異聞・奇譚 「南極探検」 − 甲斐出身・村松 進 隊員 − その3









               異聞・奇譚 「南極探検」
            − 甲斐出身・村松 進 隊員 −
                      その3





 4.3 ≪帰国≫

     明治45年(1912年)2月4日、開南丸に乗った白瀬南極探検隊の一行は、南極を後にして、
    帰国の途についた。
     途中で、コールマン島に立ち寄り、ペンギン鳥を捕獲したり、鉱物を採集するつもりだった。

     ( 「突進隊」は何も採集した形跡がなく、沿岸隊の多田がペンギン鳥を6羽撲殺したくらいで、
      持ち帰るべきお土産があまりに少ない事に帰国の段になって気付いた、としか思えない。
       後援会はじめ、芳志を寄せてくれた人々へのお土産を採集するため、コールマン島に寄港
      することになったのだろう。 −−−−−−−−−−−−−−MH )

              2月5日   陸上部(隊員)のメンバーはただひたすら眠りたかった。そこで開南
                      丸の運航は全て海上部(船員)に任せて、前後もなく眠った。
                      かれらが眠りから覚めたのは、この日の午前4時ごろで、それから
                      起き出して夕食というありさまだった。夕食にはブランデーや葡萄
                      酒の栓も抜かれ、赤飯と缶詰で全員の無事を祝い、慰労の意を託
                      した祝宴となった。
              2月6日   「命令第86号」で、帰航中の心得が通知された。この中で、「・・当隊
                      予定の探検を終わり、総員無事帰朝の途に就きたる・・・・」、とあっ
                      たことが、一層隊員たちに自己反省的なムードを促した。
                      ”これで果たして予定の探検を完了したと言えるのか”、という満た
                      されない想いだった。
                       ( この想いは日増しに強まり、探検隊の破局とも言える事態を
                         招くことになる。 −−−−−−−−−−−−−−−MH )
              2月11日   午後11時半ごろ、コールマン島の影を発見した。開南丸は1年前の
                      この日にニュージーランドのウエリントンを出航して南極に向かった
                      のだった。
                      また、この日は、「紀元節(現建国記念日)」でもあり、甲板で遥拝
                      式を執り行い、ささやかな祝宴を張った。
                      風波が強く、上陸できなかった。
              2月12日   12日、13日と上陸のチャンスを狙ったが、「風益々烈しく、波癒々
              2月13日   荒く・・・」、と上陸できそうになかった。
              2月14日   幹部会議を開き、上陸決行の可否を討議した。上陸に消極的な白
                      瀬は、「この天候では、いつ上陸出来るかもわからないし、薪炭や
                      飲料水も不足しているのでニュージーランドに直行したらどうか」、
                      と言う。これに対し、隊員の一部から反対の声があがり、学術部員
                      の中にもそれに同調するものがいた。中には、白瀬の肩を持って、
                      「船員の中に、神経衰弱かかっている者もあるのだから、このまま
                      帰途に就くのは止むをえないだろう」、と発言した。
                      白瀬自身が「わしはすっかり疲れ果てたよ」、いうので議論は不活
                      発で、ついに隊長命令で「このまま帰航」が決まった。
                      ( この結論は、隊員の一部に不満のシコリを残した )
                      北に進むにつれ、昼と夜の区別が生まれようとしていた。
              2月29日   明治45年は閏年だった。往路と同じく無聊に苦しむ航海だった。
                      無聊を慰めてくれる蓄音器がこの日故障した。突然、ゼンマイが
                      切れた。清水機関長と村松隊長秘書が一日がかりで修繕に努め
                      たが、成功せず、ニュージーランドのウエリントン上陸後、蓄音機屋
                      で修繕してもらった。

              3月13日   退屈な航海の慰みとして、蓄音機のほか、船員たちの義太夫・浪
                      花節・尺八・西洋琴(ギター)・手風琴(アコーディオン)、それに囲
                      碁・将棋があった。
                      とくに囲碁は大はやりで、その両大関とも言うべき多田と村松は、
                      25回の勝ち星をゴールにして、シドニー出航以来黒白を戦わせて
                      きたが、この日の第43回の手合わせで、ついに村松が25勝をあげ
                      たため、「将棋においては数等の兄たる予も、囲碁では一籌(いっ
                      ちゅう)を輸(ゆ)さなくてはならぬこととなった」、と多田が口惜し
                      がっている。
                      しかし、波が高くなって船のローリングが激しくなると、石や駒が安
                      定しないので、「娯楽中止」、となった。
                         勝ちを相手に譲るの意

     天候の荒れ以外は平穏に見えた帰国の船旅も、その後の南極探検隊分裂の兆しが醸成され
    ていた。かつては、書記長という立場で白瀬批判の隊員たちに担ぎあげられていた多田が、こ
    のころになると平隊員として正面から反白瀬の立場を取るようになっていたようだ。
     しかも、南極上陸後は、多田の眼は白瀬探検隊の目的とする『学術的探検』なるものが、真に
    そのことばにふさわしい厳密性と客観性を持ちうるかを観察する、極めて冷徹な批評家のそれと
    なっていた。そしてそれは、いつの間にか多田の心情を頑固な『良心的告発者』に変化させてい
    たのだろう。

