私が子ども達に混じって参加させてもらったのは17年前、2002年の第2回だった。その時の様子は、次のページ
で紹介させていただいた。
2019年は、小学4年生になった孫娘と保護者の父親、そして祖父(私のこと)の3世代での参加になった。参加
者は、小学生が中心で約25名、付き添いの保護者、道案内の山の会メンバー、そして博物館員と友の会「AU会」
ボランティア、あわせて約60名余が参加した。
金鉱石を採掘した中山金山跡の見学から灰吹き製錬した金粒を使って参加者オリジナルの『甲州金』製作
まで、「金山衆」がやったと同じことを2日間で体験した。
自然が好きな孫娘は、日ごろ体験できないことができ、夏休の良い思い出になったようだ。出月館長、小松
学芸員はじめ湯之奥金山博物館の関係者に深く感謝しています。
湯之奥金山での金鉱石の採掘がはじまったのは、西暦1500年代初頭で、わが国で『金山』と呼ぶ形態の産業
が始まった最初期のころだった。今回訪れた中山金山は同じ山梨県にある黒川金山と共に、平成9年9月2日に
「甲斐金山遺跡」として国史跡に指定された。
「こども金山探検隊」は、16世紀、戦国時代の金山跡を訪ねたり、産金技術を追体験をすることで、貴重な
歴史を伝えるための場所として、みんなと大事に守りながら、さらに後世に伝えて行こう、という趣旨だ。
そのプログラムは、”濃密”なものだった。
【第1日目】
@ 集合・オリエンテーション
A 中山金山跡の見学(1年おきに、中山金山と茅小屋金山を交互に)
B 金の鉱石を石臼で粉にする”粉成(こなし)”
C パンニング皿で山金の”汰り分け(ゆりわけ)”
D BBQ(希望者のみ)
【第2日目】
@ ”灰吹き”作業
A オリジナル甲州金の製作
B 色あげ(金色を出す)
C 修了式
控室に行き、小松学芸員に揃って挨拶する。出欠をとるとほとんどの家族が集まっているようだ。2日間の行事
内容の説明があり、初日に訪れる中山金山の場所をパネルで説明があった。かなり厳しいコースだ。
子ども達が体験する「金山衆」の仕事がどのようなものかを、博物館2階にあるジオラマで説明してくれた。
(2) 中山金山跡の見学
中型バスと何台かの車に分乗して博物館を出たのは9時ごろだった。下部温泉から静岡県富士宮市に通じる
林道「湯之奥猪之頭」線を進む。途中、湯之奥集落のまとめ役だった門西(もんざい)家の茅葺(かやぶき)
屋根が見える。屋根は定期的に葺き替える必要があるのだが、材料・作業する人(=費用)を確保するのが
大変なようだ。
急な坂を登っていくと、路肩にヒッチハイカーらしい親指を立てた外国人(フランス?)の母娘(?)が立っていた
が、どの車も満席で、乗せられなかった。(どこに行こうとしているのか、気にはなったが)
9:30近くに、中山金山跡の入口、毛無山登山口駐車場に着いた。ここは標高が約900mで、標高250mの
博物館から一気に約650m登ってきた。
中山金山跡は、標高1,500付近に散らばっているので、同じ標高差を自分の脚で歩いて登ることになる。GPS
機能付きコンデジの画像データを元に、この日歩いた軌跡を地図に落としてみた。
ちょうど15年前の2004年、湯之奥金山博物館主催の見学会で、中山金山跡を訪れたことがあった。地蔵峠
からの雄大な富士山の眺めを、息子や孫娘に見せてあげたいと思ったのが、参加した理由の一つだった。
・ 山梨県身延町下部・中山金山の自然金
( Native Gold of Nakayama Gold Mine , Shimobe , Minobu Town , Yamanashi Pref. )
先頭のペースが私でも少し速いな、と思うくらい速い。登り始めて15分もすると登山道の脇で休憩する人が
出始めた。20分もすると、喘ぎあえぎ登る人を追い越すようになる。上のルート図を見てもらえばお分かりのように、
コースの大部分が”直登”に近い登りなのだ。
コースタイムでは20分の「第1休憩所」に35分掛かって到着した。全員到着するのを待つ。息子も孫娘もここ
までは何とかついてきた。
小松学芸員から、「この先見ての通り、”直登”に近い上りが続きます。ここで引き返す人はこちらに集まって
下さい」、と促され、数人が移動した。孫娘に聞くと、「私も帰る」、というので息子も一緒にここから下山すること
にした。結局、10人が下山して、われわれが戻るまで博物館で過ごすことになった。
