雪の結晶 『雪華図説』

1. 初めに

   「地球の温暖化」が叫ばれている昨今だが、今年の冬は、全国的に厳しい寒さに
  見舞われているようだ。冬でも暖かい、といわれる房総半島の付け根に、私が単身
  赴任して2週間あまりの間に、2回も雪に見舞われた。
   『 私が、山梨から寒さを連れてきた 』、とこちらの会社の皆さんに恐縮すること
  しきりである。

    千葉の雪【2008年2月】

   ご存知の方も多いように、『 雪は水蒸気が凍って氷になったもの 』で、その
  正体は、氷である。驚く人もいるかも知れないが、『 氷は鉱物 』である。

   松原先生の「日本産鉱物型録」や加藤先生の「日本産鉱物種」にも『ICE』と
  して掲載されている。「日本産鉱物型録」から引用してみる。

項目内容 備  考
和名 
英名ICE 
化学式H2O水(water)と同じ
結晶系六方晶系緑柱石と同じ

   雪が重要な役割を果たしている文学作品は、枚挙に暇がなく、”人を包み込む
  暖かさ”、逆に人を寄せ付けない”厳しさ”両面を描いた傑作が多数あるようだ。

   雪について書かれた書物の中で、私が好きなのは次の3冊である。特に(1)と
  (3)は、科学的に雪にアプローチした良書だ、と常づね思っていた。

   (1) 土居 利位(どい としつら)       「雪華図譜」
   (2) 鈴木 牧之(すずき ぼくし)       「北越雪譜」
   (3) 中谷 宇吉郎(なかや うきちろう)    「雪」

   そんな折、北関東の骨董市を巡っているとき、昭和15年(1940年)に発行された
  中谷 宇吉郎著「雪」を20円で入手した。また、茨城県古河市にある、「古河歴史
  博物館」で開催した、「雪の華 『雪華図説』と雪の文様の世界」の展示図録を
  入手した。私のもうひとつの趣味である郵便切手の世界でも雪の結晶を描いた美
  しい切手が発行されている。
   そんなこんながきっかけで、「雪の結晶」についてまとめてみた。
  ( 2008年2月調査 )

2. 土井 利位の略歴

    土井 利位の略歴を示す。

    寛政元年(1789年) 三河国(現愛知県)刈谷藩主・土井山城守利徳(としなり)の
                 4男として生まれた。
    文化10年(1813年) 25歳の時、本家、古河藩(現茨城県古河市)藩主・土井
                 大炊守(おいのかみ)利厚の養子になる。
                 室(奥さん)は、養父の養女
    文政5年(1822年)  35歳のとき、藩主であり養父の利厚が死去
                 古河藩8万石の藩主となる
    文政8年(1825年) 寺社奉行を兼務
    天保3年(1832年) この年から翌年にかけ「雪華図説」をまとめ、刊行
    天保5年(1834年) 大坂城代を拝命、大坂に赴任
    天保8年(1837年) 大坂で、大塩平八郎の乱を平定
    天保10年(1839年) 老中に昇進
    天保11年(1840年) 「続雪華図説」を刊行
    天保12年(1841年) 天保の改革開始
    天保14年(1843年) 辞任の水野忠邦に代わり、主席老中となる
    天保15年(1844年) 水野忠邦、再び老中となり、利位老中辞任
    嘉永元年(1848年) 病没(60歳)

    うまく他家に婿入りでもできれば万々歳の大名家の4男坊が、本家の跡継ぎに
   なった。若い頃に想い描いた人生と全く違った道を否応なく歩まざるを得なかった。

3. 「雪華図説」の誕生

    利位がなぜ、いつごろから雪に興味を抱き観察を始めたのか、私が調べた範
   囲では明らかにできていない。
    ただ、利位の「雪華図説」に先立つこと54年、オランダの教育者・マルチネット
   (1729〜1795年)が1778年に著した”Katechismus der Natuur”『格致問答』には
   甥のとの対話形式で、神と自然の関係を説き、その中には雪の結晶12図が載って
   いる。
    この本は、朽木昌綱が翻訳していると、1778年のアムステルダムの新聞記事に
   残されている。
    利位は、雪の結晶の観察に「顕微鏡」を用いたが、その当時入手できたであろう
   『カルペパー型顕微鏡』は、日本に輸入されたのは、1770年以降とされている。

