船はすでに動き始めていた。船はコロンの町を左に見ながら180度向きを換え、南に向かって進んでいる。
このまま真っすぐ進み、「パナマ運河」に入るはずだ。
この日の船の航路を写真のGPS情報からGOGLEマップに落としてみると、下の図のようになっている。この船が
特別な航路を通った訳でなく、コロンからパナマ・シティに向かう船はほとんどが同じルートを通ることになって
いる。さもないと、衝突などの事故が起こるからだ。
この日は、パナマ運河を通って大西洋(カリブ海)から太平洋に抜けるわけで、「地球一周の旅」の中でも
記念すべき日の一つになるはずだ。
長野県和田峠を訪れたことがきっかけで、パナマ運河の建設に貢献した一人の日本人がいたことを知り、
広く知ってほしいと思い、次のページで紹介したのは2年前の2015年秋だった。
・ 長野県和田嶺トンネルと青山士(あきら)
( Wadarei Tunnel and Akira Aoyama , Nagano Pref. )
最近、青山が建設に携わった「和田峠トンネル」の絵葉書を入手したので、紹介する。
青山が苦労して建設したパナマ運河を自分の目で見てみたくなったのが、「地球一周の旅」に出かける理由
の一つでもあった。
さあ、待望の「パナマ運河」通過だ!!
( 2016年6月28日 体験 )
これを3回繰り返すと、船はガトゥン湖と同じ海抜26メートルの水位まで上昇する。ガトゥン湖を過ぎると、
最終的に太平洋の水位に合わせるため、上の図の逆の順序で徐々に船を降ろしていくことになる。
太平洋と大西洋の海面の高さは、干満(月の引力)、海流、風、気圧、海底地形の影響などで変わるが
その差は最大でも数十センチくらいだから、地球のスケールでは、ほとんど同じと言えるようだ。
コロンからガトゥン湖、ゲイラード・カット(水路)を経て、太平洋岸のパナマ・シティ(バルボア)に行く間には、
ガトゥン閘門、ペドロ・ミゲル閘門、ミラフローレス閘門の3ヶ所の閘門を通過することになる。
パナマ運河での見どころは、これらの湖水と自然・閘門・運河に掛かる橋・そしてパナマ運河鉄道などであろ
うか。
コロンで買った絵葉書に見どころが描いてあるので紹介する。これらの内、船から見えたものを青字にしておく。
@ サン・ロレンツ砦 A ガトゥン閘門
B パナマ運河鉄道 C ガトゥン湖
D バロ・コロラド島 E パナマ運河浚渫部門
F 100年橋 G ペドロ・ミゲル閘門
H ミラフロレス閘門 I アメリカ橋
もちろん、これ以外にも、思いがけない邂逅(かいこう)があるのが、旅の面白さだ。
■ 「ガトゥン閘門」
大西洋側からパナマ運河に入ると、最初に通過するのが「ガトゥン閘門」だ。6時半ごろ、船は「ガトゥン
閘門」の手前で停止した。
船は狭い閘門の中を自力で進むのではなく、地上を走る電気機関車に前後、左右をワイヤーロープで
引かれて進む仕掛けになっているのだ。こんな小さな機関車で引っ張れるのだろうかと疑問に思う方は、お風
呂に入ったときに、お湯を一杯入れて重たくした洗い桶をお湯に浮かべて、指先で軽く押してみると簡単に
動くのを実感していただき、納得いただけるはずだ。
数万トンの船を小さなタグボートが押したり牽いたりしているのより、陸上にある機関車の方が摩擦係数が
大きい分、楽に動かせるのだ。
ロープを取り扱うため、乗組員が総出で働いている。パナマ運河のしくみが、実際どうなっているのかを船の
上から見ようと、デッキは鈴なりの人だかりだ。
機関車に牽かれて船がユックリ前に進む。機関車は次の閘門の水位よりも高い位置にいなければならない
ので、急斜面を登り一段高いところに停まっている。
前方の閘門が開き、船は引っ張られて閘門と閘門の間に進んでいく。後ろで何が起こるか見るため、駆け
