『富岡日記』の著者・和田英と足尾銅山 - その2 -









     『富岡日記』の著者・和田英と足尾銅山 - その2 -

3. 「富岡日記」

 3.1 明治6・7年 松代出身工女 富岡入場の略記
      群馬県富岡市に、日本最初の「官営富岡製糸場」が明治5年(1872年)10月4日に開業した。
     近代国家を目指す明治新政府が、殖産興業の一つとして、繭から絹糸(生糸)をつくる新しい
     繰糸(くりいと)技術を全国に普及させるための模範(モデル)工場としてフランスから輸入した
     機械とフランス人の指導のもとに建設・稼動したものだ。
      ここで働き技術を習得する”工女”(女工ではない)を募集したが、赤ワインを飲む外国人技
     術者の姿を見て”生き血を吸う”と噂され、思うように集まらなかった。悪い噂を打ち消すため、
     製糸場の初代所長・尾高惇忠(おたか じんちゅう)は、14歳の実の娘を工女第一号として入
     場させたほどだった。

      信州(現長野県)松代から、碓氷峠を越えて16名の工女が明治6年(1873年)3月2日、「富岡
     製糸場」に入場した。16名のうち、2人が当時の工女たちの生活や製糸場の様子を書き残して
     いる。
      和田英(安政4年(1857年)〜昭和4年(1929年))は30数年後に当時を回想し「富岡日記」
     (原題:明治6・7年 松代出身工女 富岡入場の略記)として、もう一人は春日蝶(安政5年
     (1858年)〜没年不詳)で両親に宛てた20数通の手紙がある。手紙は、同時代(リアルタイム)
     に書かれた分、英の記述より信頼度が高いとされる。
      ここでは、英の眼を通して、松代出立前後〜松代への帰郷までを追ってみる。

  (1) 私の身元
       英の父・数馬は斉藤家から横田家に婿養子として入った人だった。これから先、名前が出
      てくる人と英の関係がわかりやすいように家系図を作成した。また、明治31年ごろの横田家の
      人々の集合写真も引用して示す。

       
                       横田家のひとびと
                  【「絹ひとすじの青春」より引用】

           
                         英の家系図

       『 私の父は、信州松代の一人で有まして、横田数馬と申ました。明治6年頃は、松代の区
        長(現在の町村長)をしておりました。・・・一区に付何人(たしか16人)13歳より25歳迄の
        女子を富岡製糸場へ出すべしと申、県庁から達しがありましたが、人身御供にでも上る
        様に思まして一人も応じる人はありません。・・・・それで父も決心致まして、私を出す事に
        致ました。
         ・・・・・あちら(富岡)へ行けば、学校も有って学文(学問)も出来る、機場が有って織物
        も習はれると、それはそれはよい事尽し、・・・・      』

       英が行くならと、河原鶴(13歳)や許婚・和田盛治の姉・はつ(25歳)などが次々と応募し、
      16人の募集人員は満員になった。

 (2) 此時の人名
      英は16名の名前と戸主の名前と続柄、そして年齢を書き残している。松代工女の中で最年
     少は河原鶴(13歳)、最年長は和田はつ(25歳)、平均18.3歳で、英は17歳だった。(数え年)

       
              幼い顔も見える松代工女たち(中央が英)
                 【「絹ひとすじの青春」より引用】

      面白いのは、工女全員の名前には、横田英子、というように本名にない『子』がついている
     ことだ。NHK朝の連続ドラマ「花子とアン」の主人公・はながこどものころから、『花子と呼んで
     くりょ』、と言っていたように、明治末期ごろから女性の名は『○子』、というのが流行っていた
     のだろうか。

 (3) 父よりの申渡し 母への誓
      『  ・・・・近日出立と申事に成ました時、父が私を呼まして、「・・、此度国の為に其方を富岡
        製糸場へ遣すに付ては、能く身を慎み、国の名、家の名を落さぬ様に心を用る様、・・・・
        他日此地に製糸場出来の節、さし支ひ無之様覚ひ候様、・・・」と申渡しました。

         母はこのように申されました。「・・・・・男子方も沢山居られるだろうから、万一身を持く
        ずす様な事が有ては、第一御先祖様へたいし申訳けがない。又、父上や私の名を汚して
        は成ませぬ」と申ましたから、私は此様に申ました。
         「・・・・・たとい男千人の中へ私一人入居ましても、手込に逢ばいざしらず、心さへ慥(た
        しか)に持居舛(ます)れば身を汚しご両親のお顔にさわる様な事は決して致ませぬ。」 』

