モトリルはスペイン南部アンダルシア地方にある地中海に面した港町だ。事前に調べた範囲では市内には
たいした観光スポットもなさそうだし、鉄道、バスなどの公共交通機関の便も良くなさそうなので、グラナダに
ある「世界遺産アルハンブラ宮殿観光とフラメンコ鑑賞」のオプショナル・ツアーを申し込んでおいた。
朝8時少し前にデッキに出てみるとモトリル港の街灯りが見えてきた。9時少し前にパイロット(水先案内人)が
乗り込んできて接岸も間近だ。
モトリル市街の北方に雪をいただいたシエラ・ネバダ山脈が見える。”Sierra Nevada”はペイン語で「積雪の
ある山脈」を意味し、最高峰は標高3,478.6mのムラセン山である。年間を通じて雪が残っているようで、5月の
中旬でもタップリと雪が見えた。
( 地理で習ったシェラネバダ山脈はアメリカにあるだけだと思っていたが・・・・・ )
( 2016年5月19日 体験 )
シェラネバダ山脈は新生代の古第三紀から新第三紀(6600-180万年前)にかけてのアルプス造山運動で、
アフリカプレートとユーラシアプレートが衝突して形成された。
いつの間にか晴れ上がった青空をバックに雪を頂くシェラネバダ山脈がハッキリ見え、高速道路の切通には、
造山活動で褶曲した地層が観察できた。
アルハンブラ市街に入ったのは午後1時近かった。駐車場でバスを降り、アルハンブラ宮殿に向かって歩いて
行くと赤黒く熟した実が付いた木があった。それは ♪♪ 小籠に摘んだは 幻か ♪♪ と歌われている桑の木
だった。
中国で起こった養蚕は、その技術の国外持ち出しが禁じられていたが、1世紀の中ごろ,東トルキスタンの
ホータン国王に嫁した王女が桑と蚕の種を棉帽子の中に入れてひそかに持ち出した。6世紀には東ローマ帝国
の首都コンスタンチノープル(イスタンブール)に伝わったのがヨーロッパに養蚕がはいった最初とされる。8世紀には
スペインにまで伝わり、10世紀にはアンダルシア地方がヨーロッパ随一の養蚕地帯として栄えた。
時計はすでに午後1時を過ぎており、レストランに入ってランチだ。スペイン料理を食べるのは初めてだったが、
特別美味しかった、という印象がない。
ムハンマド5世没後、ナスル朝はおよそ100年間存続するが、新たな建造物はほとんど建てられなかった。
1492年、もはやレコンキスタの勢いに抗しきれないと判断した最後の王ボアブディル(在位1482-92年)は、カト
リック女王イサベルに城を明け渡し、臣下とともに北アフリカに逃れた。
18世紀の王位継承戦争やナポレオン戦争を経て、アルハンブラは荒れ果ててしまったが、19世紀にアメリカ人
作家ワシントン・アービングの『アルハンブラ物語』によって再び脚光を浴びた。
1984年に世界遺産として登録され、世界中から多くの観光客が訪れるため、宮殿内へは入場者数制限を
行っているほどで、確実に入場するなら事前予約が必須だ。ツアガイドから渡された入場券には、入場日時が
指定され、この時間帯の定員60名の38番だと印刷してある。
ちなみに、入場料は14ユーロに10%のIVA(Impuesto sobre el Valor Anadido:付加価値税)が加わり、
15.4ユーロ(約2,000円)だ。
上の餡合図を見ていただくと、ピンク色は城壁や宮殿、薄い緑色はそれらの敷地、水色は泉や池、そして
濃い緑色は庭園や果樹園などを示している。乾燥した地帯なのにここだけ緑と水が豊かなのに、砂漠の民
アラブの人々のオアシスに対する強い憧(あこが)れを感じる。
右下(東南角)の「チケット売り場」から城壁を右に見ながら入場口の「裁きの門」に向かう。この先、何回か
チケットのチェックを受ける。
門の中に入ると、城壁の外からはうかがい知れなかった建物や庭園が次々と現れてくる。ヨーロッパの建築に
つきものの尖塔や石造りの建物やブロンズの装飾などは後のカトリックの時代になって作られたものかもしれな
い。
美術に素人の私だが、イスラーム美術らしいと感じるのは、タイルと各種の文様(幾何学・植物・カリグラフィー)
などだ。
ナスル朝宮殿に入るとメスアール(裁き)の間だ。宮殿で現存する最も古い部分で行政と司法が執り行われて
いた。
宮殿の中心部がコマレス宮だ。アラヤネス(天人花)の庭一杯に青い水をたたえた池が作られている。賓客は
砂漠の民の手で造られた水の芸術に感動しながら、コマレスの塔の奥にある大使の間に通された。
コマレス宮を過ぎると、12頭のライオンのあるライオンの中庭だ。ここは王族のプライベートな空間で、装飾は
