『富岡日記』の著者・和田英と足尾銅山









         『富岡日記』の著者・和田英と足尾銅山

1. はじめに

    北関東T市での同期会は、駅ビルのホテルでのフルコースから始まった。久しぶりに再会した
   同期生の近況報告が長引いて、中締めの時間になっても全員が終わらない有様で、続きは2次
   会の会場で、となった。
     2次会は同期のM氏が事業の傍ら経営するスナックを貸し切って、女性演歌歌手の生出演も
   あり、楽しいひと時を過ごし、ホテルに戻ったのは0時近くだった。

        
                 記念写真                    2次会
                                    【右の男性は私ではない】
                            同期会のひとこま

    翌朝、遠く出雲からはるばる飛んできたT氏はじめ宿泊組と一緒に朝食を摂り、次回も元気で
   再会するのを誓ってお別れした。この日の内に自宅に着けばよいので、長野県佐久市を経由して
   下道をのんびり走ることにした。
    まずは世界遺産に内定した「富岡製糸場」を訪れた。平日、しかも朝一番の訪問だったが、すで
   に大勢の観光客の姿が見られ、人気が高いのは『世界遺産効果』のようだ。1時間ほど建物の
   内外を見学し門を出るときには、入場を待つ観光客の列が伸び、入場制限が始まっていた。

     
               入場を待つ人々

    群馬県富岡市に、日本最初の「官営富岡製糸場」が明治5年(1872年)10月に開業した。近代
   国家を目指す明治新政府が、殖産興業の一つとして、繭から絹糸(生糸)をつくる新しい繰糸(くり
   いと)技術を全国に普及させるための模範(モデル)工場としてフランスから輸入した機械とフラン
   ス人の指導のもとに建設・稼動したものだ。
    ここで働き技術を習得する”工女”(女工ではない)を募集したが、赤ワインを飲む外国人技術者
   の姿を見て”生き血を吸う”と噂され、思うように集まらなかった。悪い噂を打ち消すため、製糸場
   の初代所長・尾高惇忠(おたか じんちゅう)は、14歳の実の娘を工女第一号として入場させたほ
   どだった。

    和田(旧姓横田)英は、安政4年(1857年)に信濃国(長野県)松代藩士・横田数馬の次女として
   生まれた。明治5年(1872年)、工女差出し命令があった時、数馬は区長(現在の町村長)であっ
   たので、立場上止むを得ず英を応募させた。翌明治6年(1873年)3月、松代から16人の工女が
   入場した。英は数え年17歳だった。
    英は製糸技術の習得に励み、8ケ月で『一等工女』となり、製糸の全工程を習得し、翌明治7年
   (1874年)7月、松代に帰郷し、地元西条村六工(ろっく)に新設された「西条村製糸場」(後の「六
   工社(ろっこうしゃ)」)の工女取締教婦として、工女たちの指導にあたった。明治11年(1878年)
   8月に「県営長野製糸場」の教授となり、9月には同製糸場を行幸された明治天皇の御前で繰糸
   作業を行った。

    明治13年に同製糸場を退職し、同15年に旧松代藩士で陸軍中尉・和田盛治に嫁いだ。2人の
   間に実子はなく、盛一(もりかず)を養子に迎えた。
    盛一は東京帝大採鉱冶金学科を出て、明治43年(1910年)足尾銅山に入り、大正5年(1916年)
   に採鉱課長になった。
    英は明治41年(1908年)から大正2年(1913年)にかけて、六工社関係者からの要請をうけ、富
   岡や西条村の製糸場での出来事を回想して「富岡日記」(原題:明治6・7年、松代出身工女富岡
   入場中の略記)と「富岡後記」(大日本帝国民間蒸気機械の元祖・六工社創立第一年の巻)を著
   した。

