遊泉寺銅山は大きな銅山だったらしく、竪坑跡、精錬所の煙道と煙突などの
鉱山遺跡がアチコチに残っている。
今回採集した遊泉寺銅山の紫水晶は、昔図鑑で見たものと違う気がする。
図鑑で見たのと同じものが、いつの日にか採集できるように念じている。
案内していただいた、YさんとSさん一家に厚く御礼申し上げます。
(2003年7月採集)
銅山の入口右手には、「遊泉寺銅山跡遊歩道案内板」があり、銅山が稼行中の
施設の配置などを知ることができ、ズリの探査に役立ちます。
また、左手には、小松製作所(現コマツ)創立70周年を記念して平成3年(1991年)に
建てられた「遊泉寺銅山跡記念碑」と「由来」を記した記念碑があります。
「由来」によれば、遊泉寺銅山の歴史は次の通りです。
『 遊泉寺銅山は、文化4年(1807年)に創業、藩政時代には盛衰があったが
当時は藩の有力な財源であった。明治に至って採掘権が、明治維新の志士
土佐藩士 竹内綱(芳谷炭坑株式会社)に渡り、後に長男竹内明太郎氏
(竹内鉱業株式会社)吉田茂元首相の実兄が当鉱業の経営に当った。
氏の経営は当時の最先端をゆくもので、明治40年(1907年)には、鉱山から
小松まで軽便鉄道を敷設し叉、採掘を人力より機械化するために、神子
清水発電所を建設し、精煉方法も溶鉱炉に、さらに電気分銅所を設置し
その規模を拡大した。大正5年(1916年)頃には、純銅を生産する鉱山として
従業員も1,600人を数え、家族も合わせて5,000人が住み、病院、郵便局
小学校、衣料や雑貨屋、魚屋、料理屋、質屋等軒をならべた鉱山町を
現出した。
明太郎氏機械工業の重要性にかんがみ、再度にわたり先進諸外国の
実情をつぶさに視察、立ち遅れている機械工業の役割を認識し、遊泉寺
銅山私設鉄工所として小松鉄工所を設置操業した。
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その後、鉱脈の不足や第一次世界大戦後の不況などのため、遊泉寺
銅山は大正9年(1920年)閉山のやむなきに至った。』
(2)黄銅鉱【Chalcopyrite:CuFeS2】
水晶の母岩になっている石英脈の中に塊状で産し、各種鉱物の運搬役としての
石英の存在が良く解る標本が採集できる。
(3)このほか、白い(透明)水晶は多いが、それ以外の鉱物種は極めて少ない。
(2)いきなり、”我利我利”になって恐縮だが、”松茸(冠)”の産地を探したいと念じて
います。