    これらのことから、利位が生まれた寛政元年(1789年)には、雪の結晶を観察する
   環境は整っており、若いときに観察を始めた、と考えても矛盾しない。
    その当時、現在よりも寒かった、とは言え、三河国(愛知県)で、雪がそう度々
   降ったとも考えられず、1813年、25歳の時、古河に移ったころに始めた、と考える
   のが妥当であろう。

       
         ”Katechismus der Natuur”       カルペパー型顕微鏡
             マルチネット著

   天保3年(1832年)、雪の結晶86種を収録する『雪華図説』を刊行した。続いて天保
  11年(1840年) 「続雪華図説」を刊行した。

   これらは、一般に公開されたわけではなく、『私家版』であって、大名家などに贈呈
  されたものだったようだ。したがって、一般市民はこのような書物があることすら知
  っているのはまれだった。
   逆に、肥前(今の長崎県)平戸藩主・松浦静山(1760〜1841)が文政4年(1821年)
  に筆を起こした「甲子夜話(かっしやわ)」には、文政13年(1830年)ごろに書き写した
  『雪華図』が載っており、『雪華図説』の刊行に先立って、結晶図は流布していたよう
  だ。

4. 「雪華図説」の構成

    この本の構成は、次のようになっている。
    @ 雪の科学、観察方法、効用
    A 雪華図(86種)
    B 古河藩家老・鷹見泉石の跋文
    C 幕府医官・桂川甫賢の跋文

 4.1 雪の科学

     利位は、「雪華図説」の序文の中で、雪のでき方、観察方法、そして効用につ
    いて述べている。

 (1) 雪のでき方
     『 夫水ノ其形ヲ変換スル。雪ヲ以テ最奇ナリトス。・・・・・・・
      冬時気升テ同雲ヲ成シ。冷ニ遭テ即亦円点ヲ成ス。冷侵ノ甚シキ。
      一々凝沍(ぎょうこ)シ。下雫スルモ其併合ヲ得ズ。聊(いささか)相依附シテ
      大円ヲ成サント欲シ。六ヲ以テ一ヲ囲ミ。綏々(すいすい)翩々(へんぺん)
      頓(とみ)に天地ノ観ヲ異ニス。故ニ寒甚シケレバ粒珠トナリ。寒浅ケレバ
      花粉ヲナス。・・・・・・・・・
       円体ハ六ヲ以テ一ヲ囲ムコト定理中ノ定数。誣(しいる)ベカラズ・・・・・』

       雪は、水がその姿を変えたものだ、と科学的に述べながら、雪の結晶が
      6つの方向に成長している理由は、『決まりきったこと』と深く探求した様子が
      ない。
       科学好きのお殿様の限界なのだろう。

 (2) 観察方法
     『 西土雪花ヲ検視スルノ法。雪ナラントスルク(夕?)天。予メ先。黒色ノ八糸
      緞【シュス】ヲ気中ニ晒シ。冷ナラシメ。雪片ノ降ルニ当テ之ヲ承(う)ク。肉眼
      モ視ルベク。鏡ヲ把テ之ヲ照セバ。更ニ燦タリ。看ルノ際。気息ヲ避ケ。手温度
      ヲ防ギ繊鑷(けぬき)ヲ以テ之ヲ箱(?)提スト。余文化年間ヨリ雪下ニ時。毎
      ニ黒色ノ□器(きゅうき)ニ承テ。之ヲ審視シ・・・・・・・             』

      『西土』(西欧)での観察の方法として、「雪が降りそうな夕方、繻子(しゅす)
     の布を広げて冷やしておいて、雪の結晶を受ける。
      肉眼でも見えるが、鏡(顕微鏡)で見れば、もっとハッキリ見える。
      観察するときの注意として、@息がかからないようA手の温もりが伝わらない
     よう毛抜き(ピンセット)を用いる。B黒い器で受けても良い。

