ公共施設に対する援助も巨額にのぼった。
       昭和15年(1940) 1月4日没。81歳。

     【後日談】

      三井や住友などの同族的な財閥の御曹司と違い、若尾や雨宮の出は貧しく、”己の才覚”が
     全てだった。彼らが眼をつけたのは、「鉄道」と「電力」、今で言う社会インフラの分野だった。
      3人に続いた甲州出身の財界人のうち鉄道・運輸関係には、小野金六(富士身延鉄道社長)、
     堀内良平(富士急行創業者)、穴水熊雄(京王電気軌道社長)、穴水清彦(相模鉄道)、小佐
     野賢治(国際興業創業者)、小林一三(阪急電鉄)、早川徳次(東京地下鉄道)、中田大三
     (神戸電鉄)、佐藤晴雄(京浜急行電鉄)。電力関係には、神戸挙一(東京電燈社長)、穴水
     要七(北海道電燈(現北海道電力))、と多士済々だ。

      3人と鉱物、鉱山にかかわるエピソードを歴史の中から拾ってみた。

       1) ”クズ水晶でボロ儲け”  若尾 逸平
           安政5年(1858年)、横浜開港と同時に、若尾兄弟は横浜に進出し、生糸を英国商
          人に売りこんだ。弟・幾造は、安政6年12月12月27日、外人商館で生糸を売り込んで
          いると、水晶のクズ石が高値で買い取られているのを見て”ハッ”と驚いた。
           兄・逸平が常駐している八王子を目指し10里(40km)の道を飛び(走るの甲州弁)、
          事の次第を伝えた。腹ごしらえが終わると、2人して夜の甲州街道を西に向かった。
          24里(約100km)を歩き通し、甲府の家に着いたのは夜が明けて間もなくだった。朝
          飯を掻き込むと、兄弟は和田峠、天神森を越え、御岳新道を通り、昇仙峡を抜け昼ご
          ろ御嶽村に着いた。
           当時、甲州の水晶は金峰山麓の小尾(八幡山や水晶峠)や黒平(くろべら)あたりで
          採掘し、その原石をこの御嶽村に送り、ここに数戸の細工人がいて、玉・印材・置き物
          などを作っていた。この細工品を取った残りのクズ水晶は用途もなく、空き地に捨てて
          あった。兄弟はこれをほとんどタダのような値段で買い取り、麻袋に入れて天秤棒に
          担いで帰宅した時には日が傾いていた。腹ごしらえと仮眠をして、重い荷物を担いで
          横浜を目指した。
           翌日、横浜に着くとすぐ、水晶を買い入れる外国人を訪ねた。100斤につき、8〜9
          ドルで売れた。
           その次にもクズ水晶を持ちこむと同じ値段で買ってくれたが、「もうクズ石はいらない
          から、ザク石(水晶の結晶か?)を持ってこい」、と注文された。

           その年の暮れから、正月にかけ、兄弟は横浜と甲府の間を4、5回往復し、半月ほど
          で、1,500円(現在の600万円くらいか)の利益を上げた、と大正3年の懐古談にある。

           若尾逸平がクズ水晶を買った記録が現在でも水晶を細工・販売している土屋華裳家
          の「安政7年 大福帳」に残されている。

           『 (正月)七日
             一入 四貫八百文   小石十五メ目半
             若カ尾屋 逸平 様                  』

            土屋家は、クズ水晶 15.5貫目 = 58kg ≒60 kg =100斤 を 4,800文で売った。
            若尾兄弟は、クズ水晶 100斤 ≒ 60kg を外国人に、8.5(8〜9)ドル で売った。
            若尾兄弟の儲け  8.5ドル - 4,800 文 = ?

