長野県和田嶺トンネルと青山士(あきら)









       長野県和田嶺トンネルと青山 士(あきら)

1. はじめに

    日本の柘榴石の3大産地を挙げるとすると、大きさでは福島県石川町の鉄バン柘榴石、
   愛らしさでは茨城県山の尾の鉄バン柘榴石、そして美しさでは長野県和田峠の満バン柘榴石
   だと最近まで思っていた。
    数年前、奈良県で『レインボー柘榴石』なるものが発見されたが、上の3大産地の評価は
   今でも変わっていない。
    石川町の採石場は閉鎖して既に時が経ち、採集できる場所も限られ”絶産”状態だし、山の
   尾と草下先生の「フィールドガイド」に載っている和田峠の沢は、マニアによる乱獲がたたり、
   今では地権者や営林署により立ち入り禁止になっている。

    和田峠を最初に訪れたのは、山梨県に転勤になって間もなく平成の初めごろだった。この当
   時は採集禁止にはなっておらず、「フィールドガイド」に載っている沢で採集でき、その結果を
   鉱物同志会の会誌「水晶」に寄稿したこともあった。

    当時の採集品のほとんどが、分離結晶だった。最大20mm、完全24面体結晶もいくつか採集
   し、宝飾店に頼んでアクセサリーに加工してもらいに母親と妻にプレゼントしたのも良い思い出の
   一つだ。

     
                   分離結晶【横 90mm】

     
                 完全24面体結晶【最大 10mm】

                 和田産 満バン柘榴石

    そこそこの分離結晶が揃うと、『母岩付き』を採集したいと思うようになった。探査したところ、
   古い採石場跡で母岩付きが採集できる事や、例の沢以外の場所でも分離結晶を採集できる
   ことも知り、それらのポイントを『2011年月遅れGWミネラル・ウオッチング』で石友と訪れたのは
   既報の通りだ。

   ・ 2011年月遅れGWミネラルウオッチング
    ( Mineral Watching , Jun. 2011 , Nagano Pref. )

    2012年春から、山梨に帰省すると、時間を作って和田峠を中心に満バン柘榴石の揺りかご
   (胎盤?)とも言える母岩である流紋岩の露頭を探査していたが、2013年4月、山梨県に戻って、
   リハビリの第2ステップとして、この探査を再開した。

    2013年4月、妻を車に残し、露頭やそれらが崩れたガレを巡検していると小さな『母岩付き』が
   あり、その周辺を重点的に探査し、最大10mmのものを含め、標本にできそうなものをいくつか
   採集できた。

      
             母岩付き満バン柘榴石
                 【横 50mm】

    一方、分離結晶ですら憧れの的、という子どもたちや学生等のために、新たな産地を探し求
   めて和田峠周辺を探査していた。満バンザクロ石の母岩、流紋岩の露頭がある「和田嶺トン
   ネル」附近を探査していると、トンネルの入口に長野県上田建設事務所が作成した説明板が
   設置されているのに気づいた。

      
                エスペラント語碑文 説明板

    昭和8年(1933年)1月、当時日本一高い(1,534m)地点にあるトンネルが完成した。
   工事を担当した新潟土木出張所長だった青山 士(あきら)の発案でエスペラント語の碑文が
   はめ込まれた、とある。
    エスペラント語の存在は知っていたが、われわれの生活に密着したトンネルの碑文にエスペラ
   ント語で書かれたものがあるなどとは思いもよらず、青山 士に興味を覚え調べてみた。
    青山は東京帝大で土木を学び、クリスチャンとして、内村鑑三の薫陶を受け、卒業後唯一
   の日本人としてパナマ運河の建設に携わった。帰国後内務省に入り、荒川放水路や新潟県
   土木事務所長として信濃川分水工事の立て直しを指揮し、戦前の二大国家プロジェクトを
   成功させ、現在でも自然災害から国民の生命・財産を守り続けている。
    その後、内務省の技術官僚のトップ・内務技監に就任したが、文官優位の内務省内の軋
   轢(あつれき)の責任を取る形で退官した。
    この間、土木学会会長に就任したが、戦後は質素な生活を送り、1963年に84歳で亡くな
   った。

    オリンピックの新国立競技場計画が白紙に戻るなど、公共工事(国家プロジェクト)のあり方
   をもう一度見直す時期に来ているようだ。
    その際、公共事業を「人類の為、国の為」と位置付けた青山の私心のない清廉・誠実な生
   きざまは参考になるはずだ。
    このページをまとめるにあたり、高崎 哲郎氏の「評伝 技師・青山士の生涯」に負うところが
   大きかったことを明らかにしておく。
   ( 2015年7月〜8月調査 9月報告 )

2. 「和田嶺トンネル」とエスペラント語碑文

 2.1 和田嶺トンネル
      和田嶺トンネルは、旧中山道(”一日中山道”ではありません。為念)和田峠を通る国
     道142号線旧道の諏訪側と上田側を南北につないでいる。標高1,534mに完成した和
     田嶺トンネルは当時、「国道ノ標高トシテ本邦第一ナリ」とされた。最近の道路地図では
     標高1,520mと表記されていて、トンネル工事で道路面を切り下げた結果、標高が低く
     なったようだ。名前も単に「和田トンネル」となっていて、もっと標高の低いところに後からでき
     た「新和田トンネル」(有料)と対になっているようだ。

      
                 「和田嶺トンネル」周辺地図

      トンネル周囲には灰白色の「流紋岩」の露頭が見られるが、ザクロ石は見当たらない。草
     下先生の「鉱物採集フィールドガイド」の記述は誤解を招きやすいが、諏訪方面から旧道
     を通り「和田嶺トンネル」を抜けて霧ヶ峰と美ケ原分岐の手前の沢が今では採集禁止に
     なっているザクロ石の産地だった。「フィールドガイド」にある「料金所」が廃止になったのは
     21世紀になるかならないころだった記憶がある。

      土木に関してズブの素人の私の眼には、不便な片側交互通行のトンネルにするより対面
     通行できる切通しにした方が工事費用も安く、後々便利だったのではないかと通るたびに
     思う。

         
                    諏訪側                                   上田側
                                    「和田嶺トンネル」

 2.2 エスペラント語碑文
      エスペラント語の碑文は、諏訪側入口にある。門型になったレリーフの左右の柱の上、横
     木の下にあり、それと言われなければ見落としてしまいそうなものだ。