足で船尾に行くと、後ろの閘門が閉まり、注水が始まるとその勢いで水面が盛り上がっている。船はズンズンと
上昇していく。正確に測ったわけではないが、1m上昇するのに1分かかるかどうかかで、思ったより早い。
再び駆け足で船首に行くと、閘門の水位は次の閘門の水位と同じになっていて、閘門が開きかかっている。
その先、3段目の閘門も見える。
こうして3段の閘門を登り切るとガトゥン湖と同じ水位になった。機関車からロープを切離し、自力で湖を
進む。8時を少し回ったところだったから、「ガトゥン閘門」通過に1時間半くらいかかったことになる。
■ ガトゥン湖に停留
ガトゥン湖に入りこのまま進むのかと思ったらしばらく停留するという。いつものように、理由はわからないから、
この先で”渋滞”していて、広い場所で順番待ちをしているのだろう推量するしかなかった。
■ ガトゥン湖航行
3時間ほど停まって、11時過ぎに船は動き始めた。ガトゥン湖に入ると私がデッキにいる間だけでも、大きな
船とすれ違うことが何度かあった。すれ違うのは民間船だけでなく軍艦もある。パナマ運河も国(船)籍を問
わず、軍艦も航行が可能なのだ。
これだけ航行量が多いと、事故の発生が心配だ。湖の上に車線ならぬ”船線”が引いてあるわけでなく、
最近多い”逆走”でもしたら大ごとだ。水先案内人が乗り込んでいるにしても、自然豊かなガトゥン湖では
航路を逸脱する危険すらある。
じつは、船がベネズエラのラグアイア港に入港する前の6月20日の「航路説明会」で、パナマ運河の説明が
あった。その一部はすでに紹介した。
パナマ運河には、『導灯(リーディング・ライト』が設置されているとの説明があった。
このときの説明図や写真が良くなかったが、要は手前と奥にある誘導灯が重なって見えるように進路を取る
ことが義務付けられているのだ。
舳先(へさき:船の中央最先端)のほぼ真後ろのデッキにいると、前方の山の斜面に『導灯』が見えて来た。
手前と奥の2箇所にあり、上(奥)のにはライトが点いているようだ。舳先中央にあるポストに導灯が隠れない
ように少し右寄りに立って写真を撮ったため、2つの導灯がずれているように見えるが、実際は同一線上にあ
る。
船は、航路を逸脱せず、決められたルートに従って航行しているのだ。
■ 豊かな自然
ガトゥン閘門を過ぎてからここに来るまで、人家らしきものは見かけなかった。周りは自然そのものだ。両側に
うっそうとした密林(ジャングル)が広がっている。この中には珍しい動物や植物そして鉱物も隠れているのだろう。
空を見上げると渡り鳥だろか、”カギ”になって北を目指す一群が見えた。
■ クレブラ(ゲイラード)水路
水路というだけあって、開削して造った運河の両側の崖がむき出しで迫っている箇所もある。現在でも補修
工事は欠かせないようで、重機を使った工事が何か所で観察できた。切通しには、露頭が見られ、黒色〜
白色の地層が観察できる場所もある。
このあたりが「分水嶺」になっているので、ここから北に降った雨は大西洋、南は太平洋に注ぐ。
■ 100年(センティニアル)橋
この橋は、太平洋側河口にあるアメリカ橋の渋滞緩和対策として、2004年に竣工、翌2005年に開通した。
この橋は、北のアラスカから南は、2015年の「南極探検」で訪れたアルゼンチンのウシュアイアまでを結ぶパン・
アメリカン・ハイウェイの一部になっている。
■ パナマ運河鉄道
パナマ運河の見どころの図に示すように、パナマ運河に並行する形でパナマ運河鉄道が走っている。とは
言っても、船から線路が見える場所もあれば、ジャングルを挟んで数キロ向こうを走っている場所もある。
前の日、コロン駅で車両だけは見たが、できれば走っている姿を見たいものだと思っていた。ただ、旅客列
