水晶採掘を描く絵葉書 その2









            水晶採掘を描く絵葉書 その2

1. はじめに

    私が住んでいる山梨県は古くから、『 甲斐の名産は、葡萄(ぶどう)と水晶 』、と言われている。
   そんな訳で、水晶だけでなく、水晶製品や水晶にまつわる品々を収集し始めるようになって10年
   前後になる。
    2012年正月2日、長男一家が帰えるのを待ちかねたように、某市で開かれている骨董市を訪れ
   た。今までの経験で、骨董市は朝一番で訪れるのが掘り出しものに出会えるチャンスが大きいの
   だが、この日は既に15時を過ぎており、余り期待はしていなかった。
    案の定、古銭の店では「今朝一番で良いのは売れちゃって」、申し訳なさそうに、売れ残りの何
   枚かを格安にしてくれた。

    絵葉書を売っている店があったので、ジックリ腰を据えて、1枚1枚見ていると、”ドキ!”とする
   一枚があった。それは、『丹澤水玉堂 独立経営 水晶採掘山全景』の絵葉書だった。甲府市
   櫻町の丹澤 喜八郎氏が差し出した明治43年1月1日消印の年賀状で、描かれているのは、
   氏が経営する水晶鉱山全景と坑口だ。
    結局、この日はこの一枚(300円)を含め、全部で30枚ほどの絵葉書を購入して帰宅した。

    帰宅後、山梨県立図書館などでも調べてみたが、丹澤 喜八郎氏の足跡は判らずじまいだが、
   水晶鉱山は名前や場所が書き込まれていないが、生えている樹木の種類などから「黒平水晶坑」
   だろうと推測する。

    以前、兵庫の石友・N夫妻の協力で、乙女坂での水晶採掘を描く絵葉書を入手したことがあった
   が、新年早々、新しい一枚をマイ・コレクションに追加することができた。
    2014年も、鉱物だけでなく、それにまつわる品々を入手・調査・研究(?)して報告したいと思っ
   ている。
   ( 2014年1月 入手 )

2. 水晶採掘を描く絵葉書【過去の入手品】

    水晶や瑪瑙を採掘する絵葉書は発行数が少なく、骨董市やオークションなどでも目にすること
   は稀だ。
    ここ10年ほどで入手した鉱物や水晶採掘を描く絵葉書を次のページで紹介した。

    ・ 水晶採掘を描く絵葉書
    ( Post Card Drawing QUARTZ Mining at Otomezaka Mine in Kai Province , Yamanashi Pref. )

    ・ 山梨県産 水晶印材コレクション - その16 -
     水晶原石をそのまま使った印
    ( Seals made from QUARTZ from Yamanashi Pref. - Part 16 -
     Seal made of Native QUARTZ , Yamanashi Pref. )

    これらの中で、兵庫の石友・N夫妻の協力で入手できた「乙女坂の水晶礦」の絵葉書は、とりわ
   け貴重な一枚だ。

         
            「乙女坂水晶採掘の実況」             「乙女坂水晶礦」

                       乙女鉱山を描く絵葉書【明治末〜大正初】

3. 水晶採掘を描く絵葉書【今回の入手品】

 3.1 絵葉書の宛名(表)と図案(裏)
      今回入手した水晶採掘を描く絵葉書の表裏面の写真を示す。

         
                     裏                        表
                          水晶採掘を描く絵葉書

 3.2 水晶採掘絵葉書の研究

      この絵葉書を入手して知りたいと思ったのは次のような事柄(5W1H)だった。たぶん、読者の
     皆さんも同じ思いではなかろうか。

      @ When:いつ
      A Where:どこで
      B Who:誰が
      C What:何を
      D Why:なぜ
      E How:どのように

      以下、これらについて調べて判ったことと疑問点をまとめてみた。

  (1) いつ
       この絵葉書は、宛名を書き、切手を貼って投函され、宛名人に配達されている。郵便切手
      収集趣味の世界では、実際に逓送された郵便ということで、「実逓便(じっていびん)」あるい
      は「エンタイア」、と呼んでいる。

