・播磨國(兵庫県)泉屋鉄山札
( Izumiya Iron Mine Note , Harima Province , Hyougo Pref. )
何故、「但馬國阿瀬銀山札」に興味を覚えたかというと
@ 「阿瀬銀山」、という鉱山があったことを初めて知り、どのような鉱山だったのかを
調べてみたくなった。
「阿瀬銀山」は、”生野の銀山、阿瀬の金山”、と並び称されたほどの鉱山だったこと
がわかった。明治13年、和田維四郎が関わった「博物館列品目録」の中に阿瀬銀山産
輝鉛鉱【現在の方鉛鉱】が記載されている。しかし、「和田鉱物標本」などの収蔵品や
各地の売りたてなどでこの産地の標本を眼にしたことはなく、隠れた(幻の?)産地
になっている可能性もある。
A この「私札」には、発行元として「但州八代杉原」とあり、但馬国(現兵庫県)八代に
あった旗本・杉原氏の領地内でみ通用を目的として発行されたのだろう。
それに、『 改 』という朱印とともに、『 阿瀬銀山 賃銀切手 』、という黒印が押さ
れている。そばに、『 伊福 ○川屋 』、とあり、岡山県伊福(いふく)町にあった商家
によって阿瀬銀山は経営されていたのだろうか。それとも、伊福は姓なのだろうか。
2008年12月、千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館(略称:民博(みんぱく)」を訪れ
た。ここでは、日本全国の博物館で開催した展示の図録を販売している。その内の1冊に
兵庫県たつの市(旧龍野市)が2005年10月1日に誕生したのを記念して龍野歴史文化資
料館で開催した「お金 ―貨幣の歴史と兵庫県の紙幣―」、という展示の図録があった。
ページをめくると、「鉱山札」の章があり、鉱山札が載っているので早速2,000円で購入し
た。
江戸時代から明治時代初頭までに発行された藩札などの札は兵庫県だけでも4,000種類
を超えるとされ、日本全国では膨大な数になるだろう。その中で鉱山関係のものが何種類
あるのか定かではないが、少しでも集めて、記録として後世に伝えたい、と考えている。
( 2008年12月調査 )
2. 阿瀬銀山とは
2.1 阿瀬銀山小史
阿瀬銀山は、兵庫県豊岡市(旧日高町)阿瀬にあった銀山で、永禄5年(1562年)、
阿瀬谷河畑のくわさごで発見された、と伝えられている。時代によって、阿瀬銀山、河
畑銀山あるいは阿瀬河畑銀山とも呼ばれたようだ。
阿瀬には、阿瀬金山(阿瀬之奥金山)もあったので、併せて阿瀬金銀山とも称された。
天正5年(1577年)、豊臣秀吉の但馬征伐後、別所豊後守の給地になったが、天正
10年(1682年)からは生野銀山の支山となり、銀山奉行・伊藤石見守が支配した。それ
以来、「木戸岩」、「八十枚山」、「与太郎」など多くの間歩(坑道)が次々と発見され隆盛を
誇った。
阿瀬金銀山は広い範囲にわたり、その繁栄をものがたるように「阿瀬千軒」、「金山千
軒」、などの言い伝えが今も残されている。
江戸時代、元文3年(1738年)ごろ、城崎郡にあった金山として「阿瀬奥金山」の名が
ある。
安政6年(1855年)8月、八々山人赤木勝之が著述した「但馬国新図」には、但馬にお
ける名産として、『阿瀬の銀』は、生野の銀と並び称されている。
