異聞・奇譚 「南極探検」 − 甲斐出身・村松 進 隊員 − その2









               異聞・奇譚 「南極探検」
            − 甲斐出身・村松 進 隊員 −
                      その2






 4.2 ≪第二次南極探検≫

     白瀬隊のシドニー滞在は6ケ月に及んだ。その間にいろいろなことがあった。

      (1) 『 ゴリラ変じて勇士となる 』
           キャンプ生活をするようになって間もなく、例の地元紙に「開南丸が探検隊と称して
          いるのは嘘で、捕鯨船だ。あんな小さな船で南極まで行けるはずがない。隊員という
          のも偽物であれはゴリラだ。その証拠には、体が矮小(わいしょう)で、動作も猿その
          ものではないか」、という中傷記事を載せた。

           ( 「開南丸」をアムンゼン隊やスコット隊の探検船と比較してみる。スコットが乗った
             テラ・ノヴァ号の諸元が不明だが、彼が一次探検で使用したディスカバリー号より
             全長が10%ほど長いことから、総トン数、馬力共に大きかったと推測する。
             開南丸は他の隊の探検船に比べ、総トン数、馬力ともに半分以下しかなく、嘲
             (あざけ)りの対象になったようだ。−−−MH )

探検隊   白瀬 アムンゼン   スコット
  国   日本 ノルウェー   英国
探検船名 開南丸 フラム号 ディスカバリー号 テラ・ノヴァ号
船長(m) 30.48 39.0 52.54 約57
船幅(m) 7.85 11.0 10.37 不明
総トン数 204 402 485
船速(ノット) 5.75 6 8.8
馬力 18
(60〜120)
220 570
建造年 1910 1892 1901
備考     1次探検
(1906年)
 

           いつの時代、どこの世界にも良識ある人はいるもので、この新聞記事に驚いた一人
          に、シドニー大学のエッジワース・デーヴィッド教授がいた。彼は、かつてシャクルトンの
          南極探検隊に地質学者として参加し、磁極点に到達した一人だった。彼は、開南丸の
          シドニー入港を歓迎し、白瀬や武田と会って、第一回白瀬探検隊の雄図を讃え、挫折
          を慰め、再挙を励ましてくれた。彼は、ただちに反論の記事を新聞に掲載した。
          「日本探検隊はゴリラにあらず。猿にもあらず。世界に類なき、勇ましい探検隊である。
           東洋から千里の波涛を踏破してきたさえ異数とするに、すでに3月10日には、南緯
          74度の地点まで進んだ。今や不幸にして結氷のために引き返せりと雖も、解氷の機に
          乗じて再挙を図らんとせり。勇ましき日本の探検者を労へ。我等の義務である。・・・」

           それからというもの、あらゆる階層のシドニー市民が歓迎人となって続々と集まって
          きた。隊員が晩餐会への招待、返礼としてテントで日本料理の馳走など、異文化交流
          も盛んになった。白瀬に至っては現地女性から求婚される”事件”すら起きた。

      (2) 『 白瀬の憂鬱 』
           表面上は華やかに見える開南丸のシドニー滞在だったが、白瀬の心は晴れなかった。

       1) アムンゼン隊やスコット隊が極点に向けて活動を始める解氷期になったという風聞

          ( アムンゼン隊は、10月1日に極点に向けて再スタートを切っていた。スコット隊も
           11月1日には、極点を目指す悲劇的な旅に出発していた。
            白瀬隊は、両隊に大きく出遅れていたが、知る由もなかった。−−−−−MH )

         2) 日本の後援会からの送金が届かず、開南丸の改修費等の支払いもできず、シドニー
          に”禁足状態”
       3) 10月18日に野村船長が戻り、『多田の罷免命令』を打電したが、その多田本人から
          11月10日に、隣の港・タウンズビルから「安着」の電報が入った。
          白瀬は、多田が乗っている熊野丸の到着を待たずに南極に向けて出航することも画
          策したようだが、新聞団からの「出発ハ必ズ熊野(丸)着後にセヨ。然ラザレバ、国民ノ
          好意ヲ無視スルコトトナル」、との電報でそれも叶わなかった。
       4) 多田の天敵で白瀬擁護派と見られる村上からさえも、「一致和合、国家ヲ思ッテ争イ
          起コサズ、メデタク出帆セヨ。」、と釘を刺されるありさまだった。

      明治44年  11月15日   多田の乗った熊野丸がシドニーに入港。
                       多田の日記には、「午前8時、サークルキー桟橋につく。隊長、
                       武田、三井所の諸氏、船長、・・・・・・村松、・・・の各隊員も相前
                       後して来船。
                       「夕食後、(帰着報告の席上)、隊長と予との意見衝突で、いろい
                       ろ難題が持ち上がった。・・・・この席にあった2、3の隊員(NやW)
                       は、隊長の言の矛盾せることまで直諌して、予の弁護の位置に
                       立つ。・・・・」
              11月16日   「空は晴れても心は晴れぬ。隊長の予に対する疑惑は、なかな
                       か解けぬ。隊員一同の同情、船員一同の同情は従前と変わらぬ
                       が・・・・・・・」
                       思い余った多田は、武田を伴い、現地日本人会会長・小林を訪れ、
                       仲裁を依頼する。
                       この日、犬守・橋村に連れられて樺太犬29頭が開南丸に着く。

                       ( この2日間の表向きの記録はこうなっているが、多田の『私録』
                        には彼の本音がでている。
                        「・・・白瀬氏から一言の慰労の言もなく、即日予に『脱隊の勧
                        告』をしたのである。
                        多田が帰国した理由の一つ、「隊員からの野村船長と丹野運転
                        士の排斥問題」は、丹野が病気を理由に船を降りることになり、
                        あっけない幕切れとなった。新たに起きた、「多田排斥問題」は
                        多田が下級隊員に降格されることで一応決着した。      )
              11月18日   この日、丹野、舵取・佐藤、火夫・高取が病気を理由に、犬守・
                       橋村が任務を終え、熊野丸で帰国した。先に帰国した三浦を含め、
                       第一次隊の4人が去った。
                       それを埋める形で、多田と一緒に来た池田(学術部員)、田泉
                       (活動写真技師)、現地採用の運転士見習・三宅、火夫・浜崎の
                       4人が加わり、総員27名だった。
                       村松は「隊長秘書」、多田は「隊員補助」という役職を与えられた。
                       抜けた海上部(船員)のポストは、それぞれ昇格した者が埋めた。

