丹澤 喜八郎の足跡をたずねて









            丹澤 喜八郎の足跡をたずねて

1. はじめに

    2014年2月8日、甲府地方は大雪だった。東京地方でも、昭和44年以来の積雪量だとテレビが
   報じていた。
    妻の車も私のも、4WD(四駆)でスタッドレスタイヤを装着しているので出ようと思えば出られる
   のだが、特段済ませなければならない用件もないし、事故に遭うのも嫌なので、2日ばかり自宅で
   大人しくしていた。

    2012年正月2日の骨董市で、『丹澤水玉堂 独立経営 水晶採掘山全景』の絵葉書を入手し、
   それをHPに掲載した。

    ・ 水晶採掘を描く絵葉書 その2
     ( Post Card Drawing QUARTZ Mining in Yamanashi - Part 2 -, Yamanashi Pref. )

    この水晶山を経営した丹澤 喜八郎(以下、喜八郎)について調べてみたが手掛かりがつかめ
   なかった。雪で閉じ込められたのを幸いに、蔵書と山梨県立図書館から借り出した本から喜八郎
   の足跡をたずねてみた。その結果、かすかだが手掛かりをつかむことができた。

    (1) 「水晶宝飾史」
         明治29年4月発行の1枚刷り「甲府市内諸営業案内」に、次のような記述があるのを引
        用している。

         『 ◇ 細工のよいのと価の廉なるにて評判の国産水晶店
             柳町二丁目 田中清次郎◇三日町一丁目 土屋愛造◇櫻町四丁目 土屋宗幸
             櫻町四丁目裏 丹澤 喜八郎◇柳町三丁目 一之瀬熊次郎             』

    (2) 「水晶ものがたり」
         この本は、山梨県水晶宝飾業界の草分け・大森文衛(ぶんえ)氏が集めた資料や日記
        をもとに書き綴ったものを亡くなって1年後に子息の手で刊行された。
         山梨県の水晶研磨技術の中心は、明治20年代末ごろから、御岳から甲府に移った、と
        されていたが、御岳、市川大門村(現市川三郷町)に並存し、やがて甲府に統合された
        ようだ。
         『丹澤一門』 の一章があり、丹澤 卯之吉と茂太郎の兄弟が、市川大門村にそれぞれ
        「暎泉堂」と「天晶堂」を構えていた、とある。

         『 ・・・・・一家が市川大門町から甲府に移転して来たのは大正4年で、一時、住吉通り
          に住み、戦災を受け・・・・・・                                   』

         喜八郎は、『丹澤一門』の本拠地・市川大門町の出身で、一門に先駆けて甲府に進出し、
        明治29年には、櫻町に店(あるいは水晶細工所)を構えていたのではないか、と推測して
        いる。

    調べてみて、喜八郎が活躍した明治後期から100年余りしか経っていないが、この時代の水晶
   店主、水晶細工人そして水晶採掘人の足跡が消えてしまっている例があまりにも多いのに驚いて
   いる。
    少しでも山梨県の水晶の歴史を後世に伝えられるよう、喜八郎始め、水晶細工に携わった有名、
   無名の人々の足跡を気長に追ってみようと思っている。
   ( 2014年2月 調査 )

2. 「水晶宝飾史」に残る喜八郎の足跡

    「水晶宝飾史」の中に、喜八郎や丹澤姓の人々、そして水晶関係業者の消息を追ってみる。

 (1) 「山梨県甲府 各家商業便覧」【明治18年(1885年)3月28日出版】

      『  金銀水晶版木御印判師 谷村 貞七(号幽蘭) 八日町一丁目 』

      ただ一人記載されているだけだ。

 (2) 「甲府市内商業評判」【明治24年(1891年)2月10日発行】

      『  柳町一丁目 土屋 松次郎
         柳町二丁目 田中 清次郎    』

      の名があるだけで、甲州水晶業界の草分けといわれる、三日町一丁目の深輪屋こと玉泉堂・
     土屋 愛造や長田 市太郎、宗善父子、それに櫻町の土屋 宗幸などの名はない。
      当時の柳町の様子を示す写真がある。

      
                   甲府柳町
               【「山梨県史より引用】

 (3) 「山梨鑑」の山梨繁盛明細記(広告欄)【明治27年(1894年)11月25日出版】
      甲府の名工、大家といわれる10の業者、郡部の4業者、水晶山地主、水晶採掘業者などが
     並んでいる。