    英がいつごろ盛一のもとに行ったかは明らかではないが、日立製作所創業者・小平浪平などの
   例から、盛一が採鉱課長になった前後ではないだろうか。
    盛一は、大正9年に所長として静岡県の久根銅山に赴任し、英も足尾を離れたと思われる。その
   後、岩手県の不老倉(ふろくら)銅山の所長に転じ、昭和2年(1927年)、足尾銅山の副所長として
   戻った。英はこのころ再び足尾に行ったと思われ、昭和4年(1929年)9月26日に足尾銅山掛水社
   宅で亡くなった。享年73歳だった。

    『富岡日記』の著者・和田英の終焉の地が足尾銅山だと初めて知り驚いたが、日記を読むと、
   国のため、家のために多くの工女たちが上州の田舎町で繰糸技術の習得に励み、その子が殖産
   興業の代表格の鉱山で働いたのも当然という気がする。
    ( 2014年5月訪問、6月報告 )

2. 「富岡製糸場」

 (1) 官営製糸場建設の背景
      安政5年(1858年)、徳川幕府は「日米修好通商条約」をはじめ、欧州諸国との同条約を締結
     し、横浜などを開港し、翌年から外国との貿易を開始した。

     【閑話休題】「シルクハット」
      久しぶりに千葉県に住む孫娘のところを夫婦して訪れた。2日目、いつ降り出してもおかしく
     ない梅雨空の下、近場の佐倉城址公園の菖蒲(しょうぶ)を見にでかけた。
      色とりどりの花が咲く菖蒲田を見て周り、野点(のだて)のお茶をいただき、泥鰌やキリギリスな
     どを手にとって観察し、孫は大喜びだった。

        
              菖蒲鑑賞                 野点
                        佐倉城址公園

      ここには、「国立歴史民族博物館(略称歴博)」があり、妻と私は過去に何度か訪れていた。
     現在の「水晶」が「水精」の名で約1,300年前の天平5年(733年)8月19日付の「出雲国(現島
     根県)計会帳」に登場することから、従来から言われている現在の「水晶」は昔は「石英」と呼
     ばれていて、それを取り違えたのは江戸時代の貝原益軒だ、という平賀源内や益富先生の
     説が誤りであることを指摘する契機にもなり、HPにも掲載した。

     ・国立歴史民俗博物館の鉱物
     ( Minerals of National Museum of Japanese History , Sakura City , Chiba Pref. )

      歴史好きの息子一家は行ったことがないというので見学することにした。「近代」のコーナー
     には、輸出品としての絹や製糸場で働く”女工”の厳しい労働環境などを示す展示がある。富
     岡製糸場が稼動し始めたころ、欧米の紳士・淑女の身を飾ったシルクハットやドレスが日本か
     ら輸出した生糸で作られていたのだということを改めて認識した。シルクハット(Silk Hat)は、
     文字通り絹で織った布を貼り付けた帽子なのだ。

        
               輸出品の生糸                         シルクハット
                            国立歴史民俗博物館の展示

      当時、欧州の養蚕国フランスやイタリアでは蚕(かいこ)の病気・微粒子病が蔓延し、養蚕業
     が壊滅的な状況で、質のよい生糸と蚕種(さんしゅ:蚕の卵)を求めていた。
      横浜の生糸商人として活躍した中居屋重兵衛(群馬県吾妻郡出身)や下村善太郎(群馬県
     前橋市出身)は、前橋などの市場で生糸を集め、横浜の外国商館に売り込み、成功を収めて
     いた。欧州の市場では、最上質の日本生糸を「前橋」を意味する”Mybash”または”Maibashi”、
     と呼んでいた。この評判にあやかろうと、他県の糸も前橋の生糸の束ね方を真似たり、織物の
     原料として使いものにならないものまで”マイバシ”の名で輸出された。ひどいのは、菜種を蚕
     種と偽って産卵紙に貼り付けて輸出するものなどが現れるなどして、日本の蚕糸に対する信用
     が落ちていった。
      当時の欧州では産業革命が終わり、絹織物の機械織りが発達し生糸の需要が増大している
     ところに蚕の病気が大発生し、日本に大量の生糸を求めたが、手工業のため欧州の求める需
     要に供給が追いつかず、『粗製濫造』が生まれた。
      一方、日本国内で良質な生糸の生産を希望するフランス商社のガイゼンハイマーやイギリス
     公使パークスなど、外国勢による日本国内での器械製糸場建設の要望が明治政府に執拗に
     持ち込まれた。

