甲斐国の地誌 『裏見寒話』に見る山宮の名産










        甲斐国の地誌 『裏見寒話』に見る山宮の名産

1. はじめに

    少し古い話になるが、2014年6月4日の新聞に、『甲府城に温泉の可能性大、県庁内の遺構か
   ら硫黄成分検出 』
、という記事が載った。
    山梨県教育委員会によれば、山梨県庁構内の発掘調査で見つかった江戸時代の敷石遺構に
   ついて、「甲府城の温泉関連施設の可能性が極めて高い」との見解を明らかにした。絵図などで
   湯が湧いていたと記された場所と合致し、遺構内部の付着物や土壌から高い濃度の硫黄成分が
   検出されたようだ。

          
                             甲府城温泉遺構?
                         【山梨教育委員会資料より引用】

    山梨県(甲斐国)の古い記録を集めたものの一つ『裏見寒話(うらみかんわ)』に、甲府城内の
   温泉の記述があるとの記事も眼にしたので、山梨県立図書館を訪れ、『裏見寒話』を探してみると、
   『甲斐叢書(かいそうしょ)』の中に「甲斐名勝志」、「甲斐叢記」とともに収められていたので拾い
   読みし、必要箇所をコピーした。

    『裏見寒話』の著者は甲府勤番士・野田市左衛門成方(のだ いちざえもん しげかた)だ。享保
   甲辰9年(1724年)江戸幕府から甲府城勤務を命じられ赴任し、以来30年近く、甲斐国で見聞した
   ことを書き残しておいた。これを三男・吉川正芳の助けで宝暦壬申2年(1752年)に一冊の書に
   まとめたものだ。

       
                 「裏見寒話」
         【甲洲文庫デジタルアーカイブより引用】

    件(くだん)の「温泉の部」を読むと、『温泉 御城内、楽屋曲輪(がくやくるわ)の御門前水道に
   湧出つ』
、との記述があり、場所的にも今回の発掘場所と同じらしい。
    私がミネラル・ウオッチングで訪れている甲府市黒平(くろべら)も温泉として知られていたようだ。

    さらに驚いたことに「名産の部」を読むと、私が住んでいる地区は300年昔は『スイカが名産』だっ
   たのだ。夏のミネラル・ウオッチングの水分補給・疲労回復のためにと、MH農園ではスイカを栽培
   しているが、図らずも300年昔の伝統を引き継いでいたことになる。これも何かの縁なのだろう。
   ( 2014年6月 入手 8月 調査 8月 後日談追加 )

2. 『裏見寒話』成立の経緯

    『裏見寒話(うらみかんわ)』は、(間違って)”りけんかんわ”、と読んでいるケースも目にするし
   さらには、誰がどのような経緯(いきさつ)で著したものなのかも不明だったようだ。「裏見寒話序」
   を読むとそれらがスッキリするので、全文を引用する。この当時の文章には濁音を表記する濁点
   がない(省略されている)ので、適宜補って欲しい。

    『       裏 見 寒 話 序
      享保甲辰の冬 愚父鷯鼠子 錦城の衛士に擧られ 駒鶴両関の時雨を
     凌き仏子二嶺の落葉を踏むて漸甲陽の府下に到り 恩賜の宅地に
     移りて 『葛の葉や裏見て寒し甲斐の不二』 と嘯吟して居をしむる
     事三十年 常に見及ひ聞およひし国中の事跡来由なと書記せし反故
     をちりちりにならむは悔へしと 兄萬華亀息に命せられて そこかし<
     こ 取集れは 何所となく一帙となりぬ 彼くす葉の言葉にすかりて
     書號となし 即裏見寒話と題して両兄の案上に呈することしかり
       宝暦壬申冬十一月甲子
                               来椒堂仙鼠              』