      『 甲府
          八日町玉潤堂 土屋 松次郎(号松華)◇柳町清玉堂 一ノ瀬 熊次郎
        ◇三日町深輪屋又称玉泉堂 土屋 愛造◇飯沼村新町(寿町)精美堂 輿石 勲
        ◇柳町 土屋 宗幸◇柳町含章堂 長田 宗善◇柳町玉曜堂 田中 清治郎
        ◇柳町 土屋 友治郎◇櫻町 丹澤 駒二郎◇柳町南陽堂 田草川 徳次郎
        郡部
        西八代郡富里村 佐野 加久太郎◇南巨摩郡西島村修竹園 笠井 幸作
        ◇南巨摩郡身延村三桝屋 深澤 弁作◇南巨摩郡五開村 望月 儀助

        東山梨郡玉宮村水晶山地主 雨宮 大吉
        北巨摩郡上手村水晶採掘業 深澤 忠直                           』

      末尾に、東京府下の各業者も紹介している。

      『 山梨県中巨摩郡宮本村御岳出身
          ◇神田区鍛冶町二十七番地   水晶金銀宝石商        相原 兼三郎
        ◇日本橋区大伝馬町二丁目二 印刻師              芦野 楠山
        岐阜県出身
        ◇神田区小川町一番地      水晶其他貴金属細工物商 高木 勘兵衛      』

      高木 勘兵衛は、「金石舎」の創立者で、後に小僧奉公する長島 乙吉氏はこのとき、まだ4歳
     だった。

 (4) 「甲府市内諸営業案内」【明治29年(1896年)4月発行】

      『 ◇ 細工のよいのと価の廉なるにて評判の国産水晶店
          柳町二丁目 田中清次郎◇三日町一丁目 土屋愛造◇櫻町四丁目 土屋宗幸
          櫻町四丁目裏 丹澤 喜八郎◇柳町三丁目 一之瀬熊次郎

        ◇ 文字に風致のあって有名の印刻師
          櫻町四丁目 土屋 宗幸◇櫻町二丁目 土屋 友次郎
          ◇櫻町二丁目 田草川 徳次郎                               』

 (5) 「山梨自治制史」【明治39年(1906年)5月発行】
      明治35年(1902年)の甲府市内の主な水晶店として、次のようにあげている。

      『 三日町 土屋 愛造◇三日町 渋江 彦太郎◇八日町 加藤 晋明
        ◇八日町 角田 唯治◇八日町 土屋 松蔵◇八日町 中村 伴四郎
        ◇柳町 土屋 友三郎◇柳町 土屋 友三郎◇柳町 田中 清次郎
        ◇柳町 一ノ瀬熊次郎◇櫻町 輿石 勲◇櫻町 平賀 福太郎
        ◇櫻町 土屋 宗幸◇櫻町 田中 秋広◇竪近習町 長田 白太郎
        ◇山田町 鈴木 藤左衛門◇春日町 丹澤 喜八郎◇常盤町 石原 宗幸
        ◇常盤町 土屋 太一郎                                     』

      「水晶ものがたり」では、渋江以下、丹澤 喜八郎らを”新顔業者”と書き記している。

(6) 「甲府繁盛寿語呂久(すごろく)」【明治36年(1903年)1月1日発行】
        参加した深輪屋水晶店は、代表商品として印材や眼鏡を中心に描き出している。

      
                     「甲府繁盛寿語呂久(すごろく)」

      右上に、「百瀬清生堂」の名がある。確実ではないが、後に山梨師範学校(現山梨大学)に
     多数の貴重な鉱物標本を寄贈した百瀬 康吉氏の櫻町にあった薬種店だろう。明治37年ごろ
     から、百瀬氏は多数集めた水晶や鉱物を始末するため、10年あまり鉱物販売の営業を行って
     いた。
      中央下に「深輪屋水晶店」、中央上の”あがり”は国立第十銀行(現山梨中央銀行)だ。

 (7) 山梨時報社「甲府市商家案内」【明治36年(1903年)2月発行】

      『 三日町深輪屋こと玉泉堂 土屋 愛造◇柳町二丁目金生堂 土屋 友次郎
        ◇柳町四丁目 田中 清次郎◇柳町四丁目西側 輿石 勲
        ◇柳町三丁目清玉堂 一瀬 熊次郎                              』

 (8) 「甲斐繁盛記」【明治36年(1903年)6月発行】
      印刻業(水晶篆刻)として、山梨県下の名篆刻師がずらりと紹介されている。

      『 甲府市内
        ◇穴山町一丁目西側含章堂 長田 宗善◇八日町一丁目北側玉潤堂 土屋 松次郎
        ◇櫻町四丁目東側推金堂 土屋 宗幸◇柳町二丁目西側金生堂 土屋 友次郎
        ◇柳町三丁目大神宮前国華堂 山田 白峰
        ◇柳町三丁目西側耕石堂 山内 竹塢[土烏]
        ◇常盤町第十銀行東金声堂 藤森 奇谿[奚谷]
        郡部
        ◇西八代郡岩間村晶光堂 渡辺 素堂◇北巨摩郡台ケ原村小倉屋号 細田 政造
        ◇北巨摩郡韮崎町金精堂 新藤 喜作                            』