明治7年(1874年)、オーストリアのウィーンで万国博覧会が開催され、日本各地の鉱
物標本も出品された。明治13年(1880年)に発行された「博物館列品目録 天産部第三
鉱物類」には、このとき出品され、持ち帰った標本が記載されている。
その中に、『 キエンコウ 輝鉛鉱 (Galenite) 但馬朝来郡生野銀山阿瀬銀山 』
がある。
これから、次のようなことがわかり、逆に新たな疑問も生じてくる。
@ 阿瀬銀山は、天正10年(1582年)以来、朝来郡にあった生野銀山の支山として
300年近くにわたり金銀を産出していた。
A 産出鉱物として「輝鉛鉱(Galenite) 」、とあるが、これは現在「方鉛鉱【GALENA:
PbS】」とされている。
多くの金銀鉱山が金銀山として採掘を始め、金銀鉱が枯渇し、銅、鉛、亜鉛などの
鉱山として生き残った例も多い。銀山の中には、含銀方鉛鉱を採掘していた鉱山も
多い。
阿瀬銀山も、そのような道を辿ったのだろうか。
3. 阿瀬銀山札の研究
3.1 阿瀬銀山札
私が入手した「阿瀬銀山札」は、縦146mm、横40mm、厚さ約0.5mmの厚手の
和紙の表裏に印刷したものである。
最初に印刷された文字は”黒”、後から印を押した文字は”赤”あるいは”青”で書いて
ある。私の乏しい古文書解読力や擦(こす)れて見えないため読めない部分は、”○”
あるいは ” ( ) ” にしてある。
表 | 裏 |
| |
米納預切手
安政参年
睦月吉祥日
但州八代杉原
改
伊福 ○川屋
|
○○通用
引替○○○
○○○神
合多福壽
阿瀬銀山(○○)
賃銀切(手) |
(1) 発行されたのはいつか?
発行された年・月が「安政3年睦月吉祥日」と印刷してあり、幕末、1856年1月
(旧暦なので現在の2月か3月)の日柄の良い日を選んで発行した。
(2) 発行したのは誰か?
発行したのは、但州八代杉原とあり、但馬國(現兵庫県北部)八代(現出石町)
の領主で旗本の杉原氏だろう。
もともと、但馬國豊岡城を豊臣秀吉から拝領したのは、秀吉の妻・ねね(後の北
政所)の実家・杉原氏だった。関が原の合戦で西軍(反徳川)に組したにもかかわ
らず家康に所領を安堵され、3代続いた後、世継がいないため断絶した。この地の
杉原氏の末裔が旗本として、故地に所領を持っていた、とも考えられる。
このとき、発行されたのは、『米切手』、としてであって、阿瀬銀山とは全く関係な
かったのではないだろうか。
しからば、なぜ『阿瀬銀山賃銀切手』に姿を変えたのかは、推測でしかないが、
杉原家に現金を用立てていた岡山県伊福(いふく)町にあった『伊福 ○川屋 』
が経営する阿瀬銀山での支払いにあてていたのではないだろうか。
伊福は地名でなく姓である可能性もないではないが、やはり地名とすべきだろう。
つまり、但州八代杉原で発行した『米切手』に、伊福の○川屋が、”加刷”して、
『 阿瀬銀山 賃銀切手 』 に姿を変えたのだろう。
(3) 誰が受け取ったか?
『 賃銀切手 』、とあるところから、銀山で働く人々の給料として支払われたものと
考えられる。坑内で支柱とする木材、精錬のための薪炭あるいは米、味噌、野菜など
の食料の代金支払いに当てられていたとも考えられる。
(4) 「銭五匁」の価値は?
