キュラソー島はベネズエラの北60km、カリブ海に浮かぶ小さな島で、人口はわずかに15万人弱だ。野球の
バレンティン選手の出身地でもある。
1499年、スペイン人とイタリア人によって発見され、1634年、オランダが艦隊をキュラソー島に派遣し、1635年、
「フォート・アムステルダム」砦を建設、島にいたスペイン人は追い出された。1642年、オランダ西インド会社が
プンタ港を建設し、黒人奴隷によるプランテーション農業や塩の生産などで栄えるようになった。
この島は奴隷貿易などの戦略上、重要な場所だったため、フランスやイギリスなどに襲われたりもしたが、
オランダは守り通した。19世紀、奴隷制が廃止され、奴隷取引の中心地だったキュラソー島の経済は潰滅的
な打撃を受けた。
1915年、ベネズエラで油田が発見されると、ロイヤル・ダッチ・シェル社がキュラソー島にベネズエラ産の原油の
石油精製所を建設した。
1954年、キュラソー島はオランダ領アンティルに組み込まれ、オランダ領アンティルの行政上の中心地となった。
1970年代のオイルショックはキュラソー島の石油精製所に大きな打撃を与えた。さらに追い討ちを掛けるように、
1985年、ロイヤル・ダッチ・シェルがキュラソー島の製油所を閉鎖した。
2010年10月10日、オランダ領アンティルは解体され単独の王国構成国となり、現在に至っている。
第2次世界大戦中、ユダヤ人の命を救ったリトアニアの日本国領事・杉原千畝が発行した日本国通過ビザ
の目的地は「キュラソー入島」となっていた。この逃亡のためのビザは「キュラソー・ビザ」とも呼ばれる、と最近
知った。
キュラソーは日本の種子島ほどの小さな国だが、”ヨーロッパを感じさせる街” という評価もある国なので、
楽しみだ。
( 2016年6月24〜25日 体験 )
翌朝7時過ぎにデッキに出てみると、虹が見えた。カリブ海で虹を見るのは初めてだ。雨が降った気配はないが、
この海域の高い湿度が虹を生むのだろうか。
やがて、水先案内を兼ねるタグボートが近寄ってきた。導かれるように進むと、前方にあまり高くない山をもつ
キュラソーの島影が見えてきてた。
右舷を見ると、いつの間に現れたのか真っ白いオランダ軍の軍艦がわれわれの船と並走し始めた。後甲板を
見ると乗組員が真っ白い制服制帽で一列に並んでいるので、『登舷礼(とうげんれい)』だ。通常は、貴賓の
送迎などで行われる艦艇礼式で、スエズ運河の手前、アデン湾で日本の自衛艦「ゆうだち」がやってくれて
以来だ。
9時ごろ船は「メガ埠頭」に横付けし、すぐに下船しても良いとの船内アナウンスがあった。
日本にいたときに図書館で借りた「地球の歩き方」を読んで、ウイレムスタード市内の地図をコピーしておき、
市内の観光スポットは頭に入っていた。ただ、この本はキュラソーに限らず飛行場から市内への行き方は書い
てあるが、船で旅行する人のことなどほとんど想定していないので、港の位置を書いていない。そうすると、港の
位置をインターネットで調べ、観光地の地図に港の位置を手書きしておくしかなかった。
キュラソーの場合、小さな島なので、船が接岸する前にカラフルなウイレムスタード市街内が見えた。船を降
りたら海岸に沿って北東に行けば市街地に出られることが判っていた。この日歩き回った範囲の地図を示す。
■ 熱烈歓迎
どこの国でもそうだが、港湾地区は金網で外と仕切られていて、自由に出入りできないようになっている。
国によっては入国管理官や税関吏がいることもあるが、キュラソーはゲートに警備員(ガードマン)がいるだけ
だった。
ゲートを出た途端、いきなり美女が二人われわれを歓迎してくれた。肌の色から、一人はアフリカ系、もう
一人はオランダ系なのだろう。美女二人に両側から密着されると、MHならずとも、世の男性なら、つい、”○の下”を
伸ばしてしまうだろう。
空は青く天高く、海は青く透き通り、海から吹いてくる潮風は心地よく、私の普段の心がけが良い所為(せい)
だと、”昔乙女”全員が心の中で思っていることだろう。
船は錨を降ろしていない(そのくらい、急に深くなっている)ようで、けさタグボートが渡してよこしたワイヤー
ロープで前後を引っ張って係留しているようだ。
■ ポンツーン橋「クイーン・エマ橋」