 (9) 「甲州国産商家信用表彰鑑」【明治39年(1906年)発行】
      長野県主催の一府十県連合共進会で受賞した13業者の名が載っている。
      ( 長野県主催の一府十県連合共進会共進会は、明治41年に開催されているので、違う共進
       会だろう)

      『 甲府市
        ◇三日町玉泉堂 土屋 愛造◇柳町清玉堂 一瀬 熊次郎◇八日町光玉堂 角田
        ◇櫻町精美堂 輿石 勲◇柳町玉曜堂 田中 清次郎◇緑町甲斐石堂 七沢 斎宮
        ◇太田町玉鳳堂 小宮山 国造◇竪近習町清玉堂 長田 白太郎
        ◇櫻町水玉堂 丹澤 喜八郎◇櫻町甲斐水晶商会 島津 寿仲
        ◇櫻町篆刻師 坂本 両柄
        郡部
        ◇塩山駅前聖光商会 大竹 保義                       』

 (10) 山梨県主催「一府九県連合共進会」【明治39年10月開催】
       日露戦争の勝利と中央線が甲府まで開通したことを記念し、10月から40日間開催された。
      舞鶴城内に建てられた19棟、1772坪の陳列館には、各都府県から54,678点の出品があり
      会期中に数十万人の参観者があった。山梨県特産品と観光地を宣伝する目的は達せられ
     た。この共進会への山梨県からの出品状況は明らかではない。参観した人の、「西山梨郡能
     泉村(現甲府市)高成の小松 勇右衛門が出品した、”一萬圓の定価のついた草入り水晶玉”
     が強く印象に残っている」、との談話が伝えられている。

 (11) 丹澤 喜八郎の「年賀はがき」【明治43年1月1日消印】
       『丹澤水玉堂 独立経営 水晶採掘山全景』の絵葉書

         
                     裏                        表
                          水晶採掘を描く絵葉書

 (12) 「甲府勧業共進会」パンフレット【大正7年10月開催】
       甲府市制三十周年を記念して、市の産業の発達を図るため、甲府市が18,000円の経費を
      かけて主宰した。会場建設中に発生した米騒動が甲府にも波及し、山田町の若尾本邸が焼き
      討ちに遭うなどの事態が発生し、共進会の準備も中止を余儀なくされた。
       しかし、市当局や出品業者の熱心な運動で予定通り開催された。出品は一府十九県にわた
      り、出品者数1,796人、出品点数9,936点にのぼりった。市では、「最近の甲府」というパンフレ
      ットを刊行した。その中の”主要物産”の”水晶”について、次のような記述がある。

      『 従来、北巨摩郡増富村、中巨摩郡宮本村黒平、東山梨郡西保村倉沢、同郡玉宮村竹森の
       各地方より採掘せられたが、近来漸くその量を減ずるに至りしは患(うれ)うべき現象なり。
       是等産地の原石加工は専ら本市に於てなせるが、その技大いに進み精巧を極むに至れり。
       殊に装身具品は豊富なる意匠と、精美なる手法とあらゆる技巧とを凝らし、真に技術の奥妙
       に入るといふも過言にあらざるなり。
        甲府の水晶細工製造戸数130戸、職工数560人、価格年20万円余に達す。主なる水晶店
       は、次のとおり。

        柳町玉泉堂 土屋 愛造◇桜町精美堂 輿石 勲◇常盤町 甲斐物産商会
       ◇八日町 上原 勇七                                         』

       この共進会の水晶関係では、次の3点が優秀な作品として一等賞・金牌(きんぱい)を受賞し
      た。

      『 水晶応用 装身具 甲斐物産商会
        茶水晶 観音像   輿石 勲
        水晶 置時計    土屋 愛造                                  』

 (13) 甲府水晶業組合の乱立【明治末から〜昭和19年】
       水晶業者の組合の団体組織は、明治37年11月に「甲斐水晶同業組合」が設立されたのを
      皮きりに、各種の組合が設立と解散を繰り返していた。この理由としては、組合内部の対立や
      太平洋戦争下での組合統制強化の影響などがあった。
       組合員の名簿が残されていれば消息がつかめるのだが・・・・・・・・。