       
                    切手と消印

       消印にこの絵葉書が使われた年・月・日が残っている。少し見にくいのだが、『□3.1.1』
      と読めるだろう。
       この絵葉書が、年賀状として使われているので、『1月1日』は間違いない。少し専門的に
      なるが、この消印は内側の円に縦の縞があり、髪を梳(と)かす”櫛”に似ているところから
      「櫛形印」と呼ばれ、甲府局で使い始めたのは、明治39年1月1日からだ。『□3』は明治43年
      つまり、この絵葉書は『明治43年1月1日』に使用されたことがわかる。

       したがって、この絵葉書に描かれた水晶採掘山の様子は、明治42年以前の様子を写した
      ものだ。

  (2) どこで
  (3) 誰が
       この絵葉書を作り、書いたのは、甲府市櫻町四丁目十一番地に住む、丹澤 喜八郎だ。
      丹澤という姓が、甲斐南部の西八代郡(河内地方の一部)に多いので、そこの出身だったと
      も考えられる。
       この絵葉書に消印が押されたのも「甲府局」だ。

  (4) 何を
       宛先を見ると、北多摩郡台ケ原村(現北杜市白州町台ケ原)に住む顧客に向けた年賀状
      だ。

  (5) なぜ
  (6) どのように
       なぜ、この絵葉書がこのような形で発行されたのか、その目的(意図)には、奥深いものが
      秘められているような気がする。

       挨拶文には次のようにある。

       『 恭賀新年
         客歳中は毎々御愛顧を辱ふし難有奉深謝候
         尚本年も倍旧御懇命之程奉願上候   敬白 』

        新年おめでとうございます。
        客歳(かくさい:昨年)中は御愛顧を辱ふし(にくうし:賜り)、
                             ありがたく深く感謝いたします。
        今年も、昨年に倍する御注文をいただけるよう、お願いいたします。

       「客歳」や「辱ふし」など、現在では使われることもない難解な漢語などを用いてあり、
      喜八郎の受けた教育レベルを想像させるが、内容そのものはごくごくありきたりな、年賀の
      挨拶文だ。

       一方、絵葉書の図案に添えて、次のようなキャプションが添えてある。

       『 丹澤 水玉堂 独立経営
         水 晶 採 掘 山 全 景  』

       これから、次のような事が推測できる。

       1) 喜八郎は、甲府市櫻町に「水玉堂」という水晶細工店を経営していた。
       2) 「水玉堂」は水晶採掘山をもっていて、自社で使用する水晶原石を採掘していた。
       3) 水晶山は、他の業者との共同経営でなく、「水玉堂」が単独で出資・経営していた。

       喜八郎がなぜこのような年賀状を顧客に送ったのか、当時の「水晶原石確保」をめぐる
      時代背景を探ってみると、彼の意図するところが仄(ほの)見えてくるはずだ。

 3.3 水晶原石確保の苦労
      山梨県産水晶製品とその原材料となる水晶採掘の歴史については、折に触れ、何回か
     HPに掲載した。

     ・山梨県産 水晶印材コレクション
      (Collection of Seals made of Rock Crystal produced in Yamanashi Pref. Yamanashi Pref.)

     ・山梨県塩山市竹森水晶山の水晶とチタン鉱物
      (Rock Crystal and Titanium Dioxides of Suisyoyama , Takemori , Enzan City , Yamanashi Pref.)

      喜八郎が年賀状を書いた明治42年ごろ、水晶加工業者は一様に水晶原石の確保に苦労し
     たことが「水晶宝飾史」から読み取ることができる。

      『 明治39年(1906年)  舞鶴公園で「一府九県連合共進会」開催
                      一万円(現在の4千万円)の水晶玉ほか水晶製品多数出品・入賞