              3月17日   「午後、隊長は西川・吉野・村松の3隊員を集めていろいろ談ずる
                      処があった。例の卑屈な心を満足する相談の由。渡辺(近)と予は
                      与(あずか)らず。何処までも除外例(視?)さるるのである」、と
                      多田の日記にある。
              3月18日   「今日隊長は、池田、田泉両君がニュージーランドから汽船便で帰
                      ることを承諾する旨伝えた。そして西川や吉野へ、隊長、武田君及
                      び両君の同時に帰ることも伝えた由。予はこの報に接し、無念に
                      堪えなかった。常識のない人には追い(思い?)も及ばぬ次第で
                      ある」
                      ( 隊長、武田、池田、田泉、その他西川、吉野といった隊員まで、
                       開南丸と別行動をとり、普通の汽船便を利用して、他の隊員や
                       船員よりも一足先に日本に帰ろうというのだ 。
                        たしかに、開南丸そのものは野村船長以下海上部の船員たち
                       で運転はできるだろう。しかし、「生死を共に」、と誓いあった同志
                       が、戦場からの<凱旋>ともいうべき帰還にあたって、バラバラに、
                       しかも隊長が旗艦ともいうべき開南丸を捨てて、逃げるようにして
                       日本に帰るとはどういうことか。
                       多田をして白瀬を、「常識のない人」、と言わせた所以だった。 )

              3月20日   ニュージーランドの南島が望見される。
              3月23日   午前3時半、ニュージーランド北島のウエリントンに入港し、その沖
                      合に投錨。検疫を受け、碇泊場所に投錨したのは午後1時5分だっ
                      た。検疫船に乗り込んでいた新聞記者から、アムンゼンが前日メル
                      ボルンに帰港したと聞いた。また、彼らはスコット隊の安否を心配
                      していた。
                      この検疫船に便乗し、白瀬・武田・池田・村松・西川の5人が上陸
                      ある者は領事館にヤング名誉領事を訪れ、ある者は電信局で日
                      本へ電報を打ち、ある者は牛肉、野菜、鮮魚を買って戻った。
                      夕食後、午後9時まで全員の上陸が許可され、隊員・船員ともに
                      活動写真の見物や市内の散歩にでかけた。
                      多田の日記には、「ただ今日遺憾とするのは、後援会から一通の
                      音信も着していない事である。村松に丈僅か一通の家信があった
                      のみで、・・・・。信書のないのと、故国の新聞がないということは
                      われらが入港の快楽の半分を削いだ」、と残念がっている。
                      ( 村松には、出発に際して祝電をくれたような、筆まめな友人や
                        親族がいたようだ。 −−−−−−−−−−−MH )
              3月26日   電信局から村松秘書が大隈からの返電を受け取ってきた。
                      ( 23日に電信局に行ったのも村松だった、可能性が高い−−MH)

                      大隈のローマ字の電報には、 ” ----------- Sirasetakedawa
                      Kainanmarunite Kaere - - - - (白瀬・武田は開南丸で還れ)”
                      とあったが、この命令は守られなかった。
              3月27日   夕食後、白瀬の命をうけた三井所が今後のことについて隊員と打
                      ち合わせた。多田の日記によれば、「この地から、隊長は武田、
                      村松両君を連れて帰る。池田、田泉両君は衰弱のため同伴す。
                      安田船員なども病気に付き同様。浜崎船員は下船を申し出たから
                      之も伴って帰る。・・・・・・・・」
                      当然、隊員たちからはこれに対する疑問や反対意見が続出した。
                      隊員の中には、「いつもはつまらん命令でもひょこひょこ出てくるの
                      に、こんな重大発表になぜ隊長が顔を見せないのか」と憤慨する
                      者もいた。多田もその一人だった。
                      「ア、我々は今日に於いて隊長を、無情冷酷といふより外は致方な
                      い事と思ふ。予は万感胸に満ちて、一行の境遇の不遇を嘆いて止
                      まぬ。隊員も皆憤慨した。アゝ遂に隊長は有終の美を自ら破らんと
                      するのである。モウコレで我探検隊はゼロである。」、と絶望的な
                      言辞を記している。

     病気の隊員や船員については理解できるにしても、白瀬をはじめ一部の隊員が、大隈後援会
    長の命令に背いてまで、探検船の開南丸でなく、一般航路の汽船で開南丸より先に帰国したの
    かは謎だ。

     白瀬は『南極探検』で、「・・・我は深く隊の為めに思う所あり、一行と航海を共にする克(あた)
    はず、池田・武田諸氏を従へ、便船をもって急遽帰国の途についた。・・・・・・・・何故我等が一行
    に先(さきだっ)て帰国したかとの原因は、深くして且大。けれど格別探検関係ないので中止しよ
    う」、と黙して語らない。

     南極探検後援会の編纂になる『南極記』には、「3月28日、隊長は・・・郵船にて・・・帰国する
    ことになった。其理由は、能ふべき丈速やかに帰国して後援会を援助し、船員給料、隊員手当
    等を作り置かんとするにある・・・・」、とある。
     また、別な箇所には「・・・今後は一行が撮影し来れる活動写真の力に依頼し、・・・費用を弁ず
    る事にせんければならなぬと決心した」、とある。
     しかし、これでは1ケ月以上も前の、2月18日に一部の隊員が便船で帰国することを白瀬が決
    めていた理由の説明にはならない。これは、後援会が後で取ってつけた理由のようだ。