                       改修を終えた開南丸は、お粗末なモーツドック(船渠)会社分工
                       場ジュビリー・ドックに塗装も新しい姿を浮かべていた。
                       第二次探検に向けての主な改修ポイントは、風の強い南極海で
                       の操帆を容易にするため、角帆(□)から三角帆(△)にしたこと
                       だ。

                       
                                     第一次探検時

                       
                                     第二次探検時

                                       「開南丸」
                              【「野村直吉船長 航海記」より引用】

              11月18日   白瀬隊長以下27名、1年2ケ月分の食料そして、樺太犬30頭
                       (一次の生き残り”マル”を含む)を載せた開南丸は、午後3時、
                       第二次南極探検に向けてシドニー港を出帆した。
              11月29日   開南丸は一路南下をつづけ、この日、ニュージーランドとタスマニ
                       アの間を南進していた。シドニーでの改修のお蔭で、開南丸の居
                       住性は改善されたようだ。
                       品川沖出航一周年を記念して、活動写真技師・田泉は荒れ狂う
                       海を進む開南丸、隊員が合唱する場面、そして大きく揺れる
                       マストの上での柴田水夫の作業ぶりなどをフィルムに収めた。
                       夕食後、学術部室で村松と田泉が俗謡数番を歌い、多田は愛用
                       の尺八でこれに和した。
              12月11日   この日初めて氷山に出会う。総員、降りしきる雪の中、デッキで
                       氷山に視線を注ぐ。

                       ( 南極大陸が近づいてくるが、第二次探検隊の行動の細目は
                        決まっていなかったようだ。9月23日に、大隈が「南極探検事業
                        国庫補助請願書」を林外務大臣に提出した第二次探検計画は
                        次のようになっていた。【再掲】
                       ・上陸予定地はロス海
                       ・探検隊甲隊は白瀬自ら学術部員2名、隊員3名を率いて進む
                       ・探検隊乙隊は武田ほか6名で、天文・気象・地質・地理・動植物・
                        その他学術研究を行う。
                       ・極地越冬も計画し、明治45年5月まで滞在
                       ・挽犬費1,798円、予備費5,000円を含め総費用74,500円
                        内、53,000円を政府、残りは民間から募集

                       ( この内容だと、探検の目標が第一次南極点踏破から、各種の
                        学術調査に変更されている。素志が北極点踏破にあり、それを
                        先んじられやむをえず南極点に目標を変えざるを得なかった
                        白瀬にとって、たとえアムンゼンやスコットの後塵を拝するとも、
                        南極点は諦めきれなかったはずだ。白瀬の「冒険心(自己顕示
                        欲)」と「学術探検」への配慮を同時に満足させる行動計画が
                        この日発表される。 )

                       ・突進隊と沿岸隊に分ける。
                       ・突進隊は白瀬自ら学術部員2名、隊員2名で構成。第一根拠地
                        に上陸し、犬ぞり全部を動員して進む。
                        山岳氷河の状態、気象、生物、地質等の研究調査に努め、新
                        発見の区域には目に見える範囲を日本国の名を以て占領する。
                        2月22日までに根拠地に引き揚げる。
                       ・沿岸隊は池田支隊長となり、吉野、西川、村松、渡辺各隊員と
                        田泉技師が活動写真機を携えてこれに参加する。多田も沿岸
                        隊に加わることになった。
                        第一号根拠地に突進隊とともに上陸し、約一週間同地の調査
                        再び開南丸に乗り、第ニ根拠地たるキングエドワード7世州
                        以東の一部に上陸し、調査・採取し、できる限り東進し、日章旗
                        を掲げる。
                        2月10日までに開南丸に戻り、2月26日までに第一号根拠地に
                        帰還し、ここで両隊合流する。
                        故国への最上の土産となるパンギン鳥捕獲に十分努める事。
              12月17日    アムンゼン隊南極点到達
      明治45年  1月元旦     野村船長の「航海記」によれば、「芽出たき祝すべきであるが、
                        天気は荒し。・・・・朝9時頃に、白瀬中尉は元旦の式を引期せ
                        る事の相談に決したりと村松書記の報知あり。・・・・・・・」

                        ( この時点で、野村は村松を『書記』、と記している。また、「航
                         海記」には、元旦に撮影したとされる写真が掲載されているが、
                         とても写真が撮れるような状態ではなかった。−−−MH )
      明治45年  1月3日     野村船長の「航海記」に、「午後1時、天気よし。南極大陸州を
                       発見し、為め引期せる元旦式を執行に附、大騒ぎ乗組一同中室
                       上に集合して居る姿は実に滑稽である。顔は洗はずして・・・・・」
                       ( この日に集合写真を撮ったと考えられる。後列(立っている人)
                        右から7人目の小柄なのが村松だ。 −−−−− MH )