    父・鷯鼠子(りょうそし)が甲府勤番を命ぜられ、享保甲辰9年(1724年)の冬に甲府に着任した。
   屋敷にあった葛と富士山を見て読んだ句が後年書名になったことから「裏見寒話」は、”うらみか
   んわ”と読むのが正しいと思う。
    「裏見」には、冬枯れした葛の葉の裏と雪に覆われて寒々とした裏(甲斐)側から見た不二(富
   士山)の2つの意味が掛かっているのだろう。

    【後日談】
     このページを読んだ奈良県の石友・Yさんからメールをいただいたので紹介する。

     『 関西人なら「裏見」、「葛」と聞けば信太妻、安倍清明伝説と共に
        恋しくば 尋ね来て見よ  和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉
       を思い出すのですが、葛の葉や 裏見て寒し 甲斐の不二 と狐、は関係なさそうですね。
       こじつけると「恨み」と読み、甲州勤務を嫌がっていたのかな???             』

     物心ついてからこの歳になるまで、関東以北で過ごしたた私には、「裏見」と「葛」から、信太
    妻(しのだづま:信田妻とも)、まして安倍清明までは思い及ばなかった。
     私も、幕府によって甲府勤番に”山流し”された「恨み」が込められているのかとも思ったが、
    私の体験からして、いやいや勤務する武士が地元の歴史・史跡・そして名産まで書き残すことは
    ありえないだろうと思い「恨み」説は却下した。
     ”むだばなし”を意味する『閑話』と音が同じ『寒話』とつけたのは説明するまでもないだろう。
     甲府側から見た富士山を『裏』というと、「花子とアン」の修造に怒られそうだが、上のような解
    釈をした次第だ。

    鷯鼠子とは、野田市左衛門成方(1699-1764年)のことで、甲府に赴任したのは25歳の時だっ
   た。以来宝暦3年(1753年)54歳で致仕(ちし:辞職)し、家督を長男朝成に譲るまで、ほぼ30年
   勤務した。「裏見寒話」は在勤中に起稿し、隠居する寸前に上梓したことになる。

    「裏見寒話序」を書いている仙鼠(せんそ)とは、成方の三男で吉川家に養子に入った正芳で、
   通称を七左衛門と言い、甲府勤番与力だった。
    本来なら命ぜられた”兄萬華亀息”(長兄か次兄?)がやるべきことを三男・正芳がやったのは、
   長兄・朝成は宝暦7年に亡くなっていることから病弱だったのではないだろうか。成方がとっくに
   隠居しても良い54歳まで山の手組として勤務していたのは朝成の息子が大きくなるのを待ってい
   たためとも考えられる。次男・正英は家を出て三宅氏を継ぎ、甲府にいなかったのだろう。
    その結果、出来上がった書を”両兄の案上(机の上)に呈する”、という形になったようだ。

3. 甲府の温泉

 3.1 甲府城の温泉
      甲府城にあった温泉の模様を『裏見寒話』の記述から追ってみよう。

       『 巻之壹
         ・・・・・・・・・・・
         ○温泉 御城内、楽屋曲輪の御門前水道に湧出つ 旱天には湯煙たつ、
               御城内なれは、何症に應するという事は不分、
               眼氣によしとの云傳へあるよし、          ・・・・・・・・・・・
                                      』

      山梨県教育委員会が公開した県議会議事堂東側の温泉跡らしい敷石遺構は、今から300年
     前の江戸時代には「お湯が湧きだし、日照りが続くと湯煙が立ち上っていたようだ。
      効能は分からない、眼病に良いと言い伝えられていたようだ。

      『裏見寒話』巻之参の「温泉の部」には、ほぼ同じ内容の記述があり、甲府城に温泉が湧き
     出していたことは、確かだ。

       『 巻之参
         ・・・・・・・・・・・
         ○御城内の湯 楽屋曲輪の御門前の水道に温泉あり、眼病に効ありと雖も、
                   御城内なれは、試めし見るものなしと、             』