200mも行くと、古い要塞の跡にでる。残されている青銅製の大砲などから、要塞の面影をしのぶことができる。
ここにはブランドの宝飾品店や高級レストランそしてホテルなどがある。ここは用がないので通り抜けると、セント・
アンナ湾が見えてくる。一見河口のように見えるが、地図で全体を見ると大きな入り江(湾)の入り口になって
いるのだ。
ここから見えてくる橋が、世界でも珍しいポンツーン橋の「クイーン・エマ橋」だ。10以上の船が橋脚の代わりを
していて、橋全体が水の上に浮いていて、船を通すときに橋が動く『可動橋』の一種だ。
子どもの頃、現在は可動していないと思うが東京の「勝鬨(かちどき)橋」の”跳ね橋式”が良く知られていた
が、「クイーン・エマ橋」は右岸(西側)の端を中心にして、全体が上から見て反時計方向に回転するする
”旋回橋(ポンツーン橋)”だ。容易に回転できるよう、船が橋脚を支え、橋全体が水の上に浮いている。
キュラソーの宗主国オランダは、運河が多く、船舶の通行を妨げない可動橋も数多くあり、その思想がこの
地にまで及んでいる。
橋のたもとに着いたが開閉まで間があるようなので歩いて渡ることにした。長さ167m、幅9.8mと大きなもので、
歩行者専用だ。その日の天候にもよるのだろうが、思ったほど揺れは少なかった。この大きな構造物が約90度
回転すると、一番端は 2πR/4 = 2*3.14*197/4 = 310 m も動くと俄(にわ)かには信じられない。
■ ヨーロッパ風の街並みと水上マーケット
橋の正面にカラフルな建物が見える。湾の東側のウオーターフロントに150mくらい同じような建物が並び、
ヨーロッパ風の街並みを形成している。
少し東、つまりこのカラフルな建物の裏側に入るとウイレムスタードの旧市街で、この町ができた時代の建物
が残されている。その一つが「郵便博物館」になっているのを確認したが、ここは後で一人で訪れることにした。
■ 水上マーケット
ここから北に進むと「水上マーケット」がある。採れたての新鮮な野菜、果物、魚などが並んでいるが、一番
近い外国・ベネズエラから運ばれてくるものも少なくないようだ。
生の魚を買っても調理できないし、果物は前の日にベネズエラで安いものを買ってきているので、買おうという
人はいなかった。
■ 郵便局
水上マーケットの通りを東に100mも行くと郵便局がある。日本の人口数万の地方都市の郵便局と同じくら
いの大きさだが、訪れる人はまばらだ。入口に営業時間が書いてある。土日は休みで、平日は7時30分〜
17時30分(金曜日16時30分)と、朝早くから開いているのには驚く。地中海沿岸のヨーロッパ諸国のように、
シエスタ(昼寝)の習慣があるようには見受けられなかった。
日本で切手を入手できなかった唯一の国がキュラソーだった。日本宛の絵葉書や封書に貼る切手を買い
米ドルで支払うと言うと、キュラソーのアルテン・ギルダー → オランダ・ユーロ → 米ドルに換算して、請求され、
おつりはこの逆に換算し、現地通貨で返された。
切手を貼って窓口に差し出すと、普段使っていると思えない古い印を持ち出して押印してくれるサービスぶり
だ。押印してもらった絵葉書類を表にある赤いポストに投函した。
【後日談】
キュラソーで絵葉書に貼った切手は島を取り巻く美しい海に住むカラフルな魚や生物をデザインしたもの
だった。これらの美しい生物を求めて、スキューバーダイビングに訪れる日本人も多いようだ。このことが、後で
旅友夫婦の悪夢を良き思い出に変えることになるとは、誰も思い至らなかった。
投函した絵葉書や封書は無事に日本に届いていた。この辺りが同じ中南米の国にある隣国ベネズエラ
と違う。オランダによる統治の遺風がのこっているからだろう。
郵便局の先には「オールドマーケット」があり、ここでは地元の人たちが洋服や雑貨などを売っていて、お土産
に絵葉書を買ったくらいだ。
お昼近くになった気安く入れるようなレストランなどが見当たらなかったので、ひとまず船に戻って昼食を食べ
ようと思い、来た道を戻る。来るときに、海岸に護岸のために積んである岩が気になっちた。高さ1mほどのコン
クリートの壁を乗り越えると岩を間近で観察できた。
岩は石灰岩で、海の中のサンゴ礁が海底に堆積し、その圧力や熱が加わり、空洞部分には立派な”犬の