      父の言葉から、英たち松代工女は、この地に製糸場ができたとき教師役になるため西洋式
     の繰糸技術を習得する『伝習工女』として富岡に行ったことがはっきりする。
      富岡市の「龍光寺」には、異郷で亡くなった工女の墓がある。この寺の過去帳の明治12年
     (1879年)分に、次のようにある。

       幻露童子   二月十四日  製糸場工女当宿厠内ニ有之 該場ヨリ届来ル 八、九ケ月

      母親の心配もあながち理由(わけ)のないことではなかった。

 (4) 出立
      明治6年2月26日、工女一行16名は、父兄に付き添われて松代を出発した。付き添いの一人
     に、後に英の夫になる和田盛治もいた。
      一行は、上田(2/26泊) → 追分(27日泊) → 坂本(28日泊) と順調に進み、
     3月1日に無事富岡に着いた。

       
                       松代−富岡 行路
                  【「絹ひとすじの青春」より引用】

      途中、碓氷峠では一生の思い出にとわらじを履き、名物の「力餅」に舌鼓をうち、宿場女郎
     が別嬪(べっぴん)だったことなど、年頃の娘たちの賑やかな道中のありさまを書き残している。

      『  翌2日、・・・・富岡御製糸場の御門前に参りました時は、実に夢かと思い舛程驚ました。
        生まれまして煉瓦造りの建物など、まれに、にしき絵(錦絵)位で見る斗(ばか)り、それを
        目前に見舛ることで有舛から、無理もなき事かと存舛。                    』

      石高10万石の松代城下で育った英の眼には、城下とは名ばかり、石高1万石の城下に隣接
     する富岡が村落のように写ったのは無理からぬことだった。しかし、そこに似つかわしくない
     レンガ造りの製糸場の威容は驚きだった。

 (5) 場内の有様
      その驚きは、場内を見学したことで一段と強まり、恐ろしさを感じるほどだった。

      『  私共一同は、此繰場の有様を一目見ました時の驚きはとても筆にも言葉にも尽されま
        せん。
         第一に目に付ましたは、糸とり臺(台)で有ました。臺からひしゃく、さじ、朝がほ二個、
        皆真ちゅう、それが一点の曇りもなく、金色目を射る斗り。
         第ニが車、ねづみ色にぬり上たる鉄、木と申物は糸わく、大わく、其大わくと大わくの間
        の板。
         第三が西洋人男女の廻り居る事。
         第四が日本人男女見廻り居る事。
         第五が工女が行儀正敷、一人も脇目もせず業に付居る事で有ました。
         一同は夢の如くに思ひまして、何となく恐ろしい様にも感じました。            』

      木・竹・紙・土などでできた当時の日本の家屋、器械を見慣れた工女たちにとって、西洋式の
     製糸場は驚きの連続だった。
       1) 真鍮でできた繰糸台。しかも金色もまぶしく磨き上げられている。
       2) 動力を伝達する鉄輪はねずみ色にペンキが塗られ、木でできているのは糸を巻き取る
         大枠だけだった。

         
                   フランス式繰糸器と作業復元模型
                     【「富岡製糸場事典」より引用】

      当時の日本の「座繰(ざぐり)」と呼ばれる繰糸器と作業風景の絵葉書を骨董市で見つけた
     ので比較のため掲載する。フランス式と比べてみると、英たちが驚くのも当然だ。

         
                   当時の日本の「座繰」式繰糸器と作業風景
                         【マイ・コレクション】

       3) 繰糸場には、フランスからブリュナーが連れてきたピエーホール、モニエル、シャレー、
         ワランの女性4人が教師役(女工師)として、ぺランとプラーの男性2人が検査人として
         いた。(人名は、ワランをべランやヴェランなど、本によって幾通りにも伝えられている)
          女工師は、少数の熟達した工女の養成を主たる任務としていたが、場内全体を巡回し、
         工女たちを直接指導していた。男性技術者は、明確な役割を果たさず、明治6年11月、
         契約期間が終わる前に解雇された。

