長野県の母岩付き「満バン柘榴石」 - Part2 -









        長野県の母岩付き「満バン柘榴石」 - Part2 -

1. 初めに

    日本の柘榴石の3大産地を挙げるとすると、大きさでは福島県石川町の鉄バン柘榴石、
   愛らしさでは茨城県山の尾の鉄バン柘榴石、そして美しさでは長野県和田峠の満バン柘榴石
   だと最近まで思っていた。
    数年前、奈良県で『レインボー柘榴石』なるものものが発見されたが、上の3大産地の評価は
   今でも変わっていない。
    石川町の採石場は閉鎖して既に時が経ち、採集できる場所も限られ”絶産”状態だし、山の
   尾と草下先生の「フィールドガイド」に載っている和田峠の沢は、マニアによる乱獲がたたり、
   今では地権者や営林署により立ち入り禁止になっている。

    和田峠を最初に訪れたのは、山梨県に転勤になって間もなく平成の初めごろだった。この当
   時は採集禁止にはなっておらず、「フィールドガイド」に載っている沢で採集でき、その結果を
   鉱物同志会の会誌「水晶」に寄稿したこともあった。

    当時の採集品のほとんどが、分離結晶だった。最大20mm、完全24面体結晶もいくつかも採
   集し、宝飾店に頼んでアクセサリーに加工してもらいに母親と妻にプレゼントしたのも良い思い
   出の一つだ。

     
                   分離結晶【横 90mm】

     
                 完全24面体結晶【最大 10mm】

                 和田産 満バン柘榴石

    そこそこの分離結晶が揃うと、『母岩付き』を採集したいと思うようになった。探査したところ、
   古い採石場跡で母岩付きが採集できる事や、例の沢以外の場所でも分離結晶を採集できる
   ことも知り、それらのポイントを『2011年月遅れGWミネラル・ウオッチング』で石友と訪れたのは
   既報の通りだ。

   ・ 2011年月遅れGWミネラルウオッチング
    ( Mineral Watching , Jun. 2011 , Nagano Pref. )

    2012年春から、山梨に帰省すると、時間を作って和田峠を中心に満バン柘榴石の揺りかご
   (胎盤?)とも言える母岩である流紋岩の露頭を探査していたが、2013年4月、山梨県に戻って、
   リハビリの第2ステップとして、この探査を再開した。

    2013年4月、妻を車に残し、露頭やそれらが崩れたガレを巡検していると小さな『母岩付き』が
   あり、その周辺を重点的に探査し、最大10mmのものを含め、標本にできそうなものをいくつか
   採集できた。

    山梨に戻って、お付き合いいただくようになったT元教授とS氏の「鉱物展示室」を拝見した。
   「日本式双晶」、「松茸水晶」、「印材」などジャンル別に産地や形状の違うものを1箇所に集め
   下手な博物館をしのぐコレクションには眼を見張った。
    これからは、今まで採集した標本を整理し、不足しているものを補充するのが課題になって
   いる。
   ( 2013年4月採集 )

2. 産地

    「フィールドガイド」などにも掲載されている有名な産地なので詳細は割愛する。

3. 産状と採集方法

    満バン柘榴石は、火山噴出物が流れて固まった灰白色をした流紋岩の晶洞の中に結晶した
   形で産出する。
    露頭やガレにある流紋岩の表面を丹念に見たり、ハンマで割って晶洞を探す。運が良けれ
   ば、流紋岩の間に分離結晶が落ちているのもご愛嬌だ。
    ここでは「流紋岩」としているが、専門的には「デイサイト(Dacite:石英安山岩)」となっている。
   「流紋岩」は、溶岩が流れ層状に重なった『流理(りゅうり)』と呼ぶ構造が見られるところから
   名付けられたようだ。

        
                  産地                         産状
                         母岩付き満バン柘榴石産地

4. 産出鉱物

 (1) 満バン柘榴石【SPESSARTINE:Mn3Al2(SiO4)3
      ここの柘榴石は赤黒いものから真っ黒で、成分的には鉄バン柘榴石と満バン柘榴石の
     中間のものといわれている。分離結晶には極々希に、偏稜24面体の完全結晶が採れた
     事もあった。
      結晶が成長した履歴を示す累帯構造を示すものや、特殊な結晶面【r(332)やo(111)】を
     もつ鉱物学的にも興味深い標本もある。

      母岩付きは流紋岩の晶洞の中に見られるが、全ての晶洞にあるわけではなく、圧倒的に
     私が『空(から)ガマ』と呼ぶ何も入っていない”スカ”が多い。
      硬い満バン柘榴石と言えども、分離結晶は多かれ少なから磨り傷があるが、晶洞(ガマ)
     から採集したものは、ガマ粘土に覆われ、傷1つなくピカピカだ。大きな結晶より小さいほうが
     美しいのが鉱物の常だが、下の写真のものは1センチで、これで不満を言えば罰(バチ)が
     当るだろう。

