15日に出港し、22日の朝に入港するまで7日間の旅で、距離にして2,427海里(約4,459km)あり、世界
一周の旅で3番目に長い航海区間になった。
1位 ハワイホノルル → 日本・横浜 4,064海里(7,527km)
2位 スリランカ・コロンボ → キプロス・リマソール 3,664海里(6,785km)
3位 カナダ・シャーロットタウン → ベネズエラ・リマソール 2,427海里(4,459km)
4位 日本・神戸 → マレーシア・コタキナバル 2,059海里(3,813km)
5位 アイスランド・レイキャビク → カナダ・シャーロットタウン 2,032海里(3,763km)
この航海での話題を紹介しよう。
■ 魔の”バミューダ・トライアングル”
みなさんも「バミューダ・トライアングル」の名前を聞いたことがあるだろう。アメリカフロリダ半島の先端、
とプエルトリコ、そして英領バミューダ島を結んだ三角形の海域を「バミューダトライアングル」と呼んでいる。
昔から航行する船や航空機が忽然と失踪してしまう“魔の三角海域”と呼ばれ、人々に恐れられてきた。
6月12日に船内で開かれた航路説明会では、この海域の東の端をかすめて航海すると言っていたが、
6月20日の航路説明会では、「実は、19日から20日にかけて、シッカリと海域に入っていた」と説明があった。
しかし、船には何も変わったことは起きなかった。
■ 「赤毛のアン」の余韻
6月17日、船はニューヨークの東方海上を南下していた。ノルウェーを出港してからここまで、10日以上
霧か雨、良くて曇りで、膚寒い日が続いていたが、この日は久しぶりに青空が見えて、暖かかった。大西洋
の海の色は”群青”だ。
この暖かい陽気に誘われてか、”昔乙女”が「赤毛のアン」の仮装をして船内を歩き回っていた。
この日あねごが引っ越しをするというのでみんなで手伝いに行った。部屋の真上が”アゴラ”というイベント
開催エリアになっていて、夜中まで”ドタ、バタ”やっていて眠れないから静かな部屋に引っ越すということだ
った。
あねごと同じく神戸から乗り込んできたYさんの奥さんが、「世界一周する人の中には、マットレスを担いで
乗船してきたスゴイ人(あねごのこと)がいる」と言って、見ていない私たちのために実演して見せてくれた。
■ 再び”スコール”
6月19日、船は英領バミューダ島を過ぎ南下していた。朝焼けが美しかったが、「朝焼けは雨」の古い諺
があるように、午後になると一天俄(にわ)かに掻き曇り、強い雨が降り始めた。甲板を叩きつける激しい
音がして、あっという間に水たまりができるほどだ。緯度的には、フロリダ半島の東で、気候的には亜熱帯
に入り、”スコール”のようだ。(奈良・Yさんにご指摘いただき、”一転” → ”一天” に修正 2017.12.19)
スコールに出会うのもインド洋を航海していたとき以来だから、1ケ月半ぶりだ。
■ 気持ちは、すでに『パナマ運河通過』
この世界一周では、すでに通った「スエズ運河」とこれから通る「パナマ運河」を通過するのを楽しみにして
いる人が多かった。2つの大きな運河を通る旅は、このようなクルーズに参加する以外になさそうだ。
6月20日の航路説明会でパナマ運河通過の話があった。スエズ運河は地中海と紅海の水位があまり違
わないし、起伏の少ない砂漠地帯なので水路を掘って開通したものだ。
一方、パナマ運河のあるパナマ地峡は標高が高く、水路を掘ると膨大な土砂の掘削が必要で工事は
事実上不可能だ。そこで、地峡部にあった湖を生かし、その水位まで船を持ち上げる『閘門式』を採用
して開通にこぎ着けた。
横浜を出港してすでに2ケ月あまり、パナマ運河を通過すれば太平洋に出て、ハワイを経由して日本まで
もう少しだと思うと、郷愁がこみあげてくる。
■ 地球一の『沖縄デー』
6月21日、船はドミニカとプエルトリコの間を通り、「バミューダ・トライアングル」を何事もなく抜け出した。
上陸がない航海中、毎日のように船内ではなにがしかのイベントが行われているのだが、この日は、『沖縄
デー』だった。沖縄の歴史・文化・たべもの(ビール)・基地問題など幅広く紹介するイベントだった。夜には
♪♪ めんそ〜れ 沖縄ライブ ♪♪ があり、若い人たちの三線(さんしん)演奏を1時間ほど聞きに行った。
船に乗ってから三線を習い始めた娘もいたが、なんとか聞けるまでの上達していた。
こうしている間にも、船はベネズエラのラグアイア港に向かって進んでいた。
( 2016年6月22日、23日 体験 )
国によっては、裕福層は山の手に住むとされているのだが、海外では市内に住めない所得の低い人たちが
山の中腹に追いやられているようで、谷間は住民が捨てたゴミで埋め尽くされていて、この国の住環境が推察
できる。
もちろんベネズエラは初めて訪れる国だ。私が持っている予備知識は、新聞等から得ていたわずかな情報だ
けだった。たとえば、
@ 産油国だが、原油価格が下がって不景気でインフレが進んでいる。
A 亡くなったがチャベス元大統領は反米主義者でアメリカと仲が悪い。
B 原油価格が高かった時期に、国民に大盤振る舞いしたが産業を育成しなかったため国民は貧困
これらの情報があまり間違っていないことを身をもって知ることになる。
■ 一躍大金持ち!?