      山梨県教育委員会の発表があってまもなく、「山梨新報」紙の『極超短波』というコラムに甲
     府城の温泉に関する記事が掲載された。甲府城とその周辺にあった温泉の消息を伝えている
     ので引用する。

       『 ・・・・・・・・・・
          現在の県庁と舞鶴城(甲府城の別名)公園一帯は16世紀まで一条小山と呼ばれる
         死火山だった◆山上は一連寺、住吉明神などが鎮座する聖域で、門前町が開け、温泉
         が湧いていたので「湯田」と呼ばれていた。今回県庁構内に発見された温泉の敷石遺
         構の地と推測されている◆ところが戦国時代末期、豊臣大名の長野長政らによって甲
         府城が築かれることになり、一連寺は山梨郡蔵田村、現在の甲府市太田町に移転させ
         れた。門前町の人々も「湯田」の地名と共に引っ越した◆昭和40年(1965年)の地名改
         変までの甲府市湯田町や現在の湯田地区、湯田一、二丁目、湯田小学校(数年前まで
         湯田高等学校もあった)の名称はその名残である。が、地名の由来である温泉まで持っ
         て行くわけにはいかない◆当然、温泉は甲府城内に残った。今回、発掘された遺構は
         「楽屋曲輪」のあった辺りで『裏見寒話』の記述とそっくりである。だから、そこに湧出し
         ていたのは確かである。◆ が、明治維新後、自由民権運動の政治家として知られた
         小田切謙明(号は海洲)が開いた海洲温泉は追手門前、つまり現在の県民会館付近だ
         った。恐らく源泉から引いたのだろう。◆これ(今回発見の温泉遺構)は現実に存在した
         歴史の証拠・文化財である。                                   』

 3.2 「甲府温泉」
      「山梨新報」紙にある「海洲温泉」があった辺りを「甲府温泉」と称した時代があった。根っか
     らの甲洲人でない私の頭の中を整理する意味で、今回発見された温泉遺構のある「楽屋曲輪」
     や「海洲温泉」があった「甲府温泉」を地図に落としてみると”指呼の間(かん)”にあることが
     明らかだ。

       
                      「甲府温泉」地図

      大正から昭和にかけて、日本各地の観光地や都市の鳥瞰図(バードビュー:Bird View)を
     描いたことで有名な吉田初三郎(1884年〜1955年)は、私の収集趣味の一分野である絵葉
     書も数多く描いている。それらの中に「泉都甲府」と題する一枚がある。「泉都」とは、別府など、
     ”温泉で有名な都市”をさす。

       
                      絵葉書「泉都甲府」
                       【吉田初三郎作】

      月明かりの中、湯煙が上る甲府市中心部を描いたものだ。甲府城跡に「謝恩碑」があること
     から大正11年(1922年)以降であることは間違いない。初三郎得意のデフォルメで、実際には
     この場所にはなかったNHK甲府放送局(JOKG)の放送塔らしきものも描かれていることから
     昭和12年(1937年)以降の景色を描いたものかも知れない。
      雪に覆われた南アルプスが甲府城跡のバックに見えることから、東から西を描いていること
     になり、左手、つまり甲府城の南側の「甲府温泉」のあった辺りから盛んに湯煙が上っている
     のが読み取れる。

      甲府温泉で双璧をなしたのが、今はない「海洲温泉」と今も続く「談露館」だった。

  (1) 「海洲温泉」
       海洲温泉のあった場所は明治初期には荊棘(いばら)が密生した原野だった。自由民権運
      動の政治家として知られた小田切謙明(号は海洲)は、毎朝この辺りを散歩していた。ある日、
      地面が”ジメジメ”している場所があるのに気付き、「ここは、は鉱泉ではないか」と思い掘削
      したところ、予想どおり鉱泉で、これが海洲温泉の起源となった。
       明治17年6月には瀧泉社を組織し、この場所において温泉業を始め、当時の海洲温泉を
      描く絵葉書が残されている。