ここからは、元気な第1グループとユックリ登る第2グループに分かれて行動することになった。私は、第1と第2の
中間あたりをノンビリと登ることにした。10:30に出発し、植林された林の中の登山道を登る。適度な日蔭が続き、
”カンカン照り”よりはましだが、汗が滝のように流れ出る。
水分補給が追い付かず、意識が”朦朧(もうろう)”としてきそうだ。標高1,300mを超えた辺りから、いつもの
ことだが高度に順応するためか自然に心拍数が上がり、慌てて登山道わきに座り、凍ったポカリのペットボトルを
首筋に押し付けて脳に行く血液を冷やす。
5分も休んで落ち着いたところで、登り始める。11:35に女郎屋敷跡に到着した。尾根の西側には、中山金山
遺跡の中で一番広い”テラス”がある。そこまで、ものの10m降るだけだが、億劫(おっくう)で、尾根で弁当を広げ
て昼食だ。
尾根の東側を100mも降ると「製錬場跡」だが、ここは帰りに寄るようで、12:25に「大名屋敷」に向かって登り
を開始した。またここに戻ってくるというので、荷物は置いたままだ。
5分も登ると、「大名屋敷」と名付けられたテラスに到着する。この周辺には段々畑のような小さなテラスが目視
でも、数多く確認できる。ここから標高で10〜20mも登れば「坑道群」や「露天掘り跡」などがあるのだが、そこ
まで行く気力、体力がこの一行にはないと判断され、ここが終点だ。
ここでの見どころは、「七人塚」にある夫婦のものとされる一対の石造物だ。左側は立体的な五輪塔で右側は
板碑に彫られた五輪塔ではないだろうか。五輪塔は主に供養塔・墓として使われる塔の一種で、五輪卒塔婆とも
呼ばれ、現在の「卒塔婆(そとうば)」は、簡略化して木の板で代用している。
荷物を置いた場所まで戻り、東側の谷に緩やかな道を100mも行くと、「製錬場」だ。ところどころに赤茶色の
”汰り滓(ゆりかす)”の塊が点々と落ちている。ここで、鉱石を粉にして、谷川の水で金を”汰り分け(パンニング)”、
「灰吹き」で製錬した場所だ。
その証拠に、ここでは使い終わった「石臼(いしうす)」や「磨り臼(すりうす)」などが観察できる。
2004年の見学会のときのはここで揺り滓をパンニングして、「山金」や「精錬金」を採集できたが、2007年に
国史跡に指定され、これらの行為は禁止されている。当然、石臼なども許可なく持ち出すことはできない。
(3) 下山
中山金山遺跡の見学を終え、13:30に下山し始めた。14:15に第1休憩所に戻った。ここから、登山道に
落ちているゴミを拾って帰ることになった。プラスチックや金属製のものなど、なかなか自然に戻らない人工物を
探すが、先行者が拾ってくれているので登山道から外れた場所にしか見当たらない。
14:50に全員が無事下山した。車に乗り込み、博物館に戻ったのは15:20ごろだった。
孫娘は途中リタイアして博物館に戻るバスの中で気分が悪くなり、2回ほどバスを停めてもらったようで、皆さん
にお世話をお掛けしたようだった。
(4) 「粉成(こなし)」作業体験
16時から金鉱石を砕いて石臼や磨り臼で粉にする「粉成」作業の体験だ。石英質の母岩からなる金鉱石は
堅いのでそのままでは簡単に粉にすることはできない。博物館友の会のIさんが、七輪の炭火で真っ赤に焼いた
金鉱石をバケツの水の中に入れ”急冷却”すると、鉱石が割れたり、脆く(もろく)なるのを見学する。
脆くなった鉱石をハンマで叩いて小さくするのだが、”豆粒”では大きすぎて石臼が詰まってしまうようだ。”米粒”
以下ぐらいするのが理想だ。
これを石臼の「供給口」に入れて、石臼を回すと粉になって上臼と下臼の間から出てくるのだ。石臼には調子の
良いのと悪いのがある。息子と孫娘は、調子の悪いのに当たったが、すぐに調子のよいのに移って、2人で回し
はじめた。
(4) 「汰り分け(ゆりわけ)」作業体験
粉になった金鉱石をパンニング皿に入れ、水を張った「船」の中で金だけを残すようにパンニングする。粉のような
しかも、”あるかないかわからない”のを探すのは孫娘には難しすぎたようだ。
”天の助け”で、4粒の砂金を採集できたのは”奇跡”だ。
こうして第1日目は終わった。希望者はBBQを楽しむことになっているが、われわれは、自宅に直行した。
(1)「灰吹き」作業
灰吹きは骨粉を敷き詰めたルツボの上で金と鉛の合金を作り、鉛が骨粉に吸い込まれ、金粒だけが残る当時
の最新技術であった。今回は、これを現代風にアレンジして再現した。
