たぶん、日本人にとって一番人気のある海外旅行先はハワイではないだろうか。私が世界一周した2016年の
「2017年に行きたい海外旅行先」のアンケートでも人気No1で、イタリア、フランスが続いていた。一つの州が国
全体を抜いているのだからその人気はダントツだ。
日本人のハワイ好きは、岡晴夫が歌った ♪♪ 憧れのハワイ航路 ♪♪ あたりに起源があるのではないだろうか。
作詞:石本美由紀
作曲:江口 夜詩
『 晴れた空 そよぐ風
港出船のドラの音(ね)愉(たの)し
別れテープを笑顔で切れば
希望(のぞみ)はてない 遥かな潮路(しおじ)
あゝ 憧れのハワイ航路 』
プエルト・ケツアルとホノルルの間は、4,064海里(7,527km)と、この船旅で一番長い航海になった。予定の
航路は航海距離が最短になるように、アメリカ大陸西海岸に沿ってハワイと同じ緯度まであがり、真西に進む
はずだった。
ところが前方の大型のハリケーンが、発達しながらアメリカ大陸に向かっているというので、その影響を避ける
ためとりあえず真西に進み、抜けたところでハワイに直行するように変更された。
実際の航路をGPSデーターから追ってみると、真西に進んだ後、あまりに影響が大きいので南西に進路を取ら
ざるを得なかったようだ。
ハリケーンに最も接近したあたりでの船の揺れはこの旅一番の凄さで、歌の文句とは全く違った『ハワイ航路』
になったが、これはこれで記憶に残る体験だった。
( 2016年7月2日〜12日 体験 )
7月5日、『洋上大運動会』当日になった。広くもない船の上に運動会ができるようなスペースがあるのか半信
半疑だった。屋上デッキのプールの周りがトラック、その外側が応援団席に早変わりだ。
8時45分からデッキにあるテーブルや椅子などを片付けると、なんとかそれらしい形になってきた。
10時ごろから運動会は始まった。朝の内雲が空を覆っていたが、少しずつ晴れ間も見えて来て、絶好の運
動会日和だ。プログラムは小学校や町内会などの運動会でもおなじみの種目もあるが、狭い船上に合わせ
て競技内容をモディファイしてある。
赤、黄、白、青 4つの団に分かれて対抗戦だ。私は赤団だ。開会式の参加人数も得点になるのは町内
会の運動会と同じだ。
午前中最後の競技種目が、「綱引き」だった。Teresaさんが出場し大奮闘してくれ、赤団が1位だった。
午後一番に私も出場した採点種目の応援合戦があった。各団がアイディアを凝らし、練習を重ねた演技で
応援合戦を繰り広げ、白団に次いで赤団は2位だった。
気になる得点が会場の上のデッキの手すりに掲示されている。赤がトップ、僅差で黄、青、白が追っている。
午後、私が出場するのは競技種目の「借り人+2人3脚」だ。スタートし競歩でカードを拾いそこに書いてあ
る”人”を探し、2人3脚でゴールする。スタートダッシュの様子をMs.Leeさんがビデオに撮ってくれていた。当然、
ゴールもトップだった。
続いて「玉送り」にも出場した。10人が前の人の頭上でボールを受け取り股下に送り、最後の人で折り返し
て、その速さで順位を競う。赤団は、2位か3位だった。
最後の競技が終わり、気になる順位はわれわれの赤団が優勝だった。この日は遅くまで賑やかだった。
■ ブリッジ(操舵室)ツアー (7月6日)
7月6日、申し込んでおいたブリッジ(操舵室)ツアーの日がきた。すでに10回くらい開催されていて、最初の
頃こそ定員(20名)をオーバーする人気だったが、このころになると定員割れしていた。
事務長さんの案内で、救命ボートや操舵室を見て回った。操舵室の棚には、信号旗が格納されている。
古い人なら、『Z(ゼット)旗』と聞けば、1905年の日露戦争の日本海海戦の際、「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ
在リ、各員一層奮励努力セヨ」という意味を持たせて旗艦・御笠のマストに掲揚したことをご存知だろう。
( Z旗の国際信号旗としての意味は全く違う )
ただ、無線通信機器が発達普及した現在では、信号旗の出番は少ないようだ。
操舵室のメインの機能は船の進路を決めて、それに従って進む操舵だ。昔のイメージでは海図に進路を
書き込み、現在位置を太陽の位置で計測し、どちらに舵を切るか決めて操船していたのだが、GPSが普及し
た現在では、進路をインプットすればそれに従って自動操船してくれるようだ。したがって、操舵室には2人
くらいしかいないのだ。
画面を見ると船はハリケーンを避けるため南西に進んでいて、この先で西に舵を切るようだ。昔の操船を
模擬体験させてもらった。
■ 太平洋の虹
ハリケーンの影響なの海のかうねりが大きい。流石に太平洋で、波と波のてっぺんの距離が長い。寝ている
と、体が”ストン”と落ちる感覚だ。気分が悪くなる人が多い。5階のレセプションには、乗り物酔い止めの薬が
山のように置いてあって、旅友の中には薬の世話になった人も少なくなかった。
3日前から時々雨が降るのもハリケーンの影響なのだろう。雨が上がったから、左舷に虹が見えた。この後も
いろいろな光景を目にすることになる。
■ 七夕(7月7日)
この日、船の中では日本より1日遅れて「七夕」を祝うイベントが開かれた。若い人たちの浴衣姿をあちこち
で見かけ、2人の”孫娘”の将来を見る思いで写真を撮らせてもらった。
■ 彩さんのバースディ・パーティ
この日の夕食時、私の中国語の先生・彩さんのバースディ・パーティが開かれ、私も招待された。彼女は
私が生を受けた中国・吉林省の出身ということもあって招待してくれたのだろう。そんな縁があることを乾杯の
スピーチにさせていただいた。
出席者は彩さんが講師を勤める中国語会話教室の受講生や中国・台湾系の人たちで、私が知っている
人がほとんどだった。いつものように、写真係だ。
■ ”サファイア” があった!!