         
                      フランス人女工師と技術者
                        前列4人が女工師、
              後列右から2人目ブリュナー、1人置いて設計者バスティアン
                     【「富岡製糸場事典」より引用】

       4) 英が入場する直前の明治6年1月には、フランス人女工師に次ぐ熟練度をもった日本
         人工女が22人いたとされる。英たちはフランス人からではなく、『西洋人より直伝の人』
         から作業を習った、と書き残している。

      ここに、面白い逸話が残されている。明治8年、英たちより遅れて豊岡県出石町(現兵庫県
     出石郡)から20数名の「出石工女」が入場した。その一人、青山しま女の次のような回想が
     「三丹蚕業郷土史」(1933年刊)に載っている。

       『 ・・・・製糸場に行きました。一人一人よび出されて色々なことを尋ねられ、筒袖に袴の
        服を渡してもらいました。製糸の先生は西洋人で遠藤おこうさんといふ人でした。ことばが
        ちっともわかりません。
一々(いちいち)通辞(通訳)がついてゐて日本のことばに直して
        ゐました。最初私は何だかわからんことを「ペラペラ」といはれました。・・・・・・・・・・・・・・』

      日本名をもったフランス人女工師はいなかったので、遠藤おこうとは、明治5年12月に宮城
     県から入場し、結婚のため明治8年10月に退場した士族の娘・遠藤こうのことらしい。出石工
     女が入場したころ3年目を迎え、すでにフランス人女工師たちは全員帰国し、遠藤こうらが、
     指導的な役割を果たしていたのだろう。宮城県工女のことばが兵庫県の工女には外国語の
     ように聞こえて通じず、通訳がいた、という。笑い話のようだが、現在でも奈良県の石友・Yさん
     が「東北地方に行った時、地元の高齢者の話すことばは1/3くらいしか理解できなかった」、と
     いうくらいだから、東北と関西、女性が行き来することが稀な時代が終わって間もないころ、
     言葉が通じなかっただろう。

      この話から、井上ひさしの脚本でNHKで放送された「国語元年」を思い出した。時は明治7年、
     英たちが富岡にいたころだ。主人公の南郷清之輔は元は冴えない足軽だったが長州萩の出
     身というだけで、ヒキもあって、文部省四等出仕(機関の長官が天皇に奏上して推薦する奏任
     官。月給250円(現在の250万円くらい))という高位についている。この頃は能力より藩閥が
     すべてだった。
      ある日、清之輔は文部大臣から「全国統一話し言葉」、今で言う「標準語」の制定を命ぜられ
     る。当時の書き言葉は「候文」(そうろうぶん)という統一した形式があったので文字さえ読み
     書きできれば、全国の誰とでも意思疎通が可能だった。
      しかし話し言葉はそうはいかない。「一つのもの」に多数の「言い方」(方言)があるからだ。
      清之輔の家族、同居人、使用人、はたまた忍び込んだ強盗までの出身地が東北・米沢、会津
     から九州・薩摩までバラバラで、家の中ですら話が通じないのだ。(以下略)

      帝国陸軍では「自分は○○の出身であります」、という言い方をしたが、これは長州弁らしい。
     西郷隆盛が下野したのを追って薩摩出身者が鹿児島に去り、帝国陸軍幹部は長州人ばかり
     になり、長州弁が陸軍での標準語になった。長州閥の優位は半世紀以上経った昭和になって
     も続き、昭和11年の二・二六事件は長州閥の専横に反感を持つ青年将校の反乱という側面も
     あるようだ。

       5) 当時の日本では、大勢の人が共同で作業する場合、特に農作業などの場合、隣の人
         と話したり、「田植え歌」などを歌いながら仕事をするのが当たり前で、これによって単調
         さを忘れ、疲労感を低減したのだった。
          富岡では、隣の人と話をすると、『 ”ベラン”と申仏国人が折々見廻りに参りまして、
         もし話しでも致す所を見付舛と、「日本娘、沢山なまけ者有舛」と非常にしかり舛から、
         無拠(よんどころなく)無言で・・・・・ 』
、という状況だった。男女フランス人のほか、
         日本人男工(男子伝習生)と婦人(教婦)がエリアを決めて巡回し、工女たちを厳しく指
         導し、これが工女たちにとってストレスになり、恐怖感を抱いたのだろう。
          ちなみに、男工の出身地は、12人中7人が長州(山口県)だったことは記憶されたい。