         
                     左側                                     右側
                                     エスペラント語碑文

      碑文はブロンズの鋳物で作られていて、左右にそれぞれの次のように記されている。

      左   ” Por la Vojo de la Homaro ” (人類の願望の為め)

      右   ” Kun Penoj de la Homaramo ” (人類愛の努力をもって)

      「技師・青山 士の生涯」に、碑文選定のいきさつが次のように記されている。

       『 ・・・・和田嶺トンネルは昭和8年1月に完成。工事責任者が英文の撰文を所長
         青山に見せ許可を願った。青山は「すでに考えているよ」と言って紙に書かれた
         エスペラント文を示した。・・・・』

      それが、上記のエスペラント文なのだが、この本では右側の碑文が ” KUN PEN OJ ”
     となっている。この本が正しくてトンネルの綴りが間違っているのか、単なる誤植なのか、それ
     ともエスペラント語ではどちらも同じ意味なのか、エスペラント語のわからない私には判断が
     つかない。

3. 青山 士の生涯【出生からパナマ運河掘削まで】

 3.1 青山家の人々
      青山 士は、明治11年(1878年)に青山徹・ふじの3男として、静岡県豊田郡(現磐
     田市)に生まれた。名前の”あきら”は、生まれ年の”十””一”を組み合わせて名付けられ
     た。
      青山家は、江戸時代に庄屋の傍ら郷宿(ごうやど:宿泊業)を営んで財をなし、士の祖
     父・宙平の郡長などを歴任する政治家としての半面、私財をなげうって人民救済事業や
     教育施設の整備を率先して行う姿は士たち兄弟に影響を与えたはずだ。

      父・徹は、仕事や家庭を顧みず禅に凝り、「托鉢僧」の修行を行う奇人で、その一方で
     酒を愛した、というより酒乱で、士が生涯酒・たばこを嗜まなかったのは父の影響だった。

      士の兄、長男・陽一は、柏原家の養子になっている。長男が養子に出たのは徴兵拒否
     のためとされる。
      次兄・紀元二(きげんじ)は、徴兵拒否のため名前だけ市川家の養子になり、実家で暮
     らしていた。東京帝国大学工科大学を卒業後、明治38年日露戦争で戦死している。
     33歳だった。

      明治5年に徴兵令を発布した。この中で徴兵免除措置を設け、一家の主人や一人っ
     子、一人孫、そして養子らを徴兵免除とした。紺結果、徴兵逃れのための養子縁組が続
     出した。
      長男、次男が養子に出たため、3男の士が青山家の跡継ぎとなる。

      明治25年、小学校を卒業した士は上京し、祖父・宙平、次兄・紀元二と同居すること
     になる。築地にあった尋常中学(後の府立一中、現日比谷高校)に通学した。
      明治27年、祖父・宙平が東京を引き払って帰郷する。相場の失敗によるとの説もある
     が、いずれにしても青山家の家運が傾き出していた。士と紀元二は、本郷の「敬業館」で
     寄宿舎生活を始める。
      明治30年、士は第一高等学校予科二部に入学した。寮の同室者は、浅野猶三郎
     (1878年−1944年)だった。浅野は、内村鑑三の跡を歩み、無教会主義の伝道者と
     なっている。

 3.2 キリスト教との出会い
      明治維新、そして南北戦争後のアメリカからプロテスタント宣教師が日本を訪れ、横浜、
     札幌、熊本、京都など日本各地で布教活動を展開した。
      札幌農学校第2期卒業生の内村鑑三は在学中にキリスト教徒となった。内村の同期生
     10人の中には、新渡戸稲造、広井勇(青山の大学時代の恩師)などクリスチャンの学者・
     文化人が輩出する。
      「アメリカ伝来のプロテスタンティズムを受け入れたのは、幕臣や佐幕藩士の子弟で、薩長
     権力に批判的な立場のものが多かった」、と説く学者もいる。

      内村の名著『後世への最大遺物』が、青山を内村の門に向かわせたようだ。内村が引用
     したイギリスの天文学者ジョン・ハーシェル(1792年−1871年)の言葉、「我々が死ぬとき
     は、我々が生まれた時より世の中を少なくてもよくしていこうではないか」
や内村が力説した
     「人民救済を目指した土木事業がいかに『後世への最大遺物』たり得るか」は、人生の目
     的を模索していた青山に影響を与えたことを南原繁元東大学長ら友人が認めている。

      「大賀ハス」で有名な青山の信仰上の友人・大賀によれば、「青山が内村の門をたたい
     たのは、明治32年、青山が一高3年生の時だった」
      明治33年、青山は東京帝国大学土木工学科に入学後、毎週日曜日に内村宅での
     「聖書購読会」に欠かさず出席するようになる。
      青山を師の内村がどのように見ていたか、「聖書之研究」24号に「人物評」が残されて
     いる。

       「青山君は(帝国)大学の工科生なり」、で始まる。内村は、郷里の友人が帝国大学
      に入学すると、「傲然として予が挨拶に応ぜんとも」しないことを怒り、「爾来予は心に
      嘆じて且つ怒て謂へらく、赤門奴輩
(やつばら)果して天狗なりと」
       「然るに予は青山君を見たり、予は君が微笑を以て三寸の舌を蘊(つつ)み、多くを語
      らずして実は大に心中に語り居る人なることを看たり。而して予輩は本夜の談話に於て
      君が志望の大学以上にあることを解せり。予輩は今君について多くを語るを好まず。唯
      願くは君の健在ならんことを祈る」

      前途有為な青年たちが内村門下生になった。志賀直哉、有島武郎、小山内薫、魚住
     折蘆、大賀一郎など後年学会や思想界で名を成す青年が少なくなかった。しかし、内村
     の教えを生涯持ち続けるのがいかに難しいかは、転向して小説『背教者』を残した小山内
     薫の例だけではなかった。
      内村は、寡黙な青山の中に精神的な芯の強さを見出すと同時に、外見から受けるひ
     弱い印象から健康を心配するなど、好意的な記述がここだけでなく、「日記書簡集」にも
     たびたび見られ、内村の激しい気性からして稀有のことのようだ。

