雲山(ウンサン)金鉱

          雲山(ウンサン)金鉱

1. 初めに

 2005年1月の鉱物同志会の新年会に出席するため東京に行った。開会までの間
久し振りに、新宿の切手商に顔を出し、鉱物や鉱山に因んだ切手や消印を漁っていた。
 入手した切手の中に「雲山金(鉱)」郵便局の「朝鮮型」と呼ばれる消印を押した
菊4銭切手があった。

    雲山金鉱郵便局の消印
 

 新年会の帰り、新宿駅で週刊誌と缶ビールを買って特急「あずさ」に乗り込んだ。缶ビールを
飲みながら、週刊誌をめくると、『金正日がノドンと麻薬で作った「秘密資金60億ドル」と「愛人」
と題する記事があった。
 『金正日の資金源は、麻薬と武器輸出さらに金の採掘だ。金の採掘は日本からの資材援助を
受けて運営。北朝鮮には10数カ所の金鉱山があるが、火薬や掘削機などは在日同胞から
送られてきたものを使用した。実際の採掘には、朝鮮人民軍第333部隊が当たっていた。
 実際、80年代後半には、北朝鮮最大規模の"雲山(ウンサン)鉱山"の開発に際して、関西の
有力在日商工人が数十億円規模の投資を行ったことがある。
 当時の新聞報道によると、当初こそ日本側にも採掘権の一部が与えられる取り決めとなって
いたが、それは"空手形"に過ぎなかった。
 精製された金は、金正日の秘密資金を管理する朝鮮労働党の”39号室”第4局の
担当者が、国際取引市場に持ち込んで、現金化していたが、すべて金正日の個人資産になる。
在日同胞には1円たりとも回されなかった。』
 この一枚の切手、週刊誌の記事そしてその後入手した単行本から、朝鮮(今の北朝鮮)にある
”雲山金鉱”の明治中期から現在に至る歴史を概観することができた。
 このように、私の知らないことがいかに多いか、改めて認識した次第です。「雲山金鉱
郵便局」がその後 「北鎮郵便局」になったのか、なったとしたら何時なのか、など、まだまだ
私の知らないことがあり、ご存じの方がありましたら、ご教示お願い致します。
(2005年2月調査)

2. 雲山金鉱の歴史

    「アメリカ人が開発した東洋一の金鉱の町」と副題のついた「日本統治下の朝鮮
    北鎮の歴史」を読んだ。
     日清戦争後、朝鮮における欧米列強の利権獲得が急速に進んだ。鉱山に関するもの
    だけを拾ってみても次のとおりである。

利   権年 月
アメリカ雲山金鉱採掘権1885年6月
イギリス殷山金鉱採掘権1896年9月
ドイツ金城金鉱採掘権1897年4月

    これからもわかるように、雲山金鉱はアメリカ人によって開発された金鉱であった。

    雲山金鉱の中心であった平安北道・北鎮の町は、朝鮮北西部で鴨緑江を介して満州
  (中国東北部)と接する位置にある。

    平安北道・南道と北鎮 2)
 

    雲山金鉱は高麗時代よりすでに採掘され、李朝時代に入ってからは一大砂金場として
   官営操業されたこともあった。

   「外国去来朝鮮年表」には、『1889年(明治22年)7月1日、朝鮮政府の招聘で
   石英臼機及び5人の鉱務員米国より来着。磨臼機は雲山金鉱に送られた。鉱努員は解任
   本国送還』
とある。
    アメリカ人 ジェームズ・R・モースは、1895年(明治28年)平安道雲山郡の
   鉱業権を許可された。その後この採掘権が取り消され、1896年(明治29年)4月に
   アメリカ人 ハントに雲山の採掘権が与えられた。ハントはモースと相談し、1896年
   (明治29年)9月22日、朝鮮鉱山開発会社を設立し、前共和党のリーダーでシアトルの
   資産家であるファセットを社長とし、雲山郡における採掘権を譲渡した。
    この会社は、1897年(明治29年)克城洞坑、泥踏里坑および橋洞坑を開発する傍ら
   砂金も採集した。
    しかし、鉱石の採掘、精錬に必要な設備・器材はもちろんアメリカ人社員の日用品に
   至るまで本国より輸入していたが、当時の雲山郡には鉄道が全くなく、物品の輸送経路は
   一定せず、雨期や結氷期には予期しない事態が発生し、莫大な経費が発生し『一時は事業に
   頓挫を来たせしも・・・・・』
という有様であった。

    輸送路【明治30年代】2)
 

    1898年(明治31年)7月、増資を行い、会社の名称を東洋合同鉱業会社に改めた。
   これによって、金鉱開発に必要な設備の発注施設の建設が可能となり、資材などがスムースに
   現地に到着するようになった。このようにして、東洋合同鉱業会社は、経営の危機を乗り越え
   1900年(明治33年)ころには、橋洞坑にも精錬設備をさらに完成させ、大量採掘による
   大量精錬の基礎が固まり、以来1939年(昭和14年)日本鉱業株式会社の買収に応ずる
   まで、この方針は変わらなかった。
    日本鉱業株式会社の買収して間もない1941年(昭和16年)12月8日、日本の対米英宣戦布告
   に伴って、それまで軍需物資の輸入決済の手段であった”金”は全く価値を失った。むしろ
   兵器や弾薬に使われる鉄・銅・鉛などの増産が国家的急務となった。
    1943年(昭和18年)4月をもって、雲山金鉱の設備は北鎮周辺の鉱山に転用され、閉山を
   迎えた。
    1945年(昭和20年)8月15日、日本の敗戦によって、日本は朝鮮に全てを引渡し、在留邦人は
   翌1946年(昭和21年)9月12日に北鎮を後にした。
    その後、この北鎮の町も、アメリカ人が永年にわたって築き上げた立派な金の製錬設備も
   1950年(昭和25年)6月に勃発した朝鮮戦争で全てが破壊されたという。
    その後の様子は、はじめに書いた週刊誌の記事のように、断片的に伝えられるだけで
   未だに北朝鮮の秘密のベールに覆われている。