      『 「有限責任甲府水晶信用販売組合」【大正2年5月設立、ほどなく解散】
         理事 泉町 広瀬 一雄◇山田町 加賀美 猛四郎◇二十人町 相原 仲児
         幹事 桜町 千野 又次郎◇同 村松 教平

        「甲府水晶篆刻同業組合」【大正6年5月設立、成果なく雲散霧消】

        「甲府水晶印伝袋物商組合」【大正9年3月設立、成果なく雲散霧消】

        「甲府金工組合」【上の2組合に相前後して設立、昭和10年解散】
        二十数軒の飾り業者が参加

        「山梨商工人名簿」【大正12年10月現在】

         甲府市業者
         常盤町 甲斐物産商会◇柳町玉泉堂 土屋 愛造◇桜町 柳沢 政吉
        ◇桜町精美堂 輿石 勲◇八日町 上原 勇七◇七沢 斎宮◇柳町 長田 白太郎
        ◇柳町 一瀬 しずの◇常盤町 望月 広行◇柳町 天野 武雄
        ◇八日町 甲斐水晶工業合資会社◇春日町 小宮山 国造
         水晶工場
         二十人町 深澤 賢次◇百石町 石原 益三郎◇鍛冶町 角田 唯治
        ◇柳町 平岡 頼章
         郡部業者
         西八代郡市川大門町 丹澤 政造◇同郡岩間町宝玉堂 篠原 正広
        ◇同芙蓉堂 渡辺 武◇同南陽堂◇土橋水晶店◇勝平堂 鮎川商店
        ◇楠甫村甲富園 笠井 金作

        「甲府水晶業組合」【大正13年3月設立、解散時期?】

        「甲府水晶頸飾製造業組合」【大正14年9月設立、解散時期?】

        「甲府出品協会」【大正15年設立、解散時期?】
        会長 武井甲府市助役◇副会長 柳沢 政吉

        「山梨水晶工業組合」【昭和6年5月設立、昭和19年9月解散】
        組合長 成島治平甲府市長     組合員81名                       』

        解散時の組合員の中に、深町 丹澤 赤太郎 の名がある。
        

3. 市川大門町の『丹澤一門』

 3.1 長田(おさだ) 市郎太と市川大門の研磨技術
      昇仙峡の奥・御岳にある金桜神社の神官たちによって始まった水晶研磨技術の中心は、明治
     20年(1887年)ごろから甲府に移った、とされている。名工の誉高い塩入 寿三も明治28年ごろ
     御岳から甲府市柳町に移った。このころ、甲府が水晶工芸の本場の様相を見せ始め、御岳の
     人々がポツポツ甲府に移住するので、御岳にいたのでは甲府の商人の足が遠のき、作品を販
     売するのに不自由になってきたからだった。
      明治36年(1903年)、中央線が甲府まで開通した時には、甲府が水晶の街として不動の地位
     を占めるまでになっていた。そのころの甲府の中心街、柳町、桜町、三日町、八日町、常盤町に
     は、水晶店の店構えと、その裏では水晶を研磨する職工たちの姿が珍しくなかった。

         
              水晶店舗                          研磨工場
                         明治時代の水晶店舗と工場
                         【「水晶ものがたり」より引用】

      御岳の水晶研磨技術が衰微したころ甲府に水晶店が多くなったことから、甲府が第二の水晶
     研磨技術の町とみなされてきた。しかし、甲府が隆盛する前に、西八代郡市川大門町(現市川
     三珠町)に水晶研磨の一団があった。
      この一団の技術伝習系統は、甲府からではなく、はじめはかなりに独自な趣味的な研磨から
     始まって、そのうちに御岳の技術と接触する機会があり、覚えこんだものと推定される。

      明治9年(1876年)に県令・藤村 紫朗が甲府城跡に「山梨県勧業試験場(甲府勧業場)」を
     建設した。ここでは、生糸の製糸場、葡萄酒の醸造所などのほか、水晶加工場を設けた。

      
                   「山梨県甲府勧業場」を描く錦絵
                      【「山梨県史」より引用】

      ここで、水晶工芸技能者を育成し、水晶製品を県外、そして海外に売り出すもくろみだった。
     技能者講習の一環として、一カ年の長期水晶技能講習が山梨県の手で開催された。
      このとき、指導者に選ばれたのは、御岳の塩入 寿三(24歳)、相原 三有楽【さうら】(48歳)、
     内藤 寛造(25歳)の3人だった。この3人は、御岳から甲府城内の水晶加工場に通って、講習
     生を養成していった。
      ( この間、直線距離でも9km、高低差もあり、当時の達者な脚でも片道2時間は要したろう。)

         
                「山梨県甲府勧業場」                 塩入 寿三
                【「山梨県史」より引用】         【「水晶ものがたり」より引用】

