・ 北極圏をめぐる地球一周の旅 【ロシアビザ取得】
( Tour around the World & Arctic Circle 2016 - Russsia Visa acquisition - )
当然、この日は同行する人がいないので、全くの単独行になった。ロシアでは何が起きるか予測がつかない。
最悪、船の出港時間までに戻れない可能性もある。そこで、同室のメンバーには、「出港までに戻れなかった
ら、翌日寄港するフィンランド・ヘルシンキに陸路直行する」と伝えて船を後にした。
ロシアで訪れてみたいと思っていた場所は次の通りだ。
@ 「メンデレーエフ博物館」
元素の周期表を作成した科学者メンデレーエフの業績と生涯を記念した博物館。メンデレーエフの息子・
ウラジミールは海軍士官としてロシア皇太子・ニコライに随行するなどして何度か日本を訪れる。皇太子は
最後の皇帝・ニコライ2世となったが、ロシア革命で一家は惨殺された。
ウラジミールは、何回か日本を訪れ長崎の日本女性・タカと恋に落ち、身ごもったタカを残してロシアに
帰り、1898年12月、33歳で病死する。
タカが書いた手紙がサンクト・ペテルブルグ国立大学付属メンデレーエフ博物館の文書館に残されている
ので、現物を何とか見てみたい。
・ 113番元素の合成・発見
( Synthesis and Discovery of No113 Element , Yamanashi Pref. )
A 「鉱山大学鉱物博物館」
サンクトぺテル国立鉱山大学に付属する鉱物博物館に所蔵されている鉱物標本見学
B 郵便局で記念カバー投函
メンデレーエフや鉱物を描く切手を貼った記念封筒や絵葉書を投函する。
(2016年5月31日 体験 )
これまでも、これから先も上陸地では、港と市街地の位置関係が載っている地図をくれるのだが、個人で行
動するのは私一人なので地図をくれなかった。「メンデレーエフ博物館」に行くには、地下鉄5号線のアドミラル
チェーイスカヤ駅で降りて歩けば良いと思い込んでいた。
8時ごろ船を出たが、交通手段はバスくらいしかなさそうで、現地の人にバス乗り場を聞いたが知らなかったり、
いろいろな場所を教えてくれて誰の言っているのが本当なのか混乱してしまった。通りかかった3人の警察官に
「アドミラルチェーイスカヤ駅へ行くにはバスに乗って、プリモールスカヤ駅で地下鉄に乗る」、と教えてもらい、
ようやくバス停に着いたのは8時半ごろだった。
バス停の標識には、停留所名「ボグザル No2」と158路線のバス停の名前、そして時刻表が書いてある。
「ボグザル No1」停留所が近くにあるようで、バス停を「あっちだ、こっちだ」と違う方角を教えてくれた訳もよう
やく飲み込めた。7つ目の停留所の「CT Mプリモールスカヤ駅」で降りれば地下鉄に乗れそうだ。バスは1時間
に2本くらいあり、始発は6:51だが、終バスが0:00なのもロシアらしい。
20分近く待ったがバスが来ないので、歩き始めたらようやくバスが来たので手を挙げてバスを停めて乗り込む。
ワンマンで、料金は35ルーブル(約70円)と安い。日本だったらゆうに300円以上とられる距離を走ったはずだ。
バスが走り始めると、見慣れた「ボグザル No2」停留所が見えてきた。始発の「ボグザル No1」停留所から
折り返し運転だ。バスの客は2、3人しかいなくて、貸し切り状態だ。
【後日談】
このページをまとめるに当り、サンクトペテルブルク港と私が訪れた「メンデレーエフ博物館」や「サンクトぺテル
国立鉱山大学」などの位置関係が気になり、”GOOGLE EARTH"の地図で調べ直してみた。
サンクトペテルブルク港から直線距離で「鉱山大学」まで2キロ弱、「メンデレーエフ博物館」まで約4キロ
しかなかったのだ!!
わざわざ目的地と方向が違う「プリモールスカヤ駅」までバスで行って、地下鉄に乗ったことになる。歩いて
行っても、バスが地下鉄駅に着くころには「鉱山大学」に着いていたはずだった!!
