(2004年2月聴講)
「印章資料館」で解説をしていて、昔は自身でも水晶印を彫っていたという人の
話では、『建物は造っても、収納するものが集まらないのでは・・・・』と漏らして
いました。山梨県の名産は、葡萄と水晶と言っても、古い水晶標本や加工品は
散逸してしまっていることを指しての発言でした。
『 士農工商という厳しい身分制度によってしばられた、暗くて息苦しい時代―これが
3.2 講演会レジュメ
3.3 講演内容
(Museum of Seals , Rokugou Town , Yamanashi Pref.)
3. 田中先生講演
3.1 講演趣旨
講演会の案内で配られた資料には、今回の講演趣旨が次のように記されていました。
江戸時代の一般的なイメージでした。
ですが、本当にそうでしょうか?
鉱山をめぐる様々な歴史を追うことで、これまでとは違った江戸時代像が見えて
きました。鉱山の開発は、新技術をもたらし、多くの人々の往来を促し、経済を
活性化しました。鉱山は「江戸の元気」の原動力だったのです。
今回の講演会では、山の恵みが生み出した豊かな歴史を紹介します。』
1.石見國大田八幡宮寄進の経筒
2.神屋寿禎
3.貨幣としての銀
4.製銅所村の禅門慶寿のこと
5.黒川金山
6.佐渡に行った甲州関係者
田中先生の講演は、レジュメの1〜4には殆ど触れられなかった。
5の「黒川金山」については、「天正(1570年)の武田勝頼時代に『金は出ないが
頑張れ』と言った」程度のお話であった。
話の主体は、6の「佐渡に行った甲州関係者」であった。
(1)甲州から、佐渡金山関係者として、36人が行っている。歴代役人の総数が200名余りで
その約1/6が甲州(甲斐國)出身者で占められている。
(2)主な甲州出身者
@大久保石見守長安
慶長8年(1603年)〜17年(1612年)佐渡金山奉行を勤め、その手紙の多くが
佐渡に残っている。
A田辺十郎左衛門
大久保長安の目付として、大久保山城守と名乗り、長安の佐渡金山経営に関わり
長安の死後、一門に下された誅罰にも会わず、田辺十郎左衛門と改名し、長安の
後任として、佐渡奉行を勤めた。
B鎮目市左衛門
寛永3年(1626年)、水車で鉱石を砕く方法を導入するなど、歴代の奉行の中で
傑出した1人。
C井口祖兵衛
佐渡から、越後(今の新潟県)・塩沢に行き、水利事業に携わる。
D井上権兵衛
佐渡から尾張(今の愛知県)に移った。
E井沢覚兵衛
甲州・武田時代は栗原左兵衛と名乗り、足軽頭を務めた。
などなど
(3)山梨県立博物館へのご提案
『山梨でしか見られないものを展示して欲しい。甲斐の黒駒、甲州金、鉱山博・など』
4. おわりに
(1)1時間という、短い時間で、先生の学識の片鱗しかお聞きできなかったのは
非常に残念でした。
地方にいると、著書を通じてしか、接することができないのでしょうか。
(2)「山梨県立美術館」は、ミレーを初めとする、印象派の絵画を集め、毎年多くの観光客を
招致しており、文化的、経営的の両面から見て成功していると思います。
県立博物館は、文化的な必然性、経営的な採算性、いずれも疑問です。
建設、維持費は県民(私もその1人)の負担であることを忘れないで欲しい。
5. 参考文献
1)田中 圭一:日本を変えた鉱山―技術・人・貨幣一,山梨県立博物館(仮称)第5回講演会,2004年