                      
                           甲府初の博覧会・「一府九県連合共進会」

        明治40年(1907年)   大水害を契機に各河川沿岸の伐採開墾が禁止され、 水晶採掘が
                      不可能になり、山梨県産水晶原石は底をつく。
                      ・不透明な”ガラ水晶”の使用
                      ・昔捨てたクズ石の回収
                      ・国内他産地(雨塚山など)水晶の移入
                      ・朝鮮産紫水晶移入
                       などで、かろうじて命脈をたもつ。
                       この頃から、加工業者の転廃業が相次ぐ。
        明治41年(1908年)  西八代郡下(河内地方)第1回水晶隆盛期に入る。
        明治42年(1909年)  甲府市桜町の水晶製品および篆刻業・土屋 宗幸廃業し東京へ
        明治44年(1911年)  平岡 頼章が研磨にカ―ボランダム導入
                      甲府市百石町の原 正が足踏み式円盤研磨機を作る。
                      土屋 華章も足踏みコマ磨法を完成
                      電動機(モーター)利用も進む。
        大正 2年(1913年)   甲府市竪町の内松 米二郎、多三郎兄弟が
                                          セイロンから原石輸入開始。
                      土屋 華章がめのう研究に着手
        大正 3年(1914年)  東京で「大正博覧会」開催。水晶製品多数出品
        大正 4年(1915年)  東京両国の薬種業・高木 与兵衛が番頭・三浦 雅登をして
                      米国から送られてきた水晶原石見本を甲府の業界に紹介
                      第一次世界大戦勃発、わが国好況に沸き、宝飾業の金使用量増
                      米国向け”水晶首飾り”輸出始まる。
                      増穂、市川大門、五明などの町村に水晶研磨販売業起こる。
        大正 7年(1918年)   東京神田の三栄貿易・三浦 雅登がニューヨークから輸入した
                                          水晶原石を甲府の業者に供給
                      ブラジルから水晶輸入の途を拓く。
                      篠原 正広、丹沢 政蔵は鳳(大正2年に乙女から改称)鉱山の
                      経営者・池山 秀と協力し、日本貿易商社を通じて、ブラジルから
                      5,000kg原石輸入
        大正 8年(1919年)   大森 文衛、千野 又次郎、土屋 勝次らも三栄貿易を通じて、
                                    ブラジルから500ポンド(250kg)原石購入
                      これら、業者の ブラジル原石輸入で、水晶加工業界は立ち直る。
                      河内地方第2回水晶隆盛期を迎える。                』

      昭和30年3月、甲府商工会議所の水晶宝飾部会が主催した、「水晶業界の元老に聞く」、と
     題する座談会で、明治末期から大正初期にかけての、”原石確保の苦労”が次のように語ら
     れている。

      『 藤原   私が水晶業界に身を投じたのは半世紀前(明治37年)でした。当時水晶原石は
             乙女鉱山から採掘しており、細長い目方15グラムくらいの水晶が多く、印材、
             みがき玉、かんざしなどを手摺り磨っていた。
              明治38年ころ、甲府には問屋として玉泉堂、セイビ(精美)堂、土屋 宗幸さん
             などで、いずれも桜町の中心にあり、小売りは40軒くらいでした。

        藤原   明治39年、甲府舞鶴城内で「一府九県連合の産業共進会」があり、それから
             順次、水晶の出が細くなり、水晶工場は困難したものです。
              そのうちに、動力使用の工場もできたので、小さいものでも間に合わせるまでに
             追いつめられた。
              したがって、水晶も高くなり、日当が50銭当時、200グラムくらいのが2円50銭
             から3円した。(今の1〜2万円か。当時の人件費は極端に安かった)

        司会   ”ガラ水晶”というのはなんですか。

        藤原   当時、水晶製品は透明が主体で、キズは徹底的に削り取った。ところが、極度の
             原石不足から、小尾(八幡山)、(長野県川上村)川端下坑などの不透明水晶を
             使うようになった。それを”ガラ水晶”、と言った。
              去年亡くなった七沢 斎宮さんの兄という人が、ガサ(量:かさ)を掘ればいいと
             言って、長い水晶をやたら持ってきて、磨って売りだした。それで、”ガラ清さん”、
             という異名をとり、それが転じて、”ガラ印”、”ガラ水晶”、となった。

        小宮山  いつの時代でも水晶業界は、原石をいじる(取り扱う)のが一番面白い。
              明治41、2年ごろだったと思う、乙女鉱山の坑内全部を見たが、天井掘り(斜坑)、
              井戸掘り(堅穴)と、まるでクモの巣のように縦横無尽に掘りめぐらされており、
              乙女鉱山末期にという状態だった。
               一度乙女鉱山に登れば、平均100円分くらいはお倉から出してくれたが、
              それを甲府までもってくれば、4倍にはなるので面白かった。
               (利益 400-100=300円、今の120万円)