車は朝夕しか走らないことが解っているから、出会えるとしたら貨物列車だ。
100年橋をくぐって30分(距離にして約10キロ)船が進むと、船の左舷に線路が見えてきた。遠くに列車の
姿が見えたので、ビデオを録画モードにしてその姿を待ち受ける。バルボア駅からコロンに向かう貨物列車で、
2台の機関車(重連)が重たそうな貨車55両を牽引して、時速80キロを超と思えるスピードで進んでいく。
機関車の屋根の上にパンタグラフが見当たらないからディーゼル機関車だ。1両の貨車には、コンテナが2両
ずつ積載してあった。大きなコンテナは2段に積んでいて、その高さは機関車よりも高く、この路線にはトンネル
がないのだろう。
■ ペドロ・ミゲル閘門
標高26mのガトゥン湖から太平洋の水位まで降りる第1ステップがペドロ・ミゲル閘門だ。閘門通過見学に
飽きたのと食事を摂っていたということもあって、この様子を移した写真が1枚もない。
■ ミラフローレス閘門
太平洋の水位まで降りる最後(第2ステップ)のミラフローレス閘門に着いたのは16時少し前だった。これが
最後の閘門と知って、船客が大勢デッキに集まっている。
30分ほど待って、いつものルーチンで船は閘門に導かれ、後ろの閘門が閉じ、排水され水位が下がる。
今回はわれわれの船以外にも、警備艇と民間人のヨットが一緒だ。
左前方にある茶色い建物は”ビジターセンター”らしく、パナマ運河を通る船を見学する人々が一杯いて、
写真(ビデオ)を撮ったり、手を振ってくれている。アメリカ人や中国系と思われる人が多いようだ。中国系と
見えた中には日本人がいるのかも知れない。
■ アメリカ橋
すぐ前方に今となっては古めかしい雰囲気を漂わせる大きな橋が見えてくる。これが、パナマ運河の太平
洋口にかかる道路橋・アメリカ橋だ。今から55年前の1962年に建設された時は、南北アメリカ大陸を結ぶ
唯一の橋だった。
河口とは言えないパナマ運河だが、「(海からみて)最初の橋までが海」という定義だったはずなので、橋の
下に来た時に記念写真を何枚か撮ってもらった。そのうち一番ピッタリなのが下の写真で、私の右手は太平
洋、左手はパナマ運河になっている。
( こんな”馬鹿”なことをやる船客は、私くらいのものだった )
■ 都市と地方の格差
17時39分にアメリカ橋をくぐるとパナマ運河の旅も終わりだ。朝、ガトゥン閘門に近づいたのが6時34分だった
から、ガトゥン湖での3時間の待ち時間を含めておよそ11時間で大西洋から太平洋に抜けたことになる。
【余談】
ネットのブログを読むと実際にパナマ運河を船で通ったことがない人たちが伝聞で書いているので、通過に
要するは8時間から24時間とある。
待ち時間がなければ、8時間、待ち時間があると11、12時間というのが実態だろう。
太平洋に出ると左舷にパナマ・シティが見えてくる。そこは高層建築が林立する近代都市だった。
この光景と前の日に見た”スラム街”のような荒廃したコロンの旧市街とを見比べると、これが同じ国なのかと
眼を疑いたくなるが、これが実態なのだ。
帰国してみて、別にパナマに限らず、日本でもこのように都市と地方の格差が広がっていると感じた。
■ 思いかけない邂逅(かいこう)
太平洋との境界のアメリカ橋が前方1、2キロに見えたころ、右岸に何隻かの軍艦が停まっているのが見え
た。
紅白の幕が張られ、艦尾には旧海軍と同じ「軍艦旗」も掲げてあり、直感的に日本の自衛艦だろうと
思った。一番手前の船尾の船名が読める距離まで近づくと、『かしま』と読め、ほかにも2隻いるようで、一番
奥は『せとゆき』と読めた。真ん中の艦名は桟橋の蔭でよく読めない。「『ゆうぎり』がいる」、と誰かが叫んだ。
