陶貨







                陶   貨

1. はじめに

    あなたの持っている小銭入れの中には、500円、100円、50円、10円、5円そして1円硬貨、
   これらの内のどれかは入っているはずだ。
    これらの硬貨の材料は全て金属で、その品位【材料の種類と含有率(千分率)】は次の通
   りのはずだ。

     500円ニッケル黄銅貨・・・・・・銅(720)亜鉛(200)ニッケル(80)
     桜100円白銅貨・・・・・・・・・・・銅(750)ニッケル(250)
     50円白銅貨・・・・・・・・・・・・・・銅(750)ニッケル(250)
     10円青銅貨(ギザなし)・・・・・銅(950)亜鉛(40)錫(10)
     5円黄銅貨(ゴシック体)・・・・・銅(600〜700)亜鉛(400〜300)
     1円アルミ貨・・・・・・・・・・・・・・アルミ(1,000)

    骨董市を巡っていると、古代中国の刀幣と呼ばれる古銭から、現在でも通用する国内外の
   現代コインまでが売られている。それらの中に、明らかに金属とは違う赤茶色の『瀬戸物』で
   できたような貨幣があったので購入した。

    帰宅して調べてみると、これは『陶貨(とうか)』、と呼ばれ、太平洋戦争で敗色が濃厚にな
   った昭和20年(1945年)、貴重な金属の代替材料として発行を予定していたが、8月15日の
   敗戦を迎え、発行されることがなかった”幻の貨幣”だ。

    さらに調べてみると、『陶貨』には前例があった。それは第1次大戦で敗戦国になったドイツ
   だ。1920年ごろ、ドイツは陶磁器で有名なマイセンなどで陶貨を造り、流通させていたのだ。

    明治維新直後の明治4年(1871年)、政府は「新貨條例」を布告し、明治3年銘の1円、50銭
   20銭、10銭、5銭の銀貨、4年にかけて20円、10円、5円、2円そして1円の金貨を発行した。
    現在では吹けば飛ぶようなアルミ製の1円硬貨が、150年前には金貨だったのだ。円高だ、
   円高だ、と言われるが、円の実質的な価値は下がっている。

    これら、入手した数枚の銀貨、銅貨、そして『陶貨』を通して、日本の近代貨幣史を観ている
   と、次のようなことを念じずにはおられない。

    ・『瀬戸物』が通貨になるような時代はいやだ。
    ・1円持って、映画みて、食事して、タクシーで帰ってもまだ小銭が残る時代になって欲しい。
    ( 2012年4月 情報 )

2. 陶貨

 2.1 日本の陶貨
      下の写真に、私が骨董市で入手した陶貨を示す。表は、雲海に浮かぶ富士山と額面
     1銭を意味する漢字の「壹」が描かれている。裏は、5弁の桜の花びらの周りに、反時計回
     りに「大日本」の国名が刻まれている。
      通常、貨幣には「発行年」、額面の単位(円・銭・厘など)があるはずだが、それらの細か
     い数字や漢字を陶器では忠実に再現できないので、下のような図案になったらしい。

        
                   表                         裏
                          未発行『1銭陶貨』

      陶貨には、額面が1銭のほか、5銭、10銭の3種があったが、5銭、10銭は希少で、価格
     も高く、入手するのは難しそうだ。
      3種の陶貨の製造会社、品位(組成)などを一覧表にまとめてみた。

額 面        製 造 場 所   品    位  市 場 価 格
1銭 佐賀県有田町・協和新興陶器有限会社
・京都
・愛知県瀬戸
三間坂粘土 60%
泉山石 15%
赤目粘土 15%
その他 10%
5,000〜2,000円
5銭 愛知県瀬戸輸出陶器株式会社 大学粘土 90%
褐鉄鉱 10%
80,000〜40,000円
10銭 京都市松風工業株式会社 長石 10〜15%
砥粉 85〜90%
100,000〜50,000円

      陶貨と呼ばれるだけに、陶磁器の材料である各種の粘土や長石、そして着色剤と思わ
     れる「褐鉄鉱」などを混ぜ、練り上げた生地を型に入れ形を造り、乾燥させたあと焼成した。