     しからば、<真の理由>は何だったのだろうか。

     ・ 白瀬に対する隊員の批判的空気 ---->白瀬自身「一行と航海を共にする克(あた)はず」、
                                 と述べている程の気まずさ。
     ・ 白瀬の猜疑心やおそれ ------------>多田など一部隊員自身が抱いている『学術的探
                                 検』の成果がなかったことを暴露されるのではな
                                 いか、という疑いとおそれがあり、先に帰国して
                                 多田等の”不当な内部告発”の機先を制する。

     意図があったのではないだろうか。  −−−−−−−−−MH。

              3月28日   朝食後、隊員一同は隊長室に押しかけ、隊員の総意として、「今回
                      隊長等の定期船で帰国されることについては、全員反対の意をも
                      っております」、と”苦諌血諌”を行った。

              3月29日   ウエリントンの人々が案じていたスコット突進隊の全員がこの日
                      凍死した。

              3月30日   午前中、村松は領事館書記生とともに、汽船会社・ユニオン会社に
                      行き、切符を購入した。1等は隊長、2等は武田、田泉、村松、3等
                      は安田と浜崎だった。
                      アオレンジ号がシドニー港に向けて抜錨したのは6時間ほど遅れた
                      午後11時だった。
                      白瀬たちに取り残された開南丸は、この日までに石炭や飲料水の
                      補給を完了し、いつでも出航できる状態だった。
              3月31日   開南丸では、空室になった学術部室への移転が行われ、隊長室
                      には、三井所が入った。
              4月2日    開南丸は1日予定より遅れてウエリントンを出航した。前の日、多田
                      はそれまでの鬱憤を2通の手紙に書いて日本に送付した。その内
                      の1通が、明治45年5月13日付けの「時事新報」に掲載され、セン
                      セーションを巻き起こす。
              4月3日    白瀬一行はシドニーに到着した。ここで、記者会見を開いた模様で
                      ある。
                      4月7日付大坂毎日新聞に「白瀬南極探検隊長は武田学術部員外
                      数名と共に5月14日郵船日光丸にてシドニーより神戸に帰着する
                      筈」、と小さく載った。
              4月8日    同紙は「白瀬隊の陸上探検」、という記事を第一面中央に大々的
                      に掲載した。これは白瀬の狙い通りの第一弾だったと思われる。
              5月12日   シドニーから日光丸に便乗した白瀬一行は、白瀬南極探検隊の
                      偉業を称える歓呼と好意の中に長崎に到着した。白瀬は、すべて
                      自分の思惑通りに進んでいると満足し、安心していた。
              5月13日   「時事新報」に、「南極探検隊員に内訌(ないこう:内紛)あり」、と
                      いう見出しで、多田の送った告発状が掲載された。

                      『 ・・・・・今ま多田氏書簡の全文を左に記すべし

                       小生の卑見一斑
                       (一) 探検隊の行動
                           今回の行動は武田氏の立案に候。生(多田)は、ノルウェ
                          ー隊の上陸地付近に上陸することは大に反対せし処に候。
                          ・・・・・・・隊長の(武田氏案に)盲従に無止如斯相成(やむ
                          なくかくのごとくあいなり)候。

                       (二) 隊長は更に探検事業に対し全然誠意なき事
                          イ) 橇問題、被服問題・・・・・・
                          ロ) 2月4日 ウエルズベイを去るや、其期早きに失する・・
                          ハ) 犬群二十余頭を生きながら残留したる事・・・・・・
                          ニ) ・・予定した動物鉱物採集の目的を取り消し・・・・・
                          ホ) ・・・(偽って)後援会から多額の送金を促したる事・・
                          ヘ) 病気の安田木工を3等室に入れ、自分等は1等や
                             2等に悠々と乗り込みし事。
                          ト) 村松の如き、機関部に職を執りし経験ある人物を、自分
                             の勝手のために伴い行きしは、全くアトは野となれ山と
                             なれ主義なりと思ふ。
                          チ) 自分の伴い行くものは、多く洞穴狐狸的人物、自分に
                             利益なるもののみを以てせり。・・・・・・・・・・
                          リ) ・・・・・・・前言は取り消すと云う。何が何やら不得要領。
                             我等は隊長の精神状態まで疑う処なり。
                       (三) 池田氏(二次探検から参加)の無能怠慢<省略>
                                                              』

     これに対して、白瀬は、「自分はこれに対して大人げない抗弁はせぬ。高根の月は下界の
    人の只眺むるが儘に任さん」、と黙殺している。

              5月16日   白瀬たちを乗せた日光丸は横浜港に着いた。そこからただちに鉄
                      道で入京した。
              5月17日   日光丸が長崎に着いた時、東京から電報があり、東宮殿下(後の
                      大正天皇)が早稲田大学及び大隈邸に行啓になるため、南極州に
                      おける採集品を携えて至急上京せよとの事だった。武田だけが
                      長崎で下船し、採集品や写真などを携えて急遽鉄道で上京、この
                      日、東宮殿下の台覧を賜わった。