               ある時、鉱山事務所の周りに捨ててある石を拾い、地元の人と一緒に”ザク
              石”を少し買い、それを拾った石に少しずつ混ぜ、約20俵位を運賃荷造り込み
              90銭位で麓まで下ろし手売却したが、そんな石でも原石難の時代だったので
              1俵6円50銭に売れ、2人で利益を折半した。
              (1人当たりの利益 (6.5-0.9)×20/2=56円、 今の22、3万円)

               それから、(甲州市)竹森坑にもすすめられて手を出し、約半年ばかり採掘し
              ここでも相当の利益をあげた。

        司会   どこの鉱山も大分乱掘したようですね。

        篠原   どの鉱山も掘り放しだったから、洪水の原因となり、水晶の採掘が極めて窮屈
             になった。

        久保田  御岳(黒平方面)の水晶は、明治7、8年頃から明治42年ごろにかけて掘り出さ
              れた。ちょうど、明治42年ごろ、洪水で水浸しになった水晶坑から腐った枠
              (坑木)を取り除いて掘り進み、4ケ月目に”カマ”を掘りあて、かますで7俵分も
              掘り出した。その中には、2寸7分(8cm)角ぐらいの大きな水晶もあった。
               もっとも、これは12名が50円ずつ出資してやったことだった。

               当時甲府にあった大きな水晶といえば、セイビ堂さんのもっていた3寸(9cm)
             玉だった。それに次ぐ水晶で、ほかの水晶と5個を2,000円(今の800万円)で
             売った。形状も質も御岳の水晶は乙女鉱山のものより良かった。

              同じころ、飯沼さんは、草入り水晶を掘りあてて利益を得たらしかった。この人
             は、食糧と道具をもって山にこもり、食糧のある限り掘り続けたという苦労をされ
             たと話している。

        輿石   私の父親は明治32年ごろ、甲府市柳町に水晶屋を始めたが、その後塩山(現
             甲州市)の人から、”みきり石”があるから買わないかと誘われ、夜中に買いに
             行ったことを覚えている。
              (水晶加工)業者で直接掘ったという人は、おそらくいないでしょう。

        矢崎   私は明治45年4月、土屋さんに弟子入りし、当時山元(水晶鉱山主)を原石買い
             出しで歩いたが、10円何がしで買ったものが、40円くらいに売ったこともある。
              大正9年に独立したが、当時朝鮮へ紫水晶などを掘りに行っていた、千野 
             又次郎、饗場 武雄、飯島 沢次郎さんらが、掘りためた原石を持って私の処に
             やって来て、2ケ月ぐらい滞在しては競争入札でその石を処分し、また朝鮮へ掘
             りに行ったものです。

        篠原   最初日本に朝鮮の人が来たのは

        矢崎   大正5、6年ごろでしょう。紫水晶は、欧州や加賀(遊泉寺や尾小屋か)のものが
             入荷したが、加賀の紫水晶は今(昭和30年)の舶来品より良かった。殊に、首飾
             りに良かったですね。

        久保田  原石が競売されたころ、川村という新聞記者上がりの男が柳沢のところへ持っ
             てきた原石を50円で買ったが、これが素晴らしい掘り出し物で、7万円に売れて
             大儲けした。

        渡辺   そのころ桜町1丁目の三浦屋旅館を定宿にしていた高橋という人がいた。この
             人が甲府の水晶業者を集めて、朝鮮の山を目的に水晶採掘会社の設立を計画、
             目論見書を作成し株主の募集などに2ケ月も飛び回ったが、ついに不首尾に終わ
             った。その後、一度原石を持ってきたが、値段が折り合わず物別れとなった。

              その後、朝鮮の高橋さんから、「紫水晶があるから買いにくるように」、と連絡が
             あり、万一思うような水晶でなければ、”朝鮮見物”のつもりで、仲間3人ででか
             けてみた。高橋さんが待ってきた原石を一つひとつ鑑定し、さて取引となったが
             この時も物別れとなった。                                 』

