北極圏をめぐる地球一周の旅 【スペイン】 ( Tour around the World & Arctic Circle 2016 - Spain - )









      北極圏をめぐる地球一周の旅  【スペイン】

         ( Tour around the World & Arctic Circle 2016 - Spain - )

1. はじめに

    5月15日の夕刻、とはいってもまだ明るいうちにイタリア・シシリー(シチリア)島のカターニア港を出港し、次なる
   目的地のスペイン・モトリル港を目指す。モトリル港到着は3日後の5月18日朝の予定だ。

    モトリルはスペイン南部アンダルシア地方にある地中海に面した港町だ。事前に調べた範囲では市内には
   たいした観光スポットもなさそうだし、鉄道、バスなどの公共交通機関の便も良くなさそうなので、グラナダに
   ある「世界遺産アルハンブラ宮殿観光とフラメンコ鑑賞」のオプショナル・ツアーを申し込んでおいた。

      
                     スペイン・アンダルシア地方の地図

    朝8時少し前にデッキに出てみるとモトリル港の街灯りが見えてきた。9時少し前にパイロット(水先案内人)が
   乗り込んできて接岸も間近だ。
    モトリル市街の北方に雪をいただいたシエラ・ネバダ山脈が見える。”Sierra Nevada”はペイン語で「積雪の
   ある山脈」を意味し、最高峰は標高3,478.6mのムラセン山である。年間を通じて雪が残っているようで、5月の
   中旬でもタップリと雪が見えた。
    ( 地理で習ったシェラネバダ山脈はアメリカにあるだけだと思っていたが・・・・・ )

         
                  夜明けの街灯り               モトリル市街とシェラ・ネバダ山脈
                                 モトリル港

    ( 2016年5月19日 体験 )

2. アルハンブラ宮殿へ

    10時半に集合し、バスに乗ってアルハンブラ宮殿に向かうはずだったが、バスが港を離れたのは12時近かった。
   すぐに高速道路に入って、シェラネバダ山脈の西端に沿って北上する。

      
                         モトリル−グレナダ

    シェラネバダ山脈は新生代の古第三紀から新第三紀(6600-180万年前)にかけてのアルプス造山運動で、
   アフリカプレートとユーラシアプレートが衝突して形成された。
    いつの間にか晴れ上がった青空をバックに雪を頂くシェラネバダ山脈がハッキリ見え、高速道路の切通には、
   造山活動で褶曲した地層が観察できた。

         
               雪を頂くシェラネバダ山脈                   褶曲構造

    アルハンブラ市街に入ったのは午後1時近かった。駐車場でバスを降り、アルハンブラ宮殿に向かって歩いて
   行くと赤黒く熟した実が付いた木があった。それは ♪♪ 小籠に摘んだは 幻か ♪♪ と歌われている桑の木
   だった。
    中国で起こった養蚕は、その技術の国外持ち出しが禁じられていたが、1世紀の中ごろ,東トルキスタンの
   ホータン国王に嫁した王女が桑と蚕の種を棉帽子の中に入れてひそかに持ち出した。6世紀には東ローマ帝国
   の首都コンスタンチノープル(イスタンブール)に伝わったのがヨーロッパに養蚕がはいった最初とされる。8世紀には
   スペインにまで伝わり、10世紀にはアンダルシア地方がヨーロッパ随一の養蚕地帯として栄えた。