              6月18日   開南丸は、房州館山に入港。
              6月19日   横浜に回航。その夜、横浜の西村旅館で後援会主催の慰労会が
                      あったが、多田だけは別な旅館で丁未(ていび)倶楽部員と夕食を
                      囲んだ。ここで、多田は脱隊を申し出る。
              6月20日   多田は未明に開南丸に引き返し、手荷物をまとめて船を去り、列車
                      で東京に向かった。
                      開南丸は出発地の芝浦埋立地に帰還した。盛大な歓迎式が待っ
                      ていた。大隈はじめ朝野の名士多数が臨席し、約5万人が集まっ
                      た。夜は、学生5000人による提灯行列が行われた。
              6月21日   午前10時、白瀬隊長以下大隈邸を訪問し、帰朝報告式を挙行した。
              6月25日   大隈はじめ後援会幹事と白瀬はじめ探検隊幹部は青山御所に招
                      かれ、南極で撮影した活動写真を皇太子殿下(大正天皇)、同妃
                      殿下、皇孫殿下(昭和天皇、秩父宮、高松宮)などの台覧に供した。
                      活動写真の後、大隈から献上されたペンギン鳥と南極鷹の剥製に
                      も皇孫殿下御三方は珍しそうに手を触れて観察しておられた。この
                      日、皇太子殿下から500円(現在の200万円)の御下賜金があった。

5. おわりに

 5.1 ♪♪ 人生いろいろ ♪♪
      白瀬南極探検隊の内情は、私が予想していたもの全く違っていたのには正直驚いた。国家
     を上げての探検事業だと思ったのに、政府は一銭も出さず、全て国民からの募金や篤志家の
     寄付で賄われ、その結果、探検隊は最初から最後まで、”お金”に苦労させられ、それが隊長
     の白瀬の人生にも影を落とした。このページの主役・村松進、探検隊員、そして開南丸のその
     後を追ってみた。

  (1) 村松 進
       「市川大門町誌」に毛皮の探検服に身を包み、樺太犬と2ショットの村松の写真があるので
      引用する。探検服姿なので、「根拠地」で撮ったものかと思ったが、真っ黒い地面が見えるこ
      とや、「南極探検隊」の大きな看板の反対側に小さな「隊員出入口」の表示があるところから
      明治43年7月、深川区の相馬甚五郎方に設けた「探検隊出張所」で探検に出発する前に
      撮ったものと推察する。

       
                    村松 進
              【「市川大門町誌」より引用】

       南極探検から戻って、歓迎会などのお祝い気分も改まった明治45年(1912年)7月9日の
      命令には次のようにある。

       『 一、 武田学術部長以下隊員8名ハ 7月1日ヨリ残務整理委員トシテ残留ヲ命ズ
            但シ 左記ノ月額手当ヲ支給ス
            武田学術部長     月手当  60円
            三井所衛生部長     〃    30円
            吉野・西川・村松     〃    25円
            渡辺・山辺・花守     〃    〃 
            外ニ電車切符及ビ雑費ハ其ノ都度隊給ス
         二、 武田部長以下6名ハ外泊トス
             但シ、山辺・花守両隊員ハ錦輝館内ニ寄宿シ浅草国技館橇犬取扱トシテ
             毎一週間交代ニ同館ヘ出張止宿スルモノトス                    』

       南極探検から戻った村松は、残務整理委員としてしばらく探検隊の残務整理にあたってい
      たようだ。月の手当て25円は、現在の10万円くらいで、通勤費や雑費が別途支給されるとは
      いえ、独身の村松であっても魅力のある仕事ではなかったかもしれない。
       その後、南洋興業株式会社に入って、マーシャル群島ヤルート支店の主任になった。
       ヤルート島は、南太平洋のグアム島の東方にある、小さな島だ。ヤルート島が日本の信託
      統治領になったのは、第一次世界大戦でドイツ領の南洋諸島を日本軍が占領した大正3年
      (1914年)10月以降だから、村松は南極から戻って、数年して南洋の孤島に新天地を求めて
      雄飛したのだろう。

       
                    ヤルート島地図

       当時のヤルート島のおもかげを映す品を骨董市で発見したので紹介する。左は、昭和10年
      ヤルート郵便局の「風景印」で、盛装したカナカ族の女性とヤルート島の遠望、そして椰子
      (ココナツ)の実や原住民の帆かけ船などが描かれている。
       もうひとつは、「マーシャル群島ヤルート島々民の舟ノ競漕ニ出デントスル光景」の絵葉書
      だ。発行したのは「南洋貿易株式会社」、とある。

         
               ヤルート郵便局風景印                  ヤルート島の絵葉書

       村松はヤルートでの功績によって会社から金杯を贈られた、と記されている。

       「市川大門町誌」には、村松の遺稿が掲載されているので、引用してみる。”簡にして要を
      得た”、「白瀬南極探検隊行動史」で、ビジネスマンとしても有能だったことを彷彿とさせる。