ベネズエラの通貨単位は「ボリーバル・フェルテ(BsF)」だ。下船に先立って船内で両替してもらった人が
多かったが、私は街中の両替店の方がレートが良いことを知っているので、航海中船での両替はしなかった。
8階デッキのいつもの席にいると、両替をしたばかりのご夫婦が戻ってきた。テーブルの上に札束を広げ、半分
喜び、半分困惑の色を隠せない様子だ。
10米ドル(約1,100円)パックを3つ、つまり30米ドル(3,300円)両替したら、これだけの札束を受け取ったと
いう。交換レートは、1米ドル=550ボリーバル・フェルテだというから、1ボリーバルフェルテ=0.19円だ。
この後、街中に出掛けて両替店も兼ねている酒屋で両替したが、そのレートは1ボリーバルフェルテ=0.125円
だったから、50%もレートが良かった。両替を終えたK夫人の顔は、”ニコニコ”笑顔があふれていた。
単純に計算するため、30米ドルを10米ドルずつ、200、100、50ボリーバル・フェルテ札に両替したとすると、
受け取る紙幣の数は、(10*550)/200 + (10*550)/100 + (10*550)/50 = 27.5 + 55 + 110
= 193 枚 となる。
紙幣の厚みが0.125mmと日本の0.10mmよりも厚い。193枚の紙幣の厚さは、193 * 0.125 = 24mm
にもなる。K夫人が両替したレートだと36mm、4センチ近くになる。日本でこれだけの札束を手にすることは、
そう多くないはずだ。
これ以外にも、次のようなことが気にかかるのだが、それらについては2日間の『冒険譚』のなかで、追々(お
いおい)お話することにしよう。
■ 治安は大丈夫??
一般に貧しい国は犯罪が多く、治安が良くない。2日間停泊するが、自由行動での外泊は認められず、
その日の19時までに船に帰るようにとの要請があった。また、自由行動で首都カラカスには行かないように、
さらに5〜6人以上のグループで行動するように、との警告もあった。
■ 市民の暮らしは??
一般市民の生活や郵便などの公共サービスなどはどうなっているのだろうか。
埠頭から市街に向かって歩く。高速道路の高架下を西に向かい、南に下ると市街の入り口だ。右手にマー
ケットがあるので入ってみると、いろとりどりの果物が並べてある。しかも驚くほど安い!!大きなマンゴーが2つで
100円くらいだ。値札には商品名のほかに正味重量、価格、消費税率と税額などが書いてあるが全て手書き
だ!!。ちなみに消費税率(Iva)は12%だ。
ベネズエラの初等・中等教育は無料で識字率は90%くらいとほかの中南米開発途上国に比べると高いよう
だが、今時手書きはないだろう。この辺りにもこの国の立ち遅れが垣間見られる。
この先を右に折れると右手の店先にマリア像が置いてある。その足元にはお賽銭があがっている。それを見る
と、21/2という単位のコインがあった。念のためお賽銭を全部調べたがそれ1枚だけだった。
2.25だから、10/4ということで4進法を採用している時代のもののようだ。Kさん「MH、それは珍しいからもらって
行った方が良い」、というので、店番のおじさんに話すと「持って行け」という。只(ただ)で持って行ってはバチが
当たりそうなので、1米ドル札をお賽銭に上げた。
この写真に写っている私は、ディバッグを背中ではなく腹の方に抱えている。これは、気づかぬうちに貴重品を
盗られるのを防ぐ自衛策だ。
【後日談】
母親の介護で埼玉に行ったついでに都心に出る機会がある。山の手線に乗ると周りの10〜20%は外国
人と思われる人たちで、しかも旅行者でなく居住者のようだ。
乗客の中にデイバックを持った人を見かけるが、腹に抱えている人が多い。日本では背中に背負っても
安全上の問題は無いと思うのだが、背中だとほかの乗客にぶつかったりしてトラブルになるのを防ぐ、マナー
なのだろうと思われる。
マリア像の向かいが酒店になっている。酒が好きなKさんは、シッカリ買い込んだようだ。Mさんが、「ここで両替を
してくれる」、というので、両替した人が多かった。K夫人もその一人で、その結果は上の写真のとおりだ。
私はインフレがものすごいこの国では、米ドルの方が有利なはずだと思い、両替しなかった。
ここから西に150mも行くと公園で人がおおぜい所在なげにしている。平日の日中だというのに、失業者と思
われる若い人も多い。
あねごが、「トカゲがいる!!」、というので、見ると木の幹にイグアナがよじ登っていくところだった。街中の公園
にもイグアナが出没するほど自然が豊かな国だという、別な一面を知った。
この後、Mさんが「CDを売っている店がある」、というのでついて行く。中南米諸国の音楽CDが数知れないくらい
並んでいる。1枚1米ドルくらいと安い。
実はMさんは、この船に乗りながら、寄港地や自分で計画したバルト3国の旅などで訪れた街々で”ライブ”を
開くという本格的な音楽活動をしているのだ。MさんおすすめのCDを教えてもらう。(この時は買わなかった)
ここまでくると街はずれでこの先何もなさそうなので、皆さんと別れて郵便局に行くことにした。今来た道を戻っ
て、右に曲がると左手に窓に鉄格子がついたそれらしい建物があった。中に入ると、客は一人もいなくて3人の
女性が、これまた所在なげにお喋りしていた。
郵便局内とは言っても、キチンとした窓口があるわけでもなし、切手や関連グッズを売っているわけでもない。
まるで、夜逃げした倒産会社の事務所跡のようだ。
日本までの絵葉書に適合する切手を買おうとしたが、「いくらかわからない」、という。どこか(中央郵便局?)
