長野県米子(よなこ)鉱山の自然硫黄

           長野県米子(よなこ)鉱山の自然硫黄

1. 初めに

    2009年秋、恒例になっている「秋のミネラル・ウオッチング」で、延べ38名の石友と長野県
   を訪れたのは既報の通りである。

    ・2009年 秋のミネラルウオッチング
     ( Mineral Watching Tour in Fall 2009 , Nagano Pref. )

    第1日目、有名な水晶産地の後、長野県須坂市にある「米子(よなこ)硫黄鉱山跡」を訪れ
   る予定だった。長野の石友・Mさんに「米子硫黄鉱山産自然硫黄」をいただいていたが、行っ
   たことがなかったので、10月中旬、一人で下見した。

    @ 紅葉の季節、自家用車は乗り入れ禁止
       シャトルバス(往復1,200円)が30分おきに発車
    A 鉱山跡まで、約30分(ゆっくりだと約1時間)の登り
    B 硫黄鉱山跡の特定の場所にしか、「自然硫黄」は見当たらない

    など、現地に行かなければ判らないことが多く、下見しておいて正解だった。
    ( 結局、ここは訪れなかったので、今回は役に立たなかったが )

    紅葉の真っ盛りで、「米子大瀑布」を眺めながら、ミネラル・ウオッチングを楽しみ、「自然
   硫黄」や「ダイアスポア」など、米子硫黄鉱山の主要な鉱石を採集できた。

    帰宅後、古書店で「日本の硫黄鉱床(上)、(下)」、「日本硫黄鉱業史(上)、(下)」そして
   「米子硫黄鉱山絵葉書」を入手し、米子硫黄鉱山の鉱床、歴史、生産量と最盛期の状況を
   知ることができた。

    鉱物や鉱山に興味のない方でも、紅葉に彩られた「米子大瀑布」は散策する価値がある
   だろう。

    サンプル標本と情報を提供してくれた、石友・Mさんに厚く御礼申し上げる。
    ( 2009年10月採集 )

2. 産地

    長野県須坂市にある「米子大瀑布」駐車場には、案内板があり、「硫黄鉱山跡」に迷わず
   着けるはずだ。

      「米子大瀑布」案内板
  

    ただ、紅葉の季節は、「湯っ蔵んど」と「大瀑布駐車場」の間が自家用車通行禁止で、シャ
   トルバスを利用するしかない。

    鉱山跡には、最盛期だった昭和18年(1943年)当時の鉱山の配置図や写真などを示す案
   内板があるので、採集できそうな場所を探すヒントを与えてくれる。
    また、精錬所跡地の広い平坦地には、2mもある鉱石の大きな塊が展示してある。
    ( 間違っても、叩かないでほしい )

        
                 鉱山配置図                鉱石展示
                               米子鉱山跡

    帰途、別なルートを下ると、途中が鉱山の中心地跡になっていて、中外鉱業有志が建てた
   「米子硫黄鉱山跡」の背丈ほどの石碑が見える。
    この近くからの「米子大瀑布」の眺めが素晴らしい。

      「米子硫黄鉱山跡」石碑

3. 産状と採集方法

 3.1 地質と鉱床
      「日本の硫黄鉱床」によれば、付近の地質は、新第3紀黒色頁岩と同層中に岩床として
     迸入した?岩(ひんがん)等の基盤岩類の他、新規噴出になる溶岩および火山砕屑岩類
     より構成されている。
      米子カルデラ内には両輝石安山岩溶岩および火山砕屑岩の互層よりなる米子溶岩が
     発達し、その全体の厚さ800m以上と推察され、その溶岩の厚さは、最下部では70〜150m
     上層部では5〜10mに達し、その岩質は黒色緻密堅硬で、時に板状節理が発達する。