      『 明治四十三年中、大隈重信を宣長として南極探検会が生れ、其十一月二十八日、陸軍
       中尉自瀬矗以下一行二十七名は僅かに二百四噸の小帆船開南丸に搭乗、船長野村直吉
       が指揮して南進の海路を航し、七十余日後の翌四十四年二月八日、ニュージーランド、ウ
       エリントン港に到着し、休息の後、二月十一日、紀元節の佳節を卜して南氷洋に向い、難
       航更に五十日、南極圏内は結氷の時期に入り前進不可能であって、背進の止なきに至っ
       たので、五月一日濠大利(オーストラリア)シドニーに回航し、用船を修理して再挙を企て、
       十一月十九日、シドニー港を解[糸覧]して、第二次探検の途に上った。四十五年一月十六
       日南極大陸鯨湾頭に上陸し、白瀬隊長以下氷野を橇行して南緯八十度五分、西経百五十
       六度三十七分の地点に到達し、この地点を大和雪原と命名し、日章旗を樹立した。更に
       同月二十三日、前人未踏の地域に上陸し開南湾、大隈湾、其他日本男子によって最初の
       足跡を印し、航海、天文、気象、博物等学術上幾多の貢献を遂げ六月二十日帰朝した。 』

       南洋興業株式会社辞して後、東京にあって実業に従事していたが、大正15年たまたま病
      に罹り、昭和2年6月14日、東京で客死した。43歳だった。墓は、菩提寺の花園院にある。

  (2) 白瀬 矗

       
          白瀬南極探検50年記念切手
           【昭和35年(1960年)発行】

       南極から帰った数え年52歳の白瀬を待っていたのは、探検隊長としての栄光と”巨額の
      借財”
だった。帰国後隊員26人に給金を支払おうとすると後援会にある筈のお金が数万円も
      なくなっていた。これは、後援会の人々が飲み食いに費やしたものだという。
       白瀬は、軍服や剣はむろん、家屋敷まで売りはらって隊員給料の不足に充てた。これでも
      足りず、白瀬は極地で写したフイルム一巻を携え、次女を連れ、全国各地を巡回し、ときには
      朝鮮・満州・台湾にまで足を延ばした。こうして得た講演料を借金の返済に充てた。この借財
      問題も、昭和10年ごろには片付いたらしい。
       このころから、白瀬顕彰のムードが少しずつ見られるようになった。1つのキッカケは、アメ
      リカのバード中佐(後少将)による飛行機による南極探検が世界の注目を集め、南極が英米
      の領土争いの舞台になってきた。バードは白瀬隊が探検した地域に基地を設置して極点上
      空を含め広範囲に調査した。
       ちなみに、飛行機による南極探検は白瀬が大正9年(1920年)に帝国議会に提出した、
      「飛行機ヲ以テ南北両極探検調査ニ要スル経費ノ御下付並ニ飛行機及ビ船舶御貸与相成
      度儀」の請願書として、”飛行機費”として5万円を計上し、結局は流産となったアイディアだっ
      た。
       英米間の領土権主張問題に刺激された白瀬は、昭和4年に、外務省に対して、「南極地方
      (アンタークチカ)領土権に関する件」を積極的に働きかけるが、外務省は消極的な態度しか
      示さなかった。
       昭和7年、アメリカの地学協会は、「南極地図」の中で、南緯80度5分・西経156度37分の
      地点と南緯76度56分・西経155度55分の地点の2か所に『Shirase』の名とその到着日付を
      記入した。
       昭和9年、日本がはじめて南氷洋捕鯨に参加することになり、母船の図南丸などが話題に
      なり、国民の眼が南氷洋に向けられ、白瀬の名を思い起こすことになった。郷里・秋田県金
      浦(このうら)町に「日本南極探検隊長白瀬矗君偉功碑」が建設され、その除幕式に白瀬と
      長女も参列した。
       昭和10年発行の「地理学雑誌」は、バード少将の探検で<ヘレン・ワシントン湾>と名付けた
      のを『開南湾』、<ハル・フラッド湾>を『大隈湾』へと、白瀬隊の「南極記」に従って訂正した。

       
             "Kaina Bay"と"Okuma Bay"を示す海図

       昭和11年、東京・芝浦の埠頭公園に、「南極探検記念碑」が建立された。
       昭和17年に「私の南極探検記」を5,000部出版し、印税が1,250円入ったが、生活は楽に
      ならなかったようだ。
       昭和19年、郷里に疎開していたが、終戦後間もなく埼玉県の息子のところに身を寄せた。
       昭和21年、白瀬は占領軍司令官・マッカーサーに手紙を書いた。「第一に、私は(敗戦で)
      恩給まで取り上げられた元軍人だが、追放なのか戦犯なのか。第二に、日本は負けたが、
      南極の領土問題はどうなるのか」、という文面だった。
       これに対し、元帥から返事があり、「第一に、あなたは、犯罪者でもなければ、追放者でも
      ありません。第二は即答はできかねるが、講和条約が結ばれる暁には、しかるべく考慮しま
      しょう」、と好意あふれる文面で、最後に"Poor Mr. Shirase"(気の毒な白瀬さん)、とあった。
       ( 領土問題は、昭和26年8月16日に日本政府から発表された、対日講和条約最終草案で
         「南極に対する領土権の完全放棄」で決着した。 )
       昭和21年9月3日、「配給の福神漬にて、今日も白米を食す」、と日記に記した翌日(4日)に
      愛知県挙母(ころも)町のうなぎ屋の2階の四畳半で息を引きとった。
       法名・南極院釈矗往(しゃくじきおう)、数え86歳の生涯だった。

