2.2 中山金山の歴史
中山金山に関する次のような資料から鉱山が始まったのは、16世紀中葉で18世紀末まで
断続的に採掘が行われたと考えられる。
永禄11年(1558年) 穴山信君が中山郷への物資輸送を命ずる
元亀 2年(1571年) 北条氏の深沢城攻めに功績があった中山金山衆10人に対し
「籾子(もみ)150俵」が与えられた。【武田家朱印状写】
天明 8年(1788年) 堀内粂之丞の手先のものが5本の間歩(坑道)を掘る。【門西家文書】
寛政 5年(1793年) 堀内粂之丞の手先のものが掘った間歩について、湯之奥村から
報告がなされる。【門西家文書】
寛政 8年(1796年) 堀内粂之丞の手先の金堀達がきて、古い間歩の掃除をした。
(わざわざ、掃除するために行く筈も無く、古い金鉱脈を追って
新たな金鉱脈を探したと見るのが妥当と考えられる。)
整備された毛無山登山道を登り、檜の植林帯を過ぎ、唐松の植林帯にさしかかる頃
登山道の右手に「女郎屋敷跡」そして左手下方の金山谷の開けた場所にテラスと呼ばれる
平坦な人工構築物が見られる。ここまで、登り始めてから約1時間半である。
ここには、帰りに立ち寄るとのことで、毛無山山頂の南西にある「露天掘り跡」を目指す。
さらに、約20分の登りで「(第2)地蔵峠」に到着する。晴れた日には、富士山が目近に
見られるが、この日は稜線の一部が見えたかと思うと、瞬く間にガスにその姿をかき消されて
しまった。
小松学芸員によると、どうした訳か中山金山の見学会はいつも悪天候とのことで
雨が降らないだけでも善しとせねばなるまい。
登山道は一段と厳しくなり、さらに40分も登るとやや平坦な場所になる。この西斜面一帯が
「露天掘り跡」や「間歩(坑道 )」が集中している個所である。早く行きたい気持ちを
押さえて、先ずは腹ごしらえ。
昼食が終わるのを待ちかねたように、斜面を下ると、「擂鉢状の凹み」や「溝状のくぼみ」
などがアチコチに見られ、ここが「露天掘り跡」と思われる。
ここには、大量のズリ石に混じって「金鉱石」が見られるが量は多くない。
近代になっても金山の始めは山頂や尾根近くの風化が進んだ富鉱帯を露天掘りすることが
多く、中山金山はその先駆けであったと思われる。
ここから尾根に登り、登山道に戻る途中、尾根の南側には、堀内粂之丞の手先のものが
掘ったとされる坑道が何本かある。いずれの坑道も奥行きが26mで大柄な私でもほとんど
背をかがめないで歩ける高さと無理すれば二人がすれ違える幅を持っており、江戸時代
末期の坑道と言われるのも頷ける。
【坑道13】は中で上下2段に分けれており、金鉱脈を追っていった当時の金山衆の苦労が
偲ばれます。中山金山では、16本の坑道が確認されているが、現在でも入坑可能なものは
数本に過ぎない。
一度登山道に戻り、地蔵峠を経て、「水呑場」まで行き、金山谷に沿って下ると
「製錬場」を中心としたテラスがり、あちこちに「鉱石を焼いた釜」を思わせる石造物や
石塔などが見られる。
製錬場だけに、金鉱石が集積されたと考えられ、他の場所より金鉱石を観察できる
確率が高く、粉成(金鉱石の粉砕)や灰吹き(製錬)に伴って生じたと思われる自然金
が付近の土砂をパンニングして観察できた。
当時の選鉱カス(揺りカス)の鉄鉱石が褐鉄鉱に変化し接着剤の役をはたし砂礫が固まり
赤褐色の”壺石”状になってアチコチに見られる。
すぐ近くにあった内山金山の揺りカスにはトン当たり10g前後の金が含まれ、中山金山の
ものにも高い割合で金が含まれていると想像できます。
(2)自然金【Native Gold:Au】
「精錬場」周辺の土砂を金山沢でパンニングして観察できた自然金には3種類あります。
@灰吹きして得られた金塊の小さな粒らしき球形のもの
A葉片状の砂金(粉成で引き伸ばされた?)を思わせるもの
B尖った形の山金を思われるもの
(3)水晶【Rock Crystal:SiO2】
金を含む石英脈の裂罅に透明感のある小さな水晶が見られるが、大きさは1cm以下で
あった。
(1)武田信玄公の隠し金山と言えば、この中山金山と塩山市の黒川金山で、国の史跡に
指定されている。共に山深いところにあり、この中山金山の見学会も以前は「製錬場」
までだったそうですが、今回は最も奥にある露天掘り跡まで案内して頂き、採掘から
製錬まで行われた中山金山の全貌を把握することができた。
博物館の関係者の皆様に厚く御礼申し上げます。
(2)湯之奥金山博物館には、中山金山で収録された水晶の群晶が展示してあります。
これが確認されたのは「×××××」とのことなので、いつか訪れてみたいと考えて
います。