                       
                               明治45年元旦(3日?) 開南丸乗組員の集合写真
                                     【「野村直吉船長 航海記」より引用】

              1月16日   開南丸は鯨湾に入る前に、別な地点で上陸をしたが、氷河の突
                      端で危険なので別な場所を選ぶことになった。
                      第一上陸地点を記念し、「開南湾」、と名付けた。
                      この日、アムンゼン隊の「フラム号」と会う。
                      この日の深夜から2日間を費やして、荷物の陸揚げ、根拠地への
                      運搬、天幕の設営に忙殺される。
              1月17日   野村船長が運転士見習・三宅を通訳として連れて、「フラム号」を
                      表敬訪問する。戻った野村は、船員には個室があてがわれている
                      ことや、開南丸の2倍の大きさの船を開南丸より少ない船長以下
                      11名で操船していることなど、「比べると嫌になる」、と報告した。
                      ニールセン船長が活動写真技師と2人で返礼に訪れた。この時、
                      「こんあ小さな船でよくここまで来られたものだ」、と開南丸船員の
                      勇気と操船技術を誉めてくれ、面目をほどこした。
                      この日、スコット隊も南極点に到達した。
              1月18日   この日、新たな命令で、村松と吉野が「観測隊」として第一根拠地
                      にとどまり、天候・気象観測に従事することになる。
                      突進隊の装備品などを第一根拠地に運び終える。この夜、犬係・
                      山辺と花守の2人は、荷物置き場で寝ることになる。
              1月19日   突進隊5名、観測隊2名の上陸に先立ち、村松と西川が氷堤の様
                      子を見に行った。昨日まで使った登り口は失われ、新たな登り口を
                      作らねばならなかった。村松は上陸地点から、氷堤上までの道を
                      探査し、昨日まで使っていた道に出会うことができた。堤腹をよじ
                      登り、山辺と花守がいる荷物置き場に行こうとしたが、新たなクレ
                      バス(氷の割れ目)ができていて、危険この上もなかった。
                      村松が行くと、山辺と花守は寝袋にくるまって睡眠中だった。2人を
                      起こし、道路づくりに協力を要請すると、花守が妙に塞ぎこんでいた。
                      話を聞くと、第一次隊の生き残り「マル」が行方不明で、探したが
                      氷の割れ目に落ちて非業の最期をとげたと思うと言って、悲しそう
                      な表情を浮かべた。
                      隊長以下7名と樺太犬27頭が見送る中、開南丸は錨を上げた。
                      7人は、氷堤が崩れるのを恐れ、内陸3km入った地点に第一根拠
                      地を設営した。
              1月20日   村松、吉野隊員を根拠地に残留させ、突進隊5名は、南進を開始し
                      た。

     「突進隊」の動きも気になるところだが、ここからしばらくの間、このページの主役・村松 進
    活躍を追ってみることにする。

                      突進隊が出発した後の寂しい天幕(テント)には、村松・吉野の
                      二人と負傷のため取り残された黒犬一匹の生活が始まった。雪で
                      目をやられていた吉野は、凍った眼薬を融かして点眼したのち、寝
                      袋に入って寝てしまった。
                      村松は一人缶詰を温め、ビスケットをかじって形ばかりの昼食を済
                      ませた。高さ7尺(2.1m)もある気象観測用の箱を建てようとして、
                      釘のないことに気づいた。いくら探しても見つからない。多分、運搬
                      の際、氷堤の上に置き忘れたのかも知れないと考え、氷堤まで釘
                      を探しに出かけた。
                      鯨湾には、もちろん開南丸の姿はなかった。アムンゼン隊のフラム
                      号は、風向きから停泊位置を変えたらしく、湾内に姿はなかった。
                      村松は天地間におのれただ独り、の思いで氷堤にたたずんでいた。
                      湾内の海面を見ていると、海面下から水が盛り上がってくる感じが
                      し、ところどころに水柱が立って、そこから凄まじい音が伝わってき
                      た。それは、幾十頭という鯨の群れが湾内一帯に遊泳して、潮を
                      吹いているのだった。村松はその光景を見て、鯨湾の名の誠に
                      偶然でないことに感動した。
                      そのときまた、村松は空中で雪鳥(スノーバード)が鳴く声を耳にし
                      た。その声はちょうど蝉を思わせ、それが断続して聞こえてくると、
                      村松は沈黙の世界で聞く鳥の声にいささかの郷愁を誘われ、ひと
                      しおの孤独感に襲われた。

                      氷堤にも釘は見当たらなかった。釘なしで何が造られようかと途方
                      に暮れたとき、ふと、薪にしようとして壊した缶詰の木箱を思い出し
                      た。村松は走って天幕に帰り、その木箱の釘を抜き始めた。そして
                      その釘を使って気象観測用の箱を建てた。箱の内部には、最低寒
                      暖計と通常寒暖計が置かれ、屋根にはロビンソン風速計が据えら
                      れた。

                      ( 気象観測隊員として根拠地に残った村松に関する記述がもっと
                       も彼の素顔をよく伝えてくれている。
                       村松が甲斐・北巨摩郡の友人と思われる人に差し出した絵葉書
                       と同じ図案の「南極探検用学術器械」とキャプションがついた未
                       使用絵葉書を骨董市で入手していた。
                       村松が建てた箱というのは絵葉書の左上にある「百葉箱(ひゃく
                       ようばこ)」、と呼んでいるものだろう。私が子どもの頃、どこの小
                       中学校でも見かけたものだった。
                       ロビンソン風速計は、絵葉書中央上にある、半球状のカップを
                       90度間隔に4つつけ、風が吹くと”クルクル”回るものだろう。
                       吉野だけでなく多くの隊員が目をやられた記述がある。それは、
                       俗に「雪目」、と呼ぶ南極の強い紫外線によるヤケドと南極の雪
                       が”細かい針”のようで、それが刺さって炎症を引き起こしたよう
                       だ。ただ、村松が眼をやられた、という記述はなく、気をつけてい
                       たのか、慣れていたのか。 −−−−−−−−− MH )