       「米子カルデラ」地形

      米子溶岩の下底部に硫黄の鉱染鉱床が発達し、母岩は変質作用を蒙り、変質が低度
     の部分は緑泥化作用を受け、その高度の部分は脱色し淡色となり、また珪化作用、粘土
     化作用を蒙って白色の脆弱な岩石となっている。

      主要な鉱床は大黒滝を中心として、東西600m、南北1,000mの地域に分布し、5鉱床が
     知られている。

鉱床名 南北 東西
恵比須鉱床 250m 30〜50m
恵比須大黒鉱床 120m 140m
大黒鉱床 200〜220m 30〜60m
泉鉱床 80m? 100m?
旭鉱床 1〜10m 塊状体数個
集合する

      採掘現場は、製錬所から離れた場所にあって、鉱石は索道を使って、精錬所まで運ば
     れたことが案内板から読み取れる。

       採掘現場

      鉱体は、平面的には出入りのある長楕円体、断面的には上下突出凸凹あるもので、
     上下的に硫黄品位の差のある層状鉱体である。鉱体における品位分布は不規則で、硫
     黄(S)15〜40%を示し、大黒鉱床の平均品位は24.8%を示している。
      主要鉱体の外縁部には脈状硫黄の『鷹の目鉱』の発達が著しく、時に径2mに及ぶもの
     を産する。

       鉱石は、緻密質または多孔質珪化鉱中に硫黄粒を散点し、硫化鉄鉱の細粒を含む
      ものは灰色の雲状を呈している。
       採鉱は、坑道採鉱で残柱式空洞掘で、製錬設備は、焼取炉8基があった。

       
                     坑道採掘

       
                      製錬所
                 最盛期の様子【昭和18年頃】

 4.2 米子硫黄鉱山の歴史
      この地で硫黄の採掘が始められたのは、江戸時代前期からとも言われているが、詳し
     いことはわかっていない。
      享保年間(1716〜1735年)頃、米子(よなこ)村の竹前権兵衛は、幕府に良質な硫黄を
     売り、その資金を用いて新潟県紫雲寺町の干拓事業を行い、同町に米子新田を開いたと
     伝えられる。このことから、須坂市と紫雲寺町は姉妹都市の提携を結んでいる。

      明治になり、須坂硫黄会社、信濃硫黄株式会社などが採掘を行い、昭和9年(1934年)
     には中外鉱業株式会社に引き継がれ、昭和35年(1960年)1)の閉山まで、硫黄を中心
     に蝋石(ろうせき)、ダイアスポアなどを産出した。

      米子鉱山から須坂駅まで全長14kmを超える索道(リフト)が架けられ、硫黄が搬出され
     た。硫黄の需要が増大した第2次世界大戦当時には、この地に生活する鉱山従業員とそ
     の家族は1,500人を数え、診療所や共同浴場、学校などがあった。鉱山の集落へは、この
     索道を使って須坂から多くの物資が運ばれている。

      1) 鉱山跡で会った私と年の近い婦人から、「完全に閉山したのは昭和48年(1973年)
         で、硫黄の後、ダイアスポアを採掘していた」、と聞いた。
         「ダイアスポア」を採集していないことに気づき、もう一度戻って探した。

 4.3 米子硫黄鉱山の生産量
      「日本硫黄鉱業史」に第2次世界大戦後の鉱山別・年次別生産量が掲載されているの
     で、データを加工して図にして示す。

       

      戦後、昭和27年(1952年)に2,800トンを超える生産を示したが、全国生産量の1.7%に
     しか過ぎず、昭和33年(1958年)には100トンを切るまでに激減している。昭和33年には
     1月に生産した92トンがその年の全生産量で、硫黄鉱山としての生命はこのとき終って
     いたようだ。

4. 産出鉱物

 (1) 自然硫黄【SULFUR:S】
      黄色、油脂光沢の塊状〜脈状で珪質岩の中に産する。特有の”色”と”におい”で簡単
     にわかる。
      『鷹の目』と呼ばれる、透明な黄色結晶からなる純硫黄も見られる。

