鉱山札の研究 「吉岡銅山札」







          鉱山札の研究 「吉岡銅山札」

1. 初めに

    日本を代表する銅山といえば、東の「足尾銅山」、西の「別子銅山」ではないだろうか。とも
   に300年前後の古い歴史をもち、良くも悪しくも、話題の多い銅山だった。

    別子銅山の歴史を語るとき、その前史として登場するのが「吉岡銅山」だ。別子銅山を発見
   したとされる『切上り長兵衛』は吉岡銅山の鑛夫だったし、別子銅山を開坑して鉱山業を経営
   の柱の1つにした泉屋、後の住友が吉岡銅山を経営していた時期もあった。
    このように、「別子銅山」を語る上で忘れてはならない「吉岡銅山」について、どこにあった
   のかすら定かでない私だった。

    2012年春、骨董市を巡っていると、「吉岡銅山札」があり、少し高かったが無理をして入手
   した。「吉岡銅山札」は用紙、印刷ともにすでに紹介した泉屋の鉄山札に勝るとも劣らない出
   来栄えで、泉屋時代のものだろうと思う。

    その翌月、古本屋をのぞくと住友修史室が編んだ「泉屋叢考」が並んでおり、「住友の
   吉岡銅山第1次経営」と同じく「第2次経営」と題する2冊を購入した。
    これらを読むと、吉岡銅山の位置・歴史は無論、なぜ泉屋が「別子銅山」を開坑するに至っ
   たかの謎も解けた。

    吉岡銅山があった、岡山県川上郡成羽町大字吹屋(ふきや)(現高梁市成羽町吹屋)では、
   硫化鉄を原料として、赤色顔料のベンガラ(紅殻)製造法が宝永4年(1707年)開発され、
   安永6年(1777年)から工業化し、早川代官の指導で株仲間を組織し、明治産業復興の波に
   のり、特産地として長い間繁栄を続けた。
    現在では、『吹屋ふるさと村』と呼ぶ、ベンガラ色の静かな家並みが続き、石州瓦の赤い屋
   根の重なりとまわりの豊な緑とが調和して美しい町らしい。

    いつか訪れてみたい町並みの1つだ。
    ( 2012年5月 調査)

2. 泉屋(住友)経営以前の「吉岡銅山」

    吉岡(吹屋)銅山は、これに北接した松山領の北方銅山とともに、近代の吉岡鉱山を形成
   していた。
    吉岡銅山の開創の時代はハッキリしていない。正徳2年(1712年)、代官・平岡彦兵衛の
   諮問に答えて、泉屋が吉岡銅山を請け負った次第を述べた口上書に、「往古より取開候山
   ニて、最初取開之山師相知レ不申候」とある。
    吹屋の旧家・大塚氏の所蔵文書で天明8年(1788年)に写したという覚書には、やや不明
   瞭ながら慶長・元和以前のことを記して、400年前より稼行されたと伝え「銅山草創之始暦数
   聢(しか)と相知不申」とある。

    ところが、「備中誌」などには、大同2年(807年)の開坑と見える。もっとも、大同年間の開
   坑という鉱山は枚挙にいとまがないほどで、これは江戸時代、諸国を渡り歩いた坑夫たちに
   よる伝承とも思われる。

    以上とは別に、吉岡、というよりは備中国の採銅が平安時代に遡るのではないかという資
   料も存在する。平安時代の初期、通貨を製造する鋳銭にあてた銅や鉛の主要な産地は、長
   登銅山に代表される長門・周防(今の山口県)だった。しかし、天長・承和(823〜847年)の
   ころから産出量が減少し、貞観12年(870年)、国は備中・備後両国に採銅を命じた。
    「延喜式」によると、備中国の採銅量は800斤(約480kg)で、長門国(今の山口県)、豊後
   国(今の福岡、大分県)の2,516斤(約1,500kg)の三分の一だった。
    室町時代にも備中国は美作・但馬・備前諸国と並んで産銅国だったが、吉岡銅山もその
   1つだったか確かなことはわからない。