      
           内村鑑三を描く文化人切手
           【昭和26年3月23日発行】

      「聖書之研究」の次号には、次のような青山の感想録(祈祷文)が載せてある。

       「 ・・・・・此賤しきものをも爾の器とし給ひて、爾の為め、我国の為め、我村の為め、
         我家の為めにお使ひ給はんことを。・・・・・・・」

      これに対する内村の注が次のように記されている。

       「 斯かる祈祷を捧げ得る人が工学士となりて世に出るときに、天下の工事は安然
        (安全)なものとなるべく。亦其間に”収賄の弊”は跡を絶たれ、蒸気も電気も
        真理と人類との用を為すに至て、単に財産を作るの用具たらざるに至らん。
         基督教は工学の進歩改良に最も必要なり。                     」

      これを青山は読んだはずで、この後、師・内村が期待(予見)した通り土木技術者として
     の人生を歩むことになる。内務省に入ってからは”収賄の弊”に異常なほど神経を使った。

 3.3 パナマへ【渡米生活】
      明治36年7月、青山は東京帝国大学工学部土木工学科を卒業した。天皇陛下から
     成績優秀者に銀時計を贈られる「恩賜の銀時計組」だったが、この名誉を親兄弟にも伝
     えなかったし、銀時計を周囲の人に見せることもなかった。

      恩師・広井勇は、自らの海外留学やアメリカ・ドイツで河川改修や橋梁の設計・施工に
     携わった経験から、「出稼ぎをするよう」卒業生に求めた。

      青山は、明治36年6月に発刊した「東京経済雑誌」に掲載された峰岸某の「パナマ運
     河視察談(帰国報告)」を読み、パナマ運河開削工事に参加を決意した。卒業の1ケ月
     後の8月、米コロンビア大学土木工学科バア教授宛の広井教授の紹介状をもって横浜
     港から単身出発した。

      小山内の『背教者』には、青山の横浜出発前の送別の様子も描かれている。

       「・・・・何しろ天岡(青山のこと)さんは名誉だ。学校を一番で卒業して、直ぐアメリカへ
        雇はれて行くなんて全く豪
(えらい)や。帰ってくれば、勿論博士ものだ。・・・・・」

      青山のパナマ往きは、”アメリカに雇われて”とあるが、子息の多恵氏が晩年の本人から
     「文字通りの海外への出稼ぎで、汗や泥にまみれて働くことを覚悟して出掛けた。政府から
     の支援など何もない。働いて得た賃金の大半を青山家の家計を支えるために仕送りして
     いた」、と聞かされたという。
      渡航費用50ドル(当時100円、現在の約50万円)は、身内などから借金してでかけた
     ようだ。3男でありながら、実質的な跡取りになった士の肩に青山家の家計が重く圧(の)
     し掛かっていたのだ。

      2週間ほどの船旅でシアトルに到着した。青山の滞米時代の資料はないに等しい。青山
     が昭和14年に出した「ぱなま運河の話」によれば、翌年春までの半年間、シアトル近郊の
     町(タコマ?)で、パナマ往きの旅費や滞在費を捻出するためのアルバイトを続け、夜は移
     民を対象とした夜学で英語の勉強をしたようだ。
      当然、シアトルに着くと同時にバア教授に手紙で「パナマ運河で働きたい」旨を伝えたは
     ずだ。

      パナマは、カリブ海と太平洋を最短で結ぶ地峡にあり、1848年戦争でアメリカがメキシコ
     から取得したカリフォルニアで金鉱が発見されゴールド・ラッシュが起きるとパナマ地峡の交
     通量は一挙に増加した。
      ニューヨークの金融業者がパナマ鉄道会社設立を計画し、コロンビア政府から地峡を
     横断するための交通手段を建設する独占権を取得した。現地調査の結果、鉄道を敷設
     することになり、全長48マイル(77km)のパナマ鉄道が5年の歳月と8,000万ドル、そして
     1万人を超える尊い犠牲を払って1855年に完成した。マラリアを媒介するハマダラ蚊と
     人類の戦いだった。
      万延元年の遣米使節一行が1860年にこの鉄道を日本人として最初に利用した。

      
                   パナマ鉄道

      パナマ地峡に運河を開削して大西洋と太平洋をつなごうという計画はスエズ運河の建設
     者して世界的名声を博したフランス人・レセップスによって大きく実現の方向に動き出した。
      レセップスは、パナマ地峡に海面式運河の建設を計画し、パナマ運河会社を設立して
     資金を募り、当時この地を支配していたコロンビアから運河建設権を購入。フランスの主導
     で1880年1月1日に建設を開始したが、黄熱病の蔓延や工事の技術的問題と資金調
     達の両面で難航し、1888年には宝くじ付き債券を発行し資金を賄ったが、1889年に
     事実上計画を放棄した。

      運河建設はアメリカ合衆国によって進められることとなった。太平洋と大西洋にまたがる
     広い国土を持つアメリカにとって、2つの大洋を結ぶ運河は経済的にも軍事的にも必須の
     ものであると考えられた。
      パナマ地峡は自治権をもつコロンビア領であったが、パナマ運河の地政学的重要性に
     注目したアメリカ合衆国は、運河を自らの管轄下におくことを強く志向した。
      1903年1月、ヘイ・エルラン条約が結ばれ、1903年11月、この地域はコロンビアから
     独立を宣言しパナマ共和国となり、パナマ運河条約を結び、運河の建設権と関連地区
     の永久租借権などを取得し工事に着手した。

      1903年から工事を始めたが、当初の数年間は疫病の流行などにより工事は遅々として
     進まず、海面式運河にするか閘門(こうもん)式運河にするかの建設方針さえ決定してい
     ないありさまだった。
      1905年に着任した主任技師ジョン・フランク・スティーブンスが人夫へのマラリアや黄熱病
     の感染予防のためゴーガス医師と蚊の駆除に尽力し、その結果疫病はほぼ根絶された。
     また、スティーブンスは福利厚生や労働者たちの労働環境整備にも力をそそいだ。そして
     スティーブンスは現地の地勢を調査した結果、閘門式運河が新運河には最適であるとの
     結論を下し、議会はその判断を承認した。1907年、精神的疲労によりスティーブンスは
     主任技師を辞した。
      後任のジョージ・ワシントン・ゲーサルスは労働者の不満を吸い上げる自由面接制度を
     整え、工事週報の発刊によって工事の現況を労働者たちにも可視化し、さらに工区ごと
     に工事を分担させることで工区間の競争意識を高めた。この結果、工事のテンポは格段
     に早くなった。
      1910年にはガトゥンダムが完成し、1913年にはダムが満水となってガトゥン湖が誕生
     した。一番の難工事であったクレブラ・カットの開削も完了し、パナマ運河は予定より2年
     早く1914年8月15日に開通した。
      結局、この工事には3億ドル以上の資金が投入された。運河収入はパナマに帰属する
     が、運河地帯の施政権と運河の管理権はアメリカが握る。