      これらの文献から、明治末期から大正初期の”水晶原石確保の困難期”に次のような事実
     があったことが読み取れ、丹澤 喜八郎が、自ら単独で水晶採掘山を経営するに至った経緯
     が推測できる。

      1) 明治40年頃、原石入手から、転廃業が相次いだ。
      2) 逆に、明治41年には、西八代郡下(河内地方)は第1回水晶隆盛期に入る。

         『ピンチはチャンス』、と廃業した後を埋めるように、起業した人々がいた。
         桜町の土屋 宗幸が廃業し東京に去った後、桜町に進出した一人が喜八郎だった
         のではないだろうか。

         当時の櫻町や柳町の「水晶店」が40軒もあり、その様子を写した絵はがきを入手した。

           
                       櫻町                        柳町
                           甲府市内の水晶店【どちらも左手前】

      3) 当時乙女などの水晶鉱山で購入した水晶を麓や甲府に運べば、4倍から7倍を超える
         値段で売れ、大儲けできた。
         『水晶業界は、原石をいじる(取り扱う)のが一番面白い』、言われたのは、こうした投機
         的な要素があったからだろう。
         業者が何人かまとまって出資して、”カマ(晶洞)”を当てて大量の水晶を取った例もあ
         った。

         原石を買うより、自分で資本を出して採掘したほうが利益が大きいのでは、と喜八郎が
         考えるのは、当然の成り行きだっただろう。

4. 丹澤 喜八郎の水晶採掘山はどこにあったか

 4.1 丹澤 喜八郎の水晶採掘山の写真
      今回入手した絵葉書には、丹澤 喜八郎の水晶採掘山がどこにあったかの文字情報は全く
     ない。絵葉書には、水晶採掘山全景と坑口の様子が写っているので、これらを手がかりにどこ
     にあったか推理してみよう。
      坑口の写真は左下、全体の1/4強が全景写真で遮られているので、推理を容易にするため、
     複元を試みた。全景と坑口の様子を再度掲載する。

      この2枚を見て疑問に思うのは、「全景」が本当に水晶採掘山の全景なのかということだ。
     ざっと数えただけでも、9軒の家屋があり、坑口の周辺にこれだけ人家が密集していた水晶
     採掘山はなかったはずだ。
      この「全景」、というのは、水晶採掘山の近く、あるいは入口にあった集落の写真だと考える
     べきだろう。

      
                            全景

      
                       坑口【左下は修復像】
                 丹澤 水玉堂 独立経営 水晶採掘山

 4.2 山梨県内の水晶坑の写真
      山梨県内で水晶を採掘した鉱山で、写真が残されるほど大規模に、しかも断続的ながら
     長期間にわたって稼行したのは、次の3ケ所だ。
       @ 乙女(乙女坂、鳳、あるいは倉沢)鉱山
       A 塩山(現甲州市)竹森坑
       B 甲府市(御岳)黒平坑

      乙女鉱山の様子は冒頭の写真に示したので、竹森坑と御岳黒平坑の写真を「水晶宝飾史」
     から引用する。

      
                            竹森坑

      
                          御岳黒平坑

 4.3 丹澤 喜八郎の水晶採掘山の推理
      丹澤 喜八郎の水晶採掘山の写真と山梨県内の水晶坑の写真および過去に訪れたときの
     観察結果を合わせて、それぞれの相似度を評価して、水晶採掘山がどこにあった可能性が
     高いかを推理してみる。

評価項目 丹澤水玉堂水晶採掘山 乙女鉱山 竹森坑 御岳黒平坑
特徴 評価 評点
(S)
評価 評点
(S)
評価 評点
(S)
写真
植生
(樹木の種類)
松と雑木 栂(つが)
や樅(もみ)
と雑木
× 松と雑木  ○ 松と雑木  ○
標高(m) 周囲の山々
から標高
1,000m以上
〜1,500m  ○ 〜600m  × 〜1,200m  ○
人家との
近接度
入口に10戸の人家 当時は人家なし
戦後になって
開拓で入植
 × 約0.5kmに人家  △ 約5kmに人家  △
人家の
立地条件
山の傾斜地 川沿いの平坦地  × 山の傾斜地  ○
稼行時期 明治42年前後 乙女鉱山末期
この後、何回も
再興
 △ 明治42年ごろ
半年ほど稼行
 △ 明治42年ごろ
”カマ”開いた
 ○
坑道 坑道有 坑道有
現存
 ○ 坑道有
大正12年の
関東大震災で
陥没
 ○ 坑道有
現在確認できず
 ○
坑道施設 トロッコの軌道あり トロッコの軌道有
 ○ 不明   ̄ 不明   ̄
総合評価 ×
評価項目 丹澤水玉堂水晶採掘山 乙女鉱山 竹森坑 御岳黒平坑