この日の朝、8階デッキの指定席にいると、スリランカでの「宝石探し」に参加したFさんが、「MH、この石は何
でしょう?」、と小さな白っぽい石を差し出した。
108日間の旅も残り20日足らずで終わるので、身辺整理(?)していて出てきたという。一目見るなり、これは
”サファイア”だと直感した。六角形の外形、部分的にブルーの色、そして小さな六角片状の結晶の集合などが
特徴にピッタリだ。
Fさんは、「捨てなくて良かった」、と喜んで船室に戻っていった。
■ 顔面に異常あり!!(7月8日)
7月8日も相変わらず海は荒れていた。グアテマラを出たころから鼻の頭に水泡が出始めていた。それが、
徐々に瘡蓋(かさぶた)状になりつつあった。また、唇には「ヘルペス」もでるありさまで、会う人ごとに「どうした
んですか」、と聞かれ、いちいち返事するのも煩わしい思いだった。
グアテマラのように赤道に近く、しかも空気中のゴミが少ない標高1,500mの高地の紫外線量は、私たち
が普段浴びている量の何倍か強烈で、単なる”日焼け”では済まなくて、”火傷(やけど)”になって、その
”より”が出たようだ。
甲府に勤務していた平成4年か5年ごろの夏休みに家族を連れて1泊2日で、静岡県静波海岸に海水浴
に行った。1日中海で遊び、翌日は、勤務していたH製作所がタービンなどの発電系を担当した浜岡原子力
発電所を見学したりして帰宅した。
帰宅すると背中が焼けるように熱く、このとき、色白な(?)顔が”真っ黒”になり、ルーツは南の島なんだと
変なところで納得したほどだった。火ぶくれがつぶれて瘡蓋になり、30年近く経った今でも剥がれたり、くっつい
たりを繰り返していて、一種の「皮膚がん」なのだろうか。
このように、紫外線に弱いところは、北方系の血も入っているのだろうか。
【後日談】
横浜入港を3日後に控えた7月23日、デッキにいた婦人と話をしていると、「私も日光浴で火傷(やけど)
をしてしまった。ものの1時間ほど足を出していただけなのに・・・・・」、と言って、おみ足の写真を撮らせて
くれた。私と同じように、紫外線に弱い人が世の中にはいるのだ、と合点した。
■ Iさんが”大けが”!!
ハワイまでの水先案内人として、プエルト・ケツアル(グアテマラ)で農業ジャーナリスト・大野和興さんが乗
り込んできていた。グローバリゼーションが農業に及ぼす影響について、「『牛丼』の政治経済学」のタイトル
で7月4日に講演会が開かれていた。
食の安全に関心がある名古屋・Iさん(アイスランドではAさんとしてある)の呼びかけで、大野先生を囲んで
昼食を食べながらのフリー・ディスカッションが開催された。趣味の一つが”農作業”の私も何回か出席させて
もらい、日ごろ感じていることや実践していることを述べた。
ハワイに向かう船はハリケーンの影響で、高いうねりと強風に晒(さら)され、この旅一番の時化(シケ)に
遭遇した。風や雨の強い日にデッキとの出入りは、男性の私でも重たいと感じる扉を押し開けるのだが、
強風に煽(あお)られた扉にIさんが指を挟まれてしまった。
中指の骨が見えるほどだったそうで、Iさんに会ったら白い包帯で手をグルグル巻きにしていて、痛々しい姿
だった。
早く本格的な治療を受けたいIさんは、急きょハワイから飛行機で帰国することになってしまった。
■ 太平洋の夕焼け
この旅で出あう可能性のある自然現象の一つに、日没直前に太陽が緑色に見える「グリーン・フラッシュ」
がある。多くの人たちがこの現象を写真に収めようと、デッキでカメラを構えていた。その一人、大阪のKさんが、
「MH、こんな写真が撮れた」、と言って”夕焼け”の画像データーをくれたので紹介する。
【後日談】
この旅で、”グリーン・フラッシュ”が観察できたのは、ポルトガル・リスボンを出港し、フランスのル・アブール
に向かう英仏海峡で観たのが唯一だった。
・ 北極圏をめぐる地球一周の旅 【フランス】
( Tour around the World & Arctic Circle 2016 - France - )
■ 石の無料配布!?(7月9日)
8階の指定席にいると、石や宝石が趣味の宮城・Hさんが来て、「MH、左舷前方のデッキで石の無料配布
をやっているから見に行こう」、と言ってその場所まで案内してくれた。