 (6) 諸国よりの入場者と同県人の大多数
      『  ・・・・諸国より入場致されました工女と申舛るは、・・・・・・ほとんど日本国中の人にて、
       北海道の人迄参って居舛。其内多きは上州、武州、静岡等の人は早くより入場致て居られ
       舛たから、中々勢力が大した物であり舛。
        此静岡県の人は、旧旗本の娘さん方で有まして、上品でそして東京風と申し実に好たら
       しい人斗り揃って居り舛した。・・・・(それに比べ)山中又在方(田舎)の人は、只今の様に
       開けませんから、とかく言葉遣ひ其他が城下育ちの人様には参りません。
        ・・・・一寸行儀悪う御座いましても、あれは信州の人だ、又信州の人があんな事をした、
       こんな事をしたと、中々やかましく申舛から、それを私共が見聞致舛と、何共申されぬ程恥
       かしく、又つらい様に思まして、私共一同は決して信州と申さぬ事に致まして、長野県松代
       と申て居りました。・・・・                                         』

       明治6年から17年まで富岡製糸場に入場(在籍?)した工女の数を都道府県別にまとめて
      みた。「富岡史」にない入場の記録がほかの資料にあったり、そもそも明治7、8、13年分の
      データがないので、細かい数字の詮索は意味がない。

 出  典 年(西暦) 1873年 1873年 1876年 1878年 1879年 1881年 1882年 1883年 1884年 延べ人員
  (人)
 備  考
  (和暦) (明6) (明6) (明9) (明11) (明12) (明14) (明15) (明16) (明17)
   月   1月   4月   1月            
「富岡史」 北海道    −    − 6    −    −    −    −    −    − 6  
青森    −    − 7 3 2 2 1 1 1 17  
岩手(水沢) 8 8    − 5 4    −    −    −    − 25  
山形    −    − 12    −    −    −    −    −    − 49  
   (置賜) 14 14  
   (酒田) 3 6  
宮城 15 15 5    −    −    −    −    −    − 35  
福島    −    −    −    − 1    −    −    −    − 1  
茨城 5    −    − 5 5 1    −    −    − 16  
千葉    −    −    −    − 4 4 1    −    − 9  
栃木 5 6 1    −    −    −    −    −    − 12  
群馬 228 170 99 59 54 33 25 17 23 708  
埼玉    −    − 2 14 16 14 14 8 5 253  
   (入間) 98 82  
神奈川(足柄)    −    − 103 17 9 3 1    − 2 135  
東京 1 2 49 50 53 36 28 21 12 252  
新潟    −    −    − 4 6 12 8 3 1 34  
長野 11 180 11 13 74 32 12 6 7 346  
岐阜    −    −    − 9 15 43 57 47 43 214  
石川 1 1    −    −    −    −    −    −    − 2  
愛知    −    −    − 1 2 18 14 66 80 181  
静岡 6 13 35 25 6 17 12 1 3 151  
   (浜松) 12 13 8  
滋賀    −    − 153 167 132 106 82 53 44 737  
奈良 2 6    −    −    −    −    −    −    − 8  
大阪    −    −    −    − 1 1    −    −    − 2  
京都(豊岡)    −    − 21    −    −    −    −    −    − 21  
兵庫(葛磨)    − 4    − 4  
島根    −    − 1    −    −    −    −    −    − 1  
鳥取    −    −    −    −    −    −    − 20 18 38  
山口    − 36    −    −    −    −    −    −    − 36  
徳島(名東)    −    − 1    −    −    −    −    −    − 1  
大分    −    −    −    −    − 25 25 76 44 170  
長崎    −    −    −    −    − 4 4 2 2 12  
 小  計 409 556 514 372 384 351 284 321 285 3476 年平均386人
通勤工女    −    −    −    −    − (91) (77)    − 129 297  
日雇工女    −    −    −    −    −    − 42 42  
 合  計 409 556 514 372 384 (442) (361) 321 456 3815  
「日本蚕糸業史」 和歌山県 6    −    −    −    −    −    −    −    − 6  
三重県(伊勢)    −    − 不明    −    −    −    −    −    − 0  
不明 愛媛県    −    −    −    −    − (27) (27) (27)    − 81 3年契約
    (宇和島)    −    −    −    −    −    −    −    −    − 85年に17人
     総    計 415 556 514 372 384 (469) (388) 348 456 3902 年平均434人