江戸時代に流通した貨幣は、甲斐・武田氏が始めたとされる4進法に基づく
”定位貨幣”の「両」―「分」―「朱」―「文」のシステムと豆板銀や丁銀と呼ばれる
銀貨の重さ”匁”を基準にした”秤量貨幣”システムが並存していた。
前者は主に江戸を中心とする関東、後者は関西でのルールであった。そのような
ことから、「江戸の金づかい、上方の銀目建」と呼ばれるようになった。
江戸時代の貨幣制度
@ 定位貨幣制
1両=4分=16朱=4,000文(4貫文)
1分= 4朱=1,000文(1貫文)
1朱= 250文
という4進法で成り立っていた。
私のHPのほかのページで、このルールを不変のものとしていたが、「銭相場」は
目まぐるしく変動していたらしい。
時期 | 銭相場(1両あたり) |
江戸前期(慶長〜元文) 1600〜1740年 | 3,800文 |
江戸後期(明和〜幕末) 1750〜1850年 | 6,000文 |
幕末動乱期(慶応〜) 1865年〜 | 6,560〜11,000文 |
つまり、世の中が”泰平”な時代には銭の価値が高く、”物騒”な時代になると金銀の
価値が高くなる(銭の価値が下がる)のは、世の常のようです。
さらに、「3貨3階級」制度があった。つまり金貨(大判、小判)、銀貨(分銀、朱銀)
銭貨(1、4、10、100文の鉄銭、銅銭、真鍮銭)があって、この3貨の使い方が身分
制度の厳しい封建社会の中で金貨(将軍、大名、旗本、中級以上の武士、その他)
銀貨(家主町人、下級武士、その他)、銭貨(武家奉公人、小売商人、職人、労働者
店者などの庶民)と3階級に定められていた。
例えば、公式の場で恩賞にあずかるとき、上級武士なら金貨、下級武士は銀貨
庶民なら銭貨を下賜された。ところが、城普請などを命ぜられると大工や左官の棟梁は
銀勘定でヒラ職人は銭を受け取った。
幕末には、銭の価値が下がり、インフレ―ションで物価が高騰し、庶民にとっては
ダブル・パンチであったらしい。
A 秤量貨幣制
阿瀬銀山があった但馬國は西国で、銀勘定であったから、1両に対する銀の重さは
その時々の相場で変動したが、おおまかに1両=銀60匁 であった。
B その当時の価値は?
1両=6,000文=60匁として、1匁=100文 となる。「銭五匁」の鉱山札の価値を
銭に換算すると、5匁×100文=500文 となる。
蕎麦1杯を16文 とすれば、大凡蕎麦30杯分となり、現在の価値にすれば
30杯×600円=18,000円 となる。
「銭5匁」の鉱山札を毎日1枚受け取ったとすると、日給約20,000円となり、当時の
銀山でも相当の地位の坑夫であったと想像できる。
C 現在での価値は?
現在の銀の価格は、1gあたり30円程度である。銀5匁は5×3.75g=約19gで
その価値は 600円弱 にしかならない。
600円は、人件費だけでなく、探鉱、選鉱、精錬などの費用も含んだもので
人件費の取り分は、その何分の一かで、仮に1/2としても300円にしかならない。
こんな安い賃金で、珪肺病になって寿命を縮める重労働に従事する人はなく
日本国内では銀を採掘できないことは明白である。
4. おわりに
(1) 鉱山札
2008年12月、千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館(略称:民博(みんぱく)」
を訪れた。ここでは、日本全国の博物館で発行した展示図録を販売している。その
1冊に兵庫県たつの市(旧龍野市)が2005年10月1日に誕生したのを記念して龍野
歴史文化資料館で開催した「お金 ―貨幣の歴史と兵庫県の紙幣―」、という展示の
図録があった。
ページをめくると、「鉱山札」の章があり、何枚かの私札が載っているので2,000円で
早速購入した。
この本には、兵庫県内で発行された「鉄山札」4枚、「銅山札」1枚、計5枚が掲載され
ているので引用させていただく。この図録には、銀山札はなかった。これが単純に現存
する比率を表していると考えるのは早計かもしれないが、銀山札は珍しいのではない
だろうか。
兵庫県内で発行された鉱山札
【お金 ―貨幣の歴史と兵庫県の紙幣― から引用】
(2) 江戸時代から明治時代初頭までに発行された藩札などの札は、兵庫県だけでも
4,000種類を超えるとされ、日本全国では膨大な数になるだろう。
さらに、第2次世界大戦終結(1945年)頃まで発行された「炭坑札」などを含めて
鉱山関係のものが何種類あるのか定かではないが、少しでも集めて、記録として後世
に伝えたい、と考えている。
炭坑札の例【瑞穂炭坑】
5. 参考文献
1) 日本貨幣商組合編:日本貨幣カタログ,同組合,1997年
2) 神坂 次郎:今昔おかね物語,新潮文庫,平成6年
3) 豊岡市(旧日高町)編:社会科副読本 わたしたちのまちひだか 小学校編
同市,
4) 龍野歴史文化資料館編:お金 ―貨幣の歴史と兵庫県の紙幣― ,同館,2005年