      
             母岩付き満バン柘榴石
                 【横 50mm】

 (2) 方珪石/クリストバル石【CRISTBALITE:SiO2
     鱗珪石【TRIDYMITE:SiO2
      流紋岩の中に、球状の構造が見られ、これがクリストバル石だ。球の断面は写真のよう
     に同心球状(タマネギ状)を示し、帯の間に空隙がある。そこには、透明で六角板状の鱗珪
     石結晶を観察できる。

         
               クリストバル石                     鱗珪石
                【横 70mm】                   【横 15mm】

      益富先生の「鉱物」には、「SiO2(石英)の安定領域図」が掲載されているので、これを私
     なりに解釈し、改編した図を掲載する。

      
                 「SiO2(石英)の安定領域図」
                        【「鉱物」の図を改編】

       地下深くでマグマが時として数千年の時間をかけて徐々に冷えたペグマタイトの場合
      「徐冷(じょれい)」の道筋をたどり、「高温石英」や「水晶」が生まれる。火山から地表や
      水中に噴出した火山岩の場合、急速に冷える、「急冷(きゅうれい)」のコースに従い、
      「方珪石(クリストバル石)」や「鱗珪石」が誕生する。

 (3) 黒曜石【Obsidian:(M)SixOy
      黒曜石はガラスと同じで、結晶していないため鉱物の定義に当てはまらないのだが、色や
     模様が美しいものがあった。
      左のものは、透明感があり、そのままでも石器ではないかと思われる形状だ。右のは、
     まっ黒い黒曜石の中に、雪の花びらが舞い落ちているようで、俗に”スノーフレーク(Snow
     Flake:雪の花びら)”、と呼ばれるらしい。下の方には、層状になった”縞々”も見える。
      白いフレークや縞の正体は、「クリストバル石」だ。
     ( この手のものは、”パワーストーン”、として人気が高いらしい )

         
                 黒色透明                   スノーフレーク+縞
                【横 100mm】                   【横 55mm】
                               黒曜石

      和田峠周辺産の黒曜石は縄文時代に石器、石鏃の材料として広く使われ、関東・中部
     地方の縄文遺跡から数多く発見されている。単身赴任していた千葉県某市の縄文遺跡で
     も観察できたほどだ。

5. おわりに

 (1) リハビリ・第2ステップ
      山梨に戻って1ケ月が過ぎ、リハビリも畑仕事と「遺跡で石器観察」の第1ステップを経て、
     車を降りて30分以内でのミネラル・ウオッチングと第2ステップに進んだ。

      第2ステップの仕上げは、恒例の「月遅れGWミネラル・ウオッチング」になりそうだ。『長野
     県と山梨県の新産地をたずねて』、で声をおかけしたところ、10時間で予定の人員を越え
     常連さんのために、募集人員を増やしたほどだ。

      お断りをせざるを得なかったうちの一人、埼玉のTさんから、「 最近は、立ち入り禁止の
     看板ばかりが目立ち、どこに行ったらよいのやら頭を抱えてしまいます。いい情報がありま
     したら是非教えていただければと思います 」 
、とのメールがあった。

      良い情報を教えて頂きたいのはこちらも同じだが、これからは時間的には多少余裕がで
     きそうなので、気になっている産地を探索したいと考えている。

      『 戌も歩けば石にあたる 』

 (2) 「水戸浪士の墓」
      岡谷・下諏訪方面から和田峠に向かうと「水戸浪士の墓」の案内板がある。小学2年生の
     3学期から高校を卒業するまで茨城県に住んだ私にとって、以前から気になる存在だった
     ので、立ち寄ってみた。

       「水戸浪士の墓」

      浪士の故郷・水戸から移植した梅の木の花もほころび、春うららかな日だった。明治維新
     を数年後に控えた元治元年(1864年)11月20日、ここで水戸天狗党と地元の高島、松本両
     藩連合軍の間で激烈な戦闘が行なわれ、連合軍は敗走した。
      しかし、天狗勢側でも小野瀬清吉以下7名が戦死し、手負い(負傷者)は多数だった。ここ
     にある墓は、この時の戦闘で戦死した天狗勢のものだ。

      この近くに、「江戸より53里(212km)」を示す中山道の一里塚がある。なぜ、天狗党が故
     郷から遠く離れた信州の山の中で地元の藩兵と戦闘するに至ったのかは、吉村 昭の「天
     狗争乱」に詳しい。

      徳川御三家の一つ水戸藩浪士による桜田門外での井伊大老暗殺から4年が経っても、
     開国か攘夷かで、日本は騒然としていた。元治元年(1864年)3月27日、またしても水戸藩
     尊王攘夷派有志が筑波山で挙兵した。世に言う天狗勢である。
      尊王攘夷を目指しながら亡くなった烈公・徳川斉昭の位牌をおさめた神輿をかつぎ、大砲
     や小銃で武装した1,000余名が幕府軍と鋭く対峙しながら朝廷に尊王攘夷を訴えるべく、
     京都を目指した。
      下仁田での戦闘で高崎藩兵が大敗したことを知った各藩は、天狗勢を領内の間道を通し
     武力衝突を避けた。このさい、軍用金を貢献した藩や宿場も多かった。
      和田峠での戦闘の後、武力衝突なしに、伊那街道→中山道を進んだ天狗勢はこのまま
     進めば因念深い彦根藩領を通ることになる。武力衝突を避けたい天狗勢は一転北上し、地
     元民ですら尻込みする雪の蠅帽子(はえぼうし)峠越えを敢行、越前に入った。
      天狗勢は京都にいる斉昭の第七子・一橋慶喜を頼りにしていたが、慶喜は、天狗勢の追
     討総督として出陣し、自分の保身から「無二念(ようしゃなく)追討皆殺いたし候様」、と追討
     諸藩に命令した。
      北陸道に布陣した加賀藩は、「福井藩は長州征伐に出兵し手薄だが、彦根、丸岡、勝山、
     鯖江、各藩に加勢を得ており、幕府の命令に従う決意だ」、と前置きし、天狗勢に降伏をす
     すめた。