      
                   パナマ運河

      青山は、運河条約成立の情報を地元紙で読み、明治37年(1904年))3月ごろシアト
     ルを発ってニューヨークに向かった。出発前にバア教授に宛てた英文の手紙の写しが残され
     ている。

       「 拝啓
         私は広井教授の助言に従い、貴下のご配慮をいただき、(パナマで)土木工学の
        知識を直接得るべく、昨年8月日本を発ち、この町(シアトル)に参りました。
         ・・・条約の批准も済み、貴下が理事会の理事の一人に就任したこともしりました。
         私はただちにニューヨークに向かい、・・・貴下にお会いし支援がいただけます事を
        念じて。          敬具                              」

      ウイリアム・H・バア教授は、アメリカ土木学会の泰斗であるばかりでなく、明治期から大正
     期にかけての日本からの土木技術者や留学生の恩人でもあった。
      青山の恩師・広井教授もバア教授に直接教えを受けた日本人学者の一人だった。

      ニューヨークに着いた青山はバア教授を訪ねた。しかし、パナマに行く機は熟していなかっ
     た。教授から紹介状を貰い、ニューヨークの北48マイルのマウント・キスコでダム建設に伴う
     鉄道路線変更工事に携わる。
      主任技師・ノートンの下、無給で2ケ月間働き、貴重な経験を積む。後年青山は、後輩
     の技師に「測量の基本は工事の責任者が自ら器械類を担いで運び、一番良いところに
     器械をセットして読み、それを助手に書き取らせることだ」、と指導した。

 3.4 パナマ運河開削工事に身を投ずる
      1904年3月、アメリカ政府はパナマ運河建設のため、ジョン・ウオーカーを理事長とする
     「パナマ地峡運河理事会(ICC)」を発足させた。測量が一向に捗(はかど)らず、風土病
     対策に後れをとっている現状に業を煮やした政府は、「お役所仕事」を徹底排除し本格
     的測量に入るよう求める。しかし、灼熱地獄のなかで過酷な労働を強いられるので、アメリ
     カ国内からの優秀な技術者の応募がすくなく、技術者の確保も思うように進まなかった。
      5月、バウ教授はウオーカー理事長に「青山という日本人とフェランという米人をドーズ班
     長が統括する末端測量員(rodman:ポール持ち)に採用したい」という趣旨の手紙を書
     いた。
      5月31日付の「国防省」からの正式な採用通知には、青山の雇用条件は、末端の測量
     員で、無試験採用、バウ教授の紹介、月給75ドル、パナマまでの運賃はICCが負担する。
      75ドルは日本円で190円くらいになる。高等文官の初任給が50円、大卒銀行員の初
     任給が35円だったことを考えると破格の高給と言える。青山は、給与の大半を日本への
     仕送りに充てた。
      6月1日、客船ユカタン号に乗り込みコロンに向けてニューヨーク港を出港した。船内で政
     府への忠誠を誓う宣誓書と契約書にサインをして、外国人技師として正式に工事参加が
     認められた。

      6月7日、コロン港に着いたが不衛生なため船内で一晩過ごし、翌日11kmほど歩いて
     ドーズ班長が指揮するトリニーダード川測量部隊の一員になった。
      青山は猛暑の中、テント生活を続けながら、野外測量班員として蚊よけのネットを被り
     ダム候補地の測量と地質調査を続けた。猛獣、大蛇、猛禽類に出くわすこともたびたびで
     大きな蜂や蟻に刺されることも珍しくなかった。
      明治38年(1905年)には、「黄熱病」が大発生した「恐怖の年」と呼ばれ、帰国者や
     現場から逃亡する者が続出した。しかし、青山は2年半に及ぶ汗と泥にまみれたパナマで
     のジャングル生活を乗り切った。

 3.5 次兄・市川紀元二の戦死
      明治37年(1904年)2月、士がシアトルを発とうとしていたころ、日露戦争が勃発した。
     次兄・紀元二は、帝国大学工学部で電気工学を学び、明治30年に卒業し電灯会社
     (東京電力の前身)に入社した。
      紀元二には、専門外の頭蓋骨の形からその人を論じる「骨相学」にものめり込み、2冊の
     本を著すほどだった。
      紀元二は、明治38年3月7日、妻と幼い息子を残して戦死したのである。帝国大学卒
     では珍しい志願兵で、当時中尉だった。なぜ妻子を残して志願したかは謎だ。
      戦死した紀元二は、帝国大学卒の英雄としてもてはやされ、「軍神」となり、戦争終結後
     剣を抜いた突撃姿のブロンズ像が大学運動場南側の構内に、軍服姿の立像が郷里の
     中泉駅東脇に建立された。
      中泉駅の像は府八幡神社境内に移され、戦後GHQによって撤去された。大学構内の
     像は、戦前反戦学生の批判の的となった。戦後撤去され、静岡市の護国神社に移され
     た。

     【後日談】
      2015年9月はじめ、野暮用があって静岡市に行ったついでに護国神社に立ち寄った。
     神社の人に聞いてはじめわかる場所の木立の中に隠れるようにブロンズ像はあった。台石
     に埋め込まれたプレートには「工学士 市川紀元二像」とある。

         
                全体                              銅像
                         市川紀元二像【新海竹太郎作】

      青山は、この鬼気迫る突撃前の兄・紀元二の姿を好まず、見ようともしなかった。「兄は
     無駄死にだった」、と身内に語った。

 3.6 突然の帰国
      青山は2年半に及ぶジャングル生活から大西洋岸の港湾建設現場クリストバル工区に移り、
     月給115ドルの測量技師補(levelman)になった。クリストバル港湾工事時代、青山と
     アメリカ人技師が150ドルに昇給・昇格した。ICCの評価では、青山は ” excellent
     transitman (優秀な測量技師)”で、アメリカ人は ” has had considerable
     service (まずまずの仕事ぶり)"だった。
      青山は、外国人技師としては異例の昇給と言えるだろう。