      これに対して、伊藤博文は「・・・外商ガ斯ク製糸場建設ノ事ニ熱心ナルハ 其業ニ利益アル
     ハ疑イナシ 」、と考え、明治3年(1870年)2月、国策として製糸場建設を決めた。
      日本の生糸に対する信頼回復と貿易振興により外貨を獲得し国力を増強しようとの狙いが
     あった。

 (2) なぜ富岡か。
      官営製糸場を建設する場所としてなぜ群馬県富岡が選ばれたのか、いくつかの理由がある。

      1) 古くから養蚕が盛んで優良な繭(まゆ)が多量に入手できる。
      2) 燃料となる石炭が入手できる。
      3) きれいな水が豊富にある。
      4) 大工場を造るための広い土地がある。
      5) 地元民の協力が得られる。

      1)は、当然の条件だが、2)、3)は器械の動力として蒸気を使い、繭から生糸を引き出すとき
     に湯水を使うからだ。後年「女工哀史」の舞台になった長野県岡谷地方の製糸場が諏訪湖に
     臨んでいたのは同じ理由からだ。

 (3) 製糸場の建設とかかった費用
      製糸場の建設は、明治4年(1871年)5月に着手し、突貫工事のような勢いで翌明治5年7月
     には完成した。建築設計はフランス人技師・バステイアンによるもので、「木骨レンガ造」が特
     徴だ。
      工場は「フランス積み」の赤レンガ壁と規則的な窓配置から、機能美をそなえた近代工場の
     景観で、とても140年も前に作られたとは思えない。

        
             正門から見た東繭倉庫               中庭から見た西繭倉庫

      建物の内部は、「トラス構造」の採用で柱がなく、広い室内空間を備え、器械の配置(レイア
     ウト)に制限を与えない、現在考えても機能的な工場だ。当時の錦絵を見ても広々としていて
     窓ガラスがたくさんあって明るい作業環境が見て取れる。

     
                       錦絵「上州富岡製糸場之図」

     上州の片田舎・富岡に近代的な西洋建築を建てるにあたり、当時の日本では入手できない
    ガラス、サッシ、ペンキ、セメントなどを除き、建設資材は極力現地で調達することにした。
     石材は甘楽町小幡の連石山(れんせきやま)、建物の骨組みに使用する巨木は遠く榛名山や
    中之条町の奥の官有林から切り出し、陸路と河川を使って運んだ。
     レンガは、甘楽町福島に釜を築いて焼いた。レンガとレンガをつなぎ合わせる目地(めじ)材に
    は、本来はセメントと砂を混ぜたモルタルが使われるが、セメントが高価なため日本古来の漆喰
    (しっくい)で代用するなどの工夫もあった。

      
                大鋸で板を挽き東繭倉庫を建設
                 【「富岡製糸場事典」より引用】

      明治5年10月までにかかった費用は、敷地の購入・建設資材・建設労務費・フランス人全員
     の給料・賄い料(衣食などの生活費)など19万8,572円、フランスから購入する製糸器械類や
     蒸気エンジンなどにあてた外貨が8万6,016ドルだった。当時1ドル=1円だったから、総額28万
     4,588円となる。これから、フランス人の給料・賄い料3万9,648円を除くと、24万4,940円となる。