      この講習生の一人に、市川大門村からきていた長田(おさだ) 市郎太がいた。市郎太は天保
     6年(1835年)の生まれで、受講した明治9年(1876年)には、41歳だった。市太郎の墓碑には、
     『 明治二十六年(1893年)三月二十日没、年六十四 』、とあり、逆算すると受講したのは、
     47歳の時になる。いずれが正しいかはさておき、市郎太が受講したのは40歳代だった。

       市郎太墓碑【甲府市城東 教安寺】

      藤村県令は、受講生の中で最も成績優秀な市郎太を研磨技術の先進国・清国に県費をもって
     半年間派遣した。半年後帰国した市郎太は、明治11年ごろ、甲府常盤町第十銀行前に「清国
     伝習水晶細工所」の看板を掲げ、弟子を教えている。

      

      『 四十の手習い 』、とは言うが、人生五十年の時代、40歳過ぎの”ずぶしろ”が成績優秀で
     外国留学し、弟子に教えるまでになるとは考えにくく、市郎太は既に水晶研磨技術を心得ていて、
     それをさらにレベルアップするため受講した、と考えた方が自然だろう。
      墓碑銘に、『 ・・・彫琢有年。 初横浜開港也。 君鬻2爾瑤梳1。 外客乃喜購。・・・・・・』
     とある。「・・・彫刻や研磨を数年行い、横浜開港(1859年、市郎太24歳)するや、君は印材・玉・
     かんざしを売る。外国人客は喜んで買った。・・・・」、とあるところから、20歳前から水晶の彫刻・
     研磨を行っていたと考えられる。
      そうなると、市川大門村には、水晶研磨業が横浜開港以前から発生していたことがわかる。

      市郎太の父は市ノ丞といい、大百姓だった。広い土地を持ち(=金持ち)、市郎太の時代には、
     土地付きの家作(かさく:貸し家)を10軒も持っていたところから、生活も豊かで、水晶を研磨し
     出したのも最初は趣味から出発したと考えられる。その製品を売ろうとする気持ちを高めってい
     ったのは、深輪屋の5代・土屋 甚兵衛(寛政4年―明治4年)や玉潤堂(土屋華章製作所)の
     初代・土屋 宗助(?―幕末・明治初期?)らの刺激からだろう。
      市川大門村は、甲斐と駿河を結ぶ富士川舟運盛んなころ、駿河路の旅人は市川大門か出航
     する鰍沢で一泊する習慣があった。甲府から東海道方面に販路を求め、足繁く往来した深輪屋
     甚兵衛や土屋宗助も市川に足を留め、長田 市郎太と接点が生まれたのではないだろうか。

 3.2 丹澤一門・「暎泉堂」と「天晶堂」
     市川大門一丁目に「暎泉堂」の丹澤 卯之吉、同二丁目に「天晶堂」の兄弟が、作業場も住宅も
    同じ棟だが大きな屋敷に住んでいた。二人の歳は11歳も離れていたし、兄弟も多かった。判りや
    すいように、家系図を作成してみた。

      
                          丹澤家系図

     卯之吉は、安政4年(1857年)に生まれ、長田 市郎太よりもふた回り近い若さだ。少年時代から
    山水画を描く才能があり、画号の暎泉が店名になった。趣味で水晶細工を始めたのは明治初年
    からのようだ。卯之吉がだれについて水晶研磨技術を習得したかは伝承がなく、ただ始めから
    細工がうまかった、という印象が強く残されており、彫刻ものに卓越した腕をもっていた。
     丹澤家の伝承や弟子だった古老の話を総合すると、市太郎が介在し、深輪屋の五代・甚兵衛に
    製品を納め、その関係は卯之吉の子・小弥太の時代にも続いた。
     卯之吉の晩年には、唐美人や観音像を刻み、特に長野県和田嶺で発掘された黒曜石に刻んだ
    高さ5寸(15cm)の観音像は名作だったが、昭和20年の甲府空襲に遭い、失われてしまった。
     卯之吉の子・小弥太は、自宅近くを流れる芦川からの分水の水車を動力源にした機械を考え、
    彫刻したと伝えられる。
     一家が市川大門から甲府に移転したのは、大正4年(1915年)で、住吉通りに住み、戦災に遭い
    市川大門に戻り、戦後再び甲府市城東に工場を持ち、卯之吉の孫・正彦と玄孫・正臣は彫刻畑で
    なく、貴石画の新しい分野に進んだ。