                      
                                         「南極探検用学術器械」
                                         【骨董市で購入絵葉書】

              1月21日   村松と吉野が天幕内外の整頓を済ませ、氷上小屋を完成した。
                      まず天幕の支柱とも言うべき18本の小綱を引きしめ、それから周囲
                      5尺(1.5m)の高さに標目旗(めじるしばた)の棒を継ぎ合わせ、
                      次いで天幕一杯の竹の輪作って内側から取り付け、緩みのなくな
                      るまで張り合わせて、要所要所に同じく竹の筋交いを入れた。
                      地下は一様に4尺(1.2m)程の深さに掘り下げてあるが、これで天
                      幕内は先ず5坪(17平方メートル)ばかりの住居(すまい)となった。
                      入口から左手(時計回り?)に寝室、書斎、食堂、勝手(台所)、
                      兼帯(けんたい:いくつかの用途を兼ねる=フリー・スペース)の室
                      という順序にそれぞれ整頓することとなった。
                      その三方は胸の高まで蓆(むしろ)の囲いを作った。仕切りの方は
                      菰(こも)を吊るして出入り口とした。竹の骨に麻布を張って戸の代
                      用とした。寝床の上は、6尺(1.8m)の高さに麻布を用いて吊り天井
                      を作った。先ず和洋折衷最新式の建築というべきである。
                      奥の1坪余のところには、誰かが運んできた藁布団が転がってい
                      たので、その中の藁を取り出して、地上にまき散らした。その上に
                      蓆2枚を敷いて、寝嚢(しんのう:寝袋)2個を並べてみると、立派な
                      床(とこ)ができ上った。尚傍らに衣類箱2個を並べてみると、それ
                      で新式軽便の卓子(テーブル)も出来上った。これで、寝室及び書
                      斎の体裁は先ず備わったというべきだ。
                      入口の一坪には缶詰、ビスケット、炭、米袋、味噌、その他の雑品
                      を積み重ね、中央にはブリキ箱の火ばちが置いてある。これにて、
                      2人が畢生の智恵を絞り、あらん限りの材料を利用して造りあげた
                      苦心の氷上小屋は出来上ったわけである。
              1月21日   村松と吉野が本格的な気象観測を開始する。観測項目は
                       1) 天候
                       2) 気温
                       3) 風位(風向)
                       4) 風力
                       5) 晴曇(意味不明、晴雨か)
                      で、これらを2時間ごとに測定した。

                      ( 野村船長の「航海記」の資料には、根拠地での測定項目は、
                        1) 気圧 2)気温 3) 湿度 4)風速 5) 風向 、で、
                       風向きは目視測定、「百葉箱」の中には、湿度計も設置、とある。)

                      2人の仕事は8時間交代とし、まず午前8時から午後4時までの当
                      直は村松から始めることにした。この日は月曜日だったので、(週
                      1回取り換えることになっている)自記寒暖計や自記室時計・晴雨
                      計などの用紙を取り換え、また経緯儀の螺旋(ネジ)巻きを行った。
              1月24日   暮れ方、南極鷹(とうぞくかもめ)が珍しくも天幕を見舞ってきた。
                      村松が手早く村田銃を持ち出して、実弾一発で見事に射止めた。
                      南極に住み慣れた黒鷹も、この日の寒気のせいか、腹部の毛は
                      硬く氷結していた。また、負傷のため取り残された黒犬は、この日
                      まで天幕の外に繋がれ、自分の体温で少し窪んだ雪の中に埋もれ
                      て、負傷した足を舐めなめションボリしていたが、いかにも寒そうな
                      ので、この日からは天幕の中に同居させることにした。

                      犬を天幕の中に入れてからは、食事後は吉野隊員の睡眠時間な
                      ので、相手なきまま村松隊員はコトコトと時を刻む時計の音の高き
                      を聴きつつ、出帆の際有志者から贈られた雑書をひも解いていた
                      が、不思議やこのとき、天幕の外に微(かす)かに人の話し声らし
                      いのを聞いた。この無人の極地に人声するのは不思議の事よと
                      四辺(あたり)を見廻し、尚も耳を澄ましていると、又もや人の話し
                      声!! さては、フラム号の船員でも無聊のあまり来訪したのであ
                      ろうかと、天幕の外に出ようとすると、何のことだ、馬鹿馬鹿しい。
                      先ほどの黒犬が炭俵の側で頻(しき)りに咽喉を鳴らしていたので
                      あった。

                      「大吹雪のため天幕の中に粉雪が舞いこんで大騒ぎをし、外に
                       出ようとして入口の雪をスコップで掻き退け掻き退け、ようやく這
                       い出る日もあれば、雲一つなく晴れた青空の下で、鯨湾の紺青の
                       海面を小島のような氷山が2、3個、屹然として沖に流れ去るのを
                       目撃する日もあった。」