3.  北鎮の地質と鉱床

 (1) 地質と鉱床
     北鎮をはじめとする雲山金鉱は泰川・博川付近から東北のい川に跨る一帯の花崗岩地帯に
    散在する。
     北鎮西方の鎮後坑より東北方の橋洞坑および大岩坑付近にわたる地質は先カンブリア紀に
    属する花崗岩で、その割れ目に胚胎する裂罅充填鉱床で黄鉄鉱・方鉛鉱・閃亜鉛鉱および
    磁硫鉄鉱ならびに微量の硫砒鉄鉱を随伴する乳白色石英脈で金は一部自然金として石英中に
    存在するがほとんど硫化鉱物中に微粒として含有される。
     鉱脈の幅や品位は変化が多く、多くは扁豆状を呈するが時には嚢状あるいは団塊状を呈し
    膨大する箇所もある。
     その特異性を認められるのは、脈肌に近く土状の黒鉛層を介在していることである。

 (2) 雲山金鉱とは
     雲山金鉱とは、北鎮面(面は日本の村に相当)の大岩坑、橋洞坑、鎮後坑、東谷坑
    獨台峰坑と委延面の牛上里にある克(極)城洞の南および北坑と東新面の泥踏里坑と城面の
    鷹峰洞坑の8鉱坑をまとめた総称である。

 (3) 砂金
     雲山金鉱はかつて李朝時代に砂金場として隆盛を極めたと伝えられている。自然金は脆い
    花崗岩の石英脈の中にあり、雨や結氷で浸食がはなはだしい。北鎮一帯の年間降水量は
    1650mmの豪雨地帯で、金銀鉱脈を抱蔵する山を崩し自然金は岩礫や土砂とともに谷川を
    流れ下り、やがて九龍江となり、その下流へと運ばれ、長い年月の間に沖積層の河床には
    莫大な砂金が包蔵されるに至った。
     1939年(昭和14年)8月、日本鉱業株式会社が雲山金鉱を買収すると、これら沖積層の
    砂金を採取するため、ドレッジャを3機導入した。そのため九龍江の河原は掘り返され
    砂礫の山ができた。

    ドレッジャー 2)
 

4.  雲山金鉱郵便局

 (1)朝鮮郵便史略
     朝鮮における郵便制度は、1884年(明治17年)4月22日、郵征総局が漢城
   (現ソウル)に開設され、1900年(明治33年)1月1日に、万国郵便連合に加盟し
    外国と郵便物を直接交換できるようになった。
     日本はそれより以前、1876年(明治9年)2月26日、日朝修好条約を締結し
    早くも釜山に郵便局を開設し、1900年(明治33年)までには、仁川、漢城、木浦
    群山、馬山、平壌、鎮南浦、元山、城津などに日本側の郵便局を開設した。
     日露戦争当時は、さらに各地に野戦郵便局をつくり、軍事郵便を行い、やがて1905年
   (明治38年)3月10日、日本軍が奉天の会戦でロシア軍に大勝した直後の4月1日
    韓国政府と「通信機関委託に関する取極書」を締結し、韓国の通信院が管理運営していた
    国内郵便・電信・電話事業は日韓両国の通信機関を統一することに成功した。
    『「朝鮮総監府月報」「朝鮮総監府 郵便局所一覧」(明治45年1月現在)によれば
   「雲山金鉱郵便局」があって、すでに郵便・電信・電話を取り扱っていた。』
     しかし、ここには北鎮郵便局の名前は見えない。
    1935年(昭和10年)頃の北鎮面の詳細図を見ると、北鎮郵便局があり、逆に雲山金鉱郵便局
    の名前が見当たらない。

    北鎮の町並み【昭和10年ごろ】2)
 

  (2)雲山金鉱郵便局の消印
      入手した菊4銭切手には「雲山金(鉱)」郵便局の消印が押されていた。
      菊4銭切手は、1899年(明治32年)に発行され、1913年(大正2年)に
     田沢(大正白紙)切手が出現するまで、10年以上にわたって発行された。
      したがって、写真の切手は、明治末期から大正初期のいずれかの時期に使われたと
     考えられる。
      その後、何れかの時期に、雲山金鉱郵便局が廃局になったか、名称が変わったかして
     北鎮郵便局がとって代ったと考えている。

5. おわりに

(1)1枚の古切手と偶々読んだ週刊誌そしてインターネットで購入した単行本から、日本統治下に
   あった朝鮮の「雲山金鉱」について勉強させていただいた。
    北朝鮮にある北鎮の町を訪れ、鉱山遺跡をめぐり、河原でパンニングできる日が来るのだろうか
   最近の北朝鮮の動きをみると考え込んでしまいます。

6. 参考文献

1)朝鮮総督府地質調査所編:朝鮮鉱物誌,三省堂,昭和16年
2)酒井敏雄:日本統治下の朝鮮 北鎮の歴史,草思社,2003年
3)小学館:週刊ポスト 2005年1月28日号,同社,2005年
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