      現在の金額ではどのくらいになるか試算してみた。建設に従事した大工や石工の日給が平
     均40銭(0.4円)前後だったから、現在の大工さんの日給を20,000円とすると、
     20,000円/0.4円×24万5千円≒123億円になる。
      今作ったとしたら123億円はかからないと思うが、フランスから輸入した器械の支払いが1/3
     占めていたのも高額になった理由のひとつだろう。

      こうして完成した富岡製糸場では、主要な建物が当時の姿をとどめているのが世界遺産に
     内定した理由のひとつだ。

      

                      富岡製糸場航空写真
                    【「富岡製糸場事典」に加筆】

      繭から生糸をつくった「繰糸所(そうしじょ)」、繭を保管・選別した東西の「繭倉庫」そしてフラ
     ンス人指導者・ブリュナが家族と住んだ「首長館(ブリュナ館)」などは創建当時の姿を今にとど
     めているが、英などが寄宿した「工女宿舎」は今はない。

 (4) 製糸場(所)の経営
  1) 官営製糸場(所)前期【明治5年〜明治12年】
      官営の製糸場としてスタートした富岡製糸場だが、その経営は順調ではなかった。創業初期
     にはフランス人首長・医師・技術者そして教婦(女性教師)への破格の給料・賄い料などから
     収支は赤字だった。

 職 種  名  前 月給
(ドル)
賄い料
 (円)
 合  計
  (円)
(1ドル=1円)
明治6年1月
  在 籍
首長 ブリュナ 600 150 750    ○
医師 マイエー 225  - 225    ○
製図職 バスティアン 125 66 191     
銅工職 レスコー 100 166     
機械工 シャトロン 100 166    ○
検査人 ベルラン 150 216    ○
プラー 100 166    ○
教婦 ピエーホール 80 56 136    ○
モニエル 65 121    ○
シャレー 50 106    ○
ワラン 56 106    ○

      ブリュナの月給は当時の右大臣(現在の総理大臣)と同等だったし、教婦の平均受取額は
     所長・尾高の月給75円の1.5倍だった。、富岡製糸場が開場した明治5年10月から3ケ月経っ
     た明治6年1月に在籍した9人のフランス人に1ケ月(1年ではない!!)に支払ったのは2,000
     円弱(現在の1億円)だった。

      明治8年(1875年)末にブリュナとの契約が切れ、これでフランス人は一人もいなくなり、日本
     人だけによる経営が始まった。
      明治9年、尾高は生糸の原料となる乾繭(かんけん:乾燥し蛹(さなぎ)を殺した繭)の相場高
     騰を見通して思惑買いをし、高値で乾繭(生糸ではない!!)を売りぬいたため、それまでの
     累積赤字を解消するほどの利益を上げた。しかし、尾高が当時政府が認めていない「秋蚕」を
     奨励したことや、乾繭の思惑買いで政府から注意を受け、所長の職を引責辞任した。
      後任の山田が「製糸所」所長代理となり、ひたすら利益をあげるため従業員に過度の倹約を
     強要し、経営上の黒字は確保したが、工女たちの士気は失わせた。
      明治12年、勧業局は製糸所改革の権限を速水堅曹に委ね、山田は放免され、速水が所長
     として、工女の教育に力をそそぎ、これが富岡の伝統のひとつになった。

  2) 官営製糸場(所)後期【明治13年〜明治26年】
      速水は富岡製糸所の経営改革に取り組みながら、宿願だった生糸を直輸出するための、
     「横浜同伸会社」を設立し、社長に就任し富岡を去る。このころから、製糸所の経営は厳しさを
     加えていた。

 年 度 経営収支
 (円)
  経営と経済状況
明治14年  1,220 ・契約満期工女の帰郷
・原料繭高騰
・生糸価格下落
明治15年 -47,746 ・糸価下落
・銀の価値変動
明治16年 -41,756 ・糸価下落
・生糸生産量減
・品質格差拡大
明治17年 -15,414 ・糸価下落
・地方経済の不況