    江戸時代になって、泉屋が経営する以前で、経営者や経営期間が判っている分だけを表
   にまとめてみた。

  自   至 経営期間 経営者
寛永20年 正保4年   5年 大阪・天野屋新左衛門
慶安元年 承応元年   5年 大阪・天野屋八右衛門
明暦元年   3年 堺・納屋次右衛門
万治元年 寛文5年   8年 大阪・平野屋清右衛門ほか
寛文10年   3年 江戸・大阪屋喜兵衛ほか
延宝2年   3年 江戸・二見屋源兵衛
延宝6年   3年 岡山・千田瀬兵衛

    これを見ると、寛永20年(1643年)から延宝6年(1678年)までの35年間に稼行していたの
   は27年間で新しい経営者が見つかるまで休山になっていた期間が延べ8年ある。
    3年、最長でも8年、めまぐるしく経営者が代わり、大阪や江戸の商人などの資本を導入す
   る事が多かったようだ。

3. 泉屋(住友)による「吉岡銅山」経営

    泉屋による吉岡銅山の経営は、第一次と第二次に分れる。泉屋が吉岡銅山に注目し、その
   稼行を願い出たのは延宝8年(1680年)だった。これが第一次経営で、元禄11年(1698年)
   これを返上した。この間18年、上の表から見ていただければお判りのように、異例に長い経
   営期間だった。

    返上して数年を経ずして、再び泉屋は吉岡銅山の経営を引き受けることになり、元禄15年
   (1702年)から正徳5年(1715年)まで、13年間経営した。これが、第二次経営だ。

 3.1 第一次経営
      延宝8年(1680年)、泉屋が吉岡銅山にの稼行を願い出て、翌天和元年(1681年)から
     採掘に取りかかった。
      採掘年限は、上の表で最も多い3年だった。運上(鉱山を所轄する藩や幕府への税金)
     は、1年当たり銀1,710枚(73貫530匁≒275kg)と、岡山・千田瀬兵衛の時の銀1,500枚に
     比べ15%弱も多い額で、果たして採算が採れる見通しがあったのか訝(いぶか)しい。

      これについて、3年後、天和4年の再稼行願書に次のようにあるところから、自信のほど
     が察せられる。

      『1 御山掘申間符者、峯より山底へ 先年より只今に至り段々掘込申候に付・・・・・
       1 第一山かせぎ、一円不存白人(しろうと)、或者手前不如意成族(なるやから)も
         御座候而、仕届ケ不申候                                 』

      鉱山経営の経験不足、自己資金力の不足による失敗者があったことも述べた後、

      『 私数代御料私領数ケ所銅山仕来り申鍛錬を以云々                   』

      とあるように、泉屋の鉱山経営は早い時代に始まっていた可能性がある。寛文以前、
     陸奥国(青森県)では、十和田鉛山、立石・鴇(とき)の2銅山、出羽(山形県)では幸生・
     三枚・槇沢・板木澤・加久知・七拾枚の諸銅山を経営し、これら以外にも稼行していたと
     推測される鉱山もあった。これらの採掘実績が、『鍛錬をもって』の言葉にでたのだろう。
      また、この頃の泉屋の資金力は、大阪で肩を並べる富豪はなかったとさえ伝えられてい
     る。

      こうして、天和元年【1861年)から、多額の資金を投入し、数か所の古い間符(まぶ:坑
     道)で採掘を開始した。
      天和3年(1681年)から、『御山末々仕続』けるため、「水抜き坑道」の掘削を開始した。
      しかし、泉屋の予想は裏切られた。旧坑での採掘は湧水に阻まれ、水抜き坑道は堅い
     岩盤が立ちはだかっていた。
      このため、吉岡銅山経営の収支が赤字になることが予想され、早々に水抜き坑道の掘
     削を中止し、年季通り、この年末に銅山稼行を返上する腹を決めた。

      ここでこのまま挫折しては、鉱山経営の経験と資金力を自負した泉屋の面目はどこにも
     ないことになる。当主・友信以下首脳は、返上を翻して、『十箇年期限で水抜き坑道の掘
     削を第一目標として再稼行』を願い出た。
      これに対して、当局のほうが逡巡し、『5ケ年』年季で合意し、願書を提出しなおした。