            当時は、鉄銭や鉄4文銭まで出現し、インフレ状態で銭の価値が下がり、 1両 が
           ≒ 6,500文 くらいだった。 買い入れた時に支払った 4,800文 は 0.75両 となる。
            一方、当時のドル相場は、1ドルが 3分 = 0.75両 だった。

            外国人に売った 8.5ドル =  8.5 × 0.75 = 6.4 両

            儲けは、6.4 両 ― 0.75 両 ≒ 5.6 両

            当時の1両がどのくらいの価値があったか、何を基準に換算するかにもよるが、
           15万〜30万、まあ20万円とみると、112万円ほどの儲けだ。5回で600万円は妥当な
           数字だろう。

          
                    銭相場の推移                       ドル相場の推移

       2) 『北海道・雨宮砂金採取団』 雨宮 敬次郎
                 上の略歴の中にも雨宮 敬次郎は、岩手県の和賀仙人鉄山の開発構想を持ってい
          たなど、”山師”的な一面が見られる。
           北海道での砂金採集の歴史には、必ずといってよいほど「雨宮砂金採取団」が登場
          する。これは、山梨県塩山市出身の実業家・雨宮 敬次郎が募集し、北海道での砂金
          採掘に従事した一団で、山形県西村山郡三泉村(現西川町)出身の「小泉衆」と呼ば
          れた人々であった。
           明治23年(1890年)から明治27年(1894年)ごろまで続いたとされ、ここで働いた
          人々が明治31年(1898年)から始まる、「枝幸のゴールドラッシュ」やその後の北海道
          における砂金採集の中核を担ったようだ。

           詳しくは、2004年に、次のページにまとめて置いたので参照されたい。

           ・北海道・雨宮砂金採取団
            ( Amemiya Placer Gold Hunting Team , Hokkaido )

       3) 【? 根津 嘉一郎】
           根津は妻を安田財閥から迎えるなど、若尾や雨宮とは違っていたようで、鉱山や
          鉱物などにかかわるエピソードは見つけられなかった。

  (2) ヤップ島の石貨
       入口に、南太平洋カロリン群島ヤップ島の石でできた貨幣の現物が展示してある。大きな
      ものは直径3.6mのものもあるらしく、「世界で一番大きなお金」になっている。
       ちなみに、世界で一番大きなお札は、中国・明時代の1375年に発行された「「大明通行宝
      鈔(だいみんつうこうほうしょう)」で、タテ338ミリ、ヨコ220ミリで、だいたいA4サイズぐらいの
      大きさだ。

       
                  ヤップ島の石貨

       先日、NHKだかで「ヤップ島の石貨」を放送していた。ヤップ島はサンゴ礁の島で石貨にで
      きるような石材はないので遠くの島で切りだして運んでくる。それだけ貴重なので「価値」が
      あるらしい。
       「石貨」と呼ばれるが、普通の貨幣のように日常物品の購入に使われるのではなく、冠婚
      葬祭や謝罪時に贈られる、一種の贈答品として使われるたようだ。

 (3) 「甲府繁盛壽語六(すごろく)」
      「すごろく」、と言って通じるのは私と同年代以上の人だけではないだろうか。お正月には
     子どもだけでなく家族で遊んだゲームだ。「振り出し(スタート)」から、振って出たサイコロの
     目の数だけ駒を進め、「上がり(ゴール)」に早く着いた人が勝ち、という単純なゲームだ。
      ただ、「1回休み」や「振り出しに戻る」などの仕掛けがあって、面白かった。

      このコーナーには、畳半分位の大きさの「甲府壽語六(すごろく)」が展示してある。明治37年
     に発行されたもので、「振り出し」が若尾 逸平の若尾銀行、「上がり」が「第十銀行」になって
     いる。この間、その当時甲府にあった商店の営業品目が絵入りで載っている。言ってみれば、
     甲府の街での買い物案内のようなものだ。
      中央付近に、水晶や水晶細工品を取り扱っていた、「甲斐物産商会」が載っている。水晶は
     甲府(山梨)を代表する産業だったのだ。

