以下、7月1日朝プエルト・ケツアルに到着すまでの2日余りを日記風に綴ってみたい。
■ 6月29日
朝5時に起きデッキに行く。太平洋に入り、気のせいかカリブ海よりも朝焼けが美しい。7月5日の運動会
まで一週間を切り、応援の集会に参加。
■ 6月30日
われわれがベネズエラのラグアイア港に停泊していた6月23日、イギリスの国民投票でEU離脱51.9%、
残留48.1%の僅差で離脱に向けて動き始めた。これを受けて、この日イギリス系英語講師3名を迎え
「イギリスのEU離脱を問う」と題するパネル・ディスカッションが行われた。
私が関心があるのは日本経済への影響だ。日本の輸出入に占めるイギリスの割合は2%前後しかないの
だから、仮にゼロになってもそう大きな影響を与えない。EU離脱による影響は限定的だろうと思う。
ただ、私の古巣のH製作所はイギリスの鉄道事業などに力を入れているので、本体の収益に影響しないか、
株主としては気になるところだ。
運動会ムードも高まってきて、赤団の応援旗に白い手形を押した。エルシステマの若者たちが日本文化を
体験する催しがあり、彼らの和服姿を写真を撮り、プリントして配布した。
そうこうしている間に、船はグアテマラに”一刻一刻”と近づいていた。
( 2016年7月1日〜2日 体験 )
こんな場合、2日間も停泊するのだから、今までならオプショナル・ツアーを選んでいたのだが、近場の首都・
グアテマラ・シティと古都・アンティグアを巡る日帰りでも16,000円だし、マヤのティカル遺跡を訪れる1泊2日の旅
だと安くても78,000円もするので見送っていた。
そんな訳であてもなく、2日間自由行動することにしていた。
ところが、上陸の2日ほど前から、私の指定席にきて、「MH、2日間の内にどこかに行くツアーを計画してくれ
ない」、とか、具体的に「首都のグアテマラ・シティと古都・アンティグアに行きたい」、という人が相談に訪れる
ようになり、その人数も12人になっていた。スリランカでの「宝石採掘ツアー」の実績が買われたようだ。
スリランカの場合、日本にいるときにインターネットで調べて探しておいたからできたのだが、船の上の接続が
不安定なインターネットでは、調べるとことすらできない。
2日目にグアテマラ・シティとアンティグアを巡るコースを計画し、上陸地でマイクロバスなどの足が確保でき、
しかも値段がリーズナブルであれば催行することにした。いずれにしても、上陸初日の情報収集と交渉に掛か
っているわけだから責任重大だ。
グアテマラのプエルト・ケツアル港上陸が近づいてきた。
内陸の方を見ると、三角形の山が2つ見える。左がフェゴ山(3,763m)、右がパカヤ山(2,552 m)で、どちら
も現在も噴煙をあげている活火山だ。グアテマラも日本と同じ火山国なのだ。
7時になって舷門が開き上陸が可能になった。真っ先に降りて振り返ってみると、船はキュラソーの時と同じ
ような埠頭に停泊していた。岸壁には大きな岩石が積んであり、その様子もキュラソーに良く似ていた。旅客
ターミナルの中には、お土産屋さんが並んでいて、バスの駐車場に行くには否が応でもお土産屋さんの間を
通らざるを得ないようになっている。
■ 2日目のバスは確保できるのか?
ターミナルの図のNのバス駐車場に急ぐ。この日ツアーに出発するバスが何台か停まっている。
英語で、「明日、12人が乗れるバスをチャーターしたい」、と言うと、むこうにいる人を指さして、「あの人に相談
してみろ」、とスペイン語で言ったような気がした。
それが、指さされた人、ネイロさんとの出会いだった。用件を切り出すと、英語で「1台480米ドルで用意できる」
と言う。12人参加するはずだから 1人 40米ドル(約4,600円)で、食事代を入れても旅行会社のツアーの 1/3
で済みそうだ。「明日7時に」、と約束して船に戻った。
■ プエルト・サンホセに行こう!!
