伝統的工芸品シリーズ第3集 「甲州水晶貴石細工」切手<BR> ( Traditional Craft Series No3 Stamp of “Quartz Craft “ from Yamanashi )














       伝統的工芸品シリーズ第3集
       「甲州水晶貴石細工」切手
         ( Traditional Craft Series No3
          Stamp of “Quartz Craft “ from Yamanashi )

1. はじめに

    2014年10月24日に発行された伝統的工芸品シリーズ第3集の10種類の切手の中に山梨県の
   「甲州水晶貴石細工」を描く1枚が入っている。

    
       「甲州水晶貴石細工」を描く切手

    この切手を見ても一般の人は何が描かれているのか理解できないようで、妻などは、「これ、亀
   なの」と言う有様だから、デザインとしては駄作だ。
    どうやら、木の枝とその実(形からザクロか)をモチーフにした「香炉」のようだ。石は「青玉髄(ブ
   ルーカルセドニー)」で、水晶でもなければ、貴石(Precious Stone)でもない半貴石と呼ばれてい
   る部類のものだ。
    従って、鉱物学的には、「水晶貴石細工」と呼ぶのは誤りだ。

    郵趣会の10月例会で、Mさんから、「誰かFDC(First Day Cover:初日封)か何か作りますか」、
   と聞かれたが、そのときは記念に1シート(820円)だけでも買っておこうと思っていただけなので
   聞き流していた。
    しかし、発行日の1週間ほど前になって、発行される切手は趣味の一つ・鉱物採集に関係あるし、
   『鉱物採集は水晶に始まり水晶に終わる』を標榜している私としては、何か記念になるものを作ろ
   うという気になった。

    『甲斐の名産は葡萄(ぶどう)と水晶』と言われるように、古くから山梨県では水晶の採掘・加工
   (細工)が行われていた。その伝統が今でも生き続け、甲府市は『宝石の街』 とうたい、ジュエリー
   (宝飾)は観光と並んで地場産業の柱の一つだ。

    産業として発展するためには、@原材料の確保 A加工技術の革新 B製品のPR・販売による
   資金回収 が循環して営まれることが大前提で、現在の宝飾産業の礎を作った明治期のこれらの
   活動をテーマに7種のFDC*を作成した。
    * FDCとは、発行された切手にふさわしい図案を印刷した封筒にその切手を貼り、その切手に
      縁(ゆかり)の深い郵便局の印を押したもの。初日カバーと呼ばれる。

    切手発行当日の24日、朝9時過ぎに昇仙峡局(旧御岳局)を訪れ、予約しておいた14シート
   (11,480円)を購入し、「水晶貴石細工」切手だけを切り出して封筒に貼り、自分用と会員配布用の
   2通に「風景印」を押印してもらった。

    
            昇仙峡郵便局

    次いで甲府駅前局、牧丘局、玉宮局、峡南局、そして甲府中央局と都合6局を巡り、14通に押印
   し終わったのは15時を過ぎていた。
    このような馬鹿げたことに血道をあげるとは、と思われる方がほとんどだと思うが、『今できること
   をやっておきたい』
心境の Mineralhunters だ。
   ( 2014年10月 作成 )

2. 『宝石の街 甲府』

    甲府駅前には、『宝石の街 甲府』のモニュメントがある。中央にはブリリアンカットに研磨したダ
   イヤモンドの指輪がある。郵趣会の後、ここに立ち寄り撮っておいた写真を楕円形にトリミングして
   印刷した封筒に、甲府駅前局で押印した。

       
                  『宝石の街 甲府』                         甲府駅前郵便局
                 【甲府駅前局日付印】

    モニュメントだけのバージョンも作ってみたが、甲府駅前の雑然とした雰囲気が伝わるほうが良
   いと思いこちらを載せてみた。

3. 水晶の採掘(原材料の確保)

    山梨県内の縄文時代の遺跡から、水晶で作った鏃(やじり)が出土しているので山梨県での水
   晶の採集・加工(細工)は数1,000年前に遡る。江戸時代には、自然災害で崩落した山腹から偶然
   水晶が発見されると、幕府に「冥加金」を納めて採掘が許可された。
    本格的に水晶が採掘されるようになったのは明治維新になってからで、藤村県令が鉱山開発を
   積極的に奨励したからだ。しかし、明治末、県内水晶資源は枯渇し、幾度かの水害の元凶とされた
   水晶採掘に対する規制も強まり山梨県での水晶採掘は終焉を迎えた。
    原材料がなければ水晶加工産業は成り立たなくなるが、ブラジル産水晶に活路を見出し、大正
   7年に輸入が始まり現在に至っている。

    日本だけではないと思うが、「3大夜景」とか「3悪人」など、3ですべてを代表する表現法がある。
    鉱物の好きな人に『山梨の3大水晶産地』を尋ねれば、牧丘町・乙女鉱山、甲府市・御岳黒平
   (みたけくろべら)、そして甲州市・竹森水晶山を挙げるはずだ。