      明治39年(1906年)6月、ガトゥン・ダムの巨大工事が開始される。設計陣が不足し、
     測量技師として現場を指揮していた青山は、その実力と勤勉な勤務ぶりを買われて設計
     班の一員になる。この異動には「アメリカ政府人事委員会」の委員長の承認が必要であっ
     た。青山の採用通知が「国防省」からのものであったことからわかるように、パナマ運河は軍
     事施設の性格もあり、設計という国家軍事機密にかかわることを外国人に担当させてるこ
     との可否を伺ったのだ。明治43年(1910年)4月に許可された。

      青山は、大西洋工区の設計部(Design Force)の10人の設計技師(draftman)
     の一人として、ガトゥン・ダム及び閘門の測量調査や余水堰と閘門の設計・製図を精力的
     に行った。
      青山の月給は、175ドルに昇給。1ドル2円くらいだから、月給350円、日本国内なら
     省庁のトップ・顕官に勝るとも劣らない。
      明治39年(1906年)から、ルーズベルト大統領の発案で、現地作業員をゴールド組と
     シルバー組に分けた。2年間勤務するとそれぞれ金メダル、銀メダルを与えられる褒章制度
     だった。金メダル組は白人の上級技術者、銀メダル組は黒人が多く、青山は金メダル組だ
     った。
      青山の次女宅には、青山が獲得した純金のメダルとそれを包む赤い布が残されていて、
     白い布片に青山が「汗ト涙トヲ以テ獲タル」と青山自身が筆で書きこんでいる。

      このころから、青山の緊急連絡先はシアトル在住の実弟・衡一(こういち)になる。3つ下
     の衡一は、旧制山口高校文科2年の時に退学、アメリカのシアトルに移民として単身移住
     した。日本から妻を娶ったが、下層民としての生涯を余儀なくされたようだ。

      青山の仕事は、設計陣に加えられたといっても運河の中枢部の設計からは外されていた。
     明治44年(1911年)11月、パナマ運河がほぼ8割方完成したところで、突然60日の休
     暇をとって帰国する。パナマ在住7年半だった。その後辞表を送った。
      アメリカ西海岸を中心に反日運動が高まり、パナマ運河のような軍事的施設でアメリカ
     市民権をもたない日本人技術者が働くことが難しくなっていた。「青山はスパイだ」と地元
     紙に報じられたこともあった。
      事態を深刻に受け止めたバア教授らは、「早く戻ってこい。アメリカ市民権は取ってやる」
     と激励したが再びパナマにはもどらなかった。辞表は明治45年1月正式に受理された。

      日本人技師・青山に対する評価は極めて高く、ICC理事長宛辞表の添え書きには
     ” His service and conduct have been excellent "(最優秀の仕事ぶり)
     と記されている。

4. 青山 士の生涯【内務省入省から晩年そして死】

 4.1 内務省に入省
      明治45年1月、帰国途上に青山はシアトルの弟・衡一と再会した。衡一は日系移民の
     貧しい生活を送っていたので、パナマで蓄えた現金の一部を与え、日本に戻った。青山は
     33歳になっていた。
      横浜港で出迎えたのは末弟・杉村良介だけで、内村門下生の姿は一人もなかった。

     恩師・広井勇の自宅を訪ね帰国報告を兼ねて就職を相談した。青山は広井の紹介状を
    持って内務省を訪れ、近藤課長と面接し、2月内務技師に採用され任官する。

     信濃川・大河津分水の掘削工事を打診されるが断ると荒川放水路建設工事の担当を
    命ぜられる。後に大河津分水工事に携わることになるとは、神のみぞ知るだった。

 4.2 「荒川放水路」工事
     青山が担当した荒川は、関東平野を蛇行して東京湾にそそぎ、繰り返し大洪水をおこし
    文字通り『荒ぶる川』と恐れられていた。
     特に、明治43年は8月初旬から長雨が続き、荒川源流域の長野・埼玉・山梨3県にまた
    がる甲武信ヶ岳付近では900〜1,200ミリの雨が降り続いた。この豪雨で埼玉県内の荒川
    の堤防が13ケ所決壊した。利根川・江戸川・荒川の流域の低地は泥水で水浸しになった。
    被害総額は1億2千万円(当時)に上った。

      
                  東京下町を襲った明治43年8月の大洪水

     帝都・東京の頭部の深刻な事態に、帝国議会と内務省が動き出した。内務省は関東一
    円の治水計画を作成し、その主な事業として江戸時代宿場町として栄えた岩渕町から砂町
    地先まで22kmの放水路を計画した。
     計画から1年後の明治44年に事業は着手された。青山が荒川放水路を担当したのは
    この直ぐ後だった。

     青山は測量から設計施工までを手掛け、泥まみれになることを厭(いと)わず早朝から現
    場に出て工事を指揮・監督した。脚にゲートルを巻き、作業着姿で腰に手拭いをぶら下げ
    るという独特のスタイルはこの頃始めたようだ。

     大正4年4月、青山は土田むつと結婚する。新郎37歳、新婦28歳、当時とすれば晩婚だ。
    むつは兵庫県丹波地方の大地主の娘で、京都市内の高女を卒業したクリスチャンだった。
    嫁入り道具には、高価な国産オルガンとフランス製のバイオリンがあった。

     大正4年10月、青山は岩淵水門工事主任となる。軟弱な地盤のため、岩淵水門の設
    計施工は放水路計画の中で最重要かつ最難関の工事の一つとされた。
     旧荒川(隅田川)に一定の水量を流し、余剰分を放水路に流す機能のほか、5つのゲート
    のうち1か所は船が通れるようにするという特殊な構造でもあった。
     青山は工事期間の短縮と工事費の削減を狙い、パナマ運河での経験を生かし、日本国
    内では実験段階だった鉄筋コンクリート工法を導入し、当時の常識を打ち破り20mも川床
    を掘り下げる工法を提案し、技監に承認を求めたところ反対されたが”若気の至り”で、譲
    らず、結局折衷案で着手することになった。
     内務省幹部の反対を押し切り完成した岩淵水門は、大正12年の関東大震災でも被害
    を受けず、戦後の地盤沈下にも耐えてその姿をとどめている。
     地元の住民は、岩淵水門の金属製部分が真っ赤なさび止め塗料で塗られていることから
    「赤水門」と呼んだ。