     「天晶堂」を創立した茂太郎は、明治元年の生まれで、初めは兄・卯之吉について研磨技術を
    覚えた。茂太郎は商才に長(た)け、卯之吉が商売は二の次にして彫るものに精魂を傾ける職人
    気質だったのを嫌って袂を分かち、売れる品物の生産を目指した。
     最初、御岳の神主らによって作られた印材は、彫刻ものよりも価格が安いことから、一般家庭へ
    の普及も早かった。西八代郡岩間村の特産「岩間足袋」が明治10年頃、機械縫いの地下足袋に
    押されて衰えた後、水晶印の印刻がボツボツ盛んになりはじめた。茂太郎が印材を作り始めたの
    は、明治15、6年ごろで、御岳、増富、竹森坑などへも原石買いに出かけている。良石を手に入れ
    た場合、玉摺(す)りもしたようだが、印材を大量生産して、行商人に卸していた。

     茂太郎は、明治32年ころ、北米サンフランシスコに渡り、翌年英国ロンドンに渡航した。この2回
    の外遊は明治三十年代では珍しいことだったが、詳しい話が伝わっていないし、記録も残ってい
    ないので、その目的すら判っていなかった。
     茂太郎の養女・つねよさんや弟子・野村 悦二郎氏の話を総合すると、”水晶製品の販売を兼ね
    て外国産の原石や製品調査”にあったようだ。
     茂太郎は、明治40年、40歳の若さで病没した。男勝りの気性の妻・さく は、女ひとりで竹森坑や
    乙女鉱山まで原石買いにでかけ、馬に積んで帰ると、弟子らがそれを印材に加工した。弟子には、
    野村 悦二郎、一瀬 米太郎、赤池 英次郎、一瀬 信重ほか二人がいたが、直接指導を受けた
    のは、野村氏のみだ。

     茂太郎の長男・政蔵は、研磨もしたが父に似て原石買いに動き、大正7年のブラジル原石を初め
    て輸入した時、東京・三栄貿易商会から見本を預けられ倉庫に入れて置いた。これを見た大森
    文衛、前島 四五六、千野 又次郎、土屋 勝次らがその素晴らしさに驚き、三栄貿易商会と
    輸入契約を結んだ。
     この原石は、”アメリカ石”だと聞いていたので、政蔵はこのとき、この見本が原石不足に喘いで
    いた水晶業界に起死回生をもたらす”ブラジル石”だとは知らなかった。翌年、甲府・篠原 正広
    東京・池山 秀、そして政蔵の3人は、ブラジル原石を日本貿易会社の手を通じて取り寄せたが、
    金銭争いが出て、利益はあまりなかった。
     それから間もなく、神戸市のオランダ・アジア商会がブラジル現地の商社から委託を受けて取り
    扱った原石500kgを政蔵、篠原 正広、静川村の深澤 幸太郎の3人で買い取った。この原石は、
    直径5寸玉もゆうに取れる大きな原石もあり、全量いずれも見事な石で、甲府の業者に高値で売
    れ、3人は大きな利益を得た。
     政蔵は、市川大門の居宅の2階に機械を据え付け、電気を動力にして印材切断を計画した。大
    正5、6年頃といわれるが、長続きしなかった。丹澤一門としては活動家で、研磨の方では玉の製
    作を得意としていたが、世に謳われるほどの実績は残していない。政蔵は、酒豪だった。篠原、
    深澤と組んで、原石買いや大玉売りで利益を得たものの、酒に費やすことが多かったようで、
    昭和13年に没した。

 3.3 「清玉堂」の一瀬
     長田 市郎太の子・宗善が甲府柳町に「含章堂」という店を出し、篆刻の腕をふるい始めたのは
    明治20年ごろだ。市郎太-宗善の二代しか続かなかったが、明治初期の一つの系統を形つくった。
     同じころ、市川大門村出身の一瀬 熊次郎が甲府・柳町三丁目に「清玉堂」の店を出し、水晶細
    工品を店頭売りする一方、裏の作業場で研磨を始めた。熊次郎23歳のときで、師がだれだったか
    不明だが甲府の土屋 宗幸(「推金堂」)系統と言われている。

         
                   連環印                       花瓶・水差し・皿・母子印
                             一瀬熊次郎の代表作
                           【「水晶ものがたり」より引用】

     熊次郎は昭和17年に没したが、熊次郎と後妻・しずの との間に生まれた三男・増次郎が水晶業
    を継ぐことになったが幼なかったので、増次郎が成長するまで、母・しずのと姉・千代が家業を受け
    継ないだ。増次郎の時代になると、販売面だけの営業となり、戦時中は日本特殊研磨株式会社
    に企業合同したまま、戦後は廃業した。
     熊次郎の弟子・長田 白太郎が竪金習町、ついで櫻町に店を出し、「長田清玉堂」を名乗り、
    印材と大玉が得意だった。