にスマホで問い合わせしてくれた。
10分ほど待つと、「200BsF(ボリーバル・フェルテ)です」という。日本円で25円と驚くほど安い。必要枚数を
買うと切手と一緒に糊を渡してくれた。封書でなくて絵葉書だから糊はいらないよな、と思いながらも受け取っ
た。
受け取った切手を見て糊を手渡してくれた理由がわかった。裏糊がない!! 今回25ケ国前後の切手を
手にしたが、裏糊がないのはベネズエラだけだった。
絵葉書を押してもらい、そのうちの1通は自分で持ち帰ることにした。(虫の知らせだろうか)。結局ベネズエラ
からの絵葉書は1通も届かなかったので、これがベネズエラ切手を貼った唯一の絵葉書になった。
【後日談】
ある国を訪れると、「この国は昭和〇〇年代の日本と同じだね」などと話し合うことがたびたびあった。
日本でも関東大震災直後に発行された「暫定切手」と呼ぶ「震災切手」は別としても、70年以上前の
敗戦前後の物資や機械が不足していた時期の1945年に発行された「第2次昭和切手」から1947年発行
の「第2次新昭和切手」まで裏糊がない切手を発行した時期があった。
原油安の影響を受け産油国べネゼエラの経済は火の車で、公園には失業者がたむろしていた。こと郵便
切手に限っては、敗戦前後の日本と同じ状態のようだ。
なかなかグループに戻らない私を心配して、YさんとK夫人が郵便局まで迎えに来てくれた。あねごの一行を
追うが姿が見えない。結局、市街の周囲を一周し、朝も通った高速道路南のロータリーに戻った。すでにお
昼を過ぎているので、食事しようとするはずだ。今朝から日本人が入りそうなレストランなど目に入らなかった。
周りを見渡すと、中華料理店が2つ見えた。その一つのドアを開けたがいそうもない。まごまごしていると、
Kさんが、「MH、こっち!」、ともう一つの中華料理店に案内してくれ、皆さんと合流できた。
店は中国人が経営していて、”華僑”が地球上どこへでも進出しているそのバイタリティは見習わねばと思う。
まずは、ビールで乾杯だ。料理は、われわれが注文すると、必要な材料を近くのマーケットまで走って買って
きて料理を始めるのには驚いた。
『在庫をもたない』ことに徹底した経営ぶりだ。その代わり、客は待たされるが、新鮮なものを食べられるので
チャラだろうか。
ただし、料理の味は”不味(まず)かった”、と日記に書いてある。
この日は、2時ごろに船に戻ることにした。港への入り口に、朝はなかったマンゴー売りの屋台が出ていて、
安いので買った人が多く、しばらくの間、船の中でいただく機会があった。
現地の民芸品を売る出店がいくつか出ていた。その一つに、現地の鉱物を売っている店があったので、
「方解石」や「武石」などを購入した。
この日のベネズエラでのミネラル・ウオッチングは、『現金採集』になってしまった。
「 ミヤーモ(Mさんのニックネーム)と申します。クルーズでお世話になりました。
ご迷惑かと存じますが、出版のお知らせを送らせていただきます。
この度、新しい本「船旅ブギウギ」を出しました。文章と写真で構成した小型の旅行エッセイです。
拙い文章・写真の本ですが、船旅と歌旅の魅力が伝わればと願っています。
出版社 銀河書籍 2017.10.1 発行
定価 1000円+税 」
早速注文すると、すぐに送られてきた。172ページのソフトカバーで、軽妙な文体は、音楽のようだ。
その人ならではの形で旅を総括し、発信する姿勢は見習わなければと思う。