      これら3種の陶貨は、第2次世界大戦末期の昭和20年(1945年)に試鋳したが、8月15日
     敗戦を迎え、正式に発行されることはなく、”幻の貨幣”になった。

 2.2 外国の陶貨
      一般に硬貨の材質は金属だが、有名な「ヤップ島の石貨」のように石材が使われること
     もあった。
      調べてみると、『陶貨』にはいくつか前例があった。1つは第1次大戦で敗戦国になった
     ドイツだ。1920年、ドイツは陶磁器で有名なマイセンなどで陶貨を造り、流通させていた
     のだ。
      ほかに、シャム(現在のタイ)では、「ピー」と呼ばれる賭博用の代用貨幣が街中でも通
     用した時期があったが19世紀末には流通が禁止された。

        
             ドイツ・50pf                    シャム(現タイ)
                         世界の『陶貨』

      煉瓦色のドイツの陶貨は、日本の陶貨のモデルになったと考えて間違いないだろう。

3. 近代日本の貨幣

 3.1 明治維新と通貨改正
    このHPで江戸時代の貨幣制度や鉱山などで使われた「鉱山札」などの代用貨幣について
   何度か紹介した。
    江戸時代末期の日本の貨幣制度は、秤量貨幣と定位貨幣の混在、地方でだけ通用する
   藩札や「地方貨」と呼ばれる硬貨の類が百花繚乱ならぬ”百貨繚乱”の状態だった。

    ・「金 GOLD 黄金の国ジパングと甲斐金山展」
     ( "Zipangu " , Land of GOLD & Kai GOLD Mine
      Yamanashi Prefectural Museum , Yamanashi Pref. )

    ・鉱山札の研究
     ( Study of Mine Note )

    明治維新になって、新政府は徳川の世は終わったことを国民に認識させる必要があった。
   その1つの手段になったのが通貨制度だ。何せ、お金を支払ったり、受け取ったりは、日常
   茶飯事で、これが変わった、となると大きなインパクトが与えられると読んだろう。
    一方、諸外国に対して、日本が近代化しつつあることを知らせるため、通貨制度の統一や
   国際的な本位制の導入を図っている姿勢を見せる必要があった。
    しかし、新政府になってもすぐに新しい通貨制度を打ち出せる程準備が整っていたわけで
   なく、明治になっても発行された紙幣・「太政官札」や金貨・「二朱判金」そして銀貨・「一分銀」
   「一朱銀」の単位は「両」−「分」−「朱」のままで、4進法だった。
    ようやく、明治4年(1971年)、新政府は「新貨條例」を布告し、金本位制による、「円」-「銭」
   -「厘」の10進法による貨幣単位にもとずく新しい金銀銅貨の発行を布告した。

    「新貨條例」の冒頭では、江戸時代の貨幣制度の欠点を挙げ、大阪に造幣寮をつくり、金
   銀の量目(りょうもく)などが厳密な新しい通貨を発行し、萬民を保護することを宣言している。

    「新貨幣例目」の章には、次のように、新しい貨幣単位の呼称を”円”とすること、在来通貨
   との交換レート、そして金銀貨の純分(含有率)とその重量を定めている。

    『 1. 新貨幣の称呼は円を以て起票とし、その多寡を論ぜず。都(すべ)て円の原称に数字
        を加えて之を計算すべし。但し1円以下は、銭(円の100分の1)と厘(銭の10分の1)
        とを以て少数の計算に用ふべし。
      1. (10進法の説明)
      1. (厘以下、毛糸忽微纖(せん)と万以上の単位の呼称)
      1. 新貨幣と在来通用貨幣との価格は
          1円=1両=永1貫文(=1,000文)
          50銭=2分=永500文
          10銭=1両の10分の1=永100文
           1銭=1両の100分の1=永10文
           1厘=1両の1,000分の1=永1文
      1. 金銀純分
          1円金貨=純金重量  1.5グラム
          1円銀貨=純銀重量 24.26726グラム
      1. (グラム、オンス、など単位の換算)
      1. (本位貨幣(=金貨)と外国金貨との価格比較)                     』