    これらの水晶産地での明治期の採掘の様子と産出する水晶を描く封筒を作成して、それぞれの
   地元局で押印した。

 1) 乙女鉱山・牧丘局
    東山梨郡牧丘町にあった乙女鉱山は、日本式双晶(Japanese Law Twin)と呼ぶ独特な形の
    水晶を産出し、世界的に有名だ。(過去形でなく現在進行形)
     古くは学術的に「傾軸式双晶」とも呼ばれていたが、地元では、2枚の水晶が94度33分の角度
    で仲良く寄り添っていることから「夫婦(めおと)水晶」、その形が羽を広げた蝶に似ていることか
    ら「蝶形双晶(Butterfly Twin)」あるいは「軍配形」などとも呼んでいる。

     以前のページで乙女鉱山での水晶採掘を描く明治時代の絵葉書を発見し、兵庫の石友・N夫
    妻の協力で入手したことを紹介した。

    ・ 水晶採掘を描く絵葉書 その2
     ( Post Card Drawing QUARTZ Mining in Yamanashi - Part 2 -, Yamanashi Pref. )

      この中の1枚の絵葉書と乙女鉱山が採集禁止になる前に採集した「日本式双晶」の写真と
     結晶図を封筒に印刷し、牧丘局で押印した。

       
            乙女鉱山の水晶採掘絵葉書と「日本式双晶」                牧丘郵便局
                   【牧丘局日付印】

      牧丘局には風景印もあるが、鉱山・鉱物と全く関係ないので、これを押すとテーマが散漫に
     なるおそれがあり、押さなかった。

 2) 御岳黒平・昇仙峡局
      黒平地区でかつてトパズ(黄玉)を産出したのは、「御岳○○沢」で、ここでは、「御岳黒平」
     という呼び名を使った。
      甲府市黒平町は金峰山登山道沿いの山村で米は全くとれず、人々は農閑期に花崗岩地帯
     で採掘した水晶を昇仙峡で売って生活の糧を得ていた。水晶は透明なものだけでなく、薄っす
     らと黒い「煙水晶」あるいは「茶水晶」とも呼ばれる”品(ひん)のある”ものが多い。
      御岳黒平地区には現在でも相当量の水晶はじめペグマタイト鉱物が埋蔵されているはずだ
     が、2013年の”盗掘騒ぎ”で逮捕者が出て以来、採集は難しくなっている。

      金峰山に登った修験者が拾った水晶を御岳の金桜神社神官たちが玉に加工したのが、水晶
     細工の起源とされる。
      以前の御岳郵便局は昇仙峡郵便局と改称されたが、昇仙峡のシンボル「仙娥滝」と「覚円峰」
     を描く風景印を備えている。「覚円峰」は一つの巨大な花崗岩体で、水晶を胚胎する母岩(ぼ
     がん)だ。

      明治時代の水晶採掘の写真と昔、石友・ASさんと「第○中澤晶洞」を開けたときに採集した
     煙水晶を印刷した封筒に昇仙峡局(旧御岳局)の風景印を押印した。

    
                 御岳黒平の水晶採掘写真と「煙水晶」
                   【昇仙峡局風景印】

 3) 竹森水晶山・玉宮簡易局
      甲州市(旧塩山市)竹森の水晶山(正式な名前は小倉山、標高955m)は東京から最も近い
     水晶産地として鉱物好きな人々に親しまれていたが一部のマニアによる乱掘のせいで採集禁
     止になってしまった。産地の近くには、地主が建てた説明板が少し色あせてはいるが健在だ。
      産地に最も近い郵便局は「玉宮簡易郵便局」で、玉諸神社から約200m上で、敷地内に上竹
     森バス停がある。

         
          竹森水晶産地説明板                      「玉宮簡易郵便局」

      『水晶を掘れば必ず破産する』と言われた中で、竹森は良質な水晶を多数産出し明治の末ま
     で繁栄した鉱山だった。しかし、「水晶宝飾史」によれば、

      『 大正初期には、県産原石の生産はきわめて微々たるものとなった。とくに一時、県下第一
       の採掘量を誇った玉宮の竹森坑も、坑山(ママ)の面積が狭くなりほとんど掘り尽くされた
       ので、当時の鉱山所有者の森川寅八、雨宮まつの等は一日5銭(今の150円位)の入山料
       を徴収して自由に水晶を拾わせたが、大人が1円50銭から2円(今の4〜5,000円)、こどもで
       も50銭(1,500円)ぐらいの日当になった。』
、とある。

      ここで採れる水晶は、針状の苦土電気石を内包しているので、「草入り」や「ススキ入り」と呼
     ばれ、一目見れば産地がわかる。このほか、「鋭錐石【ANATASE:TiO2】」や「板チタン石
     【BROOKITE:TiO2】」などのチタン鉱物も産出する。