      この当時、鉱山経営の契約はどうなっていたのか、貞享元年(1684年)、泉屋から代官・
     服部六左衛門宛の文書でみてみよう。

      1. 水貫(抜き)普請の目的で5箇年の年季
      1. 運上は掘り出した銅千貫目に付、銅百貫目とし、その代銀530匁宛の計算で、
         毎月上納する。
      1. 御番所御入用米・・・・・・・・・、また御番所小屋は代官所よりの差図(指図)を受け
         泉屋より建設し、その破損修理も負担する。

      掘り出した銅1,100貫の内、銅1,000貫が山師(泉屋)、銅100貫が公納分となる。つまり
     産銅高に対して運上は11分の1となる。運上を産銅高を基準にした歩合制にしたのは、
     元和元年(1681年)の契約のように、1年当たり銀何枚と決めたのでは、産銅高が見込み
     より少ないと山師は大損になってしまう。一方、所轄する藩や幕府には銅が採れようが
     採れまいが契約した銀が転がり込む。

      元来、鉱山の仕法には、「直山(じきやま)」と「請山(うけやま)」の2種類がある。直山
     は藩や幕府が直接経営するのではなく、奉行・代官によって直接管理し、鉱山関係の運
     上諸役を直(ぢか)に取り立てる仕組みの山を指す。
      請山は一定の年季を限って運上高を予め契約し、一切の鉱山稼行を業者に請け負わす
     山を指す。
      直山の運上法として、金銀山でも次第に多く採用され、銅山では普通に行われたもの
     として『荷分(にわけ)法』がある。これは、「出鏈[金連](しゅつれん)」を山師分と公納分
     とに一定の比率で分配する仕法である。一般に、銅山の場合、山師10:公納1の歩合だっ
     た。しかし、銅山では請山が多く採用され、慶安以来の吉岡銅山も請山の典型的な形を
     採った。
      重要な金銀山ではほとんど直山を採ったが、銅山でも銅鉱業の発展につれて、請山で
     ありながら直山の仕法を加味するようになった。即ち、運上の基準を産銅高に置くことは
     荷分法と同じだ。歩合制の採用によって、藩や幕府当局が産銅高を把握する必要が生じ
     そのため下役人が駐在するための番所が必要になり、この普請(建設)と役人の諸入用
     が山師の負担とされた。それは、上の服部代官との契約書にある通りだ。

      この時代と思われる絵図面が「泉屋叢考」にあるので、引用させていただく。吉岡銅山
     勘場とあるのが番所であろう。

      
                       吉岡銅山絵図
                    【「泉屋叢考」から引用】

      水抜き坑道は予想外の難工事だったが、貫通のめどが立った元禄元年(1688年)10月
     契約完了2ケ月前に、泉屋はさらに5年の稼行継続を願い出た。新しい運上は、出銅千貫
     目あたり銀20匁増しの銀550匁だった。12月には認可され、泉屋の稼行は続くことになっ
     た。

      その後、水抜き坑道は、元禄4年2月、200間(約360m)余を開削することによって完成し
     た。これによって鉱水を一気に放出させ、今まで多くの山師が手を出せなかった間符を
     干水し、これにより莫大な鉱石を採掘できるようになった。
      これによって、吉岡銅山が繁栄を見たことは次の如くだった。

産銅額山内稼人
元禄2年   -607人
元禄3年  -505人
元禄4年57,339貫650人
元禄5年112,001貫678人
元禄6年146,116貫966人
元禄7年  -974人

      14万貫の産銅を記録した元禄6年は、2回目の5ケ年の年季が終わる年だった。泉屋は
     期限が終わる7ケ月前の元禄6年5月、5ケ年の稼行継続を平岡代官に願い出た。翌6月
     に認可になり稼行し、この年は上の表のように素晴らしい成績を納めた。
      しかし、その後の産銅額は期待したものとは違っていた。それは、坑道が深くなり、再び
     湧水に悩まされるようになったからだ。

産銅額  備考
元禄7年100,194貫 
元禄8年67,383貫 
元禄9年42,854貫 
元禄10年21,974貫上半期分のみ

      こうして、元禄11年12月の契約満了を前に、泉屋は吉岡銅山の稼行を返上する意思を
     固めた。

      湧水処理のための新たな水抜き坑道の検討を行い、場所も選定したが、莫大な経費を
     必要とし、今後は有望な『別子銅山』に全力を傾注する方針だった。あたかも、元禄11年
     開坑7年目の別子銅山の産銅額は405,600貫と当時の世界最大の銅山になっていた。