より繊細になる。ライオンの間に面して3つの部屋があり、北側にある二姉妹の間はライオンの中庭周辺では
最も古い建物。天井の鍾乳石飾りは、アルハンブラ宮殿随一の精密さをもつ美しさだ。
ナルス朝宮殿を抜けるとパルタル庭園が広がっている。ちょうどバラの花の季節で、大輪のバラの花と香りが
目と嗅覚を楽しませてくれる。
庭園の縁には、舘や教会も見えてくる。
ここを抜けるとカルロス5世宮殿だ。カルロス5世が1526年の新婚旅行でアルハンブラ宮殿に宿泊した際に
建設を決めた宮殿だ。建築様式は当時最先端のルネッサンス様式でアルハンブラ宮殿の中では異色の存在
だ。資金難から建設は中断され、屋根がついたのは18世紀になってからだという。
この先に、糸杉に囲まれた噴水がある。
アルハンブラ宮殿を後にしたのは16時を過ぎていた。2時間ほど鑑賞していたことになる。しかし、まだまだ陽は
高い。
バスに乗って、アルハンブラ宮殿の北東にあるアルバイシンの町に向かう。ここには11世紀にイスラム教徒に
よって築かれたグレナダ最古の街並みが残っている。
キリスト教徒によるグレナダ陥落の際には、ムーア人の抵抗の砦となり、白壁と石畳はおびただしい流血に
染められたという。
敵の侵入を防ぐ城郭都市として造られたため、道は迷路のように入り組んでいてしかも建物の壁が迫っていて
遠くの景色が見えないため方向感覚を失いそうだ。
【余談】
ツアガイドのSさんから、「MH、グループの最後を歩いて、皆さんがはぐれないように見てもらえますか」、と突然
言われた。「皆さんMHを知っているからお願いします。私これから行かなくちゃならないんです」、と言われウムを
言わせぬ勢いに押されてしまった。
案の定ほかのグループではぐれた人が出て、その人を探すのにツアガイドが招集された、と後で聞いた。
市街を歩くと、住宅のバルコニーや出窓にはいくつもの植木鉢が並び、それらがカラフルな花を咲かせ、真っ
白い壁と鮮やかなコントラストをなしていた。
教会と思われる建物の上には鐘楼があり、壁には聖職者やマリアの像が埋め込まれていた。
高台にあるサン・ニコラス展望台に着く。ここからは雪をいただくシエラネバダネバダ山脈を背景にしたアルハン
ブラ宮殿を眺めることができる。アルハンブラとはアラビア語で「赤い城塞」を意味するアル=カルア・アル=ハム
ラーと呼ばれていたものが、スペイン語でアルハンブラと呼ばれるようになった。城塞周辺の土地の土壌が赤いた
め、あるいは建築に使われた煉瓦の色であるとか、宮殿が赤い漆喰で覆われていたからなど諸説あるが、イブン・
アルハティブは、アルハンブラ宮殿増築の時、夜を通してかがり火を燃やして工事したためグラナダ平野から見
上げた宮殿は赤く染まって見えたことからこのように呼ばれたという説を唱え、これが一般的な説として通用して
いるようだ。
時刻は18時近くで、夕日を浴びてアルハンブラ宮殿は文字通り薄っすらと赤く染められていた。
この展望台には大勢の外国人が訪れていた。われわれのメンバーの中には、これから訪れるレストランでの
夕食とフラメンコ鑑賞が待ち遠しいかのように、外国人女性からフラメンコの踊り方を教わっている人たちもいた。
フラメンコの”右手の動き”は、@ 木になっている果物を採る A それを食べる B お尻から出す というものだ
そうだ。( 失礼致しました )
レストラン側の準備ができていないようで、しばらく外で待っていると従業員たちが広い庭にパラソルを広げ、
生ハムなどのオードブルや飲み物の樽を並べたりして客を迎える準備を始めた。
われわれは生ハムやドリンクをいただきながら開場を待つ。そもそも、ライフスタイルが夜型のスペイン人にとって
夕食は、なんと22〜23時が普通らしい。夕飯を外食する場合でも週末だったら22時からの予約が多いらしい。
このレストランは、昼食と夕食の間の時間をわれわれのような外国人のために開いて、”チョンの間稼ぎ”をして
いるのだろう。フラメンコの一座(?)もそうだろう。
夜8時になってレストランがオープンし中に入る。料理やワインが運ばれてくる。スペインの夕食は軽めのものが
多いらしいが、この日出されたメインはタラのソテーだった。タラには”下魚”のイメージしかない私にとってはそれ
ほどの美味とも思えない味だった。
フラメンコの一座は4人で、リーダーらしき男がギターを弾きながらもう一人の男性と歌い、ダンサーの男女が
フラメンコを踊ったり、手拍子で合いの手を入れる、という役割分担だった。