    今まで、山梨県立図書館などにも足を運んで調べてみた結果、丹澤 喜八郎氏の足跡は判ら
   なかった、彼が独立経営した水晶採掘山は「御岳黒平水晶坑」の可能性が最も高いと判断した。
    今後も継続して調査してみるつもりだ。

5. おわりに

 (1) お年玉と年賀状
      2014年、最初に訪れた骨董市で、初めてみる水晶採掘山を描く絵葉書を格安の値段で
     入手できた。多くの石友や仕事関係者などから頂いた300通ほどの年賀状の抽選発表の結果、
     13枚が3等の切手シートに当っていた。確率的には2/100の6枚も当たれば良いところ、その
     倍以上当ったことになり、今年も良いことがありそうだ。

      年賀状の1枚に、私が就労支援をさせていただいた障がいをお持ちの人からのもあった。
     たしか、就職して同じ会社で8年目を迎えるはずだが、『ぼくも○○○でがんばっています』、と
     いう一行に、私の方も元気づけられた。
      継続して働こうとする意思の強い本人、それを支援する御家族、そして本人の適性に合った
     働く場を提供してくれている事業所の関係者の顔が眼に浮かぶ。

      また、成人式を迎え、T大のYさんの母親から晴れ着姿の写真を送っていただいた。Yさんの
     家族と長野県川上村湯沼鉱泉社長の仲立ちで知り合ったのは、Yさんが11歳のときだったか
     ら、もう10年になる。
      いろいろな産地を案内したり、案内してもらったりしていたが、鼻の頭に汗をかきながら一生
     懸命ミネラル・ウオッチングしていた印象が強くて、成人式、と聞いてビックリしたくらいだ。
      好きな理系に進み、建築を専攻したいとのことなので、”安全でメンテナンス・フリー”の構造
     物を創造するエンジニアに育ってほしいと願っている。

      
            晴れ着姿のYさん

 (2) ミネラル・ウオッチングの効用
      2012年暮れ、同期会の幹事からメールがきた。2014年、同期生で早い人は「古希」を迎える
     ので、次回の同期会は盛大なものを計画する、とのことだった。
      「還暦」を迎えたと思ったら、もう「古希」が目前だ。あっという間の10年だった。この年齢まで
     生きている人は古来希(まれ)なり、とされ名付けられた「古希」だが、男性でも平均寿命が
     80歳の現在では、”鼻垂れ小僧”だ。

      しかし、知らず知らずに老化は進んでいる。生活習慣病や悪性腫瘍、そしてアルツハイマー
     など、油断はできない。
      NHKで、「アルツハイマー病」を特集していた。団塊の世代が高齢化する近い将来、患者数
     は1,000万人(人口の1割!!)になるという、ショッキングなレポートだった。
      病気の進行を抑える手段として、”運動しながら脳を働かせる”のが有効らしい。この番組を
     見て、ミネラル・ウオッチングはピッタリだと直感した。多くの子どもたちから社会人まで、フィー
     ルドに案内すると、目的地までの最適な道順の選択、産地での採集ポイントの選択、採集で
     難渋している子を見かければ古希パワーでハンマーを振るい、次々に寄せられる鑑定依頼に
     対応、そして皆さんが無事帰るまでの安全管理と、私の非力な体と足りない脳はフル回転だ。

      まさに、『情けは人の為ならず』、のミネラル・ウオッチングで、2014年も楽しみだ。

6. 参考文献 

 1) 時事新報社編:東京大正博覧会見物案内図,同社,大正3年
 2) 五味 道蔵編:鉱山大模型館案内 大正博覧会,水晶堂,大正3年
 3) 篠原 方泰編:水晶宝飾史,甲府商工会議所,昭和43年
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