 3.2 銅貨の謎
    ここで、”おや”、と思うのは、1両=永1貫文だ。江戸時代の貨幣制度は4進法で、1両=
   4貫文=4,000文だったのが、1円=1両=1,000文になったことだ。つまり、銅貨1文の価値が
   4倍になったことになる。

    これだと『銭づかい』の一般庶民の所得が倍増ならぬ4倍増になったのだから、大喜びした
   はずだが、そのような話はなかったようだ。
    以前のページで紹介したが、江戸時代末期、小判の金の含有量は少なくなり1両の実質的
   な価値は下がる一方だった。銅貨も1文銭と同じサイズで4文に通用する四文銭が発行され、
   その材質も銅→真鍮(銅と亜鉛の合金)→鉄 と価値が下がっていった。しまいには、鉄の4
   文銭が発行される始末だった。
    こんな訳でお互い目減りした小判と文銭の価値のイーブン・ポイントが1両=1,000文で、これ
   で大きな混乱はなかったらしい。

    「新貨條例」には、金銀貨と同時に、「1銭」、「半(1/2)銭」、「1厘」の銅貨の発行が布告され
   ているにもかかわらず実際には発行されなかった。
    一般に、需要が多い小額貨幣のほうが発行数が多いのだが、試作しただけで、発行されなか
   った。そこで、どうしたかというと、江戸時代の銅貨をそのまま使えるようにし、新貨幣と江戸
   時代の通貨の交換レートを決めた。

    1厘(=1/1,000両)=永1文、つまり寛永通宝1枚を基本にしたようだ。しからば、4文銭は
   4厘かと思いきや、1/2の価値の2厘として通用した。
    同じ4文銭の「文久永宝」は、1厘5毛、百文銭の「天保通宝」は本来なら1/10両、つまり10銭
   に相当するはずだったが、その12.5分の1の価値の8厘にしか通用しなかった。

     
         1文銭           4文銭         1厘
        1厘通用          2厘通用
                   銅貨【マイコレクション】

    ( 子どもの頃、近所に住んでいた明治生まれの古老が、ある人を「天保銭」、と呼んでいた
     のを思い出し、その理由も今何となくわかった。)

    明治末期生まれの「日本のコイン」の著者によれば、「天保銭」は、明治20年までしか通用
   しなかったが、1文銭や4文銭は大正のころ(1920年ごろ)でも通用したらしい。

 3.3 金銀貨の謎
      新貨幣に対応させるために取り上げられたのは金貨(両)と銅貨(文)だけで、江戸時代
     の日常生活に活躍した1分銀や1朱銀と呼ばれる銀貨が抜け落ちている。明治政府にな
     ってから発行した1分銀や1朱銀が何十何銭に通用するのか全くわからないのだ。
      当局の過失で抜け落ちたのだろうか。実はそうではなく、意識的に注意深く在来銀貨を
     外したのだ。慶応4年5月、明治政府は豆板銀や丁銀などの秤量銀貨の通用を禁止し、8
     月には1両=永1貫文(1,000文)=銀60目と定めた。
      新1円銀貨はメキシコなど外国の銀貨と銀の含有量が同じで、3分(1分銀3枚)に相当す
     るというのが国民的な認識だった。
      1円銀貨=金1両=金4分(2分金2枚)に対して、2分金1枚半が国民的な認識だった。
     これを強行すれば、国民の間に疑念を生じ、換算の煩わしさもあり、混乱と反対が生まれ
     るのは明らかだった。そんな訳で意識的に明らかにしなかったようだ。

 3.4 金銀交換比率と金の流出
      HPで紹介したことがあるように、幕末、日本国内から多量の小判(=金)が海外に持ち
     去られた。この理由は、当時の日本の金と銀の価値が5:1で、外国の15.7:1に比べ、3倍
     以上銀の価値が高かった。逆にいえば、銀に比べ金がべらぼうに安かった。
      外国人は、メキシコなどの銀貨を持込み、同量の銀を含む1分銀、2分銀、1朱銀などに
     交換し、それを4分=1両の比率で小判に交換し、海外に持ち去った。”濡れ手に粟”だっ
     た。