牙状”の方解石の結晶が観察できる。なかには、元のサンゴの化石も観察できる。
この辺りの岩を片っ端から見てみると同じような産状だ。地図の ○ の範囲に同じような岩が積んである。
私にとってはまさに、”宝の山”だ。だが、石灰岩とはいえ、岩は岩で素手では如何ともしがたい。昼食後、
街に行くときに、船に置いてあるミネラル・ウオッチングの道具を持って来ることにした。
イグアナだけの写真を撮っても詰まらないので、船をバックに撮影したいと思いその瞬間を追うことにした。イグ
アナの動きは思ったより敏捷だし、凹凸のある岩の陰に入ると絵にならない。少し高い岩のてっぺんに乗った
瞬間がベストだ。
北緯12度の真昼の太陽の陽射しと、白い石灰岩から照り返しで汗だくになりながら、辛抱強くイグアナを追
いかけた。20分以上粘ってようやく待望の一瞬が訪れた。
【後刻談】
この日の夜、8階デッキの指定席にいると、某紙の女性カメラマン(変な表現か?)の経歴をもつKさんが
来た。イグアナの写真を見せるところ、「MH、この写真はイグアナと船が入っているし、船のピントもそれほど
”ボケ”ていなくて良いから、船の中の展覧会に出しなさいよ」、と薦めてくれた。
■ フェリーで街並みウオッチング
対岸に渡ろうと橋のところまでくると、橋の入り口のゲートが閉まっていた。船を通すために橋が回転してこちら
岸に来ているのだ。橋の構造が良くわかる。行くときには気づかなかった橋の入り口にある橋の由来を刻んだ
プレートを眼にすることができた。
ネットには、橋が造られたのは1939年としているものもある。それは、プレートが2枚あることから起きた間違い
だろう。右のプレートには、ハッキリ ” ORIGINALY BUILT IN 1888 " 明治21年に原形が造られたとある。その後
2006年に補修が完了したともある。
左のプレートは、1939年になって「最初のクイーンエマ橋の建設者 レオナルド・バーリントン・スミスを称えて
後で取りつけられたものだ。この年は、最初の橋ができて50年の記念すべき年だったからだろう付けられたのだ
ろう。
橋が渡れない時には、フェリー(無料)が通行人を運んでくれる。乗っているのはものの5分足らずだが、違った
アングルからウイレムスタードの景色を楽しむことができた。
2台のフェリーが両岸からほぼ同時に出発し、中ほどでクロスする。ケーブルカーの海上版といったところだ。
岸には今朝『登舷礼』で出迎えてくれた軍艦が停泊し、湾の奥には「ジュリアナ女王橋」が見える。この橋は
建設中の1967年に崩落し15名の作業員が亡くなるという痛ましい事故を乗り越えて、1974年の女王の日に
完成した。見た通り海面から56.4mの高さがあり、大型船舶も航行できるようになっている。
日本人技術者たちによって建設された、スエズ運河を横切る巨大な道路橋「日本−エジプト友好橋」
(スエズ運河橋、あるいはムバーラク平和橋)は海面から橋の桁下まで70mあるから上には上があるものだ。
この後、われわれの乗った船が予定になかったこの下を航行することになるのだが、この時は誰も思いもよら
ないことだった。
■ 郵便局で”お宝”ウォッチング
切手が趣味でない人でも、世界で一番高価な切手は知っている人がいるかも知れない。それは、中米の
英領ギアナ(現在のガイアナ)で、160年前の1856年に数枚発行されたマゼンダ色の地に帆船を描く1セント
切手だ。現存しているのは1枚しかない。
私が切手収集を始めた中学生の頃、1,600万円とか言われていたが、2014年のオークションで9億7,000万円
で落札された。1セント=1円だから、およそ10億倍に高騰したことになる。
キュラソーに上陸する前に大阪で会社を経営するKさんとこの切手のことと、「キュラソーの切手は日本では
手に入らなかった」ことを話した。
「MH、キュラソーの切手は日本では珍しいから買って帰った方が良いですよ」、と言われたことを思い出し、再び
郵便局に向かった。
「局にある切手をシート単位で買いたい」 と言うと、「5セントと30セントの切手しかない」の言うので、2種類
1シート(50枚)ずつ買った。
はたして、160年後には、価値が出るのだろうか??