@ 骨粉・塩化カルシューム・炭粉をルツボに敷き詰め、灰床を作る。
A 金と不純物の合金粒を坩堝に置く。
B 電気炉(750℃)で合金粒を溶かす。
C 電気炉から出して、ガス溶接炎で合金粒を溶かす。
D 完全に溶けたら、酸素だけを吹付けて砒素、硫黄などの不純物をとばす。
E 鉛を灰床に吸い込ませる。
@とAの作業をこどもたちが行い、B以降は加熱炉やガス溶接機を使うので博物館の友の会会員や学芸員で
資格を持っている人が行った。
@、Aの作業を図解して示す。
灰床から金粒を取り出し、水の中で真鍮のブラシで擦ると、金粒が姿を現すが、なんだか”白っぽい”。金が75%
のいわゆる『18金』だが、”黄金色”とは呼べない代物だ。
(2) オリジナル甲州金の製作
金は軟らかく展延性に富む(金箔のように薄く広げたり、金線のように長く伸ばせる)ので、金槌で叩いて円板
状にして、自分の名前のイニシャルなど、好きな刻印を打ってオリジナル甲州金を作った。
孫娘は、円板状のママが良いと、刻印しないで持ち帰った。
(3) 「色揚げ(いろあげ)」
武田信玄がそれまでの砂金や蛭藻金(金を板状に延ばしたもの)と異なる碁石状の金貨「甲州金」を鋳造
したとされ、信玄没後も天正から文禄、慶長年間にかけては、松木、野中、山下、志村の四金座において
鋳造された。金の純度は、81〜83%と、自然金としては純金に近い高品質だった。
甲州金は武田氏の滅亡後、一時発行停止となるが、1608年に甲斐一国内流通を条件に、松木氏の金座
のみが発行を許された。
徳川幕府がたびたびの小判の改鋳によって金の含有量の少ない、また小さな小判を発行するようになり、
その毎に甲州金も金の含有率を変えさせられた。
宝永3年(1706年)の改鋳では金の含有量が元禄小判と同様の61%に下げられ、「甲安金」と呼ばれる。
正徳4年(1714年)の改鋳では金の含有量が75%に増え、これを「甲重金」と呼ぶ。享保12年(1727年)の
改鋳では含有率が72%になり、「甲定金」と呼ばれる。享保17年(1732年)には甲州金の鋳造が中止された。
幕末(19世紀中ごろ)になると、幕府が発行する小判など金貨類の品位は落ち続け、「万延小判」(形が
小さいので「ひな小判」の別称(蔑称?)あり)は57%、「文政1朱判金」に至っては12%で、金貨と呼ぶのが
ためらわれるほどだった。
慶長6年(1601年)発行の「慶長小判」こそ86%だったが、元禄8年(1695年)発行の「元禄小判」は56%に
なり、”金らしく見せる”『色揚げ』の技術が必要不可欠で、いろいろな方法が適用されていた。
閑話休題、子どもたちが作業している脇に、「色揚げによる色の変化」のサンプルが掲示されていた。これを
見ると、18金(含有率75%)でも色上げ前は金には見えない白っぽさだ。
色揚げは、@ 茶色い怪しげな(?)薬品を塗り、アルコールランプで表面に”プツプツ”気泡ができるまで加熱
薬品をブラシで落として、これを2〜3回繰り返す。(回数を増やせば良くなるものでもないらしい)
A 塩で揉みこんだ後、水で洗い流す。これは化学的に説明すると、”白っぽく”見える原因である表面の銀を
塩と化合させ「塩化銀」にして、洗い流すのだそうだ。
”モミモミ”が終わると、鮮やかな金色に変わっていた。
(4) 「修了式)」
修了式では、生月館長から、自身が地元特産の「西島和紙」に墨で手書きし、朱印を押したた修了証書が
一人一人に手渡された。
修了証書には、『こども金山衆(かなやましゅう:金山での作業、生活のリーダ的存在)として認定する』とある。
孫娘はこの修了証が大のお気に入りで、丸めて千葉に持ち帰った。
さらに、「モーン父さん」から参加賞の南アフリカの「白金鉱石」と菱刈金山の「金鉱石」が配布された。
孫娘は、参加賞の「鉱石」には関心がないようで、南アの「白金鉱石」は、2020年に訪れる予定の”じいじ”の
コレクションに収まった。
私がMH農園で作ったトマトやインゲン豆などを出すと、一人で食べてしまうのではないかと思う勢いで食べて
くれ、想定外の喜びだった。
今日は、農園の野菜や特産の葡萄を送ってあげる予定だ。
(2) 歳月
以前、中山金山に登ったのはちょうど15年前の2004年だった。その時は、若い人たちと一緒だったが、人並み
のペースで活動でき、苦しかった記憶は全くなかった。
しかし、今回は付いて行くのがやっとの体たらくだった。実に恐ろしきは、歳月だ。