(1) 「五無斎」の由来
『 五無斎の歌
おあしなしわらじなしにはあるけなし
瘠せ腹抱えた婆にも人の情あり
どしゃぶる雨にたたかれて
百助さまはぬれねずみ
諏訪は何処ぞ瀬沢の茶屋で
わらじ買うにも一厘足らず
「まけろ」と云えば「まけなし」
と答えた婆の言葉尻
そのおかしさよ
とっさに詠んだ歌一首
なしが五つで五無斎となる
おまけなしとはおなさけもなし
負けてくれた一厘のありがたさ
草鞋はきかえ出掛ける頃は晴れ上がり
五無斎さまはあてなく消えた 』
【おあし:お足→お金】
(2) 鉱物への目覚めと鉱物発見
明治26年(1893年)小県郡本原小学校に転任、収穫休みに南佐久郡大日方村で
鉱物を採集し、標本を職員会総会で発表したのを機に鉱物に興味を覚え始めた。
明治28年(1895年)小県郡武石小学校に転任、翌29年(1896年)同校校長となる。
この間、神保子虎などから指導を受けながら、五無斎が発見(中央に紹介)した
鉱物や「武石村」とその近くの鉱物産地を詠んだものがある。
『 武石(たけし)女
武石(たけし)女に和田男
武石女はみな美人
百助さまなど眼にとめぬ
百も癪だよ
わらじばきにて和田峠
石をさがしに今日も行く 』
(注)百助の鉱物研究は明治28年神保子虎理学博士を武石村に招きて褐鉄鉱の
武石を調査したときから始まった。「石は堅いもの、之を軟らかく説くのが
通人だ」と博士は説かれた。
『 焼餅石
武石【たけし】川原で拾ったものは
自然の母の手で作る焼餅石だよ
割ればポカンと音がして
黄色いあんこの結晶かがやく美しさ
百助愛(め)でて言ったっけ
「人は外見飾るより心磨きて光あり」 』
(注) 焼餅石とは緑簾石のことである。小県郡武石村大字下本入に産し
明治28年夏百助が発見した。
『 武石(ぶせき)
武石(たけし)公園つつじが咲いて
岩の掛橋あやうく過ぎりゃ
チョッと見付けた角の石
おお これが武石(ぶせき)か
この【武石:たけし】村の名付け親だと
百助拾って頬ずりをする 』
【武石(ぶせき):黄鉄鉱の外形を残しながら、内部が褐鉄鉱に置換わったもの】
『 玄翁石
青木かすめど浦里はれて
越戸(こうど)恋しや
五無斎見つけた玄翁石は
昔ながらにあったもの
自慢にならぬとけなされて
口尖らせてうそぶいた
「俺が言わなきゃ ただの石」 』
(注)五無斎が小県郡旧浦里村越戸に玄翁石を初めて発見したのは明治28年
である。
(3) 鉱物学への道断たれ
小県郡産の鉱物を紹介し、神保子虎などの知己を得て、明治29年(1896年)
日本地質学会誌に「長野県小県郡鉱物標本目録標」を発表するなど、中央の
学者との交際もはじまった。しかし、高等数学を理解できない五無斎には鉱物
は無理と悟り、断念せざるを得なかった。
『 早がわり
『 五色の雲
東大の研究室を
石屋姿でおとずれた五無斎先生
その翌日はフロックコートに早がわり
山高帽にステッキついて
赤門前にあらわれた
研究室の和田八重造さんが
通りかかってステッキよければ
「ヤエ(八重)」と一言
びっくりさせて笑い顔 』
鉱物の研究になくてはならぬ結晶学
それによって分子の配列がわかる
けれど微分積分の知識なしには手が出せぬ
微分すれば無限小となる
積分すれば原体に復する
1より1を引けば絶対の零であるが
無限小はあつむれば量となる・・・・・・・
五無斎ついに匙投げて結晶学は棚に上げ