      「新貨條例」には、「金銀純分」の項をもうけ、1円の金銀貨の純金銀分を載せている。
     金貨の純金重量  1.5グラム、銀貨の純銀重量 24.26726グラム とある。これを比較す
     ると金と銀の価値は、16.17:1となる。これだと、金貨の流出は起こらなかった。
      しかし、明治9年ごろから国際的な銀の価格は金に対して下落し、17:1くらいだったが
     日本だけが16:1のままだったので、外国人たちは銀を持込み金貨を持ち去った。
      明治4年から10年まで、日本で5,180万円の金貨が作られ、うち2,606万円が海外に流
     出した、と言われる。1円=1.5グラムとして、約4,000万グラム(40トン)という膨大な量にな
     る。

 3.5 1円銀貨の謎
      「新貨條例」では、発行予定になっている金銀銅貨として図入りで次の13種を載せてい
     る。

     本位金貨・・・・・・・・20円、10円、5円、2円、1円
     定位銀貨・・・・・・・・50銭、20銭、10銭、5銭
     銅貨・・・・・・・・・・・・1銭、半銭、1厘
     銀貨・・・・・・・・・・・・1円

     「新貨條例」に「新貨幣通用制限」の章があり、そこに、本位、定位の定義が書いてある。

     『 ・・・・・・・・・
       本位とは、貨幣の主本にして、他の準拠となるものなり。故に、通用の際に制限を立て
      るを要せず。・・・・・
       定位の銀貨幣は都て補助の貨品にして、その1種または数種を併せ用ふるとも、一口
      の払方に10円の高を限るべし。銅貨は都て一口の払方に10円の高を限り用ゆべし
       定位とは、本位貨幣の補助にして制度によりて其価位を定めて融通を資くるものなり。
      故に通用の際これに制限を設けて交通の定規とす。
       各開港場貿易便利の為め、当分の内、中外人民の望に応じ、1円の銀貨を鋳造し、之
      を貿易銀と為して通商の流融を資く可し。
       此の1円銀は全く各開港場輸出入物品其他外国人より納むる諸税及日本人外国人と
      の通商の取引に用ふるのみにして、内地の諸税納方等、公なる払方に用ふべからざる
      は勿論、其他一般の通用を得ざるべし。されども、私の取引付相対の示談を以て受取渡
      しいたす分は何れの地にても勝手次第たるべし。
       ・・・・・・・・・・・・                                           』

      1円には、金貨と銀貨があった。「金本位制」をうたっているのだから、円の原本たる1円
     貨は、金貨だけであるべきで、銀貨があるのはおかしい。

      「新貨幣通用制限」の章にあるように、1円銀貨は、横浜、函館、長崎、兵庫などの開港
     場(貿易港)でのみ通用するだけで、国内の公の支払いに使ってはならないのは勿論、
     一般に使ってもならない。つまり、貿易の支払いにのみ使える『貿易銀』という位置づけ
     だった。
      しかし、例外のない規則はない、の諺通り、”されども”以下にあるように、相対(あいた
     い:双方納得の上)なら、開港場以外でも取引に使って良い、という何とも日本人らしい
     ルールだった。

      こうして、1円銀貨は、開港場だけでなく市中でも使われた。1円銀貨は明治3年だけで、
     3,685,049枚と400万枚近くが発行され、1円金貨が出たのは翌年、明治4年になってから
     で、発行枚数も1,841,288枚と1円銀貨の半分しかなく、市民の間には、銀貨が先行して
     行きわたり、主役になっていたことになる。これに拍車をかけるように、明治7年以降、1円
     銀貨が毎年100万枚から2,000万枚前後発行されたのに対して、1円金貨は明治7年以降、
     明治13年までの間に、12万枚余りが発行されたに過ぎない。