      明治政府は富岡製糸所の窮地を救うには、速水がもっとも適任と考え、明治18年2月、再び
     富岡製糸所所長に任命した。速水は次のような再建策を打ち出した。

      ・ 外国為替専門の横浜正金銀行から借り入れによる資金増による信用の強化
      ・ 労働時間延長によるコスト低減
      ・ 生糸の品質向上
      ・ 海外の販路拡大

      この結果、速水が再び所長に就任して以降は黒字が続いた。ただ、速水は官営工場の限界
     を身をもって知っていたと思われ、民間会社への払い下げを主張する。国鉄や専売公社などが
     民営化される100年も前だ。
      ( 官営工場の民間払い下げは明治13年に通達されたが、富岡製糸所は工場規模が大きす
       ぎ、応募する民間企業がなく、明治17年に通達は撤回された )
      明治24年(1891年)に払い下げの入札を行ったが予定価格に達せず中止になった。明治25
     年(1892年)5月、再び富岡製糸所の公売入札が行われ、三井家(現三井物産)が12万1,460
     円(現在の5億円くらいか)で払い下げを受け、官営製糸場(所)の時代が終わった。

  3) 三井家による経営【明治26年〜明治35年】
      三井家は明治26年(1893年)10月、富岡製糸所の引渡しを受け、栃木県大オ(おおしま)
     製糸場の津田を所長とし、繰糸機も増設した。
      翌年からの日清戦争で、日本の経済は拡張期に入り、製糸業界も急速に発展した。三井家
     は名古屋と四日市に新製糸所を建設した。富岡製糸所も繰糸機や煮繭(しゃとう)釜の増設が
     相次いだ。
      三井家に引き継いだ最初の数年は3〜5万円の利益を出し、明治32年、33年には10万円の
     資本の倍にあたる20万円の巨利をだしたこともあったが、その後は新しく作った大オ、名古屋、
     四日市製糸所の採算が思わしくなく、毎年6〜8万円の赤字をだすようになった。三井家として
     製糸業を継続するかどうかの岐路に立たされ、明治35年(1902年)9月、4つの製糸所すべてを
     横浜・原合名会社に譲渡した。

  4) 原合名会社による経営【明治35年〜昭和14年】
      明治35年(1902年)9月、三井家から製糸所の譲渡を受けた原合名会社は、当面津田を所
     長として運営した。
      明治38年、古郷を所長にし、良質な繭の安定確保を図ることを目的に、蚕種家・養蚕家・製
     糸家が連携できるよう「蚕種改良部」(研究部門)を所内に新設した。さらに、繰糸方法、繭乾
     燥室の改良、製糸用水濾過器等の新設を行い、フランスやイタリアの優良生糸に匹敵する高
     級生糸を輸出し好評を博した。
      大正12年(1923年)、関東大震災で保管していた生糸が焼け大きな損害を出し、翌大正14
     年には生糸価格が下落し、3月25日〜4月3日の間、生産を調整するため全国の製糸工場が
     一斉に操業を休止した。
      昭和4年(1929年)におきた世界恐慌で、原合名会社は不況から抜け出ることができず、比
     較的経営の安定した富岡製糸所を(株)富岡製糸所として残し、名古屋、渡瀬などの製糸所を
     廃した。
      昭和13年7月に、資本金100万円で富岡製糸所を独立させ、翌14年9月に、筆頭株主の片倉
     製糸紡績会社に経営を譲渡した。

  5) 片倉工業(株)による経営【昭和14年〜昭和62年】
      片倉製糸紡績会社に吸収された昭和14年(1939年)、片倉富岡製糸所は史上最高の生糸
     生産量 年間596梱(こり:90トン)を記録する。昭和16年12月、日本はアメリカほかとの太平
     洋戦争に突入するが、翌年御法川(みのりかわ)式繰糸機960台を導入し、名実ともに国内有
     数の近代製糸工場になった。