ご丁寧に、帰りもほぼ同じルートを逆に戻ったのだ!!
バスが走るにつれて客が乗り込んできた。15分弱走り、「プリモールスカヤ駅」でバスを降りる。地下鉄駅に
向かい、窓口で料金を聞くと28ルーブル(60円弱)だという。切符の代わりに渡されたのは、硬貨と同じ」形を
した「トークン(代用貨幣)」だった。
改札口の機械にトークンを入れるとバーが開いて中に入れる仕組みだ。どこまで行っても均一料金だから
「トークン」は戻ってこない。写真のトークンは、記念にわざわざ買ったお土産だ。
ロシアの地下鉄は地下深くを走ることで有名だ。ホームを核戦争時に「シェルター(避難所)」として使える
ように造った、と聞いたか読んだこともある。サンクトぺテルブルクは、ネヴァ河のデルタ地帯にあるため、軟弱な
堆積層が厚く、地下鉄は地下深くを通さざるを得ないという地質学的な理由もあるようだ。
ホームに行くにはエスカレーターで地下深くに潜っていくのだが、降り口と昇り口には詰所があり、女性の警備
員が眼を光らせていて、”監視”されているようで写真を撮るのをためらった。しかし、記録に残しておきたい、
とのMHの性(さが)が勝って、警備員から見えない位置で写真を撮った。
サンクトぺテルブルクの地下鉄は放射状に走っているので、路線の違う地図の上の隣の駅に行くのにも、一旦
路線が交差するところまで行って乗り換えて戻らなければならないのだ。
3号線の「プリモールスカヤ駅」(□)で乗って、「ゴスチィヌイ・ドヴォール駅」(△)で2号線に、「センチャブロー
シャチ駅」(△)で5号線に乗り換え、2つ目の「アドミラルチェーイスカヤ駅」(□)で降りた。
駅を出て、「エルミタージュ美術館」を目指して歩いて行くと、大きな「パレス広場」が見えてくる。真ん中に
建っている円柱が「アレキサンドルの円柱」で、その左側のトルコ石色の建物が「エルミタージュ美術館本館
(冬宮殿)」だ。
本当はここと、少し離れた「エカテリーナ宮殿」も見たかったのだが、半日やそこいらでは見きれるものではない
ので、いつか日を改めて見たいと決めている。
(船に戻ってから、ツアーでここを訪れた人から、「本格的な観光シーズンでもないのに、入館するまで1時間
以上待たされた」、と聞き、行かなくて正解だった。)
ネヴァ河にかかる「パレス橋」を渡ると、対岸には「エルミタージュ美術館」の全容が見える。川沿いの「大学
河岸通り」を下流に向かって進むと、対岸に「旧海軍省」の建物が見える。5月の明るい光を受け、ネヴァ河
クルーズの船が接岸するため急旋回でもしたのか、白波をたてていた。
橋から200mも進むと右手に「メンデレーエフ通り」が見えてくる。むろんメンデレーエフに因んで名付けられた
通りだ。
この通りに入り、100mも行くと左側に赤レンガ造りのサンクトペテルブルク国立大学付属「メンデレーエフ
博物館」が見えてくる。開けっ放しの広い門を入ると入り口のドアがあり、その左側の外壁にメンデレーエフの
レリーフが飾ってある。とうとう、念願の地に立ったことで興奮する。
入り口を入り、居合わせた人に「博物館を見学したい」、と伝えると、秘書と思われるアンナさんが迎えに
来てくれ、入って左手を占めている博物館に案内してくれた。
早速来訪の目的である「日本人妻・タカがメンデレーエフの息子ウラジミールに宛てた手紙を見たい」、と告
げると、「担当者がいないから、手紙があるかどうか判らない」、言われ、最大の目的が達せなくなってしまった。
しかし、「自由に見て結構です。何かあったら呼んでください」、というの、で気を取り直し端から見ていくことに
した。
ロビーに入ると正面にメンデレーエフを描く大きな絵が掲げてある。その右の入口を通り抜けると書斎に通じ
ている。
壁にはメンデレーエフが亡くなった時刻、1907年2月2日午前5時20分で止まったままの時計が掛かっている。
