国立歴史民俗博物館の鉱物

           国立歴史民俗博物館の鉱物

1. 初めに

   私は、国内外の見知らぬ土地に行くと、そこにある自然史系の博物館や美術館などを
  訪れるのを楽しみにしている。
   某電子部品メーカーさんから招請をいただき、技術コンサルタントとして2008年1月末
  千葉県に単身赴任し、丸1年になろうとしている。千葉にいる間に訪れてみたいと思って
  いる場所がいくつかあり、その1つが千葉県佐倉市にある国立・歴史民俗博物館(略称
  歴博)だった。

     国立歴史民俗博物館

   2008年暮れ、佐倉市の旧佐倉城跡地にある歴博を初めて訪れた。私の好きな鉱物
  関連や歴史・民俗に関する資料(複製も多い)を旧石器時代から近代に至るまで展示して
  いる。また、「民俗」と謳っているように、「日本の民俗世界」と題し、都市・農村・漁村・山村
  そして南島の生活様式を展示するコーナーもある。

   さらに、全国の博物館で開催した展示の図録が販売されており、すでにHPで紹介した
  ものを含め何冊か購入した。

   私が一番興味をおぼえたのは、 『進上水精玉壹佰伍拾顆事』 、とある出雲国(現在の
  島根県の一部)から奈良の中央官庁に提出された文書の断裁(切れ端)である。

      『進上水精玉壹佰伍拾顆事』

   @ 「玉」とはどんなものなのだろう。
   A 「水精」は、現在の「水晶」?
     だとすれば、いつから、「水晶」に変わったのか。
   B 出雲国(島根県)には、現在も玉造(たまつくり)温泉がある。
     玉造部(たまつくりべ:玉を製作する集団)がいたのだろうか?
   C「玉の材料の「水晶」産地はどこだろうか?

    など、などの疑問が湧いてくる。単身赴任が終わったら、ジックリ調べてみたいと考えて
   いる。

    開館時間: 9:30〜17:30 (入館は16:30まで)【 3月〜9月】
            9:30〜16:30 (入館は16:00まで)【10月〜2月】
    休館日  : 毎週月曜日と月曜が祝日の場合、火曜日
           (GW,年末年始など 03-5777-8600 に問い合わせ)
    入館料  : 一般           420円
            高・大学生        250円
            中学生以下       無料

   ( 2008年12月訪問 )

2. 場所

   JR佐倉駅や京成線佐倉駅からバスの便がある。東関東自動車道佐倉または四街道IC
  からとアクセスは良い。

     入場券

3. 展示内容

   歴博は、1981年に生まれ、1983年から展示を始めた総合的な歴史系博物館である。日
  本の歴史と文化を語る貴重な文化財や重要な歴史資料約21万点を収蔵し展示している。

 3.1 展示配置
     本館の展示の配置は次のようになっている。

     1階
     地階     展示配置図

 3.2 展示概要
     各展示室の内容と鉱物関連の展示物を一覧表に示す。

展示室  展示内容 鉱物関連展示
第1 ・日本文化のあけぼの
・稲と倭人
・前方後円墳の時代
・律令国家
・沖ノ島
・石器
  ねつ造された旧石器遺跡

・玉製品
  翡翠(硬玉)製
  水晶製
  琥珀(コハク)製

・「出雲国計会帳」
  上納された水晶玉
 

第2 ・王朝文化
・印刷文化
・東国と西国
・大名と一揆
・民衆の生活と文化
・大航海時代のなかの日本
・輸出品   銅製品
・城下町   水晶製品を造る職人町
第3 ・国際社会の中の近世日本
・絵図、地図にみる近世
・都市の時代
・ひとともののながれ
・寺小屋 れきはく
・村からみえる『近代』
・「もの」からみる近世
 
第4 ・都市の風景
・村里の民
・山の人生
・海浜の民
・南島の世界く
・再生の世界
 
第5 ・文明開化
・産業の開拓
・都市の大衆の時代
 

4. 鉱物関連展示の詳細

 4.1 石器
  (1) 石器が鉱物?
       大正10年(1921年)、東京教育博物館(現国立科学博物館)が「鉱物文明展覧会」
      を開催した。これに伴って、「鉱物文明」という400ページあまりの啓蒙書が当時東京
      御茶ノ水にあった東京教育博物館で編纂・出版されている。同時に、この本に掲載
      された口絵は絵葉書として販売された。