      明治時代の水晶採掘の写真と採集した草入り水晶を印刷した封筒に玉宮簡易局印を押印し
     た。 (風景印はない)。

    
                竹森の水晶採掘写真と「草入り水晶」
                     【竹森簡易局日付印】

4. 水晶の加工(水晶細工)

    甲州に水晶細工の技を伝えたのは京都「玉屋」の番頭・弥助とされる。天保5年、何度目かの
   水晶買い付けで甲斐に来たとき、御岳の神官に金剛砂を使って鍬(くわ)や鍋などの鉄板の上で
   玉を磨く方法を教えたのが始まりとされる。
    御岳では明治17年の年末、水晶の大収穫があり、その祝宴で酔いつぶれて失火、神社と数軒
   を残し全焼した。このため、明治20年頃から水晶加工の中心地は甲府に移った。

    「ガマ(釜)」と呼ぶ晶洞から掘り出したばかりの水晶は、ガマ粘土や褐鉄鉱(鉄さび)に覆われて
   いて汚い。明治28年、百瀬康吉が王水(濃塩酸と濃硝酸を3:1混合した液体)できれいにする方
   法を考案してから、水晶は「トッコ(漢字で、突鉱)」と呼ぶ群晶のまま売られることもあった。
    しかし、ほとんどは櫛・かんざし・印材・置物などに細工して売られ、横浜の外国人も良いお客だ
   った。

    甲府市の桜町や柳町には水晶店が40店もあったとされ、表で販売、裏で加工を行う造りになっ
   ていた。
    入手した桜町の水晶店の絵葉書には、「水晶・篆(刻)」の看板が見える。店内では10歳くらいの
   こどもをはじめ大勢で水晶を研磨している。
    甲府中央局の風景印には、『宝石の街 甲府』をイメージした水晶の群晶(トッコ)と水晶玉が描
   かれている。

    甲府明治末期の水晶店の絵葉書と加工の様子を印刷し、甲府中央局の風景印を押印した。

    
                  明治時代の水晶店と水晶細工
                     【甲府中央局風景印】

5. 水晶細工品の広告と販売

 1) 水晶細工品の広告
     明治23年、水晶の郵送が許可され、明治36年、石原宗平が水晶製品のカタログを全国に発送・
    宣伝して注文をとり、郵便で商品を送る『通信販売』を始めた。これによって、販路が全国に広ま
    った。

    明治末期の水晶細工品のカタログを印刷し甲府中央局の風景印を押印した。

    
                  明治時代の水晶細工品カタログ
                     【甲府中央局風景印】

 2) 水晶細工品の販売
     明治30年ごろから水晶製品の行商が始まった。行商人の多くは楠甫村(現市川三郷町)の
    人々だった。この地域は耕作できる土地が狭く農業だけでは暮らせず、行商が副業だった。
     水晶印材の見本を持ち歩き印材の注文をとり、次に印譜を見せて篆刻の注文を取るという
    文字通り「一石二鳥」の効率の良い商いだった。

     しかし、日々の売り上げや生活費を記した控え、あるいは旅先から家に出した葉書を読むと、
    つつましい生活の中で、家の様子を案じている姿に胸を打たれる。

     現在でもこの地域(旧六郷町)の地場産業は印章で、『はんこの里』をうたい、峡南局の風景
    印には印章が描かれている。

         
               『はんこの里』碑                      「峡南郵便局」
             【峡南局の前にある】

     待ち歩いた水晶印材の見本は、透明なものが主だったが、紫、煙などの色のついたものや
    「草」や「山」などのインクルージョン(内包物)を含むものもあり、透明なものより高価だった。

     骨董市で入手した印材見本と販売員が持ち歩いた注文書を印刷し、峡南局の風景印を押印し
    た。

    
               印材見本と販売員が持ち歩いた注文書
                       【峡南局風景印】
 

5. おわりに

    甲府市は『宝飾の街』と謳っているが、ジュエリーのマーケット規模は、バブル期の1/2で、それ
   に伴い山梨産ジュエリーの生産高も減少している。国内に流通するジュエリーのおよそ1/3は今で
   も山梨で生み出されているが、海外ブランドの輸入増、アジアの近隣諸国の台頭、既存の販売
   ルートの衰退などの課題を抱え、国際競争力を持つ産業構造への転換を迫られている。
    それらの打開策として、山梨ジュエリーのブランド化に取り組むなど、グローバル市場に対応した
   生産地としての新たな試みを始めているようだ。

    限られた紙面なので私が収集した水晶細工品や水晶産地の現状についてはご紹介できなかっ
   た。別なページにそれらを載せ、解説を加えているので関心のある方はお訪ね下さい。
    「(水晶、印材 などの)キーワード mineralhunters」で簡単に検索できます。

6. 参考文献

1) 篠原 方泰編:水晶宝飾史,甲府商工会議所,昭和43年
 2) 益富 寿之助:鉱物 −やさしい鉱物学− ,保育社,昭和60年
 3) 茨城県自然博物館編:第44回企画展 ザ・ストーンワールド
   −人と石の自然史−,同館,2008年
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