       特徴のある白瀬の字で、「白瀬中尉の遺筆」が残されている。

      『 ○何人たりとも飛行機にて南極探検を調査を決行せよ (矗)
        我無くも必ず捜がせ南極の地中の宝世に出だす迄       』

        「市川大門町誌」の村松の章に、に白瀬が揮毫した色紙の写真が掲載してある。村松と
       白瀬の縁でもたらされたものだとすると、白瀬が南極探検に出発する50歳前後の時のもの
       だと推測する。
        字は性格を表わす、とも言われるので、引用する。私の解読力がないのと、特徴(クセ?)
       のある字なので、判読できかねる字は [ ] で示す。また、私の”意訳”も添えておく。
        

        
                  白瀬の書

         『 在 [臥] 一 [擧]
           臥(ふ)して機をまち、一たび挙にでれば

           終  始  一  貫
           始めから終わりまで素志を貫(つらぬ)く

                 白瀬 矗  』

       少年のころから極地探検に志し、それに生涯をささげた白瀬の意思が、『終始一貫』に
      表わされている、と思う。

  (3) 多田 恵一
       6月20日に横浜で開南丸を降り東京に出た多田は、南極探検記録の執筆に専念した。ほ
      ぼ同時に『南極探検私録』(明治45年7月30日)と『南極探検日記』(大正元年年8月1日)の
      2冊の本が公刊された。
       明治45年7月30日に明治天皇が崩御し、同日ただちに大正と改元された。つまり、400ペー
      ジの「私録」発行4日後に668ページの「日記」を公刊した。船をおりて40日ほどの間にあわせ
      て1,200ページ近い2冊の本を公刊した多田を支えたのは、日ごろからの”筆まめな性格”と
      探検隊”脱隊時の悲憤”だったのだろう。
       両方の著書とも、扉の次に、後援会会長・大隈への献辞がある。

       『 謹而(つつしみて)此書を後援会会長大隈重信閣下に捧ぐ
                                 南極探検隊之一士
                                      多田 恵一  』

       「私録」の自序には、次のようにある。献辞とともに、後援会会長の大隈だけは自分を理解
      してくれている、と信じていたのだろう。

       『 知る人の軒に
              なきたしほととぎす

         こは予が、本年六月尽日、南極より帰国後初めて、大隈伯爵を訪問して、面語したる節
        伯に書して贈りし十七文字也。
         この書も亦、予の心裡(しんり)を見て貰ひたく、ものしたるなり。これをこの書の自序とす。
          明治四十五年孟夏
                                           東京九段望遠館の客舎にて
                                                      多田 春樹    』

       多田のこれらの著書に対して、白瀬の『南極探検』が発行されたのは、それから半年後の
      大正2年1月だった。さらに、後援会の『南極記』は大正2年12月だった。これらから見ると、
      多田の両著書の出版がいかに迅速だったかがわかる。しかも、白瀬は記録の部分を多田の
      著書からの引用して執筆していることは明らかで、「書記長」としての多田の才能は評価す
      べきだ。

       南極探検に参加した時、多田は28歳だったから、このとき30歳の働き盛りだった。再挙の
      夢が大きく膨らみ、「自ら再挙の資を作り、前辱を雪(そそ)ぐべく、旗を立てる決心です 」、
      と大隈にも打ち明けている。

       しかし、多田のこの夢は、”幻”に終わるのだが、一度だけ現実するかも知れない動きを見
      せたことがあった。昭和14年9月、多田が専務理事をしていた「開南探検協会」なる団体が、
      昭和15年の「皇紀2600年記念事業」、として、「南極探検計画」を発表した。350トンクラスの
      船で、35人前後の『科学部隊』による南極探検構想だった。多田が27年前に『南極探検私
      録』で描いた再挙計画をそのまま引き写したものだ。
       この計画の背景は、日中戦争における日本の『底力』を世界に宣伝し、南氷洋における捕
      鯨基地確保を狙っていた、といわれる。しかし、昭和16年の太平洋戦争開戦で『見果てぬ夢』
      に終わった。

       それから、16年後の昭和31年11月8日、第一次南極観測隊を乗せた南極観測船「宗谷」
      (2,600トン)が東京を出港した。特に記念切手が発行されるほどの扱いはなかったようで、
      それ以前に発行された科学技術に関連する切手を使って好事家が作った初日カバー(FDC:
      First Day Cover ) があったので、骨董市で入手した。

        
                  宗谷出航記念FDC*
                  【First Day Cover】

       当日の朝日新聞夕刊に、思いもかけず多田恵一の消息が載っている。

       『 ・・・・・・世紀の壮途を一目でも見ようと、小雨にもめげずはるばる・・・・・からかけつけた
         ・・・・・・狭い桟橋をギッシリと埋めつくした。
         中にも白瀬探検隊生き残りの多田恵一翁(74)が片足の不自由な身体をツエに託しな
        がら、開南丸乗組員だった佐藤市松翁(81)とともにはせつけた姿が人目をひいた。・・・』