20分だと短針はもっと 5 寄りにあるべきなのだが、この辺りがロシアのおおらかさなのだ。
メンデレーエフで忘れてならないのは「周期表」だ。その初期の手稿(メモ)が展示してある。
当時の知識人の趣味の一つが”鉱物収集”であった例にもれず、メンデレーエフも鉱物コレクションを持って
いた。100種の鉱物のリストと産地地図、そして鉱物標本が展示してある。鉱物標本は、俗に「ブック標本」と
呼ばれるものに見られるような、段ボールで仕切ったマス目に綿を敷いて収めたもので、質素なものだ。
メンデレーエフは大学教授、度量衡監理局長などとしてロシア各地を訪れた。その際、ウラルで手に入れた
と思われる「黒水晶(morion:SiO2)」の美晶が展示してある。サイズがわかるように長さ15センチのボールペン
をスケール代わりに置いてみた。
「郵便局がどこにありますか」るか聞くと、「次の通りを入ったところ」、と教えてくれた。教えてくれた通りは、
住宅と商店が半々で、郵便局がありそうもない街並みだった。2回ほど聞いて、「あそこだ」、と指さしてくれた
先は郵便局とは思えない建物だった。近づいてみると、国章と”ПOЧTA POCCИИ(ロシア)”とあり、国の
機関であることは間違いなさそうだ。それでも半信半疑で重い鉄の扉を開けると、中は日本の街中にある
郵便局に似た雰囲気だった。
先客がいたので、待っている間に局内を見渡すと郵便グッズを売っていたり、青色の郵便ポストがある。共産
主義バリバリ時代のロシアを膚(はだ)で感じていない私にとって、日本の郵便局と変わらない姿にさして驚き
を感じない。郵便ポストくらいは”赤”かと思ったら、アメリカと同じ青色で、”極まれり”だ。
順番が来て絵葉書や封書を差し出すと料金を計算してくれ、不足料金として、500ルーブル(約1,000円)
くらい払った記憶がある。
【後日談】
およそ2か月後、私が帰国するときには妻あての封書は届いているはずだと思っていた。帰国して到着して
いた郵便物を調べてみたが、ロシアとこの先訪れるベネズエラで投函したものが全く届いていないことが判明
した。そうなるとロシアの郵便局で払った不足料金は、郵便局員が "ネコババ" してしまったのだろうか。
何とも、後味の悪いロシア郵便局巡りだった。
さらに下流方向に歩いて行くと、乳母車に子どもを乗せた夫婦連れと出会った。この辺りは、交通量も多く
なく芝生も広く、木々の木陰もあるので、市民にとって格好の散歩コースになっているようだ。
鉱山大学の場所を聞くと、「もう少し先の建物で、私の父が卒業生だ」、と奥さんが教えてくれた。
子どもと別れて300mも行くと事前に写真で確認おいた「鉱山大学」の建物が見えてきた。1773年に女帝・
エカテリーナ2世によって設立され、はじめは「鉱山学校」と呼ばれていた。
1869年からロシア鉱物学会の本部が置かれ、ロシアの鉱物学、鉱山教育の総本山になっている。
歴史ある余りにも立派な建物なので気おくれしそうだったが、正門の扉から入って、「鉱物博物館を見学
したい」、と警備員に伝えるとしばらく待たされた。女性の学芸員が出てきたので、「こちらの鉱物博物館が
素晴らしい標本を収蔵していると聞き日本から来た」、と伝えると、またしばらく待たされた。
やがて、女性の館長を連れて先ほどの学芸員が現れ、引き合わせてくれ、「見学して結構です」、と許可
が下りた。
学芸員が30m×50mくらいの展示エリア2つを付きっ切りで案内してしてくれた。ただ、標本の写真撮影は
許可されず、差しさわりのない場所でだけ写真を撮って良いと許可された。
標本は真っ白い古典的な標本ケースやショーウインドウの中に展示してあり、思ったより新しく明るい印象だ。
次のような標本に眼が行ったが、やはり一番関心があったのは、日本産鉱物だった。ただ、ラベルや説明書きは
全てロシア語なので、学芸員に英語で確認する必要があった。
@ 市之川鉱山「輝安鉱」