4. 丹澤 喜八郎の足跡

    「水晶宝飾史」や「水晶ものがたり」などから、喜八郎と丹澤姓の水晶業者の断片的な足跡が得ら
   れた。これらを時系列に並べてみる。

     
                喜八郎と丹澤姓の水晶業者の足跡

    これらから、次のように、推理してみた。

    (1) 喜八郎の生没年は未だ不明だ。喜八郎の名が最初に見えるのが明治29年、この時25歳〜
       30歳だったとすると、生まれたのは幕末〜明治初年となり、明治元年生まれで「天晶堂」を
       創立した茂太郎と同じ年代だっただろう。
    (2) 最後は私が骨董市で入手した年賀状にある明治43年1月だ。とすると、40歳代で表舞台か
       ら消えたのだろうか。
    (3) 市川大門村・丹澤一門の「暎泉堂」や「天晶堂」の系統の出身ではなさそうだが、卯之吉と
       茂太郎の父親・六郎左衛門と父親が兄弟だった、つまり彼らとは従兄(いとこ)同志だった可
       能性はある。
        そうすると、喜八郎は甲府に進出する前に、15歳くらい〜25歳くらいまで、市川大門で研磨
       などの水晶細工の技を習得していた、と考える。
    (4) 明治24年に「桜町 丹澤 駒二郎」の名が見えるが、駒二郎は父親もしくは兄などの肉親で
       その跡を継いだか、頼って明治29年に「桜町四丁目裏」に進出した。

        上でも明治時代の水晶店の様子を記しておいたが、”表”は店構えし製品を販売し、”裏”で
       は、水晶細工する職工たちが働いていた。”ウナギの寝床”のような店構えは、京都の町屋
       と似ている。
        最初は、水晶加工をする”裏店(うらだな)”に居住し、明治29年には、『細工のよいのと価
       の廉なるにて評判の国産水晶店』の一つとして紹介されているところから、”表”で販売もす
       るまでになっていた。
    (6) 明治35年には、「春日町」に引っ越した。骨董市で入手した中央線が開通する(明治36年)
       以前の古地図を見ると、春日町は柳町の隣りだ。「春日通り」に面した店(たな)に移り、販売・
       製作の規模を大きくしたと思われる。

        
                             甲府古地図
                           【明治20年前後?】

    (7) 明治39年までに、柳町に再び戻っている。同業者が多い柳町の方が商売がやり易かったの
       だろう。 水晶採掘を描く絵葉書 その2 
       のページにも書いたが、明治末期、原石入手難にあえぎ、休業や廃業する業者が多かった。
       「柳町通り」に面した空店(あきだな)に入ったのだろう。
    (8) 明治42年までに、『 丹澤水玉堂 独立経営 水晶採掘山 』 を経営するようになった。「天
       晶堂」・茂太郎の妻・さく や 長男・政蔵などの原石買いの面白さと旨味(メリット)を見聞き
       していた喜八郎が原石買いから自分の水晶採掘山を経営するようになるのは、ある意味で
       自然の流れだったかも知れない。
    (9) 科学が進んだ現在でも悩んでいるように、晶洞を見つける法則があるわけでもなく、ツル
       (水晶脈)を追ってカマ(窯:晶洞)を探すのは簡単でなく、運よくカマが開いたとしても、坑夫
       たちの中には、良質な水晶を穴の中に隠匿するという者もあったので、資本家の手に渡すの
       は粗悪な原石が多かった。そんなところから、『水晶を掘れば必ず破産する』、というジンクス
       があった。
        水晶山を経営し、原石の安定確保に努めていることをアピールした年賀状だったが、その
       後の喜八郎の消息は途切れている。
        ジンクス通りに水晶山の経営が思わしくなかったのか、あるいは喜八郎の健康問題などが
       起こったのか、杳[木の下に日:よう]として知れない。

5. おわりに

 (1) 終(つい)の住み処(か)
      小林一茶の「これがまあ 終の住み処か 雪五尺」を実感させる週末だった。甲府盆地は、
     2014年2月14日(金曜日)から降りはじめた雪が、15日(土曜日)の昼前まで降り続いた。15日
     朝、テレビを点けると、甲府の積雪が110cmで、明治27年(1894年)の観測開始以来、最多に
     なったと伝えていた。

          
               甲府駅前 110cm!!                     天気予報
                           甲府観測開始以来、最多積雪量
                             【NHKニュースより引用】

