異聞・奇譚 「天保通宝」 玉塚天保銭 その2 伝記・『玉塚天保銭翁』












               異聞・奇譚 「天保銭」
           玉塚天保銭(たまつかてんぽうせん)
            その2 伝記・『玉塚天保銭翁』

1. はじめに

    2014年7月、某地方都市の骨董市で入手した変わった刻印のある天保銭が『玉塚天保銭』
   呼ばれる一枚だと知って次のページをまとめてみた。

    ・ 異聞・奇譚  「天保通宝」
      玉塚天保銭(たまつかてんぽうせん)
     ( Strange Stories and Curious Tales on ”Tenpousen”
       ” Tamatsuka-Tenpou ” , Yamanashi Pref. )

        
             銭面(表)                    背(裏)
                       「玉塚天保銭」

    初代・玉塚栄次郎についてインターネット情報でなく原資料で調べてみたいと思い立ち、古書を
   探してみると、栄次郎の13回忌に玉塚商店が発行した『玉塚天保銭翁』という伝記があることが
   わかった。問題は価格で、一番廉いものでも6,000円もするため年金生活者としては考えてしま
   った。
    山梨県立図書館を訪れ、貸し出し・複写可能な条件で他都道府県の県立や大学図書館から取
   り寄せを依頼した。10日ほどして山梨図書館から携帯に「依頼した本が届いていたと」いう電話が
   あり、早速借り出した。

    『玉塚天保銭翁』の内容は、翁の一生と事業運営、天保銭主義、そして天保銭会員と社員の追
   悼記で構成されている。翁は立志伝中の人に共通する幼少期から苦難を克服し、株式会社「玉
   塚商店」のトップとして事業運営にあたり、自らの体験から『節約・貯蓄』を柱とした天保銭主義を
   唱え、会員は10万人を数えたとある。

    上のページで引用した『舌代』は、『天保銭の掛額』として全国各地の小学校・集会所・理髪店な
   どに寄贈されたものらしい。私が借り出した『玉塚天保銭翁』も「玉塚商店」が「石川県立図書館」
   に寄贈したものだ。このように、事業で得た利益を社会に還元することを忘れない経営者でもあっ
   た。

    原典を入手したことで、上のページではあやふやだった『舌代』全文を明快にすることができ、
   いつもながら原資料に当る大切さを再確認した。『天保銭主義』を奉じて生活するのも良いが、み
   んながみんな『節約・貯蓄』では、デフレからの脱却は難しく、悩ましい問題だ。
    ( 2014年8月 作成 )
    

2. 初代・玉塚栄次郎13回忌記念誌・『玉塚天保銭翁』

    山梨県立図書館を通じて、石川県立図書館から取り寄せてもらった『玉塚天保銭翁』は栄次郎
   の13回忌に玉塚商店が昭和7年(1932年)に発行したものだ。
    全402ページで、巻頭には写真も多く挿入され、扉には翁の唱えた天保銭主義を象徴する「天
   保銭」の図が描いてある。また、この本が「玉塚商店」から「石川県立図書館」に寄贈されたことを
   示す印も押してある。

     
          「天保銭主義」の象徴・天保銭を描く装丁

     
                「玉塚商店」からの寄贈印
                【「玉塚天保銭翁」より引用】

3. 玉塚天保銭翁の一生と玉塚商店

 3.1 誕生から丁稚時代
      栄次郎は、幕末の万延元年(1860年)、小島五平治の五男として、江戸西河岸に生まれた。
     生まれてまもなく父親が亡くなり、一家はますます窮乏し、栄次郎は親戚の玉塚榮蔵の養子に
     出された。

      時は幕末、養父の商売は日に日に衰え生活苦は深刻になり、折からの大飢饉で芋粥の施し
     を受ける列の中に栄次郎の姿があった。

      明治6年(1873年)、13歳の時に日本橋伊勢町の砂糖問屋・堺屋に丁稚として住み込んだ。
     堺屋主人が突然病に倒れ、初次郎は牛込横寺町の浅田医師のところまで、薬を取りにいく役
     目を仰せつかった。主人夫婦は栄次郎の労をねぎらうつもりで、行く度に天保銭2枚を昼飯代
     として与えた。この天保銭を無駄遣いすることなく貯蓄し、後年独立する際、その資金の一部
     とした。

 3.2 株仲買人としてスタート
      18歳のとき、薬石効なく主人が亡くなり、栄次郎は堺屋を出て神楽坂の知己を頼った。古団
     扇(うちわ)を売る夜店から栄次郎の商売人としてのスタートを切った。その後、横浜で銀塊の
     ブローカーになったりしていたが株取引の将来性に注目し、明治14年(1881年)知人の口ぞえ
     で日本橋兜町の株式仲買業・山縣保兵衛商店に住み込んだ。
      これより先、東京綿会社(後の鐘淵紡績、現カネボウ)が有望と見て株を買っていたが、その
     後、綿会社の業績は伸び、増資を受け、株価も高騰した。機を見るに敏な栄次郎はこの辺りが
     売り時と読んで持ち株すべてを売り払い、15,000円(現在の約1億6千万円)を得た。
      この行為が店主・保兵衛氏から店の資金を流用し株の売買を行ったとの嫌疑を受けた。再三
     弁明に努めたが保兵衛氏の疑いは解けず、栄次郎は15,000円に指を触れず、そのまま保兵
     衛氏に差出し、店を去った。