     【後日談】
       骨董市で戦前の岩淵水門を描く絵葉書と荒川郵便局の風景印を入手したので紹介
      する。
       5つのゲートの右端は船が通れる構造で、鉄製の部分が赤い塗料で塗られているのが
      わかる。風景印の一部には、水門が描かれている。

         
                       絵葉書                               荒川局の風景印
                                      岩淵水門(「赤水門」を描く

      岩淵水門工事中のある年の暮れ、工事作業者全員を水門近くに集めて「野外天ぷら
     料理大会」を開き、1年間の苦労を労(ねぎら)った。その費用は青山がポケットマネーで
     全額負担した。”自腹を切った”のだった。
      また、作業中の事故による作業員とその家族の悲劇を目の当たりにした青山は、パナマ
     運河開削工事でのアメリカ政府の方式を真似て、労働災害保険を導入したとされる。
      これらのエピソードは、内村が青山に期待した”収賄の弊”との絶縁を守り、7年半に及ぶ
     パナマ運河開削に携わる中で技術を習得するだけでなく、建設現場で働く労働者とその
     家族の生活の向上・安定まで思いやる心を学んできたことを示しているのではないだろうか。

      青山は、大正7年7月から荒川改修事務所主任となり、荒川改修と放水路開削の工
     事のすべてを任される。大正8年9月、同窓で12歳年下の技師・宮本武之輔が着任し、
     下流部の難工事小名木川閘門の設計を手掛ける。青山と宮本は奇しき縁で結ばれる。

      大正12年9月1日の大震災では夕方までに放水路開削工事現場に15万人が避難し
     た。寺や学校を開放して避難民を収容したが、それでも9万人余りが堤防上に残された。
     流言蜚語(デマ)や人種差別による残忍な殺戮事件が発生し、その遺体は放水路内に
     も捨てられ、被害者の中には放水路工事で働いていた朝鮮人もいた。
      工事責任者の青山がこれらの事態にどのように対応したのか、伝える資料はない。

      大正13年(1924年)10月12日、着工から14年目、荒川放水路通水式が岩淵水門
     右岸堤で盛大に挙行された。
      水門近くに建つ放水路完成記念碑は、富士川の丸みを帯びた転石を用いたもので、
     それまでの四角張った石碑とは違っている。記念碑の費用は、犠牲者を弔う気持ちから
     工事に携わった者たち全員で負担した。

      
                  「荒川放水路完成記念碑」

      碑には次のような碑文が刻まれている。青山にとって、工事に携わったずべての人々が
     『我等ノ仲間』だった。

       『此ノ工事ノ完成ニアタリ多大ナル犠牲ト、労トヲ払ヒタル我等ノ仲間ヲ記憶セン為ニ
                 ・神武天皇紀2582年・荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ』

      5日ほど後の17日、52歳の内村鑑三は”弟子”たる東京女子高等師範(現御茶ノ水
     大)の学生を連れて岩淵水門を訪れた。案内したのは青山だった。この日の出来事を内村
     は次のように日記に書き残している。

       『 ・・・”愛する友”(青山のこと)の事業成功を感謝し、その長く共に
         福(さいわい)せんことを祈った。風は寒くあったが心は温かく、・・・・・・・・・    』

      内村にとって青山は”弟子”ではなく、”友”しかも”愛する友”だったのだ。

 4.3 「信濃川・大河津分水自在堰」の陥没事故
      昭和2年6月24日午前8時、内務省土木局は大混乱に陥った。折しも梅雨の時期
     内務省が威信をかけて巨費を投じて建設した信濃川・大河津分水自在堰の8連の内の
     3連が激流に洗われて、突然陥没したのだった。
      下の図の「自在堰跡」にあった堰が壊れ、水量をコントロールする機能が失われ、信濃川
     の水は直接日本海に注ぐことになり、もともとの信濃川(本流))への水が涸渇してしまった。
     田植えを終えたばかりの水が欲しい時期に水がなくなり、川沿いの農民が農業用水の奪
     い合いを始め、大混乱に陥った。

      
                    信濃川の水の流れ

      全長367km、日本一の長さと水量をもつ信濃川は江戸時代から「暴れ川」だった。毎
     年のように氾濫を繰り返し、流域住民の生命・財産を奪った。
      信濃川の水を分けて日本海に流し込む分水路開削計画が幕府に請願されたが、莫大
     な費用がかかることなどを理由に認めなかった。
      明治初年、皇室御下賜金、国の補助金、地元負担金で分水工事に着手したが、地
     滑り事故が発生したり、工事反対の一揆などで継続を断念した。
      明治27年夏の「横田切れ」は明治期最悪の水害だった。300mにわたって信濃川の堤
     防が決壊し、75人が死傷、2万5千戸が流出、流域は3ケ月にわたって泥水に没した。そ
     れでなくても豊かではない農民たちは、収穫を前にすべてを失い、「子女は売られた」。

      内務省は、信濃川の水を日本海に流し込む分水路を計画し、明治42年に大河津村
     から寺泊町まで10km」の分水路計画に着手した。地滑りや風土病などで工事は難航に
     難航を極めたが、着工から13年後の大正11年に通水し、東洋一の近代的堰が完成し
     信濃川は2度と暴れられないと思われた。

         
                米国製機械による掘削                        人力による土砂運搬
                                 「大河津分水工事」を描く絵葉書

      しかし、5年後の昭和2年、当時最高の設計・施工と思われた自在堰はもろくも激流の
     中に陥没した。
       内務省の威信は地に堕ち、応急復旧工事が一段落して、新潟土木出張所長はじめ
     幹部は更迭された。

 4.4 「信濃川・大河津分水自在堰補修」工事
      青山は新潟土木出張所長に任命され、悲壮な決意と覚悟をもって昭和2年12月に単
     身着任した。その後、妻子を呼び寄せた。
      青山は自在堰陥没の第一報を聞き、家族に「砂利を食ったからこんな無様(ぶざま)な
     ことになった」、と吐き捨てるように言ったらしい。
      ”砂利を食う”とは、”手抜き工事をする”の意味らしい。事実、内務省土木試験場が
     自在堰陥没事故の原因調査結果を「設計ノ不備、工事施工ノ不適当、維持上周到ノ
     注意ヲ欠キタルコト」、つまり設計・施工・メンテの3つ揃ってダメだったことを指摘している。