船に戻り、いつもの指定席に行くとツアーに参加を希望する人たちの何人かが集まっていた。首尾を話すと
みなさん喜んでくれた。
「ところで、今日はどうしようか」、という話になった。そのとき、”ミヤーモ”が通りかかったので、聞くと「一番近い
町のプエルト・サンホセに行くので、良かったら一緒にどうですか」、と言ってくれたのでご一緒させてもらうことに
した。
9時に舷門に集まったのは、スリランカで一緒だったT夫妻、九州のI夫妻、滋賀・Kさんの総勢7名だった。サン
ホセの町まで直線距離だと3キロくらいしかないのだが、一度CA9Aまで出て迂回しないと行けないので、片道
5キロくらいありそうだ。
旅慣れた”ミャーモ”が「バスで行こう」と言うので、CA9Aまで歩いて行くのだが、”ギラギラ”と照り付ける太陽の
日射しが焼けつくようだ。
( この後、とんでもないことになるとは思いもよらなかった。 )
500m以上歩いてCA9Aに出ると結構車が走っている。バス停で待ていると、バスも通るのだが満員だったり、
行き先が違うようで通り過ぎて行く。20分くらい待つていると、ワンボックスが停まった。日本で言うなら”白タク”
みたいで、”ミャーモ”がスペイン語で行先や運賃を交渉してくれ、1人5Q(約75円)で話がまとまったので皆が乗
り込むと発車した。
サンホセの町が近づくと渋滞だ。走っている車は新しいものも多い。荷台に何人も乗っている車もある。ワン
ボックスは構わず路肩を突っ走り、町中のバス・ターミナルのようなところに着いた。
■ 人・人・人
車を降りて町のメインストリートを歩いていくと両側は露店になっていて、種々雑多なものを売っている。それ
にしても人が多い。通りをスリランカで”ツクツク”と呼んでいた三輪車やオートバイが身動き取れずに止まってい
る。
オートバイの2人乗りは当たり前で、最高は4人乗りに出会った。運転する旦那の前に4,5歳の子ども、後ろ
の席の奥さんは赤ちゃんを抱っこしていた。どうやら、オートバイを持つことがここでは夢の一つのようだ。
露店をのぞくと新鮮なエビなどを売っている。そう言えば、ここは海岸近くだから漁師の奥さんが持って来て売
っているようだ。その中に、見慣れないものがある。真っ白い卵のようだがニワトリのではない。表面に砂粒が着
いているので、実物は見たことないがテレビでは見たことがある亀の卵だろう。値段を聞くと、10個で50Q(約700円)
だそうだ。1つがバス代と同じだから”高級食材”なのだ。
露店の間を奥に入ると、フリーマーケットになっていて、古着を売っている。赤いシャツを売っていたので運動会
用に買った。たしか、20Q(ケツアル)というのを値切って10Q(約150円)だった。
■ 郵便局は休み!!