      
                 創業時の富岡工場
            【「富岡製糸場事典」より引用】

      昭和18年(1943年)、戦時統制会社の「日本蚕糸製造株式会社」(社長・片倉兼太郎)が発
     足する一方で、多くの製糸工場が軍需工場に転換された。同年11月、会社名が片倉工業株
     式会社に改称され、富岡工場となった。富岡工場は、落下傘用の生糸を製造するという理由で
     軍需工場の指定を受ける。
      昭和20年8月、敗戦を迎えた。富岡工場は戦災こそ免れたが、当時は食料・物資不足が深
     刻で、原料繭はもちろん、燃料・製糸機械保全のための油脂(潤滑油・グリス)類まで不足して
     いた。昭和21年、戦後復興の一環で「蚕糸復興5ケ年計画」を策定し、資金融資、奨励補助制
     度はじめ、再び蚕糸業の生産を拡大する路線が敷かれた。
      翌年から最新鋭の多条繰糸機を導入するなどし、生糸の価格統制も追い風となり、生産を
     拡大した。昭和27年、自動繰糸機K8A型が導入され、昭和41年には改良された自動繰糸機
     RM型とHR型が導入された。

      しかし、昭和50年ごろから、和装の衰退、化学合成繊維の普及、安価な中国製生糸の大量
     輸入などにより、日本の製糸業は構造不況に陥った。昭和62年(1987年)3月5日、115年間
     続いた製糸工場は操業を停止した。

 (5) 世界遺産登録に向けて
      片倉工業株式会社は富岡工場(旧富岡製糸場)を閉業した後も一般向けには公開をせず、
     「貸さない、売らない、壊さない」 の方針を堅持し、維持と管理に専念した。このため、年間
     2,000万円の固定資産税や維持・管理費用も含め、毎年1億円前後の費用を掛け続けた。
     修復工事をするにしても、コストを抑えることよりも、当時の工法で復原することにこだわった、
     という。
      こうした片倉の取り組みがあればこそ、富岡製糸場が創建時の状態を保たれてきたわけで、
     片倉の貢献はもっと広く知られ、賞賛されるべきだろう。

      平成17年(2005年)、片倉工業は建物などを富岡市に寄贈し、富岡市が管理するようになる。
     平成18年(2006年)には、土地建物を富岡市が取得した。それらと歩を一にして、平成17年
     (2005年)7月、「旧富岡製糸場」として国の史跡に指定され、平成18年(2006年)7月には明治
     8年(1875年)以前の建造物が国の重要文化財に指定された。
      文化庁が2006年と2007年に、全国の地方自治体から世界文化遺産の追加提案候補を公募
     した際、群馬県と富岡市、および他の7市町村が共同で「富岡製糸場と絹産業遺産群 - 日本
     産業革命の原点」を提案した。これは2007年1月30日に「富岡製糸場と絹産業遺産群」として、
     日本の世界遺産暫定リストに記載された。
      このときは、「碓氷峠の鉄道施設」なども含めた10施設がリストにあった。その後、富岡製糸
     場以外の構成資産の候補は何度も見直され、2012年8月、ユネスコ の世界遺産センターに
     正式推薦されることが決定し、2013年1月31日に正式な推薦書が世界遺産センターに受理さ
     れた。

      ユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議 (ICOMOS:イコモス)からスムースに登録
     勧告を取り付けられたのは構成施設を「養蚕」と「製糸」関連の4施設に絞り込んだことが奏功
     した、と2014年6月11日付の読売新聞は伝えている。

      
              世界遺産 富岡製糸場 当初の構成
             【2014年6月11日付の読売新聞より引用】




                  −つづく−

 『富岡日記』の著者・和田英と足尾銅山 −その2−
( Ei Wada , Author of " Tomioka Diary " and Ashio Mine - Part 2 -, Gunma Pref. )

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