      そうなってくると、「新貨條例」で高らかにうたっている『金本位制』は本当だったのだろ
     うかという疑念が生ずる。
      三上博士の「円の誕生 近代貨幣制度の成立」を読むと、『金銀複本位制』あるいは
     『銀本位制』だったのではないかという論者がいることも事実のようだ。
      なぜなら、「新貨條例」が出る前年の明治3年に「銀本位制」が内定していた、という事
     実があるからだ。

      1円銀貨の本来の目的である『貿易銀』の額面をもった銀貨が登場するのは、明治8年
     になってからだ。

        
            1円銀貨【明治3年】                 貿易銀【明治8年】
                         銀貨【マイコレクション】

4. 円の由来

 4.1 『金本位制』に決まるまで
    なぜ、私たちが使っているお金の単位が『円』なのか、「円の誕生」にその由来が70ページ
   近くにわたって記述してあるので、かいつまんでお知らせしよう。
   これを読むと、紆余曲折を経て、「金本位制」になったことも理解できる。

    ・明治2年3月4日       新政府内には旧幕府の貨幣制度をそのまま踏襲すべきという
                     保守的な意見がある中、「貨幣の形状及び価名改正」案が大隈
                     (後の重信)、久世治作により提案された。
                      ・ 形状を円形にする
                      ・ 計算体系を4進法から10進法
                      ・ 両・分・朱に代り、10進法に相応しい、たとえば 元・銭・厘

    ・明治2年6月15日      大隈、伊藤(博文)、井上(馨)とオリエンタルバンク支配人・ロ
                     バートソンの間で本位貨幣となる金属・貨幣の種類・品位・量目
                     を議論
                      ロバートソンの見解は、『 貨幣ノ本位トナルモノハ、・・・・・・
                     10分ノ9ノ銀貨ナルベシ。
                      故ニ其銀貨ハ、墨西哥(メキシコ)、”ドルラル”(ダラー?)ト同
                     品位タルベシ。・・・・・・                         』

    これを読むと、イギリス人・ロバートソンは英国(の利権)を代表し、『銀本位制』導入を迫っ
   ている。

    ・明治2年7月7日       各国公使宛の書状に 「1円ヲ以テ メキシコ洋銀1枚ニ比較シ
                     起算スル所ノモノナリ」とある。

    これが公文書に上における、はじめての『円』の出現だ。この文書の別紙には、金銀比価を
   1:15とし、新貨1円をメキシコドル1枚に等しく決め、金貨として10円・5円・2円半、銀貨には
   1円、半円、4分の1円、10分の1円がそれぞれ計画されていた。
    これだと、1円の基準は1円銀貨で、金貨も発行する『金銀複本位制』にしたいという日本側の
   思惑が読み取れる。

    ・明治2年11月9日      各国公使宛の書簡に次のようにある。
                     『 新規発行スル貨幣の本位トナル者ハ、・・・・・其質10分ノ9
                      ノ銀貨ナルベシ。・・・・・・・・
                       ・・・・・・・・・
                       又、金貨幣ヲモ鋳造スベシ。其金貨ハ本位銀貨之10箇・5箇
                      2箇半ニシテ、唯便利之為メニ之ヲ用フベシ。
                       其定量未ダ細密ニ治定セザレドモ、小銀貨ニ均シク些少ノ
                      金高払方ニ而巳之ヲ用フベシ                   』

    これを読むと、6月のロバートソンの進言を受け、『銀本位制』を取りながら、量目も決まって
   いない金貨の発行も予定し、『金銀複本位制』への含みを残している。

    ・明治3年3月12日      日本側の思惑を見透かしたかのように、アメリカの弁理公使が
                     『 貨幣御改造之1件は内国の事務に関わる事なれ共、右小価
                      の金銀銅銭は何程迄之払方に可用哉御取極相成候へバ、
                      外国の通則に適し、・・・・・・・                   』