          
              「甲府繁盛壽語六(すごろく)」               「甲斐物産商会」

4. 甲斐で造った貨幣

    今回、「金融資料館」を訪れる気になった大きな理由は、甲斐で造った貨幣の実物を見たかっ
   たからだ。

     ・ 武田氏から徳川氏(江戸)時代に甲斐で製造した金貨 「甲州金」
     ・ 甲斐で鋳造した寛永通宝 「甲斐飯田銭」

    「甲州金」については、上で紹介したので省略し、ここでは甲斐で鋳造したとされる寛永通宝の
   鉄銭・「甲斐飯田銭」を紹介する。

 (1) 増える寛永通宝の鋳銭地【銭座】
       「寛永通宝」は、はじめ水戸と江戸そして近江で鋳造されたが、商工業の発達や繰り返し
      し起こった大火事などで銭の需要が増え、鋳造地が増やされた。三河の吉田、備前岡山、
      越後高田、豊後竹田、山城伏見、紀伊一ノ瀬、下野日光、羽後秋田、奥州仙台、相模藤沢
      越後佐渡、大坂難波、下野足尾、常陸大田、奥州石巻、会津、南部盛岡、伊勢津、安芸広
      島など、各地で鋳造されるようになった。
       当初は銅銭だけだったが、元文4年(1739年)、江戸・柳島で鉄銭を造ったのを皮切りに
      各地で鉄銭が鋳造された。また、明和4年(1767年)、真鍮(しんちゅう:黄銅)の4文銭も造ら
      れ、幕末になると鉄の4文銭まで出現するありさまだ。

       鋳造場所が増えたのは、単に需要が増えただけでなく、足尾のように、衰退した銅山の
      救済を目的としたものもあった。

       ・ 一ノ瀬銭
        ( Old Coin "Ichinose-sen" , Tokyo )

 (2) 甲斐飯田銭
      江戸で鉄の「寛永通宝」が鋳造されてすぐ、甲斐でも鉄の「寛永通宝」が鋳造されたと伝えら
     れている。鋳造した場所の名前をとって『飯田銭』と呼ばれている。
      鋳造を幕府に願い出た理由は、「甲州金」の品位を変えて造り直す、吹き替えが20年以上も
     ないため生活に困窮した金座職人の支援だったらしい。当然、技術伝承と言うようなもっとも
     らしい理由もついていたはずだ。
      こうしてできた「飯田銭」を下に示す。材質が鉄なので、赤錆びているものがほとんどだ。
      

        飯田銭

      『飯田銭』については、甲斐で鋳造されたとしてもその年代を、元文5年(1740年)から寛保
     元年(1741年)、あるいは明和2年(1762年)とする説や、そもそも甲斐では鋳造されず、飯田
     は飯田でも、信州の飯田で鋳造された、とする説 1) まであるようだ。

5. おわりに

 (1) 山梨の金融・経済活動
        ほぼ20年ぶりに山梨中央銀行の「金融資料館」を訪れた。創立間もないころ、最初に訪れた
     ときは、「和同開珎」などの実物に眼を奪われしまって、山梨の金融や「甲州金」そして「甲斐
     飯田銭」などを細かく見て、調べる余裕がなかった。

      今回は、ジックリと時間をかけ、疑問点を係員にお聞きしたりして、充実した見学になった。
     帰りには、造幣局のパンフレットや資料などをいただき、おまけに記念スタンプまで押してきた。

       
                 見学記念スタンプ

      ミネラル・ウオッチングがストーブ・リーグの間に、「甲州金」や「甲斐飯田銭」について、もう
     少し調べてみたいと考えている。そのためには、”現物”の入手と関連する”文献”漁りが必要
     だ。

6. 参考文献

 1) 小川 浩著:古銭の収集<新版>,徳間書店,昭和41年
 2) 篠原 方泰編:水晶宝飾史,甲府商工会議所,昭和43年
 3) 山梨中央銀行編:山梨中銀 金融資料館 リーフレット,同行,2013年
 4) 山梨中央銀行編:山梨中銀 金融資料館,同行,2013年
 5) 山梨中央銀行編:お金のはなし あれこれ,同行,2013年
 6) 日本貨幣商協同組合編:日本貨幣カタログ 2014,同組合,2013年
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