石屋となりて信濃の高山踏み歩き
苔むす大岩打ちくだけば
空に五色の雲が涌く 』
(4) 学がダメなら実
こうして、五無斎は「学」がダメなら「実」とばかりに信州(長野県)の山野を
跋渉し、「地学標本」を採集して回る。
時には、大学の先生や学生を案内することもあった。
『 飛白岩
諏訪の柳川水清く
川原を見れば飛白岩
白くとびとび秋染める
かけら拾えば秋立ちて
乞食姿の五無斎は
夕日の中に消え去った 』
(注)明治35年秋、五無斎は芦部芦菴氏と共に柳川にて飛白岩を拾う
『 天狗の麦めし
小諸なる味噌塚山の
焼砂はぽくりぽくりと食べられる
浅間山がふき出した泥かすで
凶年の飢をいやした天狗の麦めし
細菌の働きによるものか
と五無斎が取り出す大きな虫めがね 』
(注)天狗の麦めしは硅酸バクテリアの作用によってできたものと
言われていたが、最近は藻の一種だと説く人もある。
『 桜石
人足つれて五無斎が
秋の日あびる噴火口
前掛山を見下して
拾う浅間の桜石よ
浮世の夢はさむれど
石にちりばむ花の命は長し 』
(注)桜石とは菫青石の別名で、明治37年五無斎が槍ケ峯探検の際の
新発見である。彼が浅間登山せしは明治42年9月であった。
【 浅間山の菫青石は草下先生の「フィールドガイド」にもある 】
『 火山弾
浅間は今日も煙出して
信濃の空に火をば吐く
六里ケ原の道行けば
冷えても残るたましいは
五無斎愛(め)でた火山弾 』
(5) 県下くまなく鉱物採集
こうして、長野県下、五無斎に叩かれない岩はなかったのではないかと思わせる
勢いであった。その範囲は、故郷の立科からその当時人跡稀な北アルプスにまで
広がっていた。
『 石も叫ぶ
石を大事にする人よ
小さい石も立科の
冷たい石もなさけかければ
『 燕の唄
お酌するのはよいけれど
『 地蔵峠
『 穂高は近し
雪がふるふる立科麓
ねば土道を誰か来る
よくよく見れば保科さん
赤ゲットをつっかぶり
ズックの袋を下げて来る
中に何ある石がある
チョットつまづきゃ カッチンコ
石にも永遠の夢がある
夢なき人のさびしさを
笑うが如くやって来る
石と石とがかち合えば
火花を散らす面白さ
オオこれはこれはとやって来る
山を築いた宝です
捨てれば犬も食わないが
磨き上げれば玉となる
玉となる身も知らずして
自らあなどることなかれ
チョットつまづきゃ カッチンコ
燃える心のたのもしさ
長者の庭の石よりも
まずしいわが家の床かざれ
神の教えの鞭高く
打てば必らず石も叫ぶ
オオこれはこれはとやって来る 』
芦田通れば燕ベチャクチャ何語る
山羊ひげはやして誰か来る
赤ゲットは五無せいが
おかかなければ妻になる
どの娘(こ)えらんで酌させる
石を探しに出かければ
あき巣ばかりでどうなさる
籠の鳥では出られぬが
すっ天井なら舞って行く 』
象山先生若きころ
活文禅師を訪わんとて
馬でこの道通ったか
地蔵峠は晴れてるが
また霧がまく秋の岩
五無斎叩けど歌もなし 』
白骨近し梓川
石屋五無斎さかのぼり
探しあてた河原湯に拍手を打ち
とびこむからだの逞しさ
胸を開いて霊気を吸えば
天地一体空となる
夢よりさむればツガのみどりの
かげ近く穂高が見えて雪は真白い
ああ わが友は青空渡る今日の太陽
人寰(じんかん)遠く隔りて耳を澄ませば
われ呼ぶ小鳥の声がする
いざ立ちて雲の切れ目に
太古ながらの岩を叩かん 』