    と、金貨の実質的補助貨幣化を申し入れし、ドイツ公使、フランス公使も相次いで同様な
   申し入れを行った。

    ・明治3年10月29日     各国公使宛の外務省書簡に、『 1円ヲ以テ原位トシ之ヲ以テ
                     本位貨幣トス 』
                      『 銀貨ハ香港造幣局ヨリ発行セルモノ(銀貨)ト全く均シ 』

    貨幣の呼称を円とし、『銀本位制』であることを再確認し、メキシコドルに代って香港ドル=
   香港銀円と同じ量目・品位とすることが、イギリスはじめ各国に通告された。

    ・明治3年11月12日     国内向けのは、「新貨幣品位及ヒ重量表」が太政官より裁定
                      ・ 円が正式な貨幣単位の呼称
                      ・ 本位貨幣は1円銀貨で、香港ドルと同じ量目と品位
                      ・ 補助貨幣として銀貨のほか、金貨も発行する。

    明治3年11月から鋳造を始めた1円銀貨は、円のよりどころとなる存在で、『銀本位制』が
   根底にあった。
    しかし、明治4年5月の「新貨條例」では、『金本位制』になっている。この半年の間に何が
   起きたのだろうか。

    ・明治3年11月2日      伊藤博文一行がアメリカに向け出発。その渡航目的は、「凡ソ
                     理財ニ関スル諸法則・国債・紙弊及ビ為替・貿易・貨幣鋳造ノ
                     諸件」の調査・研究だった。
                      12月、「金銀貨幣の鋳造法」の建議書をアメリカから送ってきた。

                      『 現今米国ニ於テ、万国普通ノ新貨幣ヲ鋳造セントスル議案ニ
                       記セル金貨10円ノ重量ト予定セシ・・・・・・・・・
                        ・・・今文明欧州諸国ノ碩学多年ノ経歴ヲ以テ金貨ヲ原位
                       ト定ムルノ議略一徹ニ帰ス。・・・・・ 
                        今若シ新ニ貨幣鋳造スルノ法ヲ創立スル国アレバ必ズ
                       金貨ヲ原位ト為ス疑ナカルベシ。・・・・・            』

    新貨は金貨をベースにした、『金本位制』にすべき、と進言してきたのだ。これ受け国内で
   議論し、むろん東洋銀行支配人・カーゲルの意見も聞き、次のように結論を伊藤に伝えた
   のは、「新貨條例」公布2ケ月前だった。

    ・明治4年2月30日      伊藤宛の書簡
                      『 御建議之旨趣参酌折衷之上、当分金銀両本位ト相定可』

    文字通りの”折衷案”の『金銀両本位制』にするとの決定だった。これに納得しない伊藤は
   随員・吉田二郎を先に帰国させ、『金本位制』を勧告させたこともあって、政府は『金銀両本位
   制』を改変してしまった。

    ・明治4年4月2日       伊藤宛の書簡
                      『 ・・・最前予定ノ銀貨ヲ以テ本位トシ金貨ヲ助金タラシムル
                       之所見ハ、・・・・第一貨幣ノ心理ヲ失ヒ将来ノ宏規難相立・・
                       ・・・・・・・・
                        1円銀貨全ク廃止之儀ハ、何分貿易不便利之懸念モ不少
                       ・・・・貿易銀トシテ制度外ニ措、・・・・・・・           』

    こうして、『金本位制』に決まったのは、「新貨條例」が公布される1ケ月前だった。本位硬貨
   なるはずだった1円銀貨は、『貿易銀』として、制度の外に置かれることになったが、すでに
   述べたように、前年(明治3年)末までに400万枚近くが発行されていた。

 4.2 『円』の呼称
  (1) 『円』の由来
       なぜ、日本の貨幣の単位が『円』なのかについては確定的な資料がなく、次の2つの
      説がある。
       @ 形状説
           貨幣の形が円形だから
       A 香港ドル説
           明治政府は、新貨を製造するため、閉鎖された香港造幣局の機械を買い入れ
          これを操作する技師も雇用した。
           試作段階で鋳出したのが、「香港1円」の極印をもつ香港ドル銀貨で、これにな
          らった。