 3.2 吉岡銅山と別子銅山
      別子銅山は、大坂屋久左衛門が経営する伊予国立川銅山で働いていた切上り長兵衛
     が立川銅山に隣接する足谷山に銅鉱が連がっているのを覚り、もと働いていた備中・吉
     岡鉱山の田向重右衛門を訪ね、情報を伝えた。
      元禄3年(1690年)秋、田向は部下とともに長兵衛を案内人に、大坂屋に気づかれない
     ように天満村から険しい山中を踏み越えて足谷山に入り、大鉱脈が横たわることを確認
     した。

      元禄4年4月、住友は開坑を願い出た。その条件は、次のようなものだった。

      1. 元禄4年6月から9年5月まで満5箇年請負
      1. 運上は銅1000貫につき130貫、代銀は銅100貫目につき銀500匁
      1. 炭窯運上は10口につき1箇年銀30枚、ただし毎月上納
      1. 銅山付近の材木は残らず銅山付
      1. 奥山大難所の林木で年々枯れ捨てる分は銅山用材として下付 など

      その後、別子銅山が泉屋の永代請負となったのは元禄15年(1702年)だった。

      吉岡銅山で働いていた切上り長兵衛が立川銅山に移り、”たまたま”吉岡銅山と同一
     代官の支配地であった別子山足谷に有望な銅鉱を発見し、遠路吉岡銅山まで来て支配
     人に報告したことが別子銅山開坑のキッカケだった。まさに、吉岡銅山は、その後の泉屋
     (住友)発展の礎を築いた鉱山と言って過言ではないだろう。

 3.3 第二次経営
      元禄11年(1698年)、吉岡銅山の稼行を返上してから数年も経たないうち、泉屋は再び
     吉岡銅山を請負うことになり、元禄15年(1702年)から正徳5年(1715年)まで、第二次の
     経営が行われた。

      元禄15年正月、勘定奉行・萩原近江守重秀の要請で、泉屋の当主・吉左衛門友榮(友
     芳)は同業者の大坂屋久左衛門と同道して江戸に下った。
      長崎御用銅の出回りが悪く、諸国銅山の増産のための意見を求められた。泉屋が提出
     した吉岡銅山に関する意見書の要点は次の通りだ。

      1. 吹屋村御銅山(吉岡銅山)は、延宝8年(1680年)から元禄11年まで、18ケ年、泉屋
        が請負い稼行し、貞享元年から元禄4年まで8ケ年かかり、自分入用(費用は自己
        負担)で200間(360m)余りの水抜き坑道を掘り、その後7ケ年間は多量の銅を掘り
        出した。
      1. しかし、次第に掘り下がって深坑となり、稼行は困難となったため、水抜きの場所を
        見立てたが、その延長は300間(540m)ほどもあり、自分入用では切り抜くことは困
        難であるため銅山を返上した。
      1. この水抜き坑道を掘りぬくことができれば、新山同様となり、出ノ[金白:はく]も期
        待できる。

      これに対して、勘定奉行からは、願書の草案が渡され、これを提出し、吉岡銅山稼行の
     願いが聞き届けられた。その主要な内容は下記の通りだ。

      ・ 別子、吉岡銅山合わせて10,000両拝借、10年年賦で返済
      ・ 別子へ毎年買請米7,000石、1石につき代銀50匁

      これと同時に下記のような願いも聞き届けられた。
      ・ 別子・吉岡銅山の銅を海上輸送するとき、「日の丸」の船印を使用
      ・ 両銅山入用銀を大阪より陸送するとき、「御用銀」と御紋付の指札および御用提灯の
       使用

      こうして、元禄15年6月から、泉屋による吉岡銅山の第二次経営がスタートした。

      さて、元禄11年(1698年)、泉屋が吉岡銅山の稼行を返上してから再び元禄15年6月に
     請負い稼行するまで5年間、吉岡銅山はどのような状況だったのだろうか。