         
                 アルハンブラの街                     熟した桑の実

    時計はすでに午後1時を過ぎており、レストランに入ってランチだ。スペイン料理を食べるのは初めてだったが、
   特別美味しかった、という印象がない。

         
                    メイン                           スープ
                               ランチはスペイン料理

3. アルハンブラ宮殿とアルバイシン市街観光

    アルハンブラは周囲に城壁を巡らせた城塞都市の構造をしているが、初めから全体の形が計画されていたの
   ではなく、異なる時代に建てられた様々な様式の建築物の複合体である。
    イスラム教徒がイベリア半島に進出する8世紀初頭まで、この地は西ゴート王国の支配下にあった。711年、
   ウマイヤ朝のムーサー・イブン・ヌサイルがトレドまでを占領。その後数年で、イベリア半島全域がイスラーム圏と
   なった。この地に、最初に栄えたのが後ウマイヤ朝で都はコルドバであり、グラナダの丘の上には軍事要塞アル
   カサーバだけが建てられていた。現在、アルハンブラの最も西の部分である。
    11世紀前半から、キリスト教徒の国土回復運動であるレコンキスタが本格化し、1085年にはトレド、1236年
   にはコルドバ、1246年にはセビーリャを陥れた。イスラム圏に残されたのは、グラナダを中心とするアンダルシア
   南部地方のみとなった。一方、アルハンブラ宮殿が大きく拡張されたのは、この時期に建国したイベリア半島
   最後のイスラム王国であり、グラナダを首都としたナスル朝(1238年 - 1492年)の時代に入ってからである。
    ムハンマド1世とその子ムハンマド2世が60年も歳月をかけ、水道を設置し、アルカサーバの拡張工事を行い、
   宮殿(14世紀に取り壊され、現在は残っていない)を造った。その後も歳月と共に建物や塔が建築されたが、
   大きな変貌を遂げるのは、ナスル朝の黄金時代を築いたユースフ1世(在位1333-54年)とその息子ムハンマド
   5世(在位1354〜91年)の時代である。
    ユースフ一世時代には、城廊では、マチューカの塔、コマーレスの塔、正義の門、スィエテ・スエーロスの門、
   宮殿ではコマレス宮を中心とする建物が造られた。
    ムハンマド5世の時代には、城廊では、ぶどう酒の門(城廊のなかでは唯一アラベスク模様の装飾がある)、
   宮殿ではライオンの中庭を中心とする建物が造られた。ライオンの中庭は、庭を囲む4つの建物には124本の
   大理石円柱が立ち並んでいる。
    中庭の東側にある諸王の間には、10人のアラブ人貴族を描いた絵画がある。これは、初代のムハンマド1世
   から十代のアブー・サイードまでのナスル朝スルタンであるという説と、重臣が法廷を開いている場面であるという
   説があり、後者の説に基づき、「裁きの広間」とも呼ばれている。

      
                              アルハンブラ宮殿案内図

    ムハンマド5世没後、ナスル朝はおよそ100年間存続するが、新たな建造物はほとんど建てられなかった。
   1492年、もはやレコンキスタの勢いに抗しきれないと判断した最後の王ボアブディル(在位1482-92年)は、カト
   リック女王イサベルに城を明け渡し、臣下とともに北アフリカに逃れた。
    18世紀の王位継承戦争やナポレオン戦争を経て、アルハンブラは荒れ果ててしまったが、19世紀にアメリカ人
   作家ワシントン・アービングの『アルハンブラ物語』によって再び脚光を浴びた。
    1984年に世界遺産として登録され、世界中から多くの観光客が訪れるため、宮殿内へは入場者数制限を
   行っているほどで、確実に入場するなら事前予約が必須だ。ツアガイドから渡された入場券には、入場日時が
   指定され、この時間帯の定員60名の38番だと印刷してある。

      
                           入場券

    ちなみに、入場料は14ユーロに10%のIVA(Impuesto sobre el Valor Anadido:付加価値税)が加わり、
   15.4ユーロ(約2,000円)だ。

    上の餡合図を見ていただくと、ピンク色は城壁や宮殿、薄い緑色はそれらの敷地、水色は泉や池、そして
   濃い緑色は庭園や果樹園などを示している。乾燥した地帯なのにここだけ緑と水が豊かなのに、砂漠の民
   アラブの人々のオアシスに対する強い憧(あこが)れを感じる。

         
                    糸杉                            滝

    右下(東南角)の「チケット売り場」から城壁を右に見ながら入場口の「裁きの門」に向かう。この先、何回か
   チケットのチェックを受ける。

         
                    城壁                            門

    門の中に入ると、城壁の外からはうかがい知れなかった建物や庭園が次々と現れてくる。ヨーロッパの建築に
   つきものの尖塔や石造りの建物やブロンズの装飾などは後のカトリックの時代になって作られたものかもしれな
   い。

         
                    尖塔                        石造りの建物

    美術に素人の私だが、イスラーム美術らしいと感じるのは、タイルと各種の文様(幾何学・植物・カリグラフィー)
   などだ。

         
                    文様                          タイル

    ナスル朝宮殿に入るとメスアール(裁き)の間だ。宮殿で現存する最も古い部分で行政と司法が執り行われて
   いた。
    宮殿の中心部がコマレス宮だ。アラヤネス(天人花)の庭一杯に青い水をたたえた池が作られている。賓客は
   砂漠の民の手で造られた水の芸術に感動しながら、コマレスの塔の奥にある大使の間に通された。