どこの寄港地でも自由行動の日恒例の、絵葉書や手紙を出すのに郵便局に行くことにした。途中で何回か
聞きながら郵便局にたどり着いたが雰囲気が変だ。閉まっているのだ。この日は金曜日だから、イスラム教国
ならいざ知らず、開いていると思ったのだが。
【後日談】
この日から3日間、グアテマラは休日だという噂も流れて来た。ネットで調べると、そうはなっていない。未だに
なぜ郵便局が閉まっていたかは不明のままだ。
■ 地元料理のランチ
ちょうどお昼だ。お腹が空いてきたので食事ができそうな店を探すが、なかなか見つからない。ようやく地元の
人も利用する店を見つけて入る。まずは、ビール(15Q:225円)、コーラ(5Q:75円)を注文する。食後に飲んだ
コーヒーも20Q(300円)で、ビール、コーヒーなどの”贅沢(ぜいたく)品”は高いようだ。
海が近いので魚のフライ、そして無難なところでフライドチキンを注文する。トウモロコシの粉を焼いて作った
パンが付いてくるくるようだ。料理は7人で35米ドルだったから、1人5米ドル(約600円)だったから少し高いような
気がしないでもない。
それでも、往復のバス代、ビール代を入れも1,000円で半日楽しめたのだから文句なしだ。
一足早く出て来たのは、ニワトリの絵のラベルの地元のビールで、”キンキン”とまでは行かないが程よく冷えて
いる。料理の方は、魚は釣りに行き、ニワトリはつかまえようと追いかけているのではないかと思わせる位長い時
間待たされて出て来た。(1時間近く待たされたが、これがここの時の流れなのだろう)
パンにフライや野菜を挟んでいただいた。空気が乾燥しているので蒸し暑さはないが、それでもかなり暑い。
ビールと暑さでTさんの顔は茹蛸(ゆでだこ)のように真っ赤だった。
■ 無事帰船
食事が終わったころには14時を過ぎていた。小さなプエルト・サンホセの町なので他に見るものもなく、お土産の
小物を買って船に戻ることにした。
路線バスを探して乗り込み、ターミナルに着いたのは15時半だった。参加者で無事に帰船した記念に写真を
撮って解散した。
ベネズエラやパナマに比べてグアテマラの町は安全なように見え、翌日のツアーも大丈夫そうだった。
■ 船の中で手紙を出す
プエルト・サンホセの町の郵便局は閉まっていたし、翌日首都・グアテマラ・シティに行っても郵便局に行ける
保証はないので、船内で投函することにした。
大きな船には船内郵便局を開設しているものもあるのだがこの船にはない。その代わり、寄港地ごとにいる
代行業者が切手を貼ってその国の郵便ポストに投函してくれるのだ。
船の売店で1枚150円の「郵便受付シール」を買い、絵葉書なら1枚、封書なら2枚貼って、船の郵便箱
(段ボール箱)に放り込んでおけばよい。
絵葉書1通150円の料金は、イタリア、デンマーク、ノルウェー、カナダ、キュラソー以外の国では高いのだが、
手数料を含んでいるのだから仕方がないのだろう。
「パサヤ火山」と「アティトラン湖」を描くグアテマラ切手を貼って船で投函した封書が自宅に届いていたので、
投函前と到着後を比較して示す。業者がQ6.50とQ1.00の2枚の切手を貼り足して出してくれたことがわかる。
■ 埠頭でミネラル・ウオッチング
埠頭の周りには直径2mくらいもある岩が積んである。色は赤茶から黒だから遠目に溶岩だろうと思われた。
船室に戻っても16時だった。西が太平洋に面し、20:00の日没まではまだまだ時間があるので、ハンマーと
タガネ、そしてルーペも持ってミネラル・ウオッチングだ。
埠頭に積んである岩は見たての通り溶岩で、斑晶として目ぼしいものが入っているわけでもなく、火山国
グアテマラの”溶岩”サンプルを採集しただけで早々に撤収した。
■ ♪♪ 友達の友達は友達だ ♪♪
前の日に2日目のツアー参加者を再確認した。何人かが「友達も参加する」、と言っていたのをリストにして
みたら、TさんとIさんが「友達だ」、と言っていた人は同じ人でWさんだった。そんなことが他にもあり、結局最終
的な参加人数は10人になった。
”友達の友達は同じ友達だ” だったのだ。
12名で480米ドルで申し込んでいるのだが、10人になっても一人40米ドルにしてもらえるかが、問題だ。その
交渉が私に託されていた。
■ 交渉の結果は??