       
                   「海洲温泉」絵葉書

       その後、この建物は改築された。「内湯旅館 海洲温泉 御案内」というパンフレットには、
      『 創始者 生祠海洲大権現の祭神 小田切謙明翁、・・・・温泉は塩類酸にして、硫化水素
       と僅かの甘味ある塩類泉で、午前5時からの朝湯が名物』であったようだ。

       また、戦後の昭和25年ごろ、「広告入り日付印」と呼ぶ消印がはがきに押された一時期が
      あった。私の趣味の一分野である「郵便趣味」の収集品の中に、湯煙と共に『甲府温泉峡
      海洲』 
、と押されたものがあるので、昭和26年ころは「甲府温泉」と呼ばれ、「海洲」は営
      業していたようだ。

          
             【昭和25年10月18日】          【昭和26年4月13日】
               電話番号空欄               電話番号入り
                     広告入り日付印「甲府温泉峡 海洲」
                             甲府局消印

  (2) 「談露館」
       ホテル談露館は、1887年創業、今年で創業127年を迎える老舗で、”源泉掛け流し”が売り
      の近代的なホテルとして健在だ。「旅館・談露館」の古い絵葉書があり、浴場を写した一枚も
      あるので紹介する。

          
                     入り口                         浴場
                               「旅館 談露館」絵葉書

       ホテル談露館のHPから、源泉名・泉温・泉質・適応症などを引用する。

       ・源泉名      甲府市内旅館組合第一号泉
       ・泉温        46.0℃(調査時に於ける気温23.0℃)
       ・泉質        ラドン含有量 0.947×10-10キューリー/リットル
                            0.260マッヘ/リットル
                  含土類在膏(石膏のことか?)・食塩水(緩和性低張高温泉)
       ・浴用の適応症  慢性関節リュウマチ、慢性筋内リュウマチこと腰痛、神経痛こと坐骨神経
                  痛、神経炎、創傷、痛風、尿酸素質、慢性皮膚炎

       「談露館」に電話して尋ねると、敷地内にある「甲府市内旅館組合第一号泉」から汲み出し
      た温泉を周辺の宿にパイプで供給している、とのことだった。
       泉質が硫黄分を含まないことや泉温が高いことなどから、「甲府市内旅館組合第一号泉」
      は最近になってボーリングしたもので、海洲温泉や甲府城にあった温泉とは違うような印象
      を持っている。
       「談露館」は1000円(税別)で日帰り入浴できるらしいので一度訪れて確かめてみたいと
      思っている。

 3.3 甲府の温泉
      『裏見寒話』巻之参の「温泉の部」には、甲斐国の温泉として、湯村、下部、塩山、川浦、
     黒平、板垣、教安寺、西山の湯、御城内の湯が載っている。
      これらのうち、下部は下部町(現身延町)にある「信玄の隠し湯」であり、塩山は中央線塩山
     駅北西にある塩山温泉、川浦は埼玉県に通じる国道140号線沿い、西山の湯は早川町奈良
     田に近い山奥の秘湯だ。
      それ以外は、現在の甲府市にあった温泉で、湯村は現在でも温泉街となっている。板垣は
     城から東に15丁(1.6km)東光寺にあったようだ。教安寺は府中曲尺手(かねんて)町にあった
     とされ、身延線金手(かねんて)駅南の旧甲州街道が「鉤の手」に曲がったあたりらしい。
      黒平(くろべら)は、ミネラル・ウオッチングが趣味の人なら行ったことはなくても一度は耳にし
     た事があるはずだ。『裏見寒話』の黒平の記述を引用する。

      『 ○黒平 府中より六里 御嶽山の奥、至極の冷湯にて疝気並に冷症に宣し
             此地に米穀出す 皆麓より運上す                      』

