21日、朝5時半に後甲板に出てみると、周りは真っ暗で、カメラについているGPSの位置情報を確認するとまだ
ポルトガルの北、スペインとの国境の沖合だった。
23日にル・アブルに着くまでの2日間、何をして過ごしたのか記憶も定かでないので、日記で振り返ってみる。
【21日】
・ HP「スリランカで宝石探し」をまとめてアップ
・ 妻からのメール
「裏の家で飼っている私の友達、ラブラドール”ミント”が亡くなった」 (確か、17歳くらいの老嬢だった)
・ 古書店主・Oさんからメール
5/12にギリシャ・アテネで投函した 「絵葉書が21日に届いた」 (10日で届いたことになる)
【22日】
・ 寝る前に時計を1時間早める。
(ここまで西へ西へと進んできたが、ユーラシア大陸最西端を過ぎ、ロシアに入るまで東へ進む)
・ 22日の日没予定時刻 21:38 (21時でも明るい。その分朝起きたときは薄暗い)
2000年5月、ドイツにある工場の技術指導で出張した帰途フランスに立ち寄った。パリ市内のルーブル美術館、
オルセー美術館、セーヌ川クルーズ、凱旋門とその近くの切手のノミの市などを駆け足で回ったことがあっただけで、
それ以外の地は知らなかった。
・ バイエルン地方の鉱物
(Die Mineralien des Bayerichen Waldes)
ル・アブール( Le Havre )は、文字通りセーヌ川の河口の三角州にできたような”港湾都市”で、ここには鉱山
もなければ私の興味ある観光スポットもなさそうだった。
そうなるとオプショナルツアに申し込むのが手っ取り早い。一番人気は 世界遺産 『モン・サン・ミッシェル観光』
で、私が申し込んだときには、すでに”キャンセル待ち”状態だった。ただ、モン・サン・ミシェルまでの往復バスには
空席があるというので、とりあえずそれに申し込んでおいた。
地図を見ると、ルアーブルからモン・サン・ミッシェルまでは南西に200キロあまり、パリまでは南東に200キロ弱だ。
( 2016年5月23日 体験 )
モンサンミシェルに向けてバスが出発したのは10時近かった。上の地図を見てもらえばわかるように、高速道路
が整備されていて、最初と最後の20キロくらいだけ下道を走ることになる。1995年にセーヌ川に架けられた「ノル
マンディー橋」を渡って、対岸のオンフルールに入る。
11時ごろSAに立ち寄ってトイレ休憩だ。驚いたことに、お土産コーナーには、「地域産品の贈り物」という日本
語の看板が出ていて、モン・サン・ミシェルの人気がいかに高いかがうかがえる。1.5ユーロだったかで、煎れたての
コーヒーを飲んで、出発だ。
高速道路わきの畑や農家の縁に植えられた防風林(?)には、”ヤドリギ”が寄生していた。
高速道路を下り、下道を走るが道路は空いていて、バスは順調に走る。12時少し前に、進行方向右手の
田園の中にテレビや雑誌で見覚えのあるモン・サン・ミシェルが見えてきた。
駐車場に入り、乗客はバスを降り、モンサンミシェルとを結ぶシャトル電気バス乗り場まで10分ほど歩く。バスは
両端に運転席があって、いちいち向きを変える必要がない。=無駄なエネルギーを浪費しない=エコだ。しかも、
運転手は女性で、社会進出が当たり前になっている国だ。
モン・サン・ミシェル修道院はクエノン川河口にある島に建てられていて、浅瀬の上に架けられた橋でつながって
いる。橋の中ほどまでバスがわれわれを運んでくれる。
バスに乗って修道院に向かうと、向こうから客を運んだ馬車が戻ってくるのとすれ違う。馬車でも行けるのだ。
1877年に対岸との間に地続きの道路が作られ、潮の干満に関係なく島へと渡れるようになった。しかし、これ
によって潮流をせき止められ、100年間で2mもの砂が堆積してしまった。その結果、北海道・函館と同じように
島と陸がつながる陸繋島化(りくけいとうか)が島の周囲で進行し、島の間際まで潮がくることは滅多になくなり
つつあった。かつての姿を取り戻すべく2009年に、地続きの道路が取り壊され、2014年に新たな橋が完成した。