7時少し前に全員ターミナルの東屋に集合した。千葉・Tさんに一緒に”交渉”同行してもらうことにした。
「船の中で風邪が流行って、急に2人参加できなくなったが、一人10米ドルにしてくれ」、と切り出すつもりだ
った。持ってきた、マスクをTさんにもつけてもらい、2人で駐車場に行くと、マイクロバスの近くにネイロさんと
運転手がいた。
”ゴホン、ゴホン”、と咳払いしながら、話を切り出すと、簡単に、「1人40米ドルでOKだ」、と言う。「すぐに
みんなを連れてくるから」、と待たせておいて、みんなのところに戻る。交渉成立に皆さん大喜びだ。出発前に
記念写真を撮る。
参加者は、前の日一緒だったT夫妻、Kさんと友人のTさん、スリランカの宝石採集に参加した横浜・Nさん
名古屋・Iさん、京都・Kさん、静岡・Wさん、そして千葉・Tさん、私の10名だ。
■ グアテマラ・シティへ
港を出たバスは2キロ余り走ると高速道路に入った。ここから真北に向かって時速80キロくらいで飛ばす。
この日のコースをいつものようにGPS情報で地図の上に落としてみた。
往路 → 、復路 → で、首都グアテマラ・シティまで行って、古都・アンティグアを回って帰ってくるコースだ。
世界一美しい湖と形容される「アティトラン湖」にも行きたいという声もあったのだが、日帰りでは難しそうだ。
高速道路を走る車は新しい車が多いが、オートバイやトラックの荷台に大勢乗っているのはお国柄だろう。
40分(約50キロ)ほど走って8時少し前にICを下りる。ここまでの高速道路料金は15Q(約230円)だから日本
の1/4くらいと安い。
お互いに知っている人も多く、バスの中では、”和気藹々(あいあい)”のムードだ。
■ 眠っているのは”縄文人”?
車はグアテマ・シティ市内に入り、9時少し前に「国立考古学民俗学博物館」に着いた。海抜ゼロのプエルト
ケツカル港からいつの間にか標高1,500mの高地に登ってきていたのだ。この博物館は、ラ・アウロラ国際空港
に隣接し、世界で一番空港に近い博物館とも称されいる。
この博物館のみどころは、紀元前後から 16世紀頃まで,メキシコ,グアテマラ,ホンジュラスなどに栄えた
マヤ文明の国内遺跡から出土した品々だ。特に、国宝級の彩色土器やヒスイ製品、そして大小の石造物
などが一堂に展示してある。(入場料は、国民は5Q(75円)だが、外国人は60Q(約900円)と差がある。)
マヤ時代の住居跡から出土した人骨の耳のあたりに目が覚めるような”緑色の石”がある。これは、『翡翠
(ひすい:ジェード)』だ。
これらがどのように身を飾ったのかも展示してある。
【余談】
2016年に日本の”国石(こくせき)”として『ひすい』が決まった。世界には、ひすいを産出し、その地の
民がひすいを装飾品として愛好する(した)国がいくつかある。ここでいう”ひすい”には、鉱物学的に硬玉
と呼ぶ「ヒスイ輝石」と軟玉と呼ぶ「ネフライト」の両方を指している。
太平洋を取り巻くように、ニュージーランド、ミャンマー、台湾、中国、日本、メキシコ、グアテマラだろうか。
これらの国々の人々はルーツは同じで、好みは同じなのだろう。
土器類も多数展示してあるが、そのなかに長野県茅野市の縄文遺跡から出土した”縄文のビーナス”を
思わせるものがいくつかあり、その一つを”マヤのビーナス”と名付けてみた。豊穣を願ってだろうか、妊娠した
女性を象(かたど)っているのが共通点だ。
一通り見て回ると、円形に天井が開いた中庭がある。柱と柱の間には像が、壁面に沿って全国から出土
した石碑が並んでいる。
訪問記念の写真を撮って、博物館を後にしたのは、10時過ぎだった。
国立考古学民族学博物館に隣接して近代美術館や動物園などもあるのだが、今回はパスだった。
■ グアテマラ・シティ車窓観光
グアテマラの首都・グアテマラ・シティの人口は約300万人で全人口の1/5弱が集まっている。グアテマラの政治
経済・文化の中心であり、また中央アメリカ最大の都市でもある。標高約1,500mの高原にあり、熱帯にあり