       ( 舵取・佐藤市松は、第一次探検の後、健康問題で下船し、シドニーから日本郵船便で
         帰国した。第一次探検時、佐藤が33歳、多田が28歳となっており、歳の差は5歳だった
         が、この新聞記事では7歳になっている。こんな些細なことでも、100年の歳月が真実を
         判らなくしてしまっている。 −−−−−−MH )

       同紙は、「白瀬隊の気力で」、という見出しで、小さな写真とともに多田の談話を掲載してい
      る。

       『 宗谷は現代式の最も完備した大船であり、しかも飛行機、ヘリコプターなどの航空機まで
        備え、被服食料の準備など、往年の実力とは雲泥の相違で、また加うるに博士級の隊長、
        副隊長以下、各文化の実力を具備せる隊員のみで、私どものセン望に耐(堪?)えぬとこ
        ろであります。何とぞ各位はわが祖国日本のため、さらに世界人類のために優秀なる成
        果を挙げられんことを、祈念のほかありません。ただこの際、私共の熱望したいのは、諸
        氏がわが隊の如き日露戦役に決死奮闘したような気力を発揮せられんことを、老婆心ま
        でに付言したいことであります。
          以上簡単ながら、お別れの際の辞といたします。
                     』

       わずか204トンの「開南丸」で流氷に衝突するのを避けながら、荒れ狂う南氷洋を2度往復
      した多田は、その10倍以上大きい鋼鉄船で砕氷能力もある2,600トンの宗谷を見送るときの
      想いはどんなだったろうか。

       ( この宗谷ですら、氷に閉じ込められ身動きできなくなり、ソ連の砕氷船「オビ号」に助け
         られるのは、後の話だ。それを考えると、小さな木造船の「開南丸」での南極探検は、
         偉業と言えるだろう。 −−−−−−−−−−−−−−−−−MH )

  (4) 2人のアイヌ
       白瀬南極探検隊の犬係として山辺と花守、2人の樺太アイヌが参加した。山辺は帰国後、
      金田一京助と共著で、『あいぬ物語』を大正2年11月発行になっている。山辺の「終りに臨ん
      で」、というあとがきの日付は大正元年8月17日で、帰国して間もなくから2ケ月くらいの間に
      アイヌ語で口述したものを金田一が書きとめたのだろう。

       南極から連れ帰った樺太犬6頭のうち5頭は、大隈をはじめ在京の名士に贈られ、山辺と
      花守が樺太に連れ帰ったのはブチという雄犬一頭だけだった。
       樺太から南極に連れて行った樺太犬は55頭で、病気や事故で亡くなったのは止むを得な
      かったにしても、21頭の樺太犬を南極に置き去りにしたのは犬を大切にするアイヌの人々に
      とって許せないことで、チャランケ(裁判)にかけられたという。その後山辺は旭川周辺に移り、
      東京にも再三姿を見せたらしいが、その後のことは知られていない。

       「もともと地味な性格の花守はいよいよ引っ込み思案な人間になり、昭和4、5年ごろ栄浜村
      で死亡した」、とある。同じ本でタライカ湖の近くに住むアイヌについて、「此処の酋長の後裔
      には、嘗て南極探検隊隊長に白瀬中尉に山辺安之助氏と(ともに)同行したるシシランアイヌ
      改名花守信吉が此処の総代であった。・・大正6年頃、殺人犯(罪?)により、(樺太の)豊原
      裁判所に護送せられ、其後消息がない故に、病死でもしたのだと云う」。

       いずれにしても、南極探検に参加した二人の樺太アイヌの英雄もまた、その末路は胸痛む
      ものだ。樺太犬のブチは「天寿を全うし、樺太の土になった」、というで、少しは救われた。

       ( 子どもが小さい時に一緒に観に行った映画・「南極物語」では、「宗谷」が連れて行った
        樺太犬は鎖に繋がれたまま南極に置き去りにされ、タロ、ジロの2匹だけが生き延びてい
        た。♪♪ タロー、ジローの樺太犬 ♪♪ 、と歌われた、と記憶している。 −−−MH )

 5.2 何故南極?
      山梨県出身の白瀬南極探検隊員・村松 進の足跡を調べているうちに、異聞・奇譚 「南極
     探検」シリーズは第3話まで進んでしまった。第1話が67kB(キロバイト)、第2話が63KB、そして
     この第3話が45kBくらいだから、全部で175kBくらいの分量だ。文字数にすると、一文字が2B
     だから、175,000÷2=87,500文字。400字詰め原稿用紙をベタに埋めて218枚、改行などで空
     白のマスが2割くらいあるとすると、原稿用紙300枚近くになる。

      これだけ書こうと思った(気がついたら書いていた)のは、村松の足跡を電子データとして残
     して置きたかったのが第一の理由だ。
      極地にある鉱物(岩石)の産地として、私に考えられるのは、1) 宇宙空間 2) 深海の底
     3) 高山 そして 4) 南極 だ。