私が渡った橋はつい2年前に完成したものだった。橋の中ほどでバスが停まり、降ろされる。馬車を含め乗り物
はここで折り返しだ。
何はともあれ、ここでモン・サン・ミシェルの写真を撮る。朝の内スッキリしない空模様だったが、スッカリ晴れ上
がっている。
200mも歩くと、島の部分に到着する。この小島とその上にそびえる修道院を総称して、モン・サン・ミシェルと
呼ぶ。ここは、カトリックの巡礼地のひとつで、「西洋の驚異」と称され、1979年には「モン・サン・ミシェルとその
湾」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録され、1994年10月にはラムサール条約登録地となった。
もともと先住民のケルト人が信仰する聖地だったが、708年司教オベールが夢のなかで大天使ミカエルの「この
岩山に聖堂を建てよ」とのお告げを受けたが、悪魔の悪戯だと思い信じなかった。再び同じ夢を見たが、また
信じなかった。ついに3度目には大天使はしびれを切らし、今度はオベールの額に指を触れて強く命じたところ、
オベールは稲妻が脳天を走る夢を見た。翌朝、オベールは自分の頭に手を置くと脳天に穴が開いていることに
気づいて愕然とし、ここに至って大天使ミカエルのお告げが本物であると確信してここに礼拝堂を作ったのが
始まりとされる。
966年ノルマンディー公リシャール1世がベネディクト会の修道院を島に建て、これが増改築を重ねて13世紀
にはほぼ現在のような形になったものである。中世以来、カトリックの聖地として多くの巡礼者を集めてきた。
修道院の尖塔には、この修道院が造られるお告げの主・ミカエル(西洋人に多い名前で、国によってのミハ
エル、マイケルなどと読まれ、フランス語がミシェル)の像があると聞き、見上げてみた。修道院は花崗岩の岩山の
上に建てられていて、尖塔のあたりは工事中の足場で囲われていて、像を見ることができなかった。
【後日談】
船に戻って「モン・サン・ミシェルに行ってきた」とあねごに話すと、「工事中の像をみても、しょうなかろう」と言
われ、つい、「工事中のを見られるのは滅多にない貴重なこと」、と答える天邪鬼(あまのじゃく)のMHだった。
この島は英仏海峡に面していることもあって、14世紀中ごろから15世紀中ごろまでイギリスとフランスが断続
的に戦った百年戦争のときのは、要塞の役目をしていた。
その面影を残す跳ね橋を渡ると、レストランや土産物屋があって多くの観光客で混雑している。「プラール
おばさん」 ( La Mere Poulard ) のオムレツ(スフレリーヌ)が名物料理となっていて、その看板が通りの左側
に見える。
「プラールおばさん」の店の外からオムレツを作る様子をおおぜいの観光客が見ていた。(私もその一人)。
暖炉のようなかまどに太い薪を燃やし、コックが汗をかきながら料理している。
13時近くになっていたので、食べようか、と思ってレストランに入り、メニューを見ると一番安いオムレツが39ユー
ロだという。チップを入れると40ユーロ(約5,000円)を超えることになる。これだけで、あねごに借りた50ユーロの
残りを全部使ってしまいそうで諦めてスゴスゴと出てきた。(仮にお金があっても、予約なしだと1時間以上待た
されるのは、きつかった・・・・どこまでも負け惜しみの強いMHだった。 )
【後日談】
帰りのバスの中でオムレツを食べたという人に「味はどうでした?」、と聞くと、「・・・・・・、まあ、美味しかった」
という程度だった。『名物に旨い物なし』の類のようだ。
モン・サン・ミシェルには郵便局があるというので地図を頼りに行ってみると、鍵が閉まっていた。どうやら、お昼
休みで再開するのは13時30分だという。それまで30分くらいあるので、修道院の入り口を見たり、カードで現金
(ユーロ)を下せないか試してみたができなかった。
13時半近くになって郵便局に行ってドアの前に並ぶ。少し待つと、扉を開けてくれ中に入る。とりあえず、日本