(注)明治21年(1888年)英国の聖アンドリウス教会の牧師として来日した
ウオルター・ウエストン博士の登山と探検とによって、日本アルプスの
名は世界に知られた。上高地では毎年6月ウエストン祭が行われる。
今日登山者の多くはただ騒ぎまわるだけだが、五無斎の入山目的は
鉱石採集にあったにもかかわらず、思わず山霊にふれたことは冥加の
至りである。
『 ましらの如く
『 嘉門次に逢う
『 槍ヶ岳
『 木曽の旅
『 木の実
『 寝覚の床
天雲もいゆきはばかるアルプスの
空に秀ずる穂高岳
神の刃のいさおしは
天際を摩す槍の峯
切り立つ岩に普遍の相を見
振り上げた鉄鎚に永遠を握る
この世の栄華を蹴散らして
採る鉱石に命燃ゆ
猿(ましら)の如く駆けめぐり
いかずちの如く消えた人よ
幾春すぎて雪をいだく連峯の
今日もわが眼に迫って若い 』
徳本峠を越えたがわれ一人では歩けない
案内つれて森林の苔石踏めば
まろびつ起きつ 白骨温泉へ行く途中
五無斎は「北アの主」と呼ばれる上条嘉門次に逢った
明神ケ池より槍ヶ岳に向かって2里ばかり
右手の小沢に菫青石がでる
その産地をたずぬればハタと膝打ち
「そうだ熊倉沢」と答う
案内人に覚えさせて右と左に別れたが
見かえる空の穂高よ
初夏の雲を呼んで
いつも雄大にわが前に聳える 』
日本の屋根のアルプスよ
播隆上人がはじめて登ったという
槍ケ峯は近く聳える
尾根にざわめきて焚火を囲む群れあれど
五無斎はただひとり
雲に落ち行く夕日を股にして
コツコツコツと石を探す 』
檜のみどり眼にしみて
駒がいななく御岳の
麓の道で五無斎休む
山であつめた鉱石の
ズックの袋は重たいが
汗吹き散らす木曾川や
義仲の昔こいしく雲は流れる 』
御岳の雫あつめた木曾川は
神代ながらに影清く
めぐる月日の幾年ぞ
五無斎コツコツ石割って
秋吹く風に耳かせば
木の実こぼれてましらが啼いている 』
夢かうつつか木曾川の
寝覚の床の青あらし
浦島太郎は龍宮へ出かけて行ったが
五無斎は汗を流して
忽ち空の人となる
夏なお寒い御岳の頂上めぐりて
岩の1つに刻む
わが家の九曜紋 』
(6) 五無斎の採集行のスタイル
五無斎は、地元の名士に案内を頼んだり、鉱物を採集・運搬する人夫(作業員)を
雇ったり、時には、大学の先生や学生を案内することもあった。また、一人で
大好きなお酒だけが供、ということもあったようだ。
『 地球をまっ二つ
師範時代の汚れ服
背負う大きな麻ぶくろ
アルプスおろしきびしいが
飄々として歩み来る
乞食姿の五無斎よ
君は誰かと問い糺されて
「俺か、俺は地球をまっ二つに打ち割る
その日ぐらしの職人さ」
と玄翁見せて笑いながらに名乗り合う』
(注)弥次さん、喜多さんならぬ道中の相手は、県会議員で名を知られた
中野象太郎さん。彼は南安曇郡倭村氷室の産であった。
『 貝巌砕いて
駒込の分教場を宿にして
五無斎自ら料理する
野兎の血は赤々と山の夕日に輝いた
八重窪奥の桃ノ木沢から
貝巌砕いて持ち来たり
うれしそうに並べたが
これで標本造るのだ
沢深く隠れた化石も
ハッパかけられ叩かれて
世に出るまでの悩みがある
見事に欠いて拾い上げた五無斎は
平気の平左でカラカラ笑い
兔料理で一杯召せば忽ち夢の天国だ
ここは駒込秋深く
あの世の駒に跨って
石を探しに虚空をめぐる 』
(注)明治42年4月28日、五無斎は両人の人足をつれて北佐久郡志賀村の
