愛知県津具鉱山の鉱物

愛知県津具鉱山の鉱物

1.初めに

津具鉱山は近くに武田信玄が金を採掘したことにちなむ”信玄坑”が
あることからも分かるとおり、古くから金山として有名であった。
実態は、1570年ごろ砂金を採集したのが始まりと思われる。
1886年佐々木某によって設楽鉱山としてスタートしたがうまくいかず
本格的なに開発されたのは、1934年以降である。
第2次世界大戦が日本の敗戦に終わり、アメリカ軍を主力とする
連合国が日本を占領し、種々の政策が施行された。敗戦間もない
1947年(昭和22年)に、連合国総司令部(GHQ)の”Natural Resorces
Section"が日本の輝安鉱資源について調査報告書”ANTIMONY RESOURCES
OF JAPAN"を発行している。
これによると、1925年から終戦の1945年の津具鉱山の輝安鉱の生産高は
100〜500t/年で中瀬鉱山に次ぐ位置を占めていた。
特に第2次世界大戦末期の1943−45年にかけて、新しい鉱脈の試掘助成金
として津具鉱山が受取った金額は2万2千円余と中瀬鉱山の3万7千円余に次いで
2番目で、国としていかに重要視していたかが伺えます。
輝安鉱に伴って、金・銀・銅・水銀も採掘したようで、今でも辰砂や自然金を
採集したという話を聞きます。
今回、妻と一緒に鉱物採集会の下見で訪れ、輝安鉱は逃したものの、黄銅鉱などを
伴う方鉛鉱を採集した。
(2002年7月採集)

2.産地

設楽根羽(ねば)線で田口鉱山の方から津具村に向かうと、村の入口に
「大桑」のバス停があり、その左手にある堰堤の上一帯が津具鉱山跡である。

堰堤の上一帯が津具鉱山跡
バス停から100mも行き、坂を登りきった左手に「玉田屋」がある。この手前が
林道「空古屋森下線」の起点になっており、ものの30mも行くと分岐する
「空古屋線」を辿る。
約300mも行くと右手に篠竹や雑草に覆われたコンクリートの鉱山施設跡があり
その前の空き地に駐車する。
林道を50mほど先に行くと、左右が沢になっており、ここが津具鉱山のズリである。
下流に行くと「大桑バス停」から見えた堰堤になりその間が一面ズリである。
上流に行くとズリと坑道跡などが残っている。

3.産状と採集方法

「日本鉱産誌」によれば、津具鉱山は、設楽第三紀層をほぼ南北、殆ど垂直に
近い急傾斜をもって貫く裂罅充填含金輝安鉱石英脈である。

津具鉱山地質図【日本鉱産誌より引用】

それらのズリが沢に沿って広がっており、ズリを掘り返して、金錆びのついた鉱石を
割って採集します。

林道下流のズリ

4.産出鉱物

(1)方鉛鉱【Galena:PbS】
鉛灰色で、サイコロのようなへき開面を示し、黄銅鉱などと共に産出する。
方鉛鉱【写真準備中】

5.おわりに

(1)今回、下見と言う限られた時間でしたので、以前輝安鉱を
採集したことがある林道から下のズリを探しましたが、輝安鉱を採集できません
でした。次回は、林道の上のズリを探す予定です。
(2)津具村の文化センターには、津具鉱山の鉱石を展示しています。
何年か前に訪れて見ましたが、一般的に金鉱石からイメージする通称銀黒と
呼ばれる含金石英脈とは程遠い茶褐色の土くれで驚いた記憶があります。
(鉱山でもはじめは金を含むと思わず捨てていたそうです。)
金鉱石【写真準備中】
(3)津具村から山梨に帰るには、三州街道で根羽村を経由し飯田ICから
中央自動車道を利用するのが一番便利です。
三州街道沿いには、冒頭の「信玄坑」にはじまり、「信玄橋」、「信玄塚」
「信玄のろし台」など武田信玄に因む史跡がたくさんあります。
この短い距離の間に、信玄の栄光と挫折の足取りを見る思いです。

   左:信玄橋           中:信玄塚          右:信玄のろし台
(4)三州街道沿いの平谷村には、信州平谷温泉「ひまわりの湯」があります。
屋内と同じくらいの広さの露天風呂があり、採集の疲れをとるのにもってこいです。
泉質が重曹泉で、汗がさっと引きます。
信州平谷温泉「ひまわりの湯」

6.参考文献

1)日本鉱産誌編集委員会編:日本鉱産誌 I-a,東京地学協会,昭和30年
2)Natural Resorces Section:ANTIMONY RESOURCES OF JAPAN,General Headquarters,1947
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