         
                  裁きの間                       コマレスの塔

    コマレス宮を過ぎると、12頭のライオンのあるライオンの中庭だ。ここは王族のプライベートな空間で、装飾は
   より繊細になる。ライオンの間に面して3つの部屋があり、北側にある二姉妹の間はライオンの中庭周辺では
   最も古い建物。天井の鍾乳石飾りは、アルハンブラ宮殿随一の精密さをもつ美しさだ。

         
                ライオンの中庭                       鍾乳石飾り

    ナルス朝宮殿を抜けるとパルタル庭園が広がっている。ちょうどバラの花の季節で、大輪のバラの花と香りが
   目と嗅覚を楽しませてくれる。

         
                                   花壇

    庭園の縁には、舘や教会も見えてくる。

         
                                   舘と教会

    ここを抜けるとカルロス5世宮殿だ。カルロス5世が1526年の新婚旅行でアルハンブラ宮殿に宿泊した際に
   建設を決めた宮殿だ。建築様式は当時最先端のルネッサンス様式でアルハンブラ宮殿の中では異色の存在
   だ。資金難から建設は中断され、屋根がついたのは18世紀になってからだという。

      
                           カールス5世宮殿

   この先に、糸杉に囲まれた噴水がある。

         

      
                               噴水

    アルハンブラ宮殿を後にしたのは16時を過ぎていた。2時間ほど鑑賞していたことになる。しかし、まだまだ陽は
   高い。

    バスに乗って、アルハンブラ宮殿の北東にあるアルバイシンの町に向かう。ここには11世紀にイスラム教徒に
   よって築かれたグレナダ最古の街並みが残っている。
    キリスト教徒によるグレナダ陥落の際には、ムーア人の抵抗の砦となり、白壁と石畳はおびただしい流血に
   染められたという。
    敵の侵入を防ぐ城郭都市として造られたため、道は迷路のように入り組んでいてしかも建物の壁が迫っていて
   遠くの景色が見えないため方向感覚を失いそうだ。

    【余談】
    ツアガイドのSさんから、「MH、グループの最後を歩いて、皆さんがはぐれないように見てもらえますか」、と突然
   言われた。「皆さんMHを知っているからお願いします。私これから行かなくちゃならないんです」、と言われウムを
   言わせぬ勢いに押されてしまった。
    案の定ほかのグループではぐれた人が出て、その人を探すのにツアガイドが招集された、と後で聞いた。

    市街を歩くと、住宅のバルコニーや出窓にはいくつもの植木鉢が並び、それらがカラフルな花を咲かせ、真っ
   白い壁と鮮やかなコントラストをなしていた。

         
                             窓辺を彩る花々

    教会と思われる建物の上には鐘楼があり、壁には聖職者やマリアの像が埋め込まれていた。

         
                   鐘楼                           マリア像

    高台にあるサン・ニコラス展望台に着く。ここからは雪をいただくシエラネバダネバダ山脈を背景にしたアルハン
   ブラ宮殿を眺めることができる。アルハンブラとはアラビア語で「赤い城塞」を意味するアル=カルア・アル=ハム
   ラーと呼ばれていたものが、スペイン語でアルハンブラと呼ばれるようになった。城塞周辺の土地の土壌が赤いた
   め、あるいは建築に使われた煉瓦の色であるとか、宮殿が赤い漆喰で覆われていたからなど諸説あるが、イブン・
   アルハティブは、アルハンブラ宮殿増築の時、夜を通してかがり火を燃やして工事したためグラナダ平野から見
   上げた宮殿は赤く染まって見えたことからこのように呼ばれたという説を唱え、これが一般的な説として通用して
   いるようだ。

    時刻は18時近くで、夕日を浴びてアルハンブラ宮殿は文字通り薄っすらと赤く染められていた。

      
                          夕日に染まるアルハンブラ宮殿
                        【雪をいただく山々はシエラネバダ山脈】

    この展望台には大勢の外国人が訪れていた。われわれのメンバーの中には、これから訪れるレストランでの
   夕食とフラメンコ鑑賞が待ち遠しいかのように、外国人女性からフラメンコの踊り方を教わっている人たちもいた。
   フラメンコの”右手の動き”は、@ 木になっている果物を採る A それを食べる B お尻から出す というものだ
   そうだ。( 失礼致しました )