      1) 宇宙空間
          月の石は難しいにしても、宇宙空間にある鉱物(岩石)は隕石という形で、比較的容易
         に入手できる。
      2) 深海の底
          数千メートルの深海にある、「マンガン団塊」なども、比較的簡単に入手できる。千葉
         県で発見された新鉱物・「千葉石」なども、もともとは深海で生成したらしいが、現在では
         地上で観察できる(できた)。
      3) 高山
          外国産ではヒマラヤやアルプスなどの名前がついた水晶が簡単に入手できるし、日本
         の水晶岳(黒岳)の柘榴石+水晶標本なども簡単に手に入るし、少し頑張れば自力で
         行くこともできそうだ。
      4) 南極
          今のところ、月に行くように絶望的という程ではないが、南極は、行くのも難しいし、
         ミネラル・ショーなどで南極の鉱物を目にすることは全くと言って良いくらいなかったので
         調べてみようという気になったのが第二の理由だ。

 5.3 丸谷 才一と綱淵 謙錠(けんじょう)
      このシリーズをまとめるにあたって、綱淵 謙錠の「極(上)、(下)」をはじめ参考文献にある
     資料のお世話になった。
      私の読書ジャンルと違う作家なのか、綱淵 謙錠の作品を読むのは初めてだった。たまたま、
     丸谷 才一の『食通知ったかぶり』を読んでいると、「裏日本随一のフランス料理」という章で、
     新潟で寺門静軒ゆかりの「行形(いきなり)亭」を訪れている。

      『 新潟はわたしが旧制高校の生徒として三年暮らした町だが、何しろ昭和19年から22年ま
       でだから、食べるものなんか何もなかった。もちろん料理屋になんか足を踏み込んだことも
       ない。これは、一級上の綱淵謙錠さんだって似たやうなものだろう。・・・・・・・』

      綱淵は丸谷にとって、旧制新潟高校、東大英文科の先輩にあたるらしい。綱淵 謙錠の「極」
     は、多田の日記や2冊の著書からの引用が随所にみられる。白瀬の著書や後援会の編んだ
     公式記録的ななどからは伝わってこない”人間臭さ”が感じられる。
      「歴史」を英語では "History"、というのは中学校で習うはずだ。"History"とは、"His Story"
     つまり、「彼(勝利者)の物語」で、敗者の物語は消し去られてしまうのが歴史の常だったが、
     インターネットと電子記録媒体の発達によって、一庶民の”つぶやき”から”爺さんの迷言(名言
     でなく、よまいごと)までが公になり、後世に残ることになる。

      40代になったばかりのころ、若さを保つ秘訣は、”さんかく”だと、聞いた。
      1) 汗をかく −−−− 適度な運動(ミネラル・ウオッチングが適度か??)
      2) 恥をかく −−−− 知らないことは聞いたり、調べたりする”好奇心”を失わない。
      3) 字をかく −−−− 文字に書くとなると、あやふやな字・熟語などは辞書で確かめたり、
                      ”てにおは”に至るまで推敲(すいこう)することで、論理的に考える
                      力を持続できる。

      これからも、駄文を書き連ねていく所存だ。

 5.4 春の到来
      2014年の冬は、甲府盆地で気象観測を始めて以来最も深い114cmの積雪を記録し、豪雪
     地帯並みだった。甲府市内では日影に積っていた雪もほとんど解けたが、周りの山の北側斜
     面の谷筋には真っ白い雪が残っている。
      「暑さ寒さも彼岸まで」、とはよく言ったもので、春の彼岸あたりから最低気温がプラスになっ
     てきて、最高気温が15℃を超える日もめずらしくなくなってきた。

      わが家に春を知らせてくれるのは、石友が贈ってくれる「釘煮」と春に先駆けて咲く「君子蘭」
     だ。
      「釘煮」は、2〜3cmくらいのイカナゴを甘辛く佃煮風に炊いたもので、仕上がった形が”錆び
     て折れ曲がった釘”に似ているところから付いた名前だそうだ。特Aの武川産コシヒカリのご飯
     と食べると、外のお菜がいらないくらいだ。
      「君子蘭」は株が大きくなり過ぎて、今年あたり株分けしないと、日光に当てるため抱えて
     出し入れする妻が腰を痛めそうだ。
         
                  「釘煮」                       「君子蘭」
                             わが家に春到来

      温かな日差しに誘われて、”Mineralhunters” の血がウズウズし始めたので、今週末あたり、
     リハビリに出かけようと思っている。

6. 参考文献

 1) 綱淵 謙錠(けんじょう):極(きょく) 白瀬中尉南極探検記(上),新潮社,1983年
 2) 綱淵 謙錠(けんじょう):極(きょく) 白瀬中尉南極探検記(下),新潮社,1983年
 3) 丸谷 才一:食通知ったかぶり,文芸春秋,1986年
 4) 白瀬 矗(のぶ):白瀬 矗 「私の南極探検記」,日本図書センター,1998年
 5) 野村直吉船長航海記出版委員会編:南極探検船 開南丸 野村直吉船長航海記,成山堂書店
                                                     平成24年
 6) 福井 和雄:南極観測 郵趣 2014年2月号,日本郵趣協会,2014年
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