                      「今日このごろの太陽は、正午より午後2時に北方45度ばかりを昇り、
                       それから西を過ぎて南に至り、午前1時より2時の間は最も低くお
                       よそ15度ばかり(に)下り、また東に向かって環状運動をなすので、
                       あたかもこの天幕の12通りの縫い目を24時間に一周する都合で
                       ある。畢竟(ひっきょう:つまるところ)、天幕の縫い目の間(あいだ)
                       一間(ひとま)が2時間を費やして運動するわけなのだから、この
                       天体時計さえ見ていれば、夜のないこの南方の世界(ただし、
                       冬はほとんど夜ばかり)にいても、午前・午後を間違うようなこと
                       はないのである。 」
              1月27日   ふたりは、かねて宿望の湾内探検を試みた。二人はそれぞれ散弾
                      を装填した銃を肩に掛け、海に沿って西南方に歩みを運んだ。太
                      陽は青空に懸って満目の風光は白一色。ときどきどこかの氷堤が
                      欠落するのであろう、遠雷のような音が悽愴の気を伝えてくる。
                      3マイル(約5km)ほど進んだ時、地上におぼろげながら橇の跡、
                      板カンジキ(現在のスキーのこと)の跡、犬の足跡などが二人の進
                      路を横切って、海岸からS形に走っているのを発見した。二人はそ
                      れをアムンゼン隊のだれかが残した跡に違いないと鑑定したが、
                      アムンゼン隊がすでに2日前の25日に、南極点から鯨湾の根拠地
                      に(無事)帰還していた事実を二人は知らなかった。
                      やがて二人は湾内へ突出している氷堤の上に出て対岸をながめ、
                      その湾が長靴形をしていることを確認し、さらに望遠鏡でその長靴
                      の踵(かかと)にあたる地点の後方にアムンゼン隊の旗と思しきも
                      のを発見した。
                      持参した竹杖でクレバスに注意しながら氷堤沿いにその旗を求め
                      て進むと、ノルウェー隊の露営地らしい天幕にぶつかった。白瀬隊
                      の根拠地から7マイル(約11km)の距離である。その天幕は樺色
                      の褪せたキャラコ地のような麻布製で、中央に柱1本を立て、細い
                      多数の控え綱が亀甲形に張られていた。入口は北向きで、袋式に
                      造られ、すこぶる携帯に便利そうである。
                      英語で「こんにちは、こんにちは」、と呼んだが、天幕内には誰もい
                      なかった。用事で海岸にでも出ているのだろうと、その地点から
                      湾内を30分ほど眺めていた。するとノルウェー隊のフラム号が湾内
                      に向かって進入してくるのが認められた。同時に、陸上をこの天幕
                      に向かって進んでくる壮漢も目撃された。その男は、ノルウェー式
                      の6尺(1.8m)もあろうかと云う細長き板カンジキ(=スキー)にて
                      雪上を滑走してきた。
                      外国人同士とはいえ、このような無人の境で面会することは互いに
                      無限の想いがあり、熱情のこもった握手を交わした。彼は船中に
                      おいて白瀬隊長の肖像を見たりし事など喜ばしげに語り、なお昨年
                      冬営中には寒暖計非常に降り、犬も為に凍死して甚だしき危険に
                      陥りたりし事、己は他の一人と共に目下この天幕の留守居を為し
                      居るが、先日来二個月に800マイル(約1,300km)を踏破してこの
                      地に帰り来りし事、及びこのカンジキをもってすれば1日に40乃至
                      50哩(マイル)(65〜80km)の旅行は為し得べき事など語った。
                      村松・吉野の二人は尚も語り続けんトしたが、折しも付近に来る
                      フラム号と信号交換の用事ありとの事に、再会を期して立ち別れた。
              1月31日   この日は気温が氷点下10度を示し、空は昨日に引き続いて薄暗く
                      風は珍しく東南方から吹いて、天幕の上の日の丸を弄んでいた。
                      午前4時の交代時間に観測所から天幕内に戻った村松が味噌汁
                      を作っているとき、天幕の外に人の気配を感じた。近頃は黒犬(ク
                      ロ)もよほど快方に向かい、終始天幕に出入りしているので、はじめ
                      はそのクロかと思った。しかし、雪を踏む音がクロより高く力強いの
                      で、どうも今度は人間らしい。しかも、吉野の足音にしては、戻って
                      くるのが早すぎると思ったので、「吉野君?」、と呼んで天幕の外を
                      見ると、そこにやって来たのは、真っ黒な顔から両眼を光らせ、
                      「ホーホー」、とアイヌ流の挨拶をして駈けてくる花守だった。
                      そこへ吉野も飛んで来たので、3人抱き合って躍り上がり、一行の
                      安否を尋ねているところに、両手にコンパスを抱えた武田が雪を
                      踏みならして駈けて来た。悦びの声は一段と高まった。
                      間もなく白瀬を乗せた山辺の犬橇隊と、三井所の操る犬橇隊が相
                      次いで到着した。「万歳、万歳」、の声は南極のしじまを破って、雪
                      原に拡散して行った。

     こうして全員無事に帰還した「突進隊」のこれまでの動きを、10日ほど時間を巻き戻して追って
    みよう。

              1月20日   正午、村松と吉野を根拠地に残し、「突進隊」は出発した。表向き
                      は学術調査だったが、南極点踏破の野望に燃えていた。
                      犬ぞりは、前隊と後隊の二隊に分かれた。
                      前隊 - - - - - -白瀬、武田、花守(15頭)
                      後隊 - - - - - -三井所、山辺(13頭)
                      前隊は順調にスタートしたが、後隊は挽犬の力が弱いせいか、
                      思うように進まなかった。村松と吉野が後を押して、5、600メートル
                      も押出してくれたのに、その間に3度も転覆するありまさだった。
                      やむをえず、副食物で犬の飼料でもある鱒1俵(約45kg)を橇から
                      降ろすと、やっと徐行するようになった。そこで、村松・吉野と「それ
                      じゃ」、といって握手を交わし、前隊を追って南東に疾走を開始した。