           
    @ 木になっている果物を採る       A それを食べる           B お尻から出す

4. スペイン料理の夕食とフラメンコ鑑賞

    夕食を食べながらフラメンコを鑑賞するレストランにバスが着いたのは19時少し前だったが、明るさはこの時期の
   日本の午後3時くらいの印象だった。白い塀に囲まれた広い庭を持つレストランは住宅街と家庭菜園のような
   畑の間にあった。温帯から亜熱帯の気候のせいか、棕櫚に似た木やたわわに実をつけた枇杷の木が目に入っ
   た。

         
               棕櫚(?)の木                        枇杷の木

    レストラン側の準備ができていないようで、しばらく外で待っていると従業員たちが広い庭にパラソルを広げ、
   生ハムなどのオードブルや飲み物の樽を並べたりして客を迎える準備を始めた。

         
           生ハムを薄切りにするウェータ               ドリンクの入った樽が並ぶ

    われわれは生ハムやドリンクをいただきながら開場を待つ。そもそも、ライフスタイルが夜型のスペイン人にとって
   夕食は、なんと22〜23時が普通らしい。夕飯を外食する場合でも週末だったら22時からの予約が多いらしい。
    このレストランは、昼食と夕食の間の時間をわれわれのような外国人のために開いて、”チョンの間稼ぎ”をして
   いるのだろう。フラメンコの一座(?)もそうだろう。

    夜8時になってレストランがオープンし中に入る。料理やワインが運ばれてくる。スペインの夕食は軽めのものが
   多いらしいが、この日出されたメインはタラのソテーだった。タラには”下魚”のイメージしかない私にとってはそれ
   ほどの美味とも思えない味だった。

      
                 タラのソテー

    フラメンコの一座は4人で、リーダーらしき男がギターを弾きながらもう一人の男性と歌い、ダンサーの男女が
   フラメンコを踊ったり、手拍子で合いの手を入れる、という役割分担だった。

         
               フラメンコの一座                     情熱的な踊り

    踊るのは本格的な舞台というわけでなく、高さ30センチほどの台の上にコンパネのような板を敷いた間に合わ
   せのようなものだった。靴を鳴らして踊るといたがズレていき、時々板を元に戻すのもご愛敬だった。

    【余談】
    フラメンコの情熱的な踊りは人を元気にするようだ。グループの一人が突然立ち上がり、踊りながらステージに
   近づいていった。ステージに昇るのではないかと思われたが、袖にいたツアガイドの人が抱きかかえてかろうじて
   ストップをかけた。
    その人は船内では杖をついて、”ソロリ”、”ソロリ”と歩いている人だっただけに、皆さん驚いたようだった。

    ショーは1時間ほどで終わり、バスに乗って高速道路を走り、船に戻ったのは22時だった。ようやく日が西の
   山陰に沈むところで、この日訪れたアルハンブラ宮殿がある北の方を見ると、シェラネバダ山脈の白い山々が
   うっすらと見えた。

         
               スペインの日没                  暮れゆくシェラネバダ山脈

5. おわりに

5.1 ミネラル・ウオッチング in Spain
    アルバイシンの町のサン・ニコラス展望台には大勢の外国人が訪れていて、それを当て込んで10人以上の
   土産物屋が路上に店を広げていた。中には「砂漠のバラ」などの鉱物を売っている店もあったが、ここまで来て
   買うほどのものでもなく、手を出さなかった。

     船に戻ると、この日モトリルの街を散策した博多のあねごが「MH、モトリルの街の露天のようなところで”石”
    (鉱物のこと)をたくさん売っていたので、写真だけ撮ってきた」、と見せてくれた。

      
                        モトリルの街の鉱物の露天商

     売っている石を拡大して写してくれた写真が10枚ほどあった。それらを見ると、アテネ大学で見たのと同じ
    「緑水晶」があったり、日本特産の「輝安鉱」と思われるものもあった。

      
                       各種の水晶(右手前 緑水晶)

      
                       「輝安鉱」?(左の箱の中央部)