      泉屋の撤退の後、吹屋村庄屋五右衛門が稼行することになった。その理由は、次のよ
     うに、地元・吹屋村村民の生活を維持するためだった。
      狭い田畑しか持たない吹屋村の村民は農業だけでは生活できず、掘子をはじめ銅山の
     稼働によって生活できるようになり、年貢も納められる、というのだ。

      『 当村御百姓少分之持高5斗8斗或は壹石高所持仕候御百姓ニ而御座候、田地彰
       ニ而渡世難送、先年より御山稼を以御年貢相調来申候、御山無御座候得ハ御百姓
       仕御田地も相続不仕候ニ付、寅ノ年より跡山私奉願上、只今迄御山稼申候     』

      泉屋の吉岡銅山稼行請負の条件は第一次のときと同じだった。ただ、運上銅の60分の
     1を『口銅(くちどう)』、と呼び、現物納の形をとり、残りの銅は従来通り銀で代納した。
     この制度は、別子銅山では元禄7年の「御運上目録」に初めてみえ、吉岡銅山でも口銅
     の制度があったことは確からしい。

      稼行に着手した元禄15年中に、吉岡銅山から大阪に送られた銅の量は、24,644斤
     (3,943貫)だった。
      翌々年、宝永元年(1704年)は、5,079貫で、運上目録に、「・・・5月より極月(12月)まで
     ハ鋪(しき)内水強稼相止申候ニ付・・・・・・・」、とあるように湧水で半年余り採掘できない
     状態で、前途多難な様子だった。

      宝永2年以降の産銅量は、下の表の通りで、年によって産銅額は高低が激しく、かつ最
     高額でも5万斤(=3万貫)に達していない。
      水抜き坑道の掘削に力を入れながら、古い間符での採鉱を続けていた様子が垣間見
     える。

産銅量 運上銅代銀
宝永2年 22,740斤 1,788匁
宝永3年 11,513斤 905匁
宝永4年 13,741斤 1,080匁
宝永5年 46,628斤 3,668匁
宝永6年 16,810斤 1,322匁
宝永7年 44,832斤 3,526匁
正徳元年 27,823斤 2,188匁
正徳2年 19,655斤 1,546匁
正徳3年 17,944斤 1,411匁
正徳4年 1,407斤 110匁

      元禄15年、第二次経営開始と同時に着手した水貫坑道の進捗ははかばかしくなく、正
     徳3年まで12年間の総延長は39間3尺(71m)と、1年で6m弱しか掘り進めなかった。
      当初予定の300間を掘りぬく目途(めど)も立たず、泉屋が吉岡銅山を返上したのは、正
     徳5年(1715年)と思われる。

 3.4 その後の吉岡銅山
      その後、明治に至るまでの吉岡銅山の稼行者を一覧表にまとめてみた。

  自   至 経営期間 経営者
享保3年
(1718年)
享保7年
(1722年)
5年 京都・片木屋甚兵衛
享保7年
(1722年)
寛保2年
(1742年)
20年 吹屋村・大塚利右衛門
寛保2年
(1742年)
天明元年
(1781年)
39年 京都・銀座
天明2年
(1782年)
天明3年
(1783年)
1年 吹屋村・庄屋要助
天明3年
(1783年)
寛政3年
(1791年)
8年 大坂・小橋屋長左衛門
寛政3年
(1791年)
弘化4年
(1847年)
56年 吹屋村・大塚兵十郎
   大塚彌衛門
嘉永元年
(1848年)
嘉永3年
(1850年)
3年 吹屋村・庄屋要助
    長尾佐助
嘉永4年
(1851年)
万延元年
(1860年)
10年 岡山伊木・河原善九郎
文久元年
(1861年)
文久3年
(1863年)
2年 吹屋村・長尾佐助
元治元年
(1864年)
慶応3年
(1867年)
3年 備中松山・亀山定兵衛兵
     田邊壽太郎
(稼主 松山藩)
慶応4年
(1868年)
    1年 吹屋村・村方一同
(稼主 松山藩)
明治6年
(1873年)
         三菱・岩崎弥太郎

      ここで私が注目したのは次のような点だ。

     (1) 請負い稼行主の変遷
          最初の表に示した泉屋以前の稼行人は江戸、大坂、堺がほとんどで地元・岡山
         の住人が稼行したのは3年間で、わずかに10%だった。
          それが、泉屋以降の稼行主の住まい別に稼行年数の比率を調べてみると、地元・
         吹屋村が56%と半分以上を占めている。岡山や備中国の住人分を併せると2/3を
         占めるようになった。