       「円の誕生」の著者・三上氏は、これら従来の説と違う考えを述べているので、私流の
      解釈を交えて紹介する。

       例えば、今でも新しい元号を付けるとき、中国の古典など、漢字文化の本家の智恵
      を借りることが通例で、新しい貨幣の呼び名についても中国ではどう呼んでいるかを真っ
      先に調べたはずだ。
       中国では、18世紀末からスペイン銀貨が流入していた。華南の中国人は貨幣の円形
      という特徴に注目し、『銀円』、と呼んでいた。
       1864年、イギリスがメキシコ銀貨を駆逐する目的で、香港で発行した「香港ドル」銀貨の
      裏面には『香港1円』とあった。
       こうして「円」を使い始めたが、「円」の正字「圓」は、画数が多く書くのに不便で、同じ
      発音で貨幣の呼称としても相応しい「元」のほうが「円」をしのいで定着していった。

       日本では、アメリカ・ドル(弗)の代りに「両」や「円」が嘉永ごろから自然発生的に使わ
      れはじめ、「両」の代わりに「円」を使う例が市民の間でも見られるようになったようだ。

  (2) なぜ、『YEN』なのか
       皆さん御承知の通り、ドルの記号は”$”、イギリス・ポンドは”£”、そして円は”¥”だ。
      ”¥”は、「YEN」の”Y”をデザイン化したものだ。
       しからば、「円」は、なぜ「EN」でなく「YEN」なのだろうか。幕末、日本で活躍したペリー
      はじめ多くの外国人の日記・書簡などに「江戸」は、”Edo”ではなく、”Yedo”や”Yeddo”
      書いてある。
       そこから「En」の前に「Y」を付けて「YEN」、にしたというような話ではなさそうだ。中国の
      華南地方の方言で「円」と同じ発音の「元」は、「Yan」とか「Yen」と発音され、これ以上は
      言わずもがなだろう。

5. おわりに

 (1) 金の価値・銀の価値
      金貨や銀貨なら素材の金や銀の価格以上の価値があることはだれもが認めるだろう。
     しかし、紙っぺらに「一万円」と印刷してあるだけで、1万円の価値があることに読者の皆
     さまは疑問を感じることがないだろうか。
      紙幣の素材は紙で、紙でなぜものが買えるのか。紙幣は国が滅びればただの紙クズに
     なってしまう。
      それは、国債(個人の借用書)などでも同じで、その国(人)が経済的に破たんしてしまえ
     ば、紙クズになっていまう。
      ヨーロッパの信用不安という背景があってか、最近の金の価格上昇はすさまじい。

     
                      金価格の推移

      その結果、平成2年に発行された純金30gを含む今上陛下即位記念10万円金貨は、金
     の地金だけでも30g×4,500円/gとして、13万円を超える評価になる。
      また、砂金を求めて山梨県にある湯之奥金山博物館を訪れる人も増えたと聞いている。

      ここ40年の歴史を見ると、今よりも金の価格が高かった時代があった。それは1980年頃
     で、世界のあちこちで地域紛争が起きた時代だ。
      金の価値が高いということは、それだけ社会が不安定と言うことで、早く落ち着いて欲し
     いものだ。

      このページをまとめている2012年4月20日現在の貴金属のグラム当たり販売価格は
     次の通りだ。
      金(Au)         4,565円
      プラチナ(Pt)      4,428円
      銀(Ag)            90円

      金銀比価は、50:1と明治期の15:1に比べ銀の金に対する相対価値は1/3以下に低下し
     たことになる。
      学生時代、金は死蔵されたり、回収・リサイクルされるのに対して、写真用感光材として
     の用途が多い銀は回収できないので、将来金よりも値上がりすると教えられたのだが、
     デジカメがこれだけ普及し、写真用フイルムの需要が減れば、価値が下がるのも当然な
     のだろうか。