         
                表紙                          口絵
                                  【原始時代の石器工場作業の光景】
                        「鉱物文明」

       これらを入手したので読んでみると、この当時、「岩石と鉱物の区分」がかなり曖昧
      だったようで、次のように同列に取り扱われていた。東京高等師範学校(現筑波大)
      地質鉱物学教室がまとめた「石器時代古墳時代及現代に於ける鉱物岩石利用の
      一斑」 に、岩石と鉱物が同列に並べられている。
       表は、説明の便宜のため私がまとめたもので、( )内は私の補注 )

 原 石 石器時代古墳時代現代(大正時代)
輝岩
(輝石を主成分とする
完晶質・粗粒の
超塩基性岩)
角岩
 (チャートのこと)
玉造石
 (島根県玉造に産する碧玉か)
黒水晶
瑪瑙(めのう)
蝋石(ろうせき)
 (葉蝋石)
水晶
黒曜石
石斧
石鏃(やじり)
管玉(くがたま)
曲玉(勾玉)

置物
風鎮
文房具
印材
石筆
 (現在の鉛筆の代わりで
  石版(ノート)に字を書いた)
装身具

  (2) 鉱物で作られた石器
       石器は「黒曜石」や「チャート」などの岩石で作られているのが普通だが、「翡翠
      (ひすい輝石やオンファス輝石など)」や「石英(水晶、メノウ、玉髄など)」などの鉱物
      で作られたものも日本の広い範囲から出土している。
       しかし、歴博の展示品の中に鉱物で作られた石器を見つけることはできなかった。

 4.2 装飾品
     縄文時代以降、弥生時代や古墳時代の遺跡から翡翠、瑪瑙、水晶などの鉱物を使っ
    た装飾品が出土している。
  (1) 沖ノ島の出土品
       玄界灘に浮かぶ沖ノ島(福岡県)は、宗像神社の沖津宮(おきつみや)があり、古く
      から神島として信仰の対象になってきた。神様への捧げものとして、鉱物を加工した
      装飾品が多く遺されていた。

         
              勾玉                勾玉
             【瑪瑙製】             【翡翠製】

         
              切子玉             棗(なつめ)玉
             【水晶製】              【琥珀製】

                   沖ノ島出土の装飾品

  (2) 翡翠文化の終焉
       破砕された「翡翠の勾玉」の出土品も展示している。縄文時代から”蘇り”のシン
      ボルとして珍重された翡翠だったが、その価値を否定され、むしろ”邪悪”なもの
      とすら思われ、破砕されて遺棄された。これ以降、「翡翠文化」が途絶えたのだろう。
       そのため、遺跡から出土する翡翠製品は『中国からの輸入品』、とされ、日本で
      翡翠が産出するのが確認されたのは、今から70年前の昭和13年(1938年)で、それ
      ほど古い話ではない。

        破砕された勾玉【硬玉製】

 4.3 律令国家と水晶玉

    私が一番興味をおぼえたのは、 『進上水精玉壹佰伍拾顆事』 、とある出雲国(現在の
   島根県の一部)から奈良の中央官庁に提出された文書「計会帳」の断裁(切れ端)である。

    律令国家の行政上の命令や報告は、各種の文書によって行われていた。代表的な
   文書は下記のようなものである。

文書種類 発信  受信  備  考
上級官司下級官司命令書 
下級官司上級官司上申書 
所管関係のない官司間 

    「計会帳」は、これらの文書が確実に伝達されたか否かを確認するために作成された
   もので、毎年諸官司が1年間に授受した文書の全てを記録し太政官に送られた。
    現在、奈良時代のものは、天平6年(734年)の出雲国計会帳と延暦2年(783年)の伊勢
   国(現在の三重県)の断簡が遺されている。