          
                   稼行人の住まい別稼行年数

          先にも述べたように、吉岡銅山は吹屋村の雇用対策として、稼行が嘱望されたと
         は言え、先立つ資本があり、それが続かなければ経営はできない。
          上の表を見ると、地元・吹屋村の大塚家は、延べ86年の永きにわたって吉岡銅
         山を稼行していた。
          大資本の泉屋が撤退して間もなく稼行を引き継ぎ、泉屋が成し遂げられなかった
         水抜き坑道を掘りぬいたのは文政13年(天保元年)で、寛政4年に着工してから
         39ケ年が経っていた。
          新、古の「水抜き坑道」を描いた吉岡銅山の絵図面があるので、引用させていた
         だく。

          
                           吉岡銅山絵図
                        【「泉屋叢考」から引用】

          このように、地方に資本家が育っていたことが、この後の明治維新の原動力の
         1つになったのだろう。

4. 「吉岡銅山札」

    今回入手した「吉岡銅山札」の写真を示す。

        
           表            裏
              「吉岡銅山札」

    札の大きさは、幅42mm、長さ167mmの和紙に墨で印刷し、朱印が押してある。表には釣り
   上げた鯛を小脇に抱えた「恵比須大黒」の絵がある。
    中央に「永銭五文」と額面があり、右に「吉岡銅山稼」、左に「賃銭預切手」とあり、鉱山札
   に間違いない。
    下には、「吉岡銅山勘定場」と発行場所が記されている。

    裏面は、「鳳凰と思われる鳥」、額面の「五ふん」などが印刷してある。

    線彫りした文様は文字のようだし、「朱印」も意味があるようだが、解読しきれていない。

5. おわりに

 (1) 「鉱山札の研究」
      泉屋鉄山札に始まって、銀山札、炭鉱札など少しずつだがコレクションが増えてきた。
     少し前だが、HPが縁で四国地方の鉱山札をまとめて入手することができた。これらを1枚
     1枚解読し、その鉱山の歴史と共に調べて残して置きたいと思っている。

 (2) 天体ショー
      2012年5月から6月初旬にかけて、日本の宙(そら)では皆既日食、月食そして金星の
     太陽面横断と天体ショーが相次いで繰り広げられた。4月初めには皆既日食を観測する
     メガネを購入し準備していたのだが、当日の千葉県の宙は厚い雲に覆われ観測が難し
     そうだった。
      それでもいつもより早く家を出て、7時過ぎには会社にいた。皆既日食になる7時半ごろ
     屋上への階段に行ってみると、雲の間から薄い雲を通して、金環日食が短時間見えたの
     で写真に撮った。

      コンテンジェンシー・プランとして観測できない場合に備え、会社の庭の木になっていた
     「金柑」の写真を撮っておき、パロディ版「金柑日食」の写真を作った。これとペアにして
     20名余りの会社の人に差し上げたところ好評だった。

     【後日談】
       このページをアップしたことを会社の若い人達(複数形)に伝えたところ、早速見てくれ
      た。
       『金柑日食』
、は笑いをとった。しかし、『私なら、黒文字を小さくしないで、緑文字にし
      ます』、とアドバイスしてくれた。
       「老いては、子に従え」、よろしく、早速手直ししたのでご覧あれ。
       ( こんな些細なことも、私を仕事に惹きつけているのかも知れない )

      
                      金環日食

      
                      金柑日食

 (3) 「月遅れGWミネラル・ウオッチング」
      恒例になっている「月遅れGWミネラル・ウオッチング」の開催を全国の石友にお知らせ
     したところ、翌々日には定員をはるかに超える皆さんから申し込みいただいた。

      社長、お姐さんと共に、「湯沼鉱泉」で皆さまにお会いできるのを楽しみにしています。

6. 参考文献

 1) 住友修史室編:泉屋叢考 第拾弐輯 住友の吉岡銅山第一次経営,住友,昭和35年
 2) 住友修史室編:泉屋叢考 第拾四輯 住友の吉岡銅山第二次経営,住友,昭和44年
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