     モトリルの街で鉱物標本を売っているという情報を事前に知っていれば、アルハンブラ宮殿観光などに行か
    なかったのだが、” 後の祭り ” だった。

5.2 郵趣 in Spain
      鉱物に少しでも興味のある人ならスペイン産の大きな「黄鉄鉱」の結晶を一度は見たことがあるはずだ。
     スペインは鉱産国で、ポトシ銀山など中南米で鉱物資源を採掘・製錬できたのは、それらの技術が本国
     にあったからこそで、結果として植民地経営ができたとも考えられる。
      金や銀の製錬を画期的に効率化した「水銀アマルガム法」は、セビリア生まれのスペイン人バルトロメ・デ・
     メディーナが1555年のはじめ、メキシコのパチュカ鉱山で完成させた銀の抽出法だ。

      2010年12月、スペイン国立バスク大学のJ教授からメールをいただき、「山梨県大菩薩峠産の褐簾石」を
     送って差し上げたことがあった。

     ・スペインからのメール 山梨県大菩薩峠の褐簾石
     ( Mail from Spain - ALLANITE from Daibosatsu Pass - , Yamanashi Pref. )

     ・山梨県大菩薩峠の褐簾石 その2
     ( ALLANITE-(Ce) from Daibosatsu Pass - Part 2 - , Yamanashi Pref. )

      今回、時間があればJ教授を訪ねることも検討したが、モトリルとバスク州ではスペインの南北端にあり、
     とても日帰りは無理であきらめざるを得なかった。

      
                   バスク大学の位置

      街中で郵便局やポストを見かけたら押印・投函しようと思い、前の訪問国イタリアで買った絵葉書を持ち
     歩いていた。絵葉書には日本で買った持参したスペインの切手をすでに貼ってあった。
      スペインは過去に地質学・鉱物学・鉱物・鉱山を描く切手を何種類も発行している。

      
           上 「辰砂」            地質学             上 「閃亜鉛鉱」
           上 「黄鉄鉱」           博物館             上 「方鉛鉱」
                      スペインの鉱物切手 【1994年発行】

      
               「ドロマイト(苦灰石)」                 「アラゴナイト(あられ石)」
                      スペインの鉱物切手 【1995年発行】

      
                「国土地質図作成 1971〜2003年 スペイン地質・鉱物調査所」
                      地質図を描く切手シート 【2003年発行】

      アルハンブラ宮殿内を歩いていると、建物の外壁にライオンの顔のレリーフがあって、その下に ” CORREOS
     (郵便)” とある。口のところが投函口になっているようで、下の方に施錠できる扉がついていて、鍵を開けて
     取り出すようになっている。郵便受けかとも思ったが、ここに住んでいる人はいないはずだからこれがポストだ
     ろうと思い、持ち歩いていた絵葉書を投函した。

         
                       郵便ポスト【アルハンブラ宮殿】

      【後日談】
       帰国して到着していた郵便物を確認すると、投函した絵葉書は無事に届いていた。ただ、消印が押さ
      れていないので、実際に郵送されたという証拠がないのが今一つ残念だ。

      
                        スペイン訪問 記念カバー(封筒)
                      【 「硫黄」切手と「坑道」を描く切手貼 】

    1年前(2015年)のこの日に車谷長吉(くるまたに ちょうきつ)氏が亡くなっている。氏の著作は日本経済新聞
   の文化欄で読んだだけだが印象に残っていて、「福島県平地学会の発表会」で紹介させていただいたり、HPに
   も掲載した。

    ・2013年秋のミネラル・ウオッチング
     ( Mineral Watching Tour , Fall 2013 , Nagano & Yamanashi Pref. )

    車谷氏に献杯だ。

    日付が変わるころ、船はモトリル港を出港した。5月19日にはジブラルタル海峡を抜け、地中海からいよいよ
   大西洋に出る。大西洋を北上し、5月20日にはポルトガルのリスボン港に入港だ。

6. 参考文献

 1) 青木 康征:南米ポトシ銀山 スペイン帝国を支えた”打出の小槌”,中公新書,2000年
 2) 松原 聰、宮脇 律郎編、日本産鉱物型録,東海大学出版会,2006年
 3) 地球の歩き方編集室編:各国編2013〜15,ダイヤモンドビッグ社,2015年


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