踊るのは本格的な舞台というわけでなく、高さ30センチほどの台の上にコンパネのような板を敷いた間に合わ
せのようなものだった。靴を鳴らして踊るといたがズレていき、時々板を元に戻すのもご愛敬だった。
【余談】
フラメンコの情熱的な踊りは人を元気にするようだ。グループの一人が突然立ち上がり、踊りながらステージに
近づいていった。ステージに昇るのではないかと思われたが、袖にいたツアガイドの人が抱きかかえてかろうじて
ストップをかけた。
その人は船内では杖をついて、”ソロリ”、”ソロリ”と歩いている人だっただけに、皆さん驚いたようだった。
ショーは1時間ほどで終わり、バスに乗って高速道路を走り、船に戻ったのは22時だった。ようやく日が西の
山陰に沈むところで、この日訪れたアルハンブラ宮殿がある北の方を見ると、シェラネバダ山脈の白い山々が
うっすらと見えた。
船に戻ると、この日モトリルの街を散策した博多のあねごが「MH、モトリルの街の露天のようなところで”石”
(鉱物のこと)をたくさん売っていたので、写真だけ撮ってきた」、と見せてくれた。
売っている石を拡大して写してくれた写真が10枚ほどあった。それらを見ると、アテネ大学で見たのと同じ
「緑水晶」があったり、日本特産の「輝安鉱」と思われるものもあった。
モトリルの街で鉱物標本を売っているという情報を事前に知っていれば、アルハンブラ宮殿観光などに行か
なかったのだが、” 後の祭り ” だった。
5.2 郵趣 in Spain
鉱物に少しでも興味のある人ならスペイン産の大きな「黄鉄鉱」の結晶を一度は見たことがあるはずだ。
スペインは鉱産国で、ポトシ銀山など中南米で鉱物資源を採掘・製錬できたのは、それらの技術が本国
にあったからこそで、結果として植民地経営ができたとも考えられる。
金や銀の製錬を画期的に効率化した「水銀アマルガム法」は、セビリア生まれのスペイン人バルトロメ・デ・
メディーナが1555年のはじめ、メキシコのパチュカ鉱山で完成させた銀の抽出法だ。
2010年12月、スペイン国立バスク大学のJ教授からメールをいただき、「山梨県大菩薩峠産の褐簾石」を
送って差し上げたことがあった。
・スペインからのメール 山梨県大菩薩峠の褐簾石
( Mail from Spain - ALLANITE from Daibosatsu Pass - , Yamanashi Pref. )
・山梨県大菩薩峠の褐簾石 その2
( ALLANITE-(Ce) from Daibosatsu Pass - Part 2 - , Yamanashi Pref. )
今回、時間があればJ教授を訪ねることも検討したが、モトリルとバスク州ではスペインの南北端にあり、
とても日帰りは無理であきらめざるを得なかった。
街中で郵便局やポストを見かけたら押印・投函しようと思い、前の訪問国イタリアで買った絵葉書を持ち
歩いていた。絵葉書には日本で買った持参したスペインの切手をすでに貼ってあった。
スペインは過去に地質学・鉱物学・鉱物・鉱山を描く切手を何種類も発行している。
「国土地質図作成 1971〜2003年 スペイン地質・鉱物調査所」
地質図を描く切手シート 【2003年発行】
アルハンブラ宮殿内を歩いていると、建物の外壁にライオンの顔のレリーフがあって、その下に ” CORREOS
(郵便)” とある。口のところが投函口になっているようで、下の方に施錠できる扉がついていて、鍵を開けて
取り出すようになっている。郵便受けかとも思ったが、ここに住んでいる人はいないはずだからこれがポストだ
ろうと思い、持ち歩いていた絵葉書を投函した。
【後日談】
帰国して到着していた郵便物を確認すると、投函した絵葉書は無事に届いていた。ただ、消印が押さ
れていないので、実際に郵送されたという証拠がないのが今一つ残念だ。
1年前(2015年)のこの日に車谷長吉(くるまたに ちょうきつ)氏が亡くなっている。氏の著作は日本経済新聞
の文化欄で読んだだけだが印象に残っていて、「福島県平地学会の発表会」で紹介させていただいたり、HPに
も掲載した。
・2013年秋のミネラル・ウオッチング
( Mineral Watching Tour , Fall 2013 , Nagano & Yamanashi Pref. )
車谷氏に献杯だ。
日付が変わるころ、船はモトリル港を出港した。5月19日にはジブラルタル海峡を抜け、地中海からいよいよ
大西洋に出る。大西洋を北上し、5月20日にはポルトガルのリスボン港に入港だ。