      1) 北は北海道から、九州まで、1道3府28県から入場し、官営前期の明治6年から明治17
        年までの12年間、年平均400人前後が入場(在籍)した。(当時、東京は府)
      2) 一番多かったのは、英らが入場した明治6年で、556名が在籍した。その後寄宿生は漸
        減し、明治17年には300名を割り、その代わり地元からの「通勤工女」が増えてくる。
      3) 富岡製糸場が創業して間もない明治6年1月には、群馬県と埼玉県の入場者だけで全
        体の79%を占めている。群馬県は地元、埼玉県は初代所長・尾高の出身地という理由だ。
      4) 明治6年4月の入場者は、英ら長野県からが一番多かった。
      5) 出身地別の延べ人数をまとめて見ると次の通りだ。

          
                               都道府県別延べ入場者

        ・ 延べ入場者が多いのは、滋賀県と地元・群馬県でそれぞれ約20%、次いで長野県が
         10%。この3県で全体の半分を占めていた。
        ・ これだけ多くの工女を送りながら、滋賀県には工女に関する資料は現存せず、異郷に
         骨を埋めた21人の乙女の過去帳と墓碑が龍光寺に残されているだけらしい。
        ・ 私が住む山梨県は、養蚕が盛ん(他に産業が少ない)だったが、一人も送り込んでい
         ないのは不思議ですらある。
          甲府市が市制100周年を記念して平成元年に発行した「まんが甲府の歴史」には、明
         治7年に10月に完成した「山梨県営勧業製糸場」が載っている。これによると、県令・藤
         村紫朗の命で、富岡製糸場で糸とりの技術を学んできた工女がいたことになっている。
          三重県や愛媛県の例のように、「富岡史」に載っていない山梨工女が勧業製糸場の
         完成に間に合うよう、英らと同じ時期の明治6、7年ごろ学んでいたのだろうか。

           
                山梨県勧業製糸場
           【「まんが甲府の歴史」より引用】

 (7) 山口工女の入場と我々の失望
      英たち松代工女が入場して最初に配属されたのは不良の繭を選別する「まゆより場」で、伝
     習生・高木(静岡県出身:旧幕臣?)に引き渡された。

      『 只(で)さえ、日本造りの風通しの宜しい家に住居なれた私共が、煉瓦造りのまど位の風
       で、物たらぬ様に感じますに、山の如くつみ上た繭の匂ひにむし立られ、日は追々長くのど
       かに成舛から、眠気を催しまして、其日の長く感じ舛ことはお話の外で有舛。・・・・・・
        来る日も来る日も辛抱はして居舛が、一日も早く繰場に出られる様と思まして、或時高木
       さんに「何時頃繰場に出られましやう」と尋ね舛と、「此(3月)20日頃、山口県から40名程
       入場するから、其時出して上る」と申しました。・・・・・・・・

        ・・・3月20日頃(正しくは、4月18日)、山口県から30人程入場致されました。・・・・翌朝、
       (松代工女は)銘々繰場に参る下用意を致まして、・・・繭より場に出ましたが、今にも繰場
       につれて行れるかとそれのみを待て居りましたが、12時前迄何のさたも有ません。それか
       ら、はばかりに参る風にて、がらすから繰場の中を見舛と驚き舛まいか、待に待たる其人々
       (山口県工女)は、入場直に糸をとる事に成まして、皆々口付(繭から糸を引き出す最初作
       業)の教えを受けて居り舛。
        私共は驚きが通り過て気ぬけのした様に成まして、直(すぐ)にも泣出したい位でありまし
       たが、繭より場にも7、80人も工女が居り舛。其中でさすがに泣訳にも参りません。其内に
       笛がなりまして昼食に帰りましたが、中々食事所では有ません。
        皆申合した様に私の部屋に大勢同行の人々が参りまして、皆泣て居りました。こんな”い
       こひいき(依怙贔屓)”をされては、此末とてもどの様な事をされるか分らぬと申者やら・・・』