ながら、過ごしやすい気候だ。
私がミネラル・ウオッチングで訪れるレタス栽培で有名な長野県川上村も同じような標高にあるので、夏でも
クーラーどころか扇風機も要らないのと同じだ。この日も、日蔭に入ると”ヒンヤリ”するくらい涼しかった。
スペインの植民地時代のグアテマラシティはエル・カルメンという名の小さな町で、小さな修道院があっただけ、
で、1773年にスペイン植民地政府の首都・アンティグアが地震で壊滅的な被害を受けたのを機に、1775年に
グアテマラシティに遷都した結果大きく繁栄することになった。
19世紀初頭にグアテマラ総統府が独立し、ついで中米連邦が結成されると、グアテマラシティはその第一の
首都となった。中米連邦が崩壊し、グアテマラが独立した主権国家であることを宣言すると、グアテマラシティは
新生グアテマラ共和国の首都となった。
スペインの植民地時代から独立後の遺跡や近代の建造物等を車窓から眺めながら、古都・アンティグアを
目指すことになる。
すぐに、ラ・アウロラ国際空港の脇を走る。パナマ・コロンで別れたオプショナル・ツアーのメンバーがこの日この
空港に”悲喜劇”の土産話を乗せて戻ってくることになる。
外壁をマヤ文字を装飾した近代的なビルがある。マヤ文字は紀元頃からスペインに征服される16世紀ごろ
までマヤ地域で使われた象形文字だ。
ポルトガルでも見たレンガ造りの水道橋が見える。これは、「ピヌラ水道橋」で、スペイン統治時代に造られ
たものだ。
グアテマラ・シティを後にして、バスが高速道路を走っているとき、ネイロさんが外の景色を指さして”Binbow”
と私に言った。ハテ、頭の中の英和辞書をめくってみるが思い当たる英単語は出てこない。
外の景色を見て、英語でなくて日本語の「貧乏(びんぼう)」だとわかった。たぶん、ネイロさんが日本人から
聞き覚えた数少ない単語のようだ。
グアテアマのサラリーマンの月収は、2,300Q(約35,000円)くらいらしい。写真に見るような住宅街は”貧乏
タウン”と呼ばれるスラム街で、今まで見て来たほかの国と同じで斜面にあるのが特徴だ。
一般道に降りてから、途中少し渋滞したこともあって、アンティグアの町に入ったのが11:45だった。アンティグ
アの町は、標高1,500mにあり、古都と称されるだけに落ち着いたパステルカラーの低い家並が続く。通りは
広いのだがほとんどが石畳で、車は”ガタゴト”と走りにくいこと甚だしい。
■ ランチは”ラテン料理”
ネイロさんに誘導されて地元のラテン料理レストランに着いた。入口には数々の料理が並び、その中から
自分の好きものを指さすと店の人が皿や器に盛ってくれる。素材がわからず、ましてや味付けがわからない
料理を選ぶのはある意味で勇気(?)がいる。
私が選んだのは、前の比にも飲んだニワトリの絵のラベルのビール、トウモロコシの皮で包んだ粽(ちまき)、
春雨、ターメリックライス、そしてシチュー風(もどき?)だった。
みなさん揃ったところで、まずは、『乾杯〜!!』
みなさん、選んだ料理がお気に召したようで、笑顔いっぱいで頬張っておられた。
ビールなどを含めた料理の代金は1,365Q(約20,000円)だったから、一人2,000円だ。博物館でもそうだったが
現地の人と外国人では12倍差がある国だから、こんなものだろう。
■ アンティグア”観光&ショッピング”
アンティグアは古都というだけに見どころがいくつかある。スペイン統治時代の教会や修道院、先住民が新鮮
な野菜や果物を売る青空市から、観光客目当ての本格的な土産物店がある。改めて地図を見直してみて
街並みが東西南北に碁盤の目状に区切られていて、通りには番号や名前が付けられていてわかりやすい。
日本で言えば京都や札幌のような感じだ。
十字架の丘
アンティグア市街北の丘の斜面に大きな十字架が建っていて、この町を見下ろしている。ここまで歩いて
登るのが一般的のようだが、知り尽くしている現地の人なので、丘の上まで車で行って斜面を下りるコース
でアプローチした。