で買ったフランス切手を貼った封筒に、不足があればモン・サン・ミシェルにちなむ切手を貼り足して投函してもらう。
男性局員が一人で切り盛りしているのだから、”昼休み”も必要な理由(わけ)だ、と納得する。すでに大勢の
観光客が並んでいるので、皆さんを待たせては悪いと思い、いったん列を離れることにした。
改めて局舎内を見回すと、新しく発行された切手の販売や両替をやっているのがわかった。モンサンミシェルの
風光・動植物を描いた10種のシール付切手シート売っていたので購入した。土産物屋で先ほど買った絵葉書
に切手を貼り、住所・氏名を印刷して持参したラベルを持参した糊で貼りつけた。再び窓口に並んで、これらを
投函する。
のと同時に、持っていた40米ドル(4,500円)をユーロに替えて
もらった。5.5ユーロの手数料を取られたこともあって、受け取ったのは28.37ユーロ(3,500円)と、何とも割の悪い
両替だった。
【後日談】
投函した封筒や絵葉書はすべて無事日本に届いていた。切手にはモン・サン・ミシェルのシルエットが入った
消印が押されていた。
フランスと南極を含むその領土からは毎年たくさんの切手が発行されていて、それらの中には「鉱物」や「岩石」
などにちなむものもある。それらを貼って出したものだ。
フリーメーソンについては、作曲家・モーツアルトもその会員だったということで、つぎのページで紹介した。
14時を過ぎ、昼食を食べることにして、「プラールおばさん」の店の向かいにあるファスト・フード店でサンドイッチ
と有名な(?)リンゴジュースのセットを頼む。たしか、12、3ユーロ(1,500円)くらいだった。
手持ちの現金が乏しくなり、もう一度郵便局に行って、持っていた40米ドル(4,500円)をユーロに替えてもらっ
た。5.5ユーロの手数料を取られたこともあって、受け取ったのは28.37ユーロ(3,500円)と、何とも割の悪い両替
だった。
土産物屋に入ると同じ船の女性が言葉が通じなくて買い物で難儀していた。結構な値段の品物をまとめて
買う、いわゆる”爆買い”だ。今時は、中国の人だけかと思っていたが、どうして日本人も似たようなものだ。意思
が通じて女性も喜び、まとめて売上げた店の方も大喜びだった。
マグネットなどこの国でも買っている土産を手にし、本のコーナーを見ると、” THE MONT-SAINT-MICHEL STONE
BY STONE " という英文の本があったので購入した。石造物としてのモン・サン・ミシェル建築史で、保存活動に
も言及している。修道院の由来を描いた天使・ミカエルの絵や基盤岩に支えられた構造など、写真や絵を見る
だけでも楽しい本だ。値段は9ユーロ20セント(約1,200円)だった。
外に出ると、外国人の男女が泥のような干潟に裸足で入って遊んでいる。「泥を持って帰っても・・・・」、と思
い、反対の修道院の土台になっている露頭を見ると崖によじ登って遊んでいる外国人観光客もいる。
崖下には手ごろなサイズの小石が落ちていた。石英、長石、白雲母からなる「花崗岩」だが、石英には透明
なのと真っ黒いのがあるのが珍しいと思い、記念にいただいて帰った。
集合時間が近づいてきたので橋の中ほどで記念写真を撮って、シャトルバスに乗り込む。横から見ると運転
席が両側にあるせいか意外と長いことに気づく。
バスが港に向かって出発したのは15時30分ごろだった。田園風景の向こう側にモン・サン・ミシェルが見え、これ
が見納めだ。
往きと同じように高速に入り、17時ごろSAでトイレ休憩だ。売店をのぞくと、” ノルマンディ ”グッズを売っていた
り、観光ツアーの案内パンフレットが山ほどおいてある。
1944年6月6日、連合国軍はフランス北西部ノルマンディ地方の海岸に上陸し、反攻を開始した。その戦闘のすさ
まじさを映画『地上最大の作戦』や『プライベート・ライアン』でご覧になった方も多いと思う。われわれが寄港し