                      雪中の行進は毎日同じような状態の連続だった。「南極記」から
                      初日の様子を拾ってみる。

                      「進み行く雪原の雪は、5寸(15cm)、8寸(24cm)、乃至1尺(30cm)
                      の深さで、橇の進行なかなか困難である。やがて、3時間余りも進
                      んだ後、凹凸ある場所に達したので、ひとまず休憩して時計を見る
                      と4時05分であるから、今少し進んだ後、露営せんものと、さらに進
                      むと、右方に小丘数個と、亀裂の一帯とを発見した。・・・・・人も犬
                      も疲労の極に達しているので、ここに今宵は露営と決した。・・・・・・・
                      ・・・天幕内には雪上にゾック2枚敷き、その上に各自の毛皮の胴
                      巻を布(し)き、座の中央に石油混炉(コンロ)を置いて、暖炉と厨炉
                      との兼用に備えた。・・・・・」
                      最初の食事で、甘味噌の味噌汁に舌鼓を打った。
                      白瀬は、「自分と武田氏と三井戸氏と3人して狭い天幕の中にほと
                      んど相擁するが如くにして寝た。山辺・花守は仮設天幕に寝た」、
                      と書いているが、山守の「あいぬ物語」には、「雪の上へ、小さな
                      天幕を建てて、その中にサパネ・ニシパ(隊長)とタケタ・ニシパ
                      (武田氏)とミイショ・ニシパ(三井所氏)と、これだけ寝る。私と花守
                      との2人は、積荷の上の覆いを垣のように取り回して、雪の上へ、
                      毛皮の着物を着て寝るのであった。朝になって、起き上ってみると、
                      私たちの体の上に、雪が沢山降り積もっているのであった。」
                      ( 実態は、山辺の記憶の通りだったのだろう。−−−−−MH )
                      第一日の突進行程は3里18町(約14km)
              1月21日   目が覚めたのが午前8時。武田は観測に取りかかり、三井所は撮
                      影。山辺と花守は炊事のかたわら挽き犬の世話。やがて、朝食が
                      終わると11時になった。白瀬は、鯨湾上陸以来、針のような飛雪が
                      眼に入って、『雪盲症』の痛みに悩まされていたが、おいおい快方
                      に向かっているという。
                      11時12分出発。泥雪で歩行はすこぶる困難。犬もおおいに悩んで
                      いる。橇にはなるべく乗らず、徒歩で進む。午後3時50分、昼食の
                      ため小休止。雪がチラチラと降り出し、やがて吹雪になった。膝を
                      没していた雪が、こんどは氷原となって滑りはじめた、武田が一番
                      転んだ。それにクレバス(氷の割れ目)が多い。隊員同志、腰と腰
                      とを綱で縛りあって進んだ。吹雪が強くなって、一寸先が見えない
                      状態となったので、アタフタと雪中に天幕を張って露営とする。
                      夜9時就寝。第2日の行程3里20町(約14km)
              1月22日   午前8時起床。午後1時出発。前夜の吹雪のため、吹き溜まりがで
                      きている。8kmほど走ったが、橇の積荷の重量が挽き犬の牽引力
                      に対して過重らしく、後隊が前隊に遅れがちになる。
                      これまでの2日間の経験から荷物の大削減を実行する。重量40貫
                      (150kg)を橇から降ろして積み上げ、目印の赤い三角旗を立てた。
                      午後5時再び出発するが、挽き犬の疲労は相変わらずで、元気が
                      ない。午後10時露営。第3日の行程6里12町(約25km)
              1月23日   武田は日例により天測。午前8時と午後4時の2回経度を測定し、
                      正午に緯度を測定する。
                      武田が人工地平儀を取り扱おうとすると、水銀が全部酸化してい
                      ることに気づいた。極寒の地では、なかなか酸化を防ぐのは難しい。
                      ・・・・午前11時出発。挽き犬も馴れたとみえてすこぶる調子が良
                      い。午後3時52分昼食。午後6時再出発。午後8時45分露営。第4
                      日の行程8里30町(約35km)
              1月24日   午前8時45分起床。11時27分出発。積雪がブリザードで吹き寄せ
                      られ、硬く凍結した「氷骨」に橇が乗りあげ、何回も転覆する。その
                      衝撃でコンパスが故障してしまった。これを修理中、武田は不注意
                      で凍傷を負う。修理後南進する。午後9時、後隊の挽き犬の一頭
                      の足が凍傷にかかり、歩行出来なくなったので、列外に放す。
                      午後9時50露営。第5日の行程9里半(約38km)
              1月25日   連日の疲労で、朝の寝覚めがだんだん悪くなる。出発の準備がで
                      きたのが午前11時。空模様が悪化してきたので、躊躇しているうち
                      に正午。進めるだけ進もう、ということで出発。午後2時半小休止。
                      午後3時再出発。気圧計の針がみるみる下降しはじめる。大吹雪の
                      中に突っ込んで行った。この猛吹雪の中、前隊と後隊の連絡が途
                      絶えてしまった。白瀬らの前隊は止まって後隊が追いつくのを待つ
                      ことにした。止まると一段と寒さがこたえる。後隊の三井所も前隊の
                      姿が見えなくなって焦った。”遭難”の二文字が頭をかすめる。氷
                      骨の上に前隊の橇の痕跡を見つけ出し、その方向に進むと、よう
                      やく合流できた。第5日の行程8里半(約34km)
              1月26日   午前5時、隊員は次々と目を覚ました。吹雪の猛威は強まるばかり
                      だ。きのうは、後隊の行方不明騒ぎと猛吹雪で26時間も飲まず食
                      わずでいたので、全員空腹を訴えた。吹雪が衰えたので寝袋から
                      出て朝食。出発準備をしていると、糧食係・三井所から「そろそろ
                      糧食が欠乏を告げている」と報告した。重大な報告だった。そこで、
                      全員協議の結果、「今日、明日両日間にできるだけ前進し、その
                      上で挽き返す」、と白瀬が結論を出した。
                      9時30分出発。30分ほど走った時、後隊の先導犬として一番良く
                      働いた斑(ブチ)犬が右前脚に凍傷を受け走行不能となり、列外に
                      放された。再び走り出したが、山辺は心配そうに何度も後ろを振り
                      返った。
                      第6日の夜半までの行程5里22町(約22km)
              1月27日   一行が休憩をとったとき、午前2時半なっていた。食事をしていると
                      斑犬が本隊に追いついた。午前5時半、再出発。
                      朝から嶺が見えたのでそちらの方向に進んだが、嶺の形状が全く
                      変化しないのでその方向に進むのを断念し、天幕を張った。午前
                      8時半だった。すでに挽き犬も疲労しており、各自寝袋に潜り込ん
                      だ。
                      前夜午前零時からの第7日の行程12里14町(約49km)
                      午後6時30分再出発。そのうち挽き犬の疲労が極めて大きく、全員
                      交替で徒歩前進することになり、雪の上をトボトボとたどった。
              1月28日   喘ぎに喘いで橇を止めたのは、午前零時30分だった。前日の午後
                      6時30分から夜半までの行程11里(約44km)
                      夜半から零時30分までの行程1里(約4km)
                      午前8時に武田は経度を測定。西経156度37分だった。正午を待っ
                      て緯度を測定すると、南緯80度05分だった。一行は、この地点を
                      最終点とした。