      山口県から工女が入場したら繭より場から繰場に上れるとの約束を信じて、繭の匂いや単
     調な作業を辛抱していた松代工女は、遅く入場した山口工女たちが選り繭作業を経験せずに、
     いきなり繰場に配属になったのは、「依怙贔屓(差別)」だと感じ、一同その悔しさに泣いた。
      英らがこの取り扱いの不当さを訴えると、高木は「外国人の間違い」、と責任を外国人に転嫁
     してしまう。
      山口工女は、井上馨の肝煎りもあり、船で横浜に着き、東京を見物した後、人力車を連ねて
     入場した。富岡製糸場では男子伝習生12名中7名を占める長州勢が優勢で、山口工女はしば
     しば有利な扱いを受け、後楯のない地域出身の工女たちに泣く思いをさせた。
      数日して英たちも繰場に入ることを許されるが、山口工女に対する敵愾心はくすぶり続けて
     いた。

 (8) 糸取り釜と糸場
      こうして英らは繰場に入ったといっても、繭から糸をとる花形の「糸取り」作業でははなく、現
     在、「揚返(あげかえし)」、と呼ぶ、繰糸で「小枠」に巻き取った絹糸を周長1.5mの「大枠」に
     巻き替えて「綛(かせ)」と呼ぶ出荷の最小単位にまとめる作業だった。
      作業内容の理解の助けになると思い、この作業を描く絵葉書を骨董市で入手したので掲載
     する。もちろん、富岡製糸場では人力でなく蒸気の力で大枠を回し、器械は木でなく鉄で造ら
     れていた。

      
         「揚返」(Re-reeling)を描く絵葉書
              【マイ・コレクション】

      『 其の頃釜の数が300有ましたが、ようよう200釜丈ふさっがって居りました。1切50釜、片
       側25釜で有舛。その後に揚わくが13かかって居舛。西から100釜分を一等臺と申しました。
       其次50釜を二等臺と、其次50釜を三等臺と申して居りましたが、私はその一等臺の南がわ
       の糸揚場の大わく3個持つことに成まして、小枠は六角で有まして、中々丈夫に出来て居
       舛。大枠も六角で有舛。・・・・・・・・                                  』

      大枠を3個受け持っていると、小枠が12個、つまり12本の絹糸を大枠に巻き替えるのだから、
     糸が切れてたびたびそれをつながねばならないが、つなぎきれなかった。泣かされた英は、
     人よりも1時間も早く起きて、神信心し、糸を揚げながらも「糸が切れませんように」、と祈って
     いた。
      一心に糸を揚げている英の姿を見た担当の書生から「能く精を出し舛。今に糸とりにして上げ
     る」、といわれ、ようやく糸取りの仲間入りができた。

 (8) 糸とり方指南
      『 其日私に糸のとり方を教しへて呉れた人は、西洋人より直伝の人で、入沢筆と申人で有
       ましたが、実にやさしく教して呉ました。退場の時などは私の手を引、妹の如くにして呉れま
       した。・・・・・・
        ・・・・・・・・・其翌日其人は何か止むを得ぬ事で休業いたしましたから、代りに教しへて下
       さいました方は、安中藩の松原お芳さんと申方で、私と同年位で美しいやさしい方で、やは
       り入沢と申人の如く私を愛して下さいました。其日と其翌日お芳さんに習いまして、弟子ばな
       れを致まして、新釜と申まして段々三等の下の方の釜が明まして其所へうつされました。
        其頃教して呉れた人の所へ礼に参る事で有ました。私は入沢さんと松原さんの両方へ参
       りました。其以前から入沢と申人は○○○の□□□だと人々が私に注意してくれました。
       (工女たちが)たがひにより(寄り)舛と、「あなたはどなたのお弟子」と尋ね舛のが通例で
       有舛が、私は何時も、「松原さんのお弟子」と申ました。入沢さんとは申しませんでした。す
       べて師弟の間はたがいに親しみまして、弟子が昇給致舛と非常に喜んで下さい舛程で有
       舛から、可成(なるべく)出入にも見付て手を引合舛。一日の師弟では有舛が、入沢さんも
       やはり私に出合舛と手をお引に成舛。私は初め師で有舛から殊に敬って居りましたが、心
       中人が何とか申はせぬかと心苦敷存ました。今考へ舛と、実にすまぬ事を思ったものだと
       悔て居り舛。しかし明治6年頃は開けませんから、中々やかましく申まして実にかわいそう
       で有ました。                                               』