      黒平温泉は冷泉で、腰や大小腸が痛む疝気や冷え性に効果があった。お城から黒平までは
     6里(24km)あり、日帰りは難しく宿があったはずだ。骨董市を回っていると、黒平にあった「藤
     原屋旅館」の絵葉書があったので手に入れておいた。

       
          絵葉書タトウ「黒平 藤原屋旅館」

      絵葉書は大正末から昭和初期のものと思われ、旅館は湯治客よりも金峰山の登山客目当
     てに発行したものらしく、中身は山の写真だ。

4. 甲斐の名産・山宮の西瓜(スイカ)

    『裏見寒話』巻之五の「名産の部」には国内各地の名産品が並んでいる。郡内(県東部)の絹織
   物、西島の和紙、雨畑の硯(すずり)、勝沼の葡萄など現在でも山梨の名産品となっているものが
   掲載してある。

    私のHPのあちこちに、『甲斐(山梨)の名産は、葡萄と水晶』、と書いているが、300年前には、
   水晶は加工技術もなく、名産にはなっていなかった。京都の玉屋弥助によって金桜神社の神官
   たちに水晶加工技術が伝えられるのは天保5年(1834年)で、およそ100年後のことだ。

    名産品を見ていて、”ドキ!!”、とした。私が住んでいる地区の名産品が載っているのだ。『裏
   見寒話』から引用する。

     『○山宮 西瓜 』

    私が住む山宮を紹介するとき、「(御嶽:みたけ)昇仙峡の入り口」と説明している。下の昔の地
   図の「大宮村」に含まれていて、300年前は西瓜(スイカ)が名産だったと初めて知った。

       
         絵葉書「御嶽案内図」

    名産となるには、それなりの理由があったはずで、市場にまとまって流通し、庶民でも買える価
   格だったのだろう。
    これを生産する側から見ると、気候・風土が西瓜栽培に適し、栽培技術が定着していたことが
   必須条件だろう。スイカは西の瓜と書くことからもわかるように、中国の西、乾燥して寒暖に差が
   ある中央アジアが原産で、シルクロードを伝って中国に伝わり、日本に来た。
    山宮は甲府盆地の周縁にあり、背後には金峰山(2599m)に連なる山々が控えている。甲府盆
   地で日中は40℃近い暑さになることは皆さんご承知だろうが朝夕はしのぎやすい。土地は荒川の
   氾濫原の砂礫層や火砕流の風化土で、乾燥しているので、スイカ栽培には適している。
    現在の山宮は新興住宅地の印象だが、農地も残っていて、数軒の農家があり、「葡萄」、「梨」な
   どの果樹のほか野菜などを作っているがスイカを作っている農家は全くない。栽培技術が絶えて
   久しいようだ。

    【後日談】
     このページを読んだ奈良県の石友・Yさんからメールをいただいた。Yさんは農学士だけにスイ
    カの原産地について次のような指摘をしていただいたので紹介する。

     『 西瓜のお話ですが、原産地はアフリカ説が最有力です。何とならば苦くて食用にはし難い
      品種も多いのですがアフリカには西瓜の品種が大変に多いのでこの説は信じられると思って
      います。
       敢て蛇足を付加えると西瓜はアフリカの乾燥地帯に住む人々にとって大切な水分供給源
      なのですが、苦味の多い野生種の西瓜は身体に悪い成分を含むと信じ、苦味種の方は食用
      にしていないと読んだ事が有ります。                                  』

      次報で訂正しておいたように、スイカの原産地はアフリカ説が有力のようだ。ただ、中央アジ
     ア説を見た(読んだではない)記憶もあるので、引き続き調査してみたい。

    私がスイカを栽培するようになったのは2007年からだ。ミネラル・ウオッチングで案内する小中
   学生から一般人までの水分補給・疲労回復のためにと作り始めたものだ。今では、『MH農園の
   スイカ』は夏のミネラル・ウオッチングの定番になり、石友・Yさんからは、『 ミネラル・ウオッチング
   にスイカやサツマイモを持参するのはMineralhuntersくらいのものでしょう 」、と言われるほどだ。