                      ( 南極点までは、約10度進まねばならなかった。地球の円周を
                        40,000kmとすると、10度は1,100kmになる。順調に飛ばしても
                        1日に40kmしか進めない白瀬隊にとって、往復2,200kmを超え
                        る長旅は、仮に食料などが十分だったとしても2ケ月かかること
                        になり、その力はなかったのだ。 −−−−−−−−−MH )

                      一行は、深さ3尺(約1m)の穴を掘り、「南極探検同情者芳名簿」を
                      入れた銅製の箱を埋めた。その上に長さ一間半(約2.7m)の竹竿
                      を立て、日の丸と下に回転旗をつけた。
                      この露営地を中心として、目の届く限りの雪原に『大和雪原(やまと
                      ゆきはら)』、と命名したが、最近では「やまとせつげん」、呼びなら
                      わされているようだ。
                      午後2時30分、最終点を折り返し、根拠地に向けて出発した。食料
                      やその他の荷物も無くなって橇が軽くなったせいで、樺太犬の歩み
                      は甚だ好調だった。夜半12時までの行程20里7町(約80km)
              1月29日   午前9時起床。11時30分出発。午後から全速力で進んだので、ま
                      ず挽き犬たちが疲れはじめ、休憩すると犬たちはなかなか走り出
                      そうとしなかった。犬たちが機嫌を悪くするのも無理からぬことだっ
                      た。何よりも、糧食が不足していた。山辺と花守は、自分が食べる
                      分のビスケットを密かに犬たちに与えるほどだった。これが仇とな
                      ったのか、しきりに下痢をする犬が出始めた。午後10時30分になる
                      と、花守も一言も口をきかず、動かなくなり、午後11時30分、休憩
                      と決まった。った。
                      この日の行程24里11町(約95km)で、これは犬橇として画期的な
                      スピードだった。それまでは、アムンゼン隊の第一デポ隊が南緯
                      80度の食料貯蔵所から根拠地に戻る時に出した1日約83kmで、
                      それを上回るものだった。
              1月30日   午前零時30分再出発。4時30分露営。ここで休憩した後、午後5時
                      出発。濃い霧に会う。
              1月31日   午前2時10分露営。前日の行程21里10町(約85km)。濃霧が晴れ
                      たのは午前4時だった。天幕の外に出てみると、前方の対岸に氷
                      堤がくっきり見えた。露営した地点は、鯨湾口に面した一地点であ
                      ることがわかった。
                      そのとき、眼の良い花守が「あれはなんだ」、と遥かに西のほうを
                      にらんだ。武田が望遠鏡を取り出して、その黒点をながめて、「どう
                      もわれわれの根拠地の小屋らしい」、と呟いた。代わる代わる望遠
                      鏡をのぞき、”そうだ”、”そうだ”、となった。
                      武田と三井所が花守を先導役として、その方向に確認に赴いた。
                      「万歳!!、万歳!!」、と声を上げつつ三井所が帰ってきて白瀬
                      に報告すると、ただちに天幕を片付けさせ、その方向に向かって
                      橇を駈けさせた。

                      午前5時50分、根拠地の前に来た。留守を預かっていた村松書記
                      はこれを認めて迎えてくれた。吉野隊員も雪下駄を履きつつ、あわ
                      ただしく走り出て来て迎えてくれた。
                      こうして一行は、根拠地の前に整列し、記念撮影した。
                      花守と山辺は犬たちに食事を与えた。犬は2匹減って26匹になってい
                      た。根拠地に残して置いた鱒を与えると、犬たちは久しぶりの御馳
                      走に、尾を振り立て、鼻を鳴らして貪り食べた。
                      人間の方には、村松と吉野が、”温かくて柔らかい雑炊(オジヤ)”
                      を作ってくれた。全員それを堪能した。満腹後、突進隊の全員は
                      倒れるように眠りに就いた。その後、起こされては箸をとり、すぐま
                      た寝るという風で、ついに5人は、一日半の睡眠を継続した。

                      ( 白瀬の「突進隊」と極点を踏破したアムンゼン隊・スコット隊の
                       足取りを、下の地図に示す。
                        3隊とも、現在日本の南極観測隊の「昭和基地」があるのと逆
                       方向から極点を目指している。それは、歩く距離が一番短い、とう
                       いう単純な理由で選ばれたルートだ。 −−−−−−−MH )

                      
                                         南極探検コース
                                       【「南極読本」より引用】

              2月2日   白瀬隊は行動を開始した。突進隊が第3日目(1月22日)に、犬橇の重
                      量を軽減するため降ろした積荷を持ち帰る仕事だ。この日は、前日
                      の吹雪もおさまり、晴れ渡っていた。午後3時25分、一行4人が2台
                      の橇で出発した。
                      前橇は武田と花守が乗って13頭の犬に曳かせ、後橇は村松と吉野
                      が乗って、犬はクロも加わり14頭だった。花守が御する前橇のスピ
                      ードは後橇に勝り、大きく距離をあけた。村松と吉野はそれを悔しが
                      って犬たちを急かしたが、犬たちには格別の効き目もなかった。
                      そのとき、南極鷹(とうぞくかもめ)が2羽、後方から飛来して後橇の
                      上を通り過ぎて行った。犬どもはそれを見て急に張りきり、鳥を追っ
                      て橇のスピードをグンと速やめたため、村松と吉野は危うく振り落と
                      されそうになった。しかし、二人はスピードが出たことに有頂天にな
                      り、根拠地の留守番で鬱積していたモヤモヤしたものを発散させ大
                      満悦だった。
                      犬橇隊は、17マイル(約27km)をひたすら直進し、午後8時30分、首
                      尾よく荷物の残留地点に到着した。荷物は外側全体が厚い氷で覆
                      われていたが、何らの異常もなく、あのとき目印に立てた赤い三角
                      旗もそのまま翻っていた。
                      荷物は全部で12個、重量総計40貫(150kg)。それを2台の橇に分
                      載した。根拠地に帰ることを知っているのか、犬どもは重量が増え
                      たにもかかわらず、疾風のように駈けだした。やがて寒気は零下
                      15度に下降し、雪を巻く強風も起こってきたが、犬どもはまっしぐら
                      に駈け、午後11時50分、根拠地へ帰還した。行程は往復で34マイ
                      ル(約55km)、1時間平均4マイル(6.4km)の速さだった。