■ 「郵便博物館」ウォッチング
今回訪れた国、特に先進国のほとんどには「郵便博物館」があった。滞在時間が限られている私にとって
それらの全てを訪れるのは難しく、唯一訪れたのはカリブ海の国キュラソーの首都・ウイレムスタードにある「郵便
博物館(Postal Museum)」だった。
ここは、1693年に建てられたウイレムスタードで最も古い建物の中にある。入り口のカギは閉まっていたが、
呼び鈴を押すとボランティアだというスインダ女史が招き入れてくれた。「日本から来た」と切り出すと、いたく
感激してくれ、館内をくまなく案内してくれた。
古い切手や19世紀末には当時の日本の郵便局と同じようにここでは郵便だけでなく電信(電報)業務も
取り扱っていて、モールス信号を送るのに使った電鍵と郵便の象徴でもある郵便配達夫が持っていたラッパが
展示してあった。
床には「世界の花切手」の展示パネルが無造作に置いてある。世界地図に日本を含む世界13カ国発行の
花切手が貼りつけてある。昔日本でも1960年代の切手ブームの頃、各地の郵便局で開催された切手展を
思い出させてくれる。
パネルの周辺は雨漏りの跡だろうか、絵具が滲(にじ)み、高温多湿のこの地で保管状態の悪さを示してい
る。
奥の部屋には、この博物館が所蔵する貴重なコレクションの数々が展示してあった。そこの壁面には世界
地図が掲げられ、この博物館を訪れた人の国にピンを立てることになっていて、スインダ女史がピンを渡して
くれた。
日本の位置を見るとピンが1本も立っていない。と言うことは、私が”この博物館を訪れた最初の日本人”だ。
地図の山梨県の位置にピンを突き刺した。
このとき、博物館の館長さんが入ってこられた。「立派な展示ですね」と外交辞令を交えて、日本から来た
フィラテリスト(郵趣家)で、世界一周の旅の途中に立ち寄った、と自己紹介した。
館長さんは、「最近は、携帯やスマホに押されてしまって、郵便の影(影響力・存在価値)が薄くなってしま
って・・・・」、とこぼしておられたのが印象的だった。
何かお土産になるものはないだろうかと見回すと、段ボールに切手を貼った封筒(カバーと呼ぶ)がたくさん
並んでいる。
1950年代から2000年代はじめのもので、キュラソーの歴史や出来事を記念する切手を貼ったものを選び出し
た。1通1米ドル(115円)とリーズナブルなので、13通ほど購入した。
それらの中から年代順に、いくつか紹介するとキュラソーの歴史や産業などを理解していただけるのではない
だろうか。
支払いを済ませると、スインダ女史が「あなたが乗ってきた船のニュースが今朝の新聞に載っていたから」、と
地元紙を見せてくれた。コピーをお願いしたら、記事の載ったページをそっくりくれた。
キュラソーの言語は、「パピアメント語」という私にとって初めて目にするものだった。ここが、奴隷貿易の中継
基地だったこともあって、アフリカ系言語に周辺の国々の影響も受けてか、ポルトガル語やスペイン語が混ざって
できたという。
私が多少理解できる英語やドイツ語などから類推すると、好意的に書かれているようだ。
【後刻談】
これをコピーして船の関係者に渡したのだが、”ナシの礫”だった。
ここで最後の絵葉書を書いて日本までの切手を買うと今朝郵便局で買ったよりも安かった。それを貼って、
表の郵便ポストに投函した。親切にしていただいたスインダ女史に厚くお礼を言って別れした。
【後日談】
お別れした後、日本から何か気の利いたプレゼントを持参すればよかったと思った。ギリシャ、ロシア、カナダ、そして