      これらの記述から、オランダの教育者・マルチネットの”『格致問答』 の観察
     法を真似、利位の工夫なども交えたと考えられる。

 (3) 雪の効用
     雪が私たちの生活にどれだけ役に立つっているか、その効用を14にわたって
    述べている。
    1) 空気ヲ清フシ。汚濁ヲ駆ル
    2) 気即チ涼爽純粋ヲ致ス
    3) 積雪常ニ山嶺ヲ寒カラシム。・・・・・・江河ノ源ヲ養フ
    4) 一切ノ瘡毒ヲ療ス・・・・・・・
    5) 遍地ニ掩覆シテ寒ノ土中ニ侵透スルヲ防拒ス・・・・・
    6) 其ノ質軽キ。・・・・・・・・冬時ノ蔬穀ノ・・・之ヲ擁包シテ寒ニ傷ツケラルルヲ
       防ぐ。
    7) ・・・夏月鳥魚諸肉ノ敗□ヲ防ギ・・・・・・・・
    8) 冬日地中ヨリ発スル蒸気ヲ過抑シ。冬天以テ暗晦ヲ致サズ。・・・・
    9) 雪中ニ諸物ヲ生育ス。・・・・・・・・・・・
   10) 雪輝ヨク諸物ヲ照明ス。・・・・・・・・・・・・・・
   11)  積雪尺ニ盈レバ。遺蝗ヲ地中ニ駆ルコト一丈。・・・・・・天下ノ豊年ヲナス
   12) 学者雪ニヨリテ理学ノ諸支ヲ悟リ。詞人画工ニ至ルマデ。詩賦ノ工ヲ添ヘ。
      山川ノ義景ヲ画(?)セシム。
   13) 雪ノ潔瑩(けつえい)比スベキモノ無ク。能ク汚濁ヲ洗濯シ。臭腐ヲ駆除ス。
       故ニ中華西洋人ノ廉潔物ノ清浄。必ズコレヲ之ニ比ス。我邦由伎ノ名モ
       亦此義ナリ
   14) 諸山ノ雪漸ク以テ融□シ。常時諸川ニ適宜ノ冷水ヲ送リ。・・・・・・・

(4) 雪華図
     利位が観察した雪の結晶『雪華』の図は、86種が「雪華図説」に掲載してある。
    それらを見ると細部は省略し、全体としてのイメージを表しているものも多い。
    中には、日本の家紋にあるのではないかと、と思われるほどに簡略化してある
    ものも少なくない。
     これは、利位が使った顕微鏡の解像度が低くて細部が見えなかったのか、
    あるいは利位の観察力が行き届かなかったのは解らない。

    
               雪華図【「雪華図説」から】

5. おわりに

 (1) 利位の時代
      利位が「雪華図説」、続いて「続雪華図説」を著した1830年から1940年は、
     明治維新(1867年)を約30年後に控えた、激動の時代だった。

      大坂城代として、「大塩平八郎の乱」を鎮圧し、その功績を愛でられ、将軍
     家斉や禁裏(天皇家)から恩賜を賜ったが、彼の心境は複雑だったに違い
     ない。

      土井家と言えば、神君・家康公の直参の家柄で、同じ幕臣・大塩の起こした
     乱で幕府の屋台骨がグラつき始めたことを感じ取ったのではないだろうか。
      しかし、もともと彼は4男坊として、気ままな人生を送れるだろうと思っていた
     節があるだけに、主席老中として幕閣のトップを勤めるのは、戸惑いもあった
     だろう。
      水野忠邦と協調し「天保の改革」を進めながらも、忠邦自身が行った唐津藩
     を返上し移封を願い出るなどの『リストラ策』には、なじめず、忠邦の足を引っ
     張るような動きもあったらしい。

      上にも書いたが、この時代として、『科学に興味があるお殿様』で終わらざるを
     得なかったのだろう。

 (2) 「雪華図説」の影響
      「雪華図説」は、『私家本』の色彩が強く、市中一般に流通したものではなか
     った。したがって、その内容が一般市民に直接知れ渡ることはなく、その成果が
     知られるようになったのは、鈴木 牧之(ぼくし)の『北越雪譜』によってであった。
      これについては、別途まとめてみたいと考えている。

6. 参考文献

 1) 古河歴史博物館編集:雪の華 『雪華図説』と雪の文様の世界 増補改訂2版
                  同館,平成19年
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