                      この日、村松と吉野が不在中、気象観測は三井所の仕事だった。
                      三井所が観測用の器械を点検していると、微(かす)かに汽笛の
                      音を聞いたような気がした。空耳かとも思ったが、もしや開南丸が
                      エドワード7世ランドから帰還したのではあるまいかと、山辺を連れ
                      て鯨湾の氷堤に走ってみた。
                      ひょっとしたら、氷堤の陰に碇泊しているかもしれぬと、なお1マイ
                      ルほど奥まで探したが、結局要領を得ず引き返した。その帰途で、
                      三井所たちは犬の鳴き声を耳にしてその方向を見ると、ちょうど荷
                      物を収納して帰還する犬橇隊だった。
              2月3日   犬橇隊が無事帰還し、一息入れたのは、午前零時を過ぎていた。
                      話題は開運丸に集中した。汽笛だけが聞こえたのが三井所の空耳
                      だったのかが話し合われたが、一日も早く開南丸が帰航するのを
                      祈って寝袋に入った。

     1月19日に鯨湾を抜錨して、エドワード7世ランドに向かった開南丸の航路を15日余り、時間を
    巻き戻して追ってみる。

              1月19日  1月19日に鯨湾を抜錨して、エドワード7世ランドに向かった。
              1月23日  午後4時にエドワード7世ランドを望むビスコー湾の野氷上に錨をお
                      ろした。前面にはアレキサンドラ山脈が神々しくそびえていた。3つ
                      の峰の山腹8合目あたりには、度の峰にも黒点が見受けられた。そ
                      れは山皮(さんぴ)が露出したものであろうが、その中で一番西に
                      ある峰が船に最も近いので、そこの黒点を研究するために、2つの
                      パーティを上陸させることになった。
                      一隊は土屋運転士がリーダーで、島・渡辺鬼・多田・柴田の4人が
                      従うことにし、もう一隊は西川・渡辺近、それに田泉写真技師の3人
                      からなっていた。
                      土屋隊は、2kmほど進んだところで水たまりに行く手を阻まれ、迂回
                      したが高さ60mの氷堤に阻まれ帰路についた。
                      西川隊は、3km行ったところで大きな鳥の足跡を発見した。これを
                      辿っていくと大きくて美しい皇帝ペンギンが6羽いた。
                      ( これらは、後で多田が撲殺し、船に持ち帰った )
                      苦労して氷堤の上によじ登ると、氷堤にはクレバスが縦横に走り、
                      前進を躊躇した田泉はここから引き返した。
              1月24日  午前4時、西川と渡辺は、氷原を進むこと16kmにして峰の麓につい
                      た。急峻をよじ登って大きな亀裂をのぞくと、深さは50尺(15m)もあ
                      り、これ以上の前進は断念せざるを得なかった。
                      2人は、この地に「大日本南極探検隊沿岸隊」の木標を記念に立て、
                      上方20mに露出している岩石も写真に収めた。
                      2人がやっとの思いで帰船したのは、午後10時30分だった。その間、
                      2人は遭難したと思われ、2度も捜索隊が出されたのだった。
              1月25日  午前零時に東方沿岸の探検にむけて開南丸は出発した。多くの流
                      氷、氷山の間を航海し続ける。
              1月26日  正午、流氷、氷山の密集でそれ以上の前進が不可能になった。そ
                      れにシドニーで積んできた55トンの石炭は16トンに、45トンの飲料
                      水は15トンに減じたこともあり、南緯76度6分、西経151度20分の
                      地点で引き帰した。
                      ( これは先年スコット探検隊が到達した西経152度に比べ、40分
                       だけ多く東に進んだもので、当時の新記録だった )
              1月29日   開南丸は根拠地のある鯨湾に向かうのだが、ペンギン鳥の群集す
                      ると言われる小さな湾に寄港する予定だった。目的は、多数のペン
                      ギンを捕えることだった。ここに到着したのは、午後2時だった。
                      しかし、ペンギンは少しもいなかった。土屋運転士は、釜田・渡辺
                      両水夫にボートを漕がして湾内を観測していた。突如、一個の氷
                      山が大音響とともに海中から天を指して浮き上がってくる光景を目
                      撃した。
                      土屋はこの湾を『大隈湾』と命名した。
              1月30日   開南丸は午後1時15分大隈湾をでて、鯨湾に向かった。
                      ( 沿岸隊の航跡を下の図に示す )

                      
                                          沿岸隊の航跡
                                      【「野村船長航海記」より引用】

     白瀬南極探検隊は、27名の隊員が一人も欠けることなく、再び全員が集うことになる。

              2月2日   午後10時、開南丸は鯨湾に入った。
              2月3日   陸上隊根拠地で花守が慌ただしく天幕に入ってきた。「船が見えた。
                      開南丸だ!」、と叫んだのは朝食の最中だ。
                      さっそく双眼鏡で沖を眺めると、氷堤から10マイル(16km)沖に浮か
                      んでいた。風と波が荒いためか、開南丸が近づく気配はなかった。
              2月4日   午前6時30分、白瀬、武田、三井所の3人がボートで開南丸に乗り
                      移ることができた。白瀬たちに続いて、荷物を満載した伝馬船が着
                      いた。ボートも荷物を運んできた。しかし、天幕と気象観測台は記念
                      のため氷上に残された。最後に伝馬船で村松・吉野・山辺・花守の
                      4人と樺太犬6頭が引き揚げてきた。
                      すでに天候が悪化しつつあり、流氷も湾内に次々と流れ込んで来
                      た。白瀬の命令で開南丸は鯨湾を出航した。
                      ( 樺太犬は27頭いたはずなので、21頭は置き去りにされた。 )

          ・   つづく
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