たル・アブールから西一帯がノルマンディ海岸で戦争遺跡になっていて、観光客が訪れているのだ。
鉱山は無理にしても何か地学に関する絵葉書でもないかと探していると、ル・アブールの北東エトルタ海岸の
白い断崖を描くものがあったので購入してきた。翌24日に訪れるイギリスのドーバーの海岸にそっくりだったからだ。
【後日談】
2016年2月12日、BSで映画「プラーべート・ライアン」が放送された。一度劇場でも見ていたが、ビデオに撮って
もう一度見た。劇場で見る前、”ライアン”は人名だろうと想像できたが、”プライベート”の意味がわからなかった。
辞書を引くと名詞で、将校や下士官の下の「兵(士)」という意味だと知った。英語の題名は”SAVING PRIVATE
RYAN”だから、「ライアン2等兵を救え」、というような意味だ。
一人の兵士を救うために隊長のミラー大尉以下7名の捜索隊が次々と命を落とし、ついには大尉も死ぬ。
戦後、年老いたライアンが家族と一緒にノルマンディの大尉の墓を訪れるところから映画は始まっていた。
ライアンが「大尉以下隊員達が命を懸けて私の命を守ってくれた。それに応える価値ある生き方をしただろうか」
と妻に問いかける。
18時過ぎ、セーヌ川にかかる「ノルマンディ橋」が見えてくる。さすがに芸術の国だけあって優美なデザインだ。
この橋の名前の由来もようやくわかる。
橋を渡って15分も走ると港だ。船のタラップの手前では果物を入れて水出しした”インフューズド・ウォーター”が
お出迎えだ。街中で生水が飲めない外国では最高の”おもてなし”だ。
夜9時過ぎ、タグボートが近づき船が動き出した。出港だ。日没まではまだ時間があり、防波堤の間の水路に
真っ赤な夕日が見えた。
今夜のうちに英仏海峡を渡り、明24日朝8時にはイギリスのドーバー港に入港予定だ。
・ 北極圏をめぐる地球一周の旅 【ジブラルタル海峡】
( Tour around the World & Arctic Circle 2016 - Strait of Gibraltar - )
ルアブール港を出港して日没近くになってからデッキに出て夕日の写真を撮った。この日は水平線に雲がなく
太陽が真ん丸のまま海に沈んでいった。雲に隠れることがほとんどでこんなことは珍しかった。
このページをまとめる段になって、この日撮った夕日の写真をジックリ見直してみた。完全に沈む直前の太陽が
”葉巻状”に写っていた。小笠原島のグリーン・フラッシュの写真も”葉巻状”だったのを思い出さし、ジックリ見てみ
ると縁が赤、内部が黄色い太陽の右端が緑色になっているのに気づいた。これが、グリーン・フラッシュだろう。
5.2 サン・マルタンビーチの『玉髄』
ル・アブールでのオプショナル・ツアーはAからLコースまで、12以上あった。長野県のTさんは、ドイツに住む娘さん
が船の中で講師を務めるということでお孫さんも一緒にギリシャ・ピレウスから乗船してきた。
孫娘と一緒に遊ぶつもりで、孫と紙飛行機を作ったり、”ビー玉”をやったり、船内探検をしたりと遊んでいた。
そんなことがあって、Tさんと話をするとお隣の県から参加しているということもあって、知り合った。
まじめで勉強好きなTさんはル・アブールで、「核保有国で考える『原発』」というコースに参加し、パンリー原子
力発電所を見学してきたと話してくれた。既に述べたように、フランスは原発大国で、全国に20か所、休止を
含め58基の原子炉がある。(2016年現在)。ル・アブールから半径100キロの範囲内だけでも9基の原発がある。
私が鉱物(石)好きだと知って、立ち寄ったサン・マルタンビーチで拾ったという石をお土産に持ち帰ってくれた。
真っ白いチョーク(石灰岩細粒)に覆われた玉髄だ。イギリスなどでは、石英の徴結晶集合体であるカルセドニー
(玉髄)からできている堆積岩をチャート( Chert)やフリント(Flint:燧石(ひうちいし)) などと呼んでいる。
この石の産状を翌日訪れたイギリスのドーバー海峡で目の当たりにできるとは、この時夢にも思わなかった。