 (2) 円高
      新貨條例がだされ、1円金貨が発行された明治4年、アメリカの1ドル=1円だった。
     明治28年、日清戦争に勝利した日本は、下関条約で清国から2億両という巨額の賠償金
     を手にした。2億両は、当時の日本円で3億円。1円=金1.5グラムとすると450トンという膨
     大な量になる。条約調印後、遼東半島を返還した際、3,150万両が追加され、総額2億
     3,150万両になり、これらのお金を英ポンドで受け取った。英ポンドは当時最強の通貨で、
     金と交換することができ、日本の金準備高は急増した。
      明治30年(1897年)3月の貨幣法で、日本は金本位国となった。こ「純金ノ量目2分ヲ以
     テ価格ノ単位ト為シ、之ヲ以テ円ト称ス」。この時点で、1ドル=2円となった。

      それから100年あまり、1ドル=80円台だ。円は高いのか安いのか?

 (3) コレクション歴(癖?)
      今回、このページをまとめるにあたり、明治期から昭和期までのコインの収集品を妻に
     単身赴任先まで持ってきてもらった。『重たかった』、と不平を言われながら。
      今見返すと、明治時代の金貨は全くないが、銀貨以下の硬貨は全て揃っている。それ
     にしてもいろいろなものを集めたものだと我ながら呆れている。
      そんな訳で、「切手」、「古銭」、「絵葉書」、「古書」など今でも集め続けている。北関東
     の骨董市をのぞくと、マリアテレジアの肖像を描いたコインがあった。値段を聞くと、『小さ
     いコインが100円、大きいのが200円』、というので小さいケネディコインと大きい1780年銘
     マリアテレジアなど何枚か購入した。
      帰宅して調べてみると、オーストリアのマリアテレジア ターレール銀貨で、主に中近東
     貿易で使われた『貿易銀』で、銘の1780年は彼女が亡くなった年で、没後も同じデザイン
     で発行され続けた。しかも、イタリア、イギリス、フランス、ベルギーもこの「1780年銘の
     マリア・テレジア銀貨」を発行したという面白い銀貨だ。
      直径:39.5mm、量目:28.07グラム、銀品位:833/1000で銀の重さが23.38グラム、明治
     3年、明治政府が発行した「貿易銀」の役割をもたせた1円銀貨は、直径:38.58mm、量目
     :26.96グラム、銀品位:900/1000で銀の重さが24.26グラムと世界標準の『貿易銀』だっ
     た。

     
         マリアテレジア タ―レル銀貨
               1780年銘
                【洗浄前】

      洗浄したところ、ピカピカになり、往年の輝きを取り戻した。ネットで調べると1枚5,000円
     前後で売買されているらしく、200円は「掘り出しもの」だった。

 (4) 近況雑感
      夏の停電対策として、4〜6月の土曜日はラインを動かし作りだめしている。そうなると、
     私も土曜日出勤することもあり、休みが少なくなり、ミネラル・ウオッチングにでかける機会
     もそうそうない。
      たまの休みには、近くに住む孫娘一家と買いものなどに出かけることがある。4月中旬、
     千葉県の有名なお寺で開催された「太鼓祭り」を見に行ったら、孫娘が飽きてしまい、2人で
     広い境内を散歩した。
      孫娘は、散策路に敷かれている「玉砂利」に興味を示し、色の綺麗なものや形の変わっ
     たものをポケットに入れ始めた。
      3人の息子たちとそのお嫁さんたちは鉱物に全く興味を示さないが、ようやく鉱物好きな
     後継者が生まれそうな気配だ。

      「石拾い」に興ずる孫娘

6. 参考文献 

 1) 村上 勘兵衛:新貨條例 復刻版,御用御書物所,明治4年
 2) 中村 佐伝治:日本のコイン,保育社,1971年
 3) 高橋 靖男、奥山 忠信: 金の魅力  金の魔力 金投資へのいざない,
                    社会評論社,2002年
 4) 日本貨幣商協同組合編:日本貨幣カタログ,2006年
 5) 荒木 信義:黄金島・ジパング 謎解き・金の日本史 NHK 知るを楽しむ 歴史に好奇心
            日本放送出版協会,2006年
 6) 三上 隆三:円の誕生 近代貨幣制度の成立,講談社学術文庫,2011年
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