      青山は「技術は人なり」を信じていた。陥没した自在堰の補修工事にあたり、荒川放
     水路工事で一緒に働いた内務省技術課長・宮本武之輔を現場責任者(主任技師)に
     据え、年明け1月に赴任した。青山が宮本の技量を求めたとされ、宮本も本省課長から
     現場主任技師への「降格」を承知で青山の下で働くことを望んだ。

      青山の期待通り宮本は情熱をもって仕事を進める。職員を集めた着任の挨拶で、幾度
     か絶句し、涙を流しつつ次のように述べた。(口語訳 by MH)まさに、不退転の決意だった。

      『 ・・・・万が一にも今回の工事が失敗したら、数百万円の国費を無駄にした不面目を
        国民に謝らなければならない。当然、内務技師として先輩や同僚に顔向けできぬ。
        今回の工事は内務省の直轄工事であり
(自在堰陥没事故の)雪辱戦であり、昨年
        の災害の犠牲になった同僚の弔い合戦でもある。・・・・・・・           』

      しかし、事務所内の人事関係は複雑だった。幹部は更迭されても、自在堰担当の職員
     の多くはそのまま残っていたと思う。いわば、倒産会社の再建に乗り込んだようなものだ。
      2月、3月の吹雪の日には、労働者が現場に出ることを拒むこともあった。宮本は、労働
     者の中に入り、酷暑、酷寒の日にも先頭に立った。
      宮本は、「信濃川補修工事の歌」などの労働歌を作り、現場で歌わせ、今でいう工事
     現場の活性化を図った。さらに、青山は現場の活性化策として作業風景を映画に撮る
     ことを宮本にアドバイスする。アメリカ政府がパナマ運河開削で使った手法を取り入れる
     よう薦(すす)めたのだ。
      宮本は四季折々の作業現場風景を16ミリフィルムに撮り、自らフィルムを編集し、タイト
     ルまでつけて作業員とその家族を招いた「映画の夕べ」で上映した。こうして、現場の労働
     働意欲は高まった。
      さらに、宮本は新聞社の求めに応じて工事の進捗状況を地域住民に積極的にPRし、
     地元の不信感を払拭するのに務めた。これも、パナマ運河工事でゲーサルスが発行した
     「工事週報」を真似たのかも知れない。
      こうして、昭和6年4月22日、宮本が設計した可動堰が完成した。

      昭和6年6月20日、信濃川・大河津自在堰補修工事竣工報告祭が現地で開かれた。
     補修となっているが陥没した自在堰に代わる可動堰を上流側に新たに造る工事だった。
     青山は内務省新潟土木出張所を代表して挨拶し、その中で作業に携わった全員の努力
     と勉励に感謝している。
      可動堰の延長線右岸(上の図参照)に竣工記念碑を建て、その除幕式も行われた。花
     崗岩のブロックを組み合わせて可動堰ピア(堰柱)を象(かたど)った高さ4m、幅4.4mの
     大きなものだ。

      
               信濃川補修工事竣工記念碑

      碑の銘板には、日本語とエスペラント語で次のように刻まれている。

      表面     「萬象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ」
              ” FELICAJ ESTAS TIUJ KIUJ VIDAS LA VOLON DE DIO EN NATURO ”

      裏面     「人類ノ為 国ノ為メ」
              ” POR HOMARO KAJ PATRUJO ”

      碑文の片隅に青山のイニシャル ”A"と”A"を組み合わせたサインが小さく彫られている。

      聖書の一節を思わせるような文言を一般の人びとにとってなじみのないエスペラント語を
     併記するという前代未聞の碑文を青山は1年ほど前から考えていた。
      治安維持法が改正され思想弾圧が始まり、軍部・右翼が台頭しテロが横行し自由に
     ものが言えなくなる時代へ入っていく中で、内村の「非戦論」を信じる青山はこれらの動き
     に抵抗を示したとも考えられる。

      和田嶺トンネルのエスペラント語のみの碑文は、信濃川補修工事竣工記念碑の碑文と
     合わせて一つと考えると青山の想いがよりわかりやすい。

 4.5 内務技監時代
      内務省は、昭和9年5月11日付で青山を技術技監に任命した。内務省土木局長は
     事務官僚が占め、技術技監は技術官僚の最高ポストで、歴代博士号を持つ技師が就
     任し、学士の青山が任命されたのは意外な人事と受け取られた。
      当時、土木局内は東京と大阪出張所を中心に技監人事を巡る派閥的な動きが目に
     余り、内務省首脳がいかなる派閥にも属さず技術者として実績を残してきた青山を抜擢
     した結果だった。
      下世話な言い方をすれば、嫁・姑・小姑が互いにいがみ合っている家に婿入りしたような
     もので、技監時代は居心地の良いものではなかった。

      内務技監となった青山は、就任挨拶から一貫して官僚として自らを厳しく律するように
     同僚や若手官僚に求めた。
      昭和9年6月、土木技術者の親睦団体「土木協会」の会長に就任し、その夜の晩餐会
     で明治20年に広布された「官吏服務規律」を朗読し、『我々官職にあるものは、如何に
     団体を作っても何もできない。それは、只今読み上げた官吏服務規律があって、官吏は
     これに縛られて何もできない。』、と述べ、内村に期待された”収賄の弊”に陥らないよう
     地方の技術官僚に求めたものだ。

      昭和10年、第23代土木会長に選ばれた。博士号を持たない初めての会長だった。こう
     して、内務省内外で忙しい日々を送る青山には気掛かりなことがあった。
      青山が信仰する無教会派キリスト教徒に対する弾圧と非戦、反戦、平和を訴えるキリ
     スト教関係の図書が相次いで発禁処分に遭っていた。あろうことか、これらの弾圧の総元
     締めが青山が技術系官僚トップを務める内務省だった。