13時ごろの一日で一番暑い時間帯なので坂を登らずに済み、膝の良くないWさんは、「ここまで来られる
とは思っていなかった」、と喜んでくれた。
十字架のところからアンティグアの街並みが一望できる。パステルカラーの屋根や壁の色は統一されて
いて、古都の雰囲気を漂わせている。碁盤の目の走る通りが、かつての首都の面影を残している。
市街地の南10キロのところに活火山アグア山が見える。われわれが着いた時に頂上は雲に覆われて
いた。雲の流れが速く雲が晴れるのを待っていたがその瞬間はこなかった。
サンフランシスコ教会
1979年にアンティグアは世界遺産に認定された。それを構成する建造物が市内には点在している。
1541年に創建された「サンフランシスコ教会」を訪れた。グアテマラをはじめ中南米のカトリック信者から病を
癒す聖人として慕われてたエルマーノ・ペドロの墓がある。この墓に詣でると病やケガが癒(い)えると信じられ
ており、参拝にやってくる人も多い。
修道院の前の木蔭が青空位置になっていて、野菜や果物を売っている。ここで、「ランブータン」を見かけた
ので買い込んだ。10個くらいで1米ドル(約115円)だった。
私がマレーシア出張の度に食べたランブータンは、ピンポン玉くらいの大きさで、長さ1センチくらいの毛が生え
ていて、皮を剥(む)くと透明感のある果肉があらわれる。噛むとジューシーで、果物の女王といわれる「マン
ゴースティン」や楊貴妃の好物だった「ライチ」に似た味がする。ただ、種が大きくて食べらるところが少ないの
が難点だ。
教会の周りには、民族衣装を着て「風呂敷」のような布で包んだ荷物を頭に載せた先住民女性の姿を
何人か見かけた。また、石畳の上を観光客を乗せた馬車が走っていた。
グアテマラのお土産を買うために観光地図Bの西の方にある「市場」に案内してくれた。ここは10店近い
土産物屋が入っている建物で、その周りの路上に先住民と思われる親子が品物を路上に並べて売っていた。
「グアテマラひすい」を売っている店が2つほどあった。値段が安いものでも30米ドルくらいしていた。迷った挙
句、40米ドル出して一つ買った。
■ グアテマラ”コヒー”
皆さんお土産を買い込んでバスに戻り、アンティグアを出発したのは16時近かった。Kさんが、「ダンスシューズ
を買いたい」と言っていたが、手に入らなかったようだ。
この後、船に戻るだけだ。Kさんが、「グアテマラのコーヒ園を見てみたい」、と言っていたので途中コーヒー園
の脇で停車してもらった。園の周りにはフェンス代わりに溶岩が積み重ねられ、水はけのよい溶岩や火山灰
の土壌で栽培しているようだ。木には青い実がビッシリついていて、赤くなったら収穫されて日本に来るのか
も知れない。(グアテマラのコーヒーの約20%が日本向け)
■ 無事”帰船”
全員無事に船に戻ったのは17時ごろだった。無事帰船記念の写真を撮って解散した。
彼らはバスを乗り継いでアンティグアに行った。途中、バスの乗り換えでバスターミナルにいて、”スマホ”を操作
していたら、いきなり現地の男にひったくられ、みんなで追いかけて奪い返したそうだ。
犯人が居直ってナイフなどの凶器を取り出して刃向ってきたら大ごとになったかもしれない。モノを盗られなく
て良かった、と喜んでいたが、『モノより命』なのだ。
■ オプショナル・ツアーのお土産
6月27日パナマのコロンで、前の日にプエルト・ケツアルからオプショナル・ツアーに出発したメンバーが帰ってき
た。
私の”石好き”を知っている旅友がお土産に各地の石を持ち帰ってくれた。大阪・K夫妻は、次のような俳句
を添えて、マチュピチュの石を5個持ち帰ってくれた。
『 冬のペルー
石ころ五つ
お土産に 』
アメリカ人のRayさん夫妻は、採集した時の模様を奧さんのTeresaさんが面白おかしく話してくれ、○○○遺跡の
石を持ち帰ってくれた。
もし、グアテマラを訪れていないければ、読み飛ばしていただろう新聞記事にも眼が止まるようになる。これが
”視野が広くなる”ことなのだろうか。