「ゆうぎり」は、5月2日〜4日にかけて、アデン湾の「海賊対策」でわれわれの船を伴走してくれた護衛艦
だった。私のスクープ画像をもう一度紹介する。
【後日談】
アデン湾で別れたはずの「ゆうぎり」がここにいたのか、ネットで調べてみた。「ゆうぎり」はわれわれが横浜
を発つおよそ1か月前の2016年3月6日、第24次派遣海賊対処行動水上部隊として「ゆうだち」と共にソマ
リア沖・アデン湾に向けて横須賀基地から出航した。われわれが、5月2日〜4日にかけて、「あさぎり」と
「ゆうだち」に会っているから間違いない。そして、9月7日に横須賀に帰港した、とある。そうなると、「ゆうぎ
り」ではありえない。
防衛庁のHPを見てみると、平成28年度遠洋練習航海が平成28年5月20日〜11月4日(169日間)に
実施され、練習艦「かしま」、「せとゆき」、そして護衛艦「あさぎり」が参加したとある。
一般幹部候補生課程修了者約190名(うちタイ王国海軍少尉1名)を含む約750名が3艦に分乗して
13カ国、16の港に寄港して世界一周した、とある。
自衛艦隊はわれわれとは逆の東回りで、パナマ・シティに6月27日〜30日停泊していたとあるから、われわれ
が28日に会ったのは、この3艦だったことになる。
どうやら、「あさぎり」を「ゆうぎり」と取り違えたようだ。
■ 青山 士(あきら)とパナマ運河
パナマ運河の建設に貢献したただ一人の日本人技師・青山 士のことについては、冒頭に紹介したページ
に掲載した。
「地球一周の旅」でパナマを訪れ、わずか2日間だったが青山が働いていたパナマの空気を吸い、当時を
偲(しの)ぶことができた。
現在、人口15万超と言われるコロン市の住宅・道路などの衛生環境は劣悪で、パナマ運河建設が
始まる直前の1900年には、わずか3千人で、熱暑のジャングルに近かったろう。ましてや建設現場は人跡
未踏の地で、熱暑・マラリアの恐怖に怯(おび)えながらの仕事や生活に耐える自信は私にはない。
その上、日本人であるが故の偏見や差別を乗り越えるには、仕事の上で実績を残すしかないと、人一倍
”汗”を流し、その蔭では”涙”も流したはずだ。
太平洋戦争で日本が劣勢に追い込まれた昭和18年秋、長谷川海軍大将の紹介状を持った一人の
海軍士官が青山家を訪ねた。青山がパナマの奥地で運河開削に携わっていたころ、日本海軍練習艦隊
がパナマに立ち寄り、中尉だった長谷川が士官候補生を連れて現地調査に訪れた。久しぶりに日本人に
会えた嬉しさから、長谷川一行を運河建設工事現場を案内した。
士官は、パナマ運河爆破に必要な資料を提供してもらうために訪れたのだったが、青山は、「私は造る
ことは知っているが、壊すことは知らない」と協力を拒んだと伝えられる。
青山は常々「人類の為、国の為」を念頭において仕事を進めた。パナマ運河がどれだけ人類に貢献して
いるかを知り尽くしている青山にとって、パナマ運河を破壊することは耐えられなかったはずだ。
運河がつくられるまでニューヨークからサンフランシスコへ向う船は、東海岸を南下した後、南アメリカの大西
洋岸にそってさらに南下し、南アメリカ大陸の先端ホーン岬を回って北上し、2万900キロも航行した。パナマ
運河が完成したおかげで、約1万2,500kmになり、8,400キロも短縮された。
15ノット(約時速28キロ)で航行したとして、300時間、12.5日も航海日数が短縮した事による経済効果は
非常に大きなものがあった。さらに、2015年の「南極探検の旅」で近くを通って危険を感じたように、ホーン岬
は海の難所としても知られ、そこを通らなくて良くなった安全上の恩恵も計り知れない。
パナマ運河100年の右側の切手に、『1914 パナマ運河は100年人類に貢献している 2014』と加刷されて
いる通りだ。