      昭和11年11月、青山は内務省技監を退任する、というより退任せざるを得なくなる。
     内務省では事務系官僚が技術系の人事を決めるという人事権を掌握していた。その結果、
     実力があっても事務官僚の意に添わなければ地方に左遷され、その逆のケースでは幹部
     に登用される人事異動が発表された。
      この人事の撤回を求めた技術系官僚と人事権を盾にする事務系官僚が土木局内で
     衝突した。技術官僚首脳は局長に辞職願いを提出するという騒ぎに発展した。この事
     態の収拾を図る形で技術系トップの青山が引責辞任する。
      どこかで聞いたセリフだが、官界を去った後青山は、「内務省は伏魔殿のようなところだ」
     と述懐している。

 4.6 戦中・戦後の窮乏生活
      昭和16年12月8日、日本は対英米戦争に突入する。青山は1年前に白戸一郎に嫁
     ぎ永住するため渡米した長女やシアトルに住む末弟・衡一の安否を気遣った。白戸一郎は
     戦前・戦後アメリカで日本語を教え、ドナルド・キーンは教え子の一人だ。

      日本が劣勢に追い込まれた昭和18年秋、長谷川海軍大将の紹介状を持った一人の
     海軍士官が青山家を訪ねた。青山がパナマの奥地で運河開削に携わっていたころ、日本
     海軍練習艦隊がパナマに立ち寄り、中尉だった長谷川が士官候補生を連れて現地調査
     に訪れた。久しぶりに日本人に会えた嬉しさから、長谷川一行を運河建設工事現場を案
     内した。
      士官は、パナマ運河爆破に必要な資料を提供してもらうために訪れたのだったが、青山
     は、「私は造ることは知っているが、壊すことはしらない」と協力を拒んだと伝えられる。
      ( 膨大な資料を提供したとする証言もあるが、真相は不明だ )

      終戦間際の昭和20年6月、青山一家は長野県北安曇郡池田町に疎開する。食料不
     足と子どもたちは地元に溶け込むのに苦労する。昭和23年、年金生活のため経済力も
     なく、東京には戻れず郷里の静岡県の廃屋のような生家に住むことになる。

 4.7 晩年・そして死
      戦後のインフレはすさまじく、恩給が唯一の収入の青山の生活は、内務技監を務めた技
     術官僚としては貧しすぎたようだ。心配した後輩が静岡県の委員会委員にして、生活費を
     確保させるような始末だった。
      「聖書」、「内村鑑三全集」などを読み、野山や川の堤を散策する郷里での生活は、清
     貧そのものだった。

      土木学会の記念式典に参列したり、内務省の同僚・後輩の招きで荒川放水路や大河
     津分水を訪れるときもあった。そんな時、堤防を歩き、維持・補修の現状を質(ただ)した、
     という。
      昭和37年6月、後輩に残した手紙に「・・・・人の作りしものは破れざるはなし。気を付け
     て、気を付けて!!」と書いた。

      昭和38年3月21日未明、富士山が見えるところが良いと、磐田市の高台に新築した
     自宅で静かに息を引き取った。84歳。その顔は穏やかだった。

5. おわりに

 (1) 公共工事と青山 士
      このページをまとめている最中(さなか)、台風17号、18号の影響で関東・東北では豪雨
     により堤防か決壊するなどして、多数の人が亡くなった。
      堤防の決壊箇所あたりは、補修が必要とされてはいたがその前に恐れていた事態が発生
     してしまったらしい。専門家の解説では、これら補修を必要とする箇所の工事がすべて終わ
     るのに1,000年かかるというのには開いた口が塞がらなかった。仮に一度補修したとしても、
     1,000年の間に再びどころか、何度も補修が必要になり、永遠に終わらなくなるのではな
     いだろうか。

      アベノミクスと呼ばれる景気浮揚策も単なる公共工事への税金のバラマキで、私が住む
     地域の道路が次々と拡幅・整備されている。
      これから、人口が減り、当然通行する車両も減るのに、拡幅などする必要性があるのだ
     ろうかと疑問だ。何よりも、建設費が10億円の工事のメンテナンス(維持・管理)には30億
     円かかるとされ、将来それらを税金で賄うとすると本来やるべき少子化や高齢者対策に回
     すお金が不足するのが心配だ。

      公共工事の代表のような新国立競技場を巡っても、ごたごたが続き結局白紙撤回とな
     るなど、”本当に日本は大丈夫なんだろうか”と不安を覚えるのは私だけでないはずだ。

      結局、公共工事にしろ政治にしろ、その任に当たる人が”哲学”、というか”信念”を持っ
     ていないことことが最大の問題だと思う。
      (国民の多くが理解・納得できない事を進めようとするA首相のような妄信、狂信でなく )

      青山は常々「人類の為、国の為」を念頭において仕事を進めた。国の為、国の為と声高
     に叫んだ青山が一番嫌った軍人たちが国を滅ぼしてから70年が経った今、国民一人一人
     が青山の言葉の本当の意味をもう一度かみしめてみると時だと思う。

 (2) 信濃川と青山 士
      小学校の社会科で、日本一長い川は信濃川だと習ってから60年が経っている。信濃川
     の長野県部分は千曲川と呼ばれ、その源流が私たちがミネラル・ウオッチングでたびたび訪
     れる川上村にある。そんなわけで、川上郵便局の風景印には、川上犬などとともに、村を
     東から西そして北に流れる千曲川が描かれている。

      
              「千曲川」を描く川上局の風景印

      川の流れの速さを毎秒0.5mとすると、1日に約40km流れ下ることになり、全長360km
     余りを約10日かかって日本海にそそぐことになる。
      9月、10月にはいくつかの学校の小・中学生をミネラル・ウオッチングで川上村の千曲川
     源流脇にあるフィールドに案内するので、こんな話をしながら青山士のことも話してあげたい
     と思っている。

6. 参考文献

 1) 地団研地学事典編集委員会編:地学事典,平凡社,昭和45年
 2) 益富 寿之助:鉱物 −やさしい鉱物学−,保育社,昭和60年
 3) 黒石 晋:柘榴石の結晶2題 水晶第3号 ,鉱物同志会,1989年
 4) 中川 清:和田峠のざくろ石 水晶第4号 ,鉱物同志会,1992年
 5) 高崎 哲郎:評伝 技師・青山 士(あきら)の生涯,講談社,1994年
 6) 吉村 昭:天狗争乱,朝日新聞社,1994年
 7) 加藤 昭:日本産鉱物分類別一覧 −無名会七十五周年記念−,無名会,2008年
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