 3.3 「玉塚商店」創設
      明治24年(1891年)、31歳のとき、日本橋青物町に株式売買業・「玉塚商店」を創設した。開
     業に先立ち29歳のとき結婚している。
      「玉塚商店」は運転資金が少なく、資金繰りに苦労したようだが、若い頃の栄次郎はお世辞
     を言うのと頭を下げるのが不得手で、自然と後援者というものもなかった。
      青物町の店はきわめて手狭で、土蔵一棟と張り出しが付いていて、土蔵の1階が昼は事務
     所、夜は店員の寝室、2階は夫妻の居室、張り出しの1階は台所、2階は従業員の寝室だった。
     事務所には、営業用の電話が一本、金庫のほか古机と算盤そして大福帳などの至って質素
     だった。

      しかし、この場所を買収した新興成金によって明け渡しを迫られ、青物町の別な場所に移転
     した。顧客が増え店が手狭になった明治30年(1897年)、「開運橋」角にある敷地・建物が売
     りにでたのでここを買い取り、黒漆喰塗りの土蔵式店舗を建築し、翌年31年に移転した。
      ( 『玉塚天保銭』に「開運橋」と彫ったものがあるのは、この場所に因む )

 3.4 発祥の地に「玉塚商店」建設
      発祥の地の明け渡しを迫った新興成金は程なくして没落し、土地・建物は加島銀行のものに
     なっていた。そのころ、電車路線の増設の計画が持ち上がった。これによって、栄次郎の店や
     加島銀行の敷地・建物の一部が線路用地になり、狭くなり商売に支障をきたすと予想された。
     栄次郎は反対の陳情活動に加わってはいたが、「電車路線の建設は時勢、それより移転を決
     めた加島銀行の跡地の買取交渉」を命じた。こうして、坪1,000円(現在の約500万円)という
     相場の2倍の高値で加島銀行の跡地を買い取り、思い出多い発祥の地に「玉塚商店」を建設
     した。

 3.5 「玉塚商店」の発展
      「玉塚商店」が発展の礎(いしずえ)を築くきっかけとなったのは2度の戦争だった。
      ・ 日清戦争(1894〜1895年)
      ・ 日露戦争(1904〜1905年)

      一方、この段階まで「玉塚商店」の名が示しているように、個人商店の色彩が強く、栄次郎の
     独断・専行で運営されており、これに対する不満や批判が表面化しようとしていた。
      明治37年(1904年)秋、栄次郎は次のような改革案を発表し、法人組織へ移行する機運が
     醸成された。

      ・ 店則(数十箇条)の制定
      ・ 少年、準社員、社員の三級制導入
      ・ 社員は議員として、営業方針や店の制度改革にかかわる会議に参加・発言し得る
      ・ 店の資産と栄次郎個人の財産の区別

      戦争景気の反動として戦後不景気に見舞われたがそれらも乗り切り、大正3年(1914年)
     第一次世界大戦の勃発と共に、戦場とならなかった日本は好景気に湧いた。しかし、大正7年
     (1918年)のシベリア出兵を機に米価が暴騰し、全国に「米騒動」が広がった。第一次世界大
     戦が終結すると、大正9年(1920年)に株価は大暴落し、株式市場も休止するありさまで、商工
     業者の破産が続出した。

 3.6 玉塚栄次郎の最後

       
          晩年の玉塚天保銭翁
        【「玉塚天保銭翁」より引用】

      大正9年(1920年)11月21日、上野公園での会合に出席し、その帰途、「寒い、寒い」と身震
     いした。翌21日から病床に就いた。はじめは、軽い風邪くらいと思っていたが、意外にも容易
     ならぬ重症だと主治医に告げられた。
      12月15日、栄次郎は養子の商科大学生・光雄(2代目)を枕元に呼び寄せ、その顔を見つめ
     ていたがその瞼を閉じ昏睡した。12月20日、午前零時過ぎに息を引き取った。享年60歳だっ
     た。

4. 『天保銭会』活動

 4.1 天保銭との出会い
      栄次郎が『天保銭主義』の宣伝によって全国に名を知られるようになったのは、大正5年頃
     からと『玉塚天保銭翁』にある。この本を読むと、『天保銭主義』と呼ぶ『節約・貯蓄』を柱とした
     処世哲学を生み出したのは彼の人生経験の中で、次の2つの天保銭との出会いが大きく影響
     しているようだ。

  (1) 丁稚奉公時代の経験
       栄次郎は、わずか13歳で、砂糖問屋・堺屋に丁稚として住み込み、主人の薬を取りに行く
      たびに主人夫婦から昼食代として貰った2枚の天保銭を