    出雲国計会帳は、正倉院文書の中に残されており、天平5年(733年)8月1日から翌年
   7月末日までに出雲国が授受した文書の目録が記されている。もともとは、長大な帳簿で
   あったはずだが、太政官に送られてから数年して造東大寺司の写経所に払い下げられ
   紙背再利用の際に切られてしまい、ごく一部が残っているに過ぎない。
    現存するのは、符部、解部、移部のそれぞれ一部分である。

    下の写真は、天平5年(733年)8月19日、史生【ししょう:役職】大初五上【官位】 依網連
   意美麻呂(よさみむらじおみまろ)を都【奈良の平城京】に派遣し、大帳はじめ税の徴収に
   関係の深い文書を太政官の事務局(弁官)に差し出した。
    文書の数は「捌条(はちじょう)附」とあるところから、8件あったようで、その題目だけが
   記され、それぞれの条ごとに詳細な文書がついていたはずだ。

     出雲国計会帳

                                    
        100個                              150個
                       『進上  水精玉』

     当時の重要な税の調庸(ちょうよう:貢物や労力)の貢物として、『水精玉』が出雲国
    (現在の島根県の一部)から平城京に運ばれた。

 4.4 日本の輸出品

     日本で生産できす貴重なものは、「絹」などで、その支払いに宛てたのが「銅」や「銀」
    などの鉱産物だった。石見銀山が世界遺産になったのも、ここの銀が遠くスペインなど
    ヨーロッパにまで運ばれ、世界貿易・文化の交流に大きな影響を与えた、と認められた
    かららしい。
     鉱産物の銅は棒状の「棹銅(さおどう)」、銀は板状の「丁銀」という形で輸出された。
    その模型が展示されている。

      「棹銅」と「丁銀」

 4.5 戦国時代の職人町での水晶加工

     戦国時代、越前(現在の福井県)朝倉庄にあった城下町とその職人町跡から出土した
    水晶などを材料とする玉の半製品と完成品が展示してある。
     中には「数珠」などに使われたと思われる水晶玉もある。

      
            朝倉庄                    水晶玉

5. おわりに

 5.1  新たな疑問

  (1) 出雲国「計会帳」
       出雲国「計会帳」の断裁にあった『水精玉』の記述を目にして、次のような疑問が
      生じてきた。

      @ 「玉」とはどんなものなのだろう。
        形状・材質
      A 「水精」は、現在の「水晶」?
        だとすれば、いつから、「水晶」に変わったのか。
      B 出雲国(島根県)には、現在も玉造(たまつくり)温泉がある。
         玉造部(たまつくりべ:玉を製作する集団)がいたのだろうか?
      C 「玉の材料の「水晶」産地はどこだろうか?

  (2) 原始時代の石器加工
      「鉱物文明」の口絵に、『原始時代の石器工場作業の光景』が掲載され、あたかも
     大勢の男たちが一箇所に集まり、分業で石器を製作している印象を与える。歴博で
     上映する石器の製作のビデオを見ると、原石(黒曜石など)と鹿角そして叩き石が
     あれば、ものの20分で簡単に「石槍」などが作れるようだ。
      そうなると、夜なべ仕事に各家庭で作った(作れた)のではないだろうか。

  (3) 甲府の水晶細工のルーツ
       水晶加工で有名な(だった?)山梨県甲府に細工の技術を伝えたのは、天保5年
      (1834年)、玉屋弥助(京都?)だとされる。
       出雲(島根県)の玉造で興った水晶加工技術は、福井県小浜の瑪瑙細工、越前
      朝倉の水晶細工、京都の水晶細工などに伝播したのだろう。

       甲府にはどのルートで伝わったのだろうか。

      など、などの疑問が湧いてくる。単身赴任が終わったら、ジックリ調べてみたいと
     考えている。

6. 参考文献

 1) 東京教育博物館編:鉱物文明,科学博物館事業後援会,大正10年
 2) 国立歴史民俗博物館編:国立歴史民俗博物館 ガイドブック 2版
                   同館,平成20年
 3) 松原 聰、宮脇 律郎:日本産鉱物型録,東海大学出版会,2006年
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