        自然硫黄「鷹の目」

 (2) ダイアスポア【DIASPORE:AlOOH】
      白色〜茶褐色、ガラス光沢を示す。何よりもモース硬度が6.5〜7、と見かけより硬いのと
     比重が3.4と重いのが鑑定のポイント。東日本では、比較的産出がまれな鉱物の1つ。
      耐火度が高く、坩堝(るつぼ)などの原料とされる。

        ダイアスポア

5. おわりに

 (1) 日本硫黄産業史
      火山国・日本における硫黄の歴史は古い。和銅6年(713年)、相模(神奈川県)、信濃
     (長野県)、陸奥(青森県)の3国から石硫黄が献上された。もしかしたら、信濃とあるのは
     米子産だった可能性もなしとはしない。
      宝亀元年(770年)、岩代国(福島県)で硫黄が採集された記録もある。
      足利時代(15〜16世紀後半)、黒色火薬をはじめ硫黄の利用法が進んでいた中国への
     重要な輸出品になっていた。
      江戸時代、つけ木(マッチの前身のようなもの)、黒色火薬、医薬品そして交易品などに
     利用される程度で採取量もわずかなものだった。
      大正、ことに昭和になると、化学繊維、パルプなどの近代化学産業が盛んになると硫黄
     鉱業は重要産業としての地位を確立した。逆に、日本は恵まれた硫黄資源が化学産業
     に寄与した、とも言える。
      昭和35年(1960年)の硫黄の用途を下の円グラフに示す。繊維、紙などの生産に約90%
     が使われていた。

        硫黄の用途【昭和35年】

      同じころ、石炭に代わるエネルギー源として石油産業が勃興してきた。これに伴って、
     「回収硫黄」問題が浮上してきた。「回収硫黄」とは、石油精製の脱硫過程で副産物として
     生産されるもので、”原材料費がゼロに近く”、「鉱山の生産硫黄」に比べコストが安いと
     いう特徴がある。
      その結果、硫黄を採掘する鉱山は、相次いで閉山に追い込まれ、昭和46年(1971年)
     には、国内の硫黄鉱山は姿を消した。

 (2) 硫黄を描く切手
      この季節、私の別な趣味である”郵趣(切手収集)”の全国的な展示・即売会が東京で
     開かれる。
      鉱物、鉱山などに関連する切手や封筒を探していると、硫黄を描く切手が何枚かあった
     ので紹介する。

       
               硫黄製錬           自然硫黄
            【ポーランド発行】      【ニュージーランド発行】
                        硫黄を描く切手

      「自然硫黄」を描く切手は、日本と同じ火山国・ニュージーランドならではのものだろう。
     英語圏らしく、”Sulphur”となっている。

 (3) 米子鉱山跡の秋
      2009年の秋の紅葉は、一段と鮮やかだ。10月に入って急に冷え込んだのとその後、
     台風の直撃がなかったのが良かったようだ。

      米子鉱山跡の手前には、日本の滝100選にも選ばれた「米子大瀑布」があり、一面の
     紅葉に覆われた「権現滝」【落差75m】と「不動滝」【落差85m】の2条の滝は一見の価値
     がある。

       
               「権現滝」                  「不動滝」
                          米子大瀑布

6. 参考文献

 1) 赤木 健:日本の硫黄鉱床 上巻,昭和33年ごろ,-
 2) 赤木 健:日本の硫黄鉱床 下巻,昭和33年ごろ,-
 3) 石井 芳雄:日本硫黄鉱業史 上巻,昭和35年,経済春秋社
 4) 石井 芳雄:日本硫黄鉱業史 下巻,昭和36年,経済春秋社
 5) 木下 亀城:原色鉱石図鑑,平成元年,保育社
 6) 益富地学会館監修:日本の鉱物,1994年,成美堂出版
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