      12月17日、「微志(自分たちの志)が貫徹いたし」たならば、「如何様被仰付候共不苦」
     との書状を加賀藩本陣に届け、天狗勢は降伏した。
      25日、天狗勢全員が敦賀の3つの寺に収容された。年が明け、加賀藩からの屠蘇や鏡餅
     の差し入れに、天狗勢は感謝した。

      天狗勢の最終的な処分を加賀藩も案じていた。しかし、慶喜は深く考えることもなく、天狗
     勢の身柄を幕府追討軍総括田沼意尊に引き渡す事を承諾してしまった。天狗勢の身柄は、
     加賀藩の手を離れ、福井、彦根、小浜の3藩に預けられることになった。この後、天狗勢には
     過酷な運命が待っていた。
      彼らが連れて行かれたのは鰊(にしん)の肥料を入れて置く土蔵だった。食事は日に2度、
     握り飯が1つとぬるま湯だけだった。土蔵の中は暗く、肥料の強烈な臭いに排泄物の臭いも
     加わって息もつけぬ耐えがたさだった。
      夜になると漆黒の闇で、火の気もなく、布団も与えられないので、蓆(むしろ)を掛け、身を
     寄せ合って寒さに震えていた。足枷(あしかせ)で皮膚が破れた者も多く、うめき声も起こっ
     た。
      2月1日から天狗勢の取り調べが開始された。田沼は、慶喜や朝廷の周囲で助命の動き
     が起こるのを恐れ、4日には、首謀者の武田耕雲斎はじめ24名の斬首の刑を執行した。23日
     までに352名が首をはねられた。鰊蔵の中で、24人が病死していた。
      耕雲斎の孫・金次郎18歳は、死罪を遠島に減刑され、同じように129名が肥前(長崎県)
     五島その他に流されることになり、船待ちのため鰊蔵に留めおかれた。
      人足として同行していた者たちは追放となり、水戸藩に引き渡されることになった。
      天狗勢の家族にも過酷な処分が下された。耕雲斎の妻はじめ3歳の倅まで死罪に処せられ
     他の首謀者の家族も死ぬまで牢に幽閉する永牢が申し渡された。
      4月7日、元号が慶応と改められた。悲劇はこれで終わらなかった。無罪を申し渡され水戸
     藩に引き渡された130名は、罪人を移送する定法の脱走を防ぐため青網を掛けた駕籠(かご)
     に載せられ、6月21日に敦賀を発ち、7月14日に水戸城下に入った。途中で病死4名、脱走
     1名があり、駕籠は125挺に減っていた。
      駕籠から出された一行はそのまま牢に押しこめられ、食事は日に握り飯一個だけで、大半
     が体調をくずしていたが治療も受けられなかった。このなかに唯一の女性、市毛源七の母・
     みえ、もいた。秋の気配が感じられるころ、みえは食事ものどを通らなくなり、自宅に帰され
     たが、9月16日に亡くなった。牢内では死亡するものが相次ぎ、みえの夫と息子も死亡した。

      武田金次郎以下遠島刑を言い渡された者たちは、依然として鰊蔵で過ごしていたが、慶応
     2年(1866年)5月26日、幕府から罪を許され小浜藩預けとなった。
      天狗勢に同情していた小浜藩では、金次郎らに衣服、大小を与え、「準藩士」と呼ぶように
     通達し、29日には鰊蔵から永厳寺に移した。
      翌慶応3年5月、かれらは三方郡佐柿(さがき)に護送され、翌慶応4年正月、朝廷の命令
     で水戸へ帰ることになり、京都、江戸を経て、5月21日に水戸へ向かった。
      明治に改元されたのは9月8日だった。

      いつの時代も、『人や組織頼みはダメ』 、のようだ。

6. 参考文献

 1) 地団研地学事典編集委員会編:地学事典,平凡社,昭和45年
 2) 益富 寿之助:鉱物 −やさしい鉱物学−,保育社,昭和60年
 3) 黒石 晋:柘榴石の結晶2題 水晶第3号 ,鉱物同志会,1989年
 4) 中川 清:和田峠のざくろ石 水晶第4号 ,鉱物同志会,1992年
 5) 吉村 昭:天狗争乱,朝日新聞社,1994年
 6) 加藤 昭:日本産鉱物分類別一覧 −無名会七十五周年記念−,無名会,2008年
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