行ってみると、小は碁石大から大は小玉スイカくらいまで、おびただしい量の石が並べてある。「寄港する度
に石を拾ってくる人がいる」、と噂(うわさ)に聞いた、その人が脇に立っている。どうやら、帰国まで20日を切り
身辺整理して、不要なものを放出したようだ。
石は雑多な石がごちゃ混ぜになって置いてあり、素人が集めたものだから1点1点に”ラベル”などは付いて
いない。石の特徴から、「これは、ドーバー産」、と判るものもあるにはあるが、ほとんどが”産地不明”で全く
価値がないものだ。
【後日談】
横浜入港を数日後に控えたある日、この石の持ち主から写真の3倍以上ある石の処分を依頼された。
躊躇(ちゅうちょ)することなく、太平洋の深海の底に沈めてあげた。
Hさんが私を訪ねてくれた本当の理由は、趣味の茶道のお点前をしてくれるためだった。「金平糖」などの
お茶菓子をいただきながら、抹茶をいただいた。
■ ♪♪ Hawaiian Live ♪♪(7月10日)
最後の寄港地ハワイまで3日のこの日、ハワイの気分を先取りするため、布を身体に巻き付けた「パレウ」と
呼ぶタヒチの民族衣装をまとった女性やアロハシャツ姿の男性を見かけるようになった。
そのハイライトは、フラ・タヒチアンダンスの発表会だった。ハリケーンの余波の影響も去り、真っ青な空と海
に囲まれたデッキにこしらえた舞台の上で、日ごろの練習成果を発表しようとする”昔乙女”のエネルギーが
発散した。
・ 強制下船
Rayさんたちのように、米国籍を持っている人たちは、強制的に下船を命じられ、日本までの船旅を続
けることができなかった。
何故(なぜ)かという理由については諸説あるが、当のRayさんたちから聞いた話を総合すると次のような
ことらしい。
この船は建造されたのが1981年で、この時すでに35歳の老朽船だった。定義にもよるが、大型クルーズ
船の”寿命”は20年といわれ、それを大幅に過ぎている。米国政府としては、自国民の安全を守るという
観点から、このような老朽船にアメリカ国籍を持つ旅行者が乗っているということが判った以上、旅を続け
させることはできない、ということらしい。
・ 当初から下船予定
ハワイから先は寄港地がないので、”消化試合”だと考える人達は、飛行機で帰国したいという考えを
持っていて、早めに航空券を手配してあった。
・ やむなく飛行機で帰国
ケガをしたIさんは、早く日本で治療を受けたいということで急に飛行機で帰ることを選択した。ここまで
くる間にも、健康(肉体・精神)面の不調から、飛行機で帰国した人も何人かいたようだ。
ただ、航空券の確保が簡単でないという理由で、飛行機で帰りたいけれども帰れないという人もいた。
■ Rayさん一家の送別会(7月11日)
ハワイで下船すると知り、送別会を開催する幹事役をさせてもらうことにした。Rさんはこの船に乗るのが2回
目ということで、初回一緒だった日本人、そして船の中で親交のある人々に声をかけたところ、20人近い人が
集まってくれた。
第1部は船のレストランでのパーティで、談笑の後、ケーキをカットして〆た。第2部はお酒も飲めてカラオケ
やダンスができる8階後方プロムナードデッキにある「バイーア」に場所を移した。ここは、20時から午前2時まで
利用でき、専属の歌手や楽団もいる。夜ここを利用するのは私にとって初めてだった。
夜の部が得意な”KNちゃん”に幹事を引き継ぎ、私は早々に退散した。
■ 随所でお別れ(7月12日)
オアフ島まで640km。翌朝にはホノルル港に入港するとあって、この日船内ではでは別れを惜しむ人たちの
姿があちこちに見られた。”チャコちゃん”に請われるままに写真を撮って、プリントして差し上げた。
@ 14日に飛行機で帰るので、空港までのタクシーを予約して欲しい。
A ハワイ島特産のコナコーヒー豆を買ってきて欲しい。
ローストしていない生の豆で、できれば”丸豆”と呼ばれる”ビーベリー”をキロ1万円以内で買えるだけ。
コーヒー豆の知識など全くない私が付け焼刃で対応できるものかはなはだ疑問だが、一応承っておいた。
日記帳を読み返すと、そんなこんなで、「ハワイ島観光の準備するヒマなし」、とある。夜が明ければオアフ島
のはずだ。どうする、MH。