      結局積雪量は114cmだったらしい。観測開始以来120年間で最多だったことは判ったが、何年
     ぶりの大雪だったのか、本当のところはだれにもわからない。

      土曜日の朝食の後、雪が小降りになったので雪かきを始めたが、人一人が通れる幅を確保す
     るのが精一杯だ。見かねて、斜向かいの家の青年が手助けしてくれ、何とか住宅の入口まで
     道をつけた。大汗をかき、シャワーを浴びて、グッタリだった。
      翌、日曜日の朝食の後、県道「昇仙峡ライン」まで200m弱の道路の雪の状況を見ると、とても
     車が通れそうにない。雪かきを始めてしばらくすると近所の道沿いの人も出てきて、昼前には、
     なんとか県道まで車が通れるようになった。この日も大汗をかき、シャワーを浴びて、グッタリだ
     った。
      豪雪地帯では、週に、場合によっては日に何回か雪かきが必要らしいので、とても暮らせそう
     にない、と悟った。

          
                土曜日朝                    日曜日昼前
                         自宅前の雪かき

      雪かきしているの人の半分以上は、私と同年輩で、男性に混じって女性もチラホラいる。私を
     含め、10年後には、自力では雪かきできない人たちだ。
      これだと、若い人(65歳以下)の人たちに世話をかけることになりそうだ。

      以前にも、「終の棲家」について何回か書いたことがあった。その時々で、原発事故、公共イン
     フラの整備状況、自治体の財政などを反映した内容だった。

       石の「用と美」
       ( Usage and Beauty of Stones , Chiba Pref. )

      先週の新聞に「山梨県に移住したい人が急増 」、の記事があった。地方への移住を支援する
     NPO法人「ふるさと回帰支援センター」(東京都)は、昨年1年間に同NPO窓口を訪れた相談者
     を対象に移住希望先を尋ねたアンケート調査で、山梨県が全国2位の人気を集めたと発表した。
      前の年の同じ調査で15位から、2位に急上昇した。ちなみに、1位は3年連続で長野県が獲得
     し、3位岡山県、4位福島県、5位熊本県と続いた。

      2013年に、富士山が世界文化遺産(自然遺産ではない!!)に指定され、中央リニア新幹線
     が2027年に開通すると発表された。
      「山梨が首都圏から近く、自然が豊かなことを再発見し、移住を希望する人が増えたのでは」と
     話している。

 (2) 「湯沼鉱泉」近況
      山梨県の大雪のニュースが全国放送され、心配した多くの石友からメールや電話をいただい
     た。JRは運休、高速道路は通行止め、そして国道は”渋滞”で進まず、土曜、日曜と新聞は来て
     いない。”陸の孤島”になっている。日曜の午後、渋滞に巻き込まれながら妻がスーパに買い物
     に行ったが、パン、肉、牛乳など全くなく、家にあるものを食べている。

      兵庫のN夫妻からは、「MHの家は、鉱物標本と蔵書の重みにこの雪の重さが加わり、大丈夫
     ですか?」、と心配していただいた。
      安普請のせいか、障子の開け閉めが渋くなった箇所があったり、庭木の枝が折れる程度の
     被害で済んでいるので、ご安心ください。
      こうして、身を案じてくれる石友が全国いるのは、有難いことで、感謝している。

      京都のTさんも心配して私のところに電話をくれた後、再び電話があった。湯沼鉱泉に電話した
     ら、浴槽の屋根が雪の重みで崩れ落ちてしまったらしい。
      慌てて、湯沼鉱泉に電話すると、お姐さんがでてくれ、「雪が軒下まであり、犬小屋まで雪を掘
     りながら一時間もかかった」、と話してくれた。問題の浴槽は、完全に屋根が抜け落ちてしまった
     らしい。

      年末、お歳暮を持参して以来、ご無沙汰していた。正月早々、風邪を引き、咳がひどくて、恒例
     の鉱物同志会の新年会も欠席せざるを得なかった。
      咳が長引くので、医者に行き、レントゲンを撮ると、肺が炎症を起こしている(俗に肺炎)ので、
     抗生物質を出してもらい、ようやく快方に向かった。

      今週半ばには、また雪が降る天気予報だが、近いうちに、湯沼鉱泉に雪害見舞いに行こうと
     思っている。

6. 参考文献 

 1) 山梨縣水晶商工業協同組合編,水晶,同組合,昭和27年
 2) 山梨県編:山梨県史 第一巻,山梨県,昭和33年
 3) 篠原 方泰編:水晶宝飾史,甲府商工会議所,昭和43年
 4) 大森 文衛:水晶ものがたり,大森 昭次,昭和46年
 5) 山梨県編:山梨県史 資料編16 近現代3,山梨県,平成10年
 6) 山梨県編:山梨県史 通史編5 近現代1,山梨県,平成17年
inserted by FC2 system