北部桃ノ木沢に至り、貝巌の化石を採集した。
『 天の岩戸
『 山かみなり
雲海遠く見下して
戸隠山はそそり立つ
千古の秘密をとざしたる
天の岩戸も近ければ
うずめの命を呼び出し
舞まわせんと石叩きゃ
森の小鳥等笑うが如くさえずって
朝日にかがやく五無斎の顔 』
戸隠山の奥深く
升麻の小さい花咲いて
月日星々啼く鳥あれど
登山者の群れに交りて
大法螺吹くのはどなたです
一天にわかにかきくもり
雷ピカピカ鳴り出せば
五無斎真先逃げるおかしさ 』
(注)佐久市志賀出身の理学博士神津俶祐(よしすけ)は明治【昭和の誤り】
30年2月7【11日か?】日74歳で歿したが、鉱物結晶について世界的
権威者である。後輩【先輩の誤り】の五無斎とともに大勢で戸隠登山を
試みた時のことである。
『 白根登山
霧深ければ火口は見えず
白根で採った硫黄をみやげに下山する
万座より山田へ帰る道すがら
七味で借りた提灯の灯影もこいし
五無斎が踏みつぶしたひきがえる
化けて出るなと虫が啼く 』
(注)明治42年9月18日、五無斎は白根登山して前夜と同じく上高井郡山田温泉
遊神館に宿る。
『 巨人の如く
デーランボーは空の雲つく大男
『 地酒
『 酒代先払
ドッコイ ドッコイ
一モッコかつぎ下せば
出来たお山が榛名富士
ドッコイ ドッコイ
二モッコで天下の奇勝妙義山となる
碓氷峠で昼寝して伸ばした足の指先を
2疋の猪にかじられる
長い手だして握りつぶした獲物をば
かまど岩にて肉鍋にする
離山に腰掛けて食べよとすれば
つまずいて汁をこぼした塩沢や
浅間夕立からりと晴れて
夕日かがやく美しさ
石を探しに五無斎は
わが身一つの軽井沢
デーランボーにあやかりて
ドッコイ ドッコイ麻の袋を背負って行く 』
もらいものだが麦藁帽子が役立って
日焼けふせげば五無斎さまは器量よし
立科山から背負い下る石の袋は重たいが
芦田に着けば芦の葉ずれに秋風立ちて
のども鳴るよだ この地酒 』
五無斎が小諸の大黒屋に
人足つれて酒呼べば
亭主ペコペコ「酒代先きに」とまかり出た
腹掛の底をさぐって鹿皮の
財布叩けばどさりと落ちた紙幣の束
亭主見るよりにこにこと熱燗つける
浅間ふもとの春風に桜チラチラ舞いこんだ 』
(注)明治42年4月23日、五無斎は味噌塚山の泥炭あつめて標本つくるため
小諸与良町大黒屋に一泊して大見栄を切った。
『 火山館
五無斎おどろき見るやみの
空赤々と眼に迫る
ドーン パチパチ
焼石あたりに飛び散って
屋根板叩く玉あられ
下界は知らぬ秋なれど
採集の石は声なく
常世ながらの夢を見ていた 』
(注)明治42年9月12日夜、五無斎は鉱石採集のため、浅間登山して火山館に
泊まり、はからずも噴火の光景に接した。なお彼は登山者名簿の初筆
だったという。
『 浅間山は笑う
大学の学生つれて案内役の
五無斎は浅間の山の峯にいる
お釜めぐれば噴火々々と奇声あげて
五無斎まっ先逃げ下りゃ
みんあおびえて後につく
彼はにわかに立ちとまり
大声出して言ったっけ
「噴火か否か大学の
学生ならば知れる筈・・・・・・・・」
だまされて見上ぐる空は煙もなく
浅間笑って秋が立つ 』
(注)神保子虎理学博士が学生をつれて浅間登山にやって来た時の逸事である。
『 山男
『 磁鉄鉱
おじさん どこだい
たずねて見たが
笑うばかりの山男
石をみやげに置いて行く
五無斎さまかとたずぬると
知らぬ顔して月が出た 』