      明治初期、偏見や差別があり、指摘を受けた後も英は入沢筆と手を引き合って繰糸場と寄
     宿舎の間を行き来していたのは、入沢筆の技量・人柄を尊敬していたからだろう。しかし、松代
     という狭い城下町の士族の娘として躾られた英には、「入沢さんのお弟子」、とは言えなかった
     ようだ。
      出身などを問わず工女を採用し、実力のあるものを一等工女に抜擢した製糸場の開明的な
     政策は評価されるべきだろう。

 (9) 皇太后陛下・皇后陛下御巡幸
      『 慥(明治6年)6月頃かと存舛。
        皇太后 皇后両陛下御巡幸に成舛事に相成まして、其前工女一同紺がすりの仕着と小
       倉赤縞の袴が渡りました。一同は是を着て当日業を致事に極りました。・・・・・・・
       ・・・・下御見聞の為、女官の方が5、6人ご来場に成ました。其女官方が越後ちゞみのかす
       りのおかたびら(帷子)を召して、御帯はお下げ帯でありました。・・・・・・・・・まげ(髷)は実
       に小さく、笄(こうがい)は一尺余も御座い舛。おしろいは真白につけてお出で有ましたから、
       場内の者不残内々笑ました。・・・・・・・・・・                            』

      その夜、部屋長が部屋毎に回り、「女官を見て笑ったことでお役所からお小言を頂戴した」こ
     とや「明日の本番で、もし笑った人には罰を与える」と注意され、英らの緊張が高まる。

 (10) 御巡幸当日場内の有様
      『  弥々(いよいよ)当日と成ました。・・・・・・正門よりブリューナ氏、尾高氏御先導申上まし
       て、三等臺のはずれ、繭よりを致て居所迄、しずしずとご巡幸に成まして、繭を御覧に成ま
       した。此時迄蒸気も車も止めて有ましたが、其所へご巡幸に成ますと同時に、蒸気を通し車
       も運転を致ました。それ迄工女一同たすきをはづし、手をひざに置、下を向て居りましたが、
       其時直にたすきをかけ業を致ました。此日は中々笑所では有ません。
        ・・・・・・・私は実にもったいない事ながら、此時龍顔を拝さねば生がい拝す事は出来ぬと
       存じましたから、能々(よくよく)顔を上げぬ様にして拝しました。此時の難有さ、只今迄一日
       も忘れた事は有ませぬ。私は此時、もはや神様とより外思ひませんでした。600名から工女
       が居舛から、ずいぶん美しいと日頃思った人が御座い舛が、其人の顔を見舛と血色が土気
       色の様に見い(え)まして、実に驚きました。是より以上申ましては不敬に当り舛から見合
       舛。・・・・・・                                                 』

      英照皇太后(明治天皇の嫡母(※実母ではない))と昭憲皇太后(明治天皇の皇后)が富岡
     製糸場に行啓になったのは、明治6年6月24日だった。前日笑った女官の髪型・服装も改まり、
     英らは笑うどころか最初は緊張し、手が震えるほどだった。が、作業に入ると、両陛下の顔を
     盗み見する余裕もうまれた。
      英が明治41年(1908年)から大正2年(1913年)にかけて「富岡日記」を書いたとき、それまで
     に醸成された天皇神格化の影響を受けて、”神様とより外思ひませんでした”、と書いたまでで、
     ”(美しい人でもなく)顔を見舛と血色が土気色の様に見えまして、実に驚きました”、というのが
     偽らざる印象だったろう。”是より以上申ましては不敬に当り舛”、がその証だろうう。

      ブリューナ夫人が美しく、その服装も見事だった。前年暮に工女からミカンをもらったことで、
     ブリューナから入場禁止処分を受け、夫妻の子守をしていたアルキサンが許されて(恩赦?)、
     この日から出場した。その後、ときどき工女の釜に付いて糸を繰ったが、「女教師の中で一番
     糸とりが上手」の評判に違わず、”実に落付(着)いて居りまして、上手で有舛た”、と書き残し
     ている。
      また、この日工女には菊と桐の銀箔おしの扇子が下賜された。作業は早仕舞いとなり、お酒
     と手軽な料理もでて、無礼講とのことで、英ら長野県工女が嫌々ながら『盆踊り』を披露した。
     これが後に山口工女との新たなトラブルの種になる。

      データー量が40KB近くになり、ご表示の恐れがあるので、 - つづく -

      「 ごきげんよう」
inserted by FC2 system