1911年(明治44年)に収蔵された履歴を持つ。大英自然史博物館のものに比べると、それほど大
きなものではなかった。
市之川の「輝安鉱」はギリシャのアテネ大学にもあったように、日本を代表する鉱物なのだ。
A 日本産「水晶群晶」
1866年アルキサンドルU世が寄贈したものだ。ラベルには”JAPAN"としかないので産地は不明だが
山梨県産のものではなさそうだった。
B 九州産「オパル」
遊色を示す宝石質の物ではなく、産地も九州とだけしかわからない。
C 水晶「日本式双晶」
日本産ではなかった。
D 世界最大の「孔雀石(マラカイト)」
重さが1.504トンもあるウラル産の孔雀石。古くからロシアは孔雀石の有名産地でエルミタージュ美術
館のテーブルも同じような標本から製作された。
E 大きな「自然銅」
ソ連邦の一部だったカザフスタン・ベアスキン産の842キロもある自然銅塊。
F 「チェリャビンスク隕石」
2013年2月15日の白昼、白煙を曳きながら墜落した隕石で読者の皆様も記憶に新しいはずだ。
1時間30分ほどかけて、全部の標本を一通り見学させてもらった。学芸員にお礼を言って、鉱山大学を
後にしたのは12時を回っていた。
ここから船まで直線距離で2キロ強しかないと知ったのはこのページをまとめる段になってからで、この時は
船までの方角・距離が全く分かっていなかった。仕方がないので、朝降りた「アドミラルチェーイスカヤ駅」を
目指して来た道を引き返すことにした。
空腹を覚え、レストランを探すのだがなかなかない。ようやく見つけたネヴァ河沿いのレストランに入り、何は
ともあれビールを頼む。3米ドルだった。ツアーに参加した人たちは「10米ドル取られた」と言っていたから観光客
ではなく町で生活している人の値段で済んだことになる。
大きなソーゼージ、サラダ、そしてパンがついたランチセットのようなものが10米ドルだというので注文する。ロシ
アの料理の味には期待していなかったのだが、いい意味でそれが外れ、美味しかった。
朝ネヴァ河を渡った「パレス橋」のたもとまで戻ると、その上流側が「ビルジェヴァヤ広場」になっている。ここか
らは、「エルミタージュ美術館」の全貌が良く見える。
この広場のシンボルは「ロストラの灯台柱」だ。高さ 32 m もあり、台座の位置には、海神・ネプチューンの
像が据えられ、柱の根元は船になっていて、船首側には「船首像」がついている。
「アドミラルチェーイスカヤ駅」に戻るのも芸のない話だと思い、街路図をみると地下鉄「プリモールスカヤ駅」
の隣駅「ヴァシレオストロフスカヤ駅」があったので、ここまで歩いて行くことにした。
ロシアの街も区画がハッキリしているので、東西南北どの方角、あるいは通りの名前がわかればそれぼど
まごつかないで行き着けるのだ。
こうして、無事「プリモールスカヤ駅」に戻ってくることができた。ここで、船着き場に行くバス乗り場を探し
たのだが、判らなかった。ちょうどタクシーが停まっていたので、船着き場までいくらかと聞くと1,000ルーブル
(約2、000円)だという。少し高い気もしたが、スウェーデンで50ユーロ(約6,000円)払ったのに比べれば
安いと思い乗り込んだ。
運転手はあまり上手ではないが英語が話せた。問わず語りで、「イラクから来た」、と話してくれた。日本
について関心があるのは、給料のことで、「いくらぐらいもらえるのか」、かなりしつこく聞かれた。ものの10分
も走らないうちに波止場のゲートが見えてきた。
2016年7月「地球一周の旅」から戻り、12月になってクリスマスが近づいたころ、旅でお世話になった人達に
せめてクリスマスカードでも、と送ったお礼が訪れて1年後の夏に届いた次第だ。
「地球一周の旅」では、大学やあまり知られていない博物館を訪れ、親切に案内していただいた。何か気の
利いたプレゼントを持参してその場でお礼をすればよかった、と航海、でなくて後悔している。