キュラソーと思いがけず親切にしていただく機会が多かった。
海外出張では、接待を受けることはあっても接待することはなかったので、お土産まで頭が回らなかった
次第だ。次回、海外旅行に行くときには準備するようにしよう。
せめてものお礼と思い、この年のクリスマスにカードをお送りした。
■ ミネラル・ウォッチング
船に戻る途中でミネラル・ウオッチングが待っているので16時過ぎに街を後にした。岸壁のところに着いてコン
クリートの壁に身を隠すようにして、石灰岩の岩から綺麗な結晶部分をハンマとタガネで崩しはじめた。それを
見た鉱物に興味のある船客の女性が手助けしてくれた。
結構硬い岩を”ガンガン”叩く音はかなり遠くまで届いたようで、警備員(ガードマン?)がやってきて、「ここでは
そのような行為は許されていない」、と言われてしまった。万事休すだ。
採集した標本を持参した新聞紙に包(くる)んで、船に戻ったら、17時を回っていた。
「 船が見える海岸近くのブランドのレストランでビールを飲みながらステーキを食べていたら、目の前を
船を追いかける人の群れの中に船のスタッフもいて、『船は湾に入るようだ』、という情報が入ってきた。
こうして、船に戻ったのは22時近かった。 」
見覚えがある船が通り過ぎるのが目に入った。
帰船時間までまだ1時間近くあるし、船が出るまで2時間くらいあるから、何かの間違いだろうと思った。
レストランにいた船客たちが、『船が行っちゃう!!』 と騒ぎ出したしたので、K夫妻もこれが現実に
起きていることだと知って我に返った。
(レストランの支払いを済ませて)、皆さんと一緒に船を追いかけた。一方は海の上、こちらは陸の上
船の行先も解らない。
『船は「クイーン・エマ橋」を通って、湾の奥に入るから、そこまで歩いて来て欲しい』、ということになった。
一方、船に乗っていたわれわれの方も帰船リミット前に船が動き出したのにはビックリした。どこへ行くのか
その前に、「これこれ、こういう理由で」、という説明がなされるべきだと思うのに、それは全くなく、動き出した
のだ。
具体的に誰かはわからなかったが、「埠頭で船を追いかけて来る人を見た」、という人もいて、船に戻れな
かった人は10人や20人ではきかなそうだった。
船が動き出したので、私はデッキに出てみた。すっかり日が暮れて漆黒の闇夜の中にウイレムスタード市街
の明かりが煌々(こうこう)と輝いている。昼間見た景色が視点が高いことも相まって全く違って見える。この
景色はスチール(静止画)より動画の方が画(え)になると思い、ビデオ撮影しておいた。その中から、気に
入った画面を紹介する。
「クイーン・エマ橋」は西側の岸に寄せられ、橋のアウトラインが電飾で色分けされている。一晩中こうな
のか、気になるところだ。
ハプニングがあったせいか船内は夜が更けてもザワザワしていた。8階の指定席でPCを広げていると、ジム
で一汗流してきたという”昔乙女”が立ち寄って雑談したので、記念に写真を撮った。
【後日談】
船に置いてきぼりを食ったKさんが、「MH、キュラソーのポストの写真を撮ってきた」、と言ってカードを渡して
くれた。写真を見ると、郵便局や郵便博物館にあったものより一回り小さくて、ポールの上に立っているタイプ
だ。このポストは、昔の要塞跡の門のような日蔭にあり昼間でも薄暗くい場所にあった。Kさんが写した写真
ではライトが点灯しているので、日が暮れてからだから、船を追いかけるときに撮ったようだから、余裕があった
ことが窺(うかが)える。