茂来の山の雨はれて
若葉かがやく大日方
鉄山たずねて五無斎が
拾い上げた石一つ
酸化光るか磁鉄鉱
あばた面した傷跡に
大地の秘密が隠されて
針吸いつける不思議さよ 』
(注)明治42年5月9日、南佐久郡大日方村古谷玉田屋旅館滞在中、五無斎は
平川原の鉄山をたずねた。製煉所の開始は嘉永5年ころだが、その後
幾変遷あり、現今中絶す。昭和電工株式会社小海工場は昭和11年1月より
同29年11月まで製鉄に従事した。
(7) 川上村の産地と鉱物
川上村を訪れたときの様子や採集した鉱物を詠んだものはそれだけ、五無斎に
とっても思い出深い場所であったらしい。ここは、今でも各種の鉱物が採集でき
メッカともいえる産地の1つである。
『 慈母観音
子持水晶めずらしく
親に抱きつく乳飲児の
慈母観音のその姿
五無斎はわが子代りに頬ずりして
かくし【ポケット】に入れて感慨無量
そのまま立ち去ろうとしたが
やがて気が付く
この品は粗末に出来ぬ
と標本箱にそっと納めた 』
(注)南佐久郡川上村川端下の金峯山下より出た子持水晶が、臼田小学校の
標本箱に納めてあった。
これは明治42年5月3日同校にて五無斎が「南佐久の地質」および「ニギリギン
式教授法」等の講演をした折の逸事である。
『 鎌形水晶 【再掲】
『 座蒲団
千曲の源流川上の
金峰山下霧はれて
妻呼ぶ鹿の声も川端下(かわはけ)
信玄掘った金坑の
跡から出てきた水晶は
鎌の形もめずらしく
五無斎ながめて何と言いしや 』
ここは川上坂本屋
脚袢わらじの五無斎の
姿あやしむ宿のもの
座蒲団出せば署長が取って
「まず先生」と客にすすめる
恐れ入ったかみさんが
交わす言葉もチグハグで
千曲川辺の夜がふける 』
(注)明治42年5月11日、南佐久郡川上村御所平坂本屋へ五無斎が海ノ口
分署長馬場甚三郎氏に案内されて泊まったが、身なりのわるいため
初めは水晶山の盗人かと思われた。
『 電気石
五無斎が川上村で初めて見付けた電気石
御所平の穴沢山を間違いて原区と報ずれば
一筆書いて五無斎をなじると
びっくり仰天返すはがきの文句には
俺もたまげた 膝の猫まで驚いて
窓の硝子をガッチャリ破って逃げ出した 』
(注)日本で初めて電気石が発見されたのは美濃の苗木であるが、明治42年5月
南佐久郡川上村御所平穴沢にて五無斎は電気石を採集した。産地を誤って
紹介したので、同区本郷の由井健十郎翁が説明した甲斐もなして詰問した
返事のはがきの文句は頗る奇抜であるが、翌年秋の火災で焼失したことは
惜しい。
【 この産地は、その後も「フィールドガイド」などで赤面(顔)山(あかづらやま)
と誤って伝えられているのを、湯沼鉱泉社長や石友・Yさんは残念がって
いる。これを機に”御所平穴沢”であることを認識していただければ幸甚です 】
『 泊るに困る
。。○○○○○○○○○○。。
小丸二つは困る困るなり
大丸十は泊るなり
小丸一つは困るなり
豆腐屋の主人やっとうなずいて
「泊るに困る旅人よ」
上がらっしゃれと座に招く
語ればこれは五無斎さま
先ず一献とお燗をつけた
千曲川上居倉のやどで
囲む榾【ほた】火のあたたかさ』
(注)明治42年5月12日、南佐久郡川上村居倉上田安平氏方にて、五無斎が
泊った時のことである。彼は時々友人の前に大丸や小丸を書いて差し出し
ポケット・マネーをねだったが、大丸は拾円、小丸は五円の相場であった
という。