    ・ ミネラル・ウオッチングと家庭農園
     ( Mineral Watching and Vegetable Field , Yamanashi Pref. )

    2014年は8本の苗を植え、大小20個ほど実をつけた。畑に行くたびに熟しているか確認し、熟し
   ているものから順に採ってくるのだが、少人数では食べきれず、畑友達やご近所に配っている。

        
                畑                            食卓のデザート
                            MH農園のスイカ
                      

    図らずもMH農園のスイカは300年昔の当地名産の伝統を引き継いでいたことになる。これも何
   かの縁なので引き継いでいきたいと思っている。

5. おわりに

 (1) 畑仕事
      幼稚園が夏休みになり、孫娘たちが遊びに来てミネラル・ウオッチングに出かけるどころでは
     ない。今週はお盆休みにはいるので横浜と千葉の孫娘が同時に来るので振り回されそうだ。
     とは言いながら、孫娘にMH農園の無農薬野菜や果物を食べさせたくて、せっせと畑に通う
     ”爺馬鹿”ぶりだ。
      先週はジャガイモの収穫で大童だった。日中は暑くて熱中症になる恐れがあり、早朝5時に
     畑に行きジャガイモを掘り始めた。暑くなる前の9時には終わるようにすると、とても一日では
     掘り終えることが出来ず、連続3日間通った。その結果、土嚢袋に15袋以上あり、200キロを
     超える大豊作だった。植えた種芋の量の20倍くらいの収穫だ。

         
                  大豊作!!                   地上の実
                          MH農園のジャガイモ
   

      これも食べきれないことが判っているので、孫娘や実家に送ったり、畑友達や隣近所におす
     そ分けし、自分の家で消費する分だけダンボールに詰めて保存した。
      畑友達の一人は、私流の種の植え付け時期にならっていて、大豊作だった、と喜んでいた。

      今年はおかしなことがあった。ジャガイモが花の後に実をつけたのだ。それ自体は決してない
     ことではなく、以前のページで紹介したはずだ。ただ、例年だと100株の中の1、2株しか実を付
     けないのだが、今年はほとんどの株に実が付いているのだ。何か、異常現象の前触れでなけ
     れば良いが、と案じている。

 (2) RとL
      畑仕事の足で近くのコンビニに行き、ジャガイモを送った。このコンビでは消費税が8%になっ
     ても煎れ立てのコーヒーが100円で飲め、この日も飲もうとしていた。すると、母親の言いつけ
     でアイスコーヒーを買おうとしている少年に会った。支払いをしている母親が遠くから「Lを押す
     のよ」、というのが聞こえた。少年は近くにいた私に「これで良いのかな」、と押すべきボタンの
     確認を求めてきたので、「それで良いよ」、と教えてあげた。それでも不安なのかもう一度私に
     確認を求めてきた。
      今まで何の気なしに何十回も利用していた機械だが、改めてボタンの配置を見直してみた。

      
              コーヒードリッパー

      まず第一に表示がすべて英語(アルファベット)で、英語の読めないこどもにはどれを押せば
     よいのかわからないのだ。こどもがコーヒーを飲むことは薦められないから、100歩譲って善し
     としても、押しボタンはR(レギュラー)サイズが左、L(ラージ)サイズが右にあるのだ。私が設計
     するとすれば、人間工学的に考えて、Rが右(Right)、Lが左(Left)になるように配置するのだが、
     何か深い考えがあって今の配置になっているのか知りたいものだ。
      古銭の銭面と同じように、機械から見て右、左だとでも言うのだろうか。

6. 参考文献 

 1) 甲斐叢書刊行会編:甲斐叢書,小国民新聞社,昭和8年
 2) 篠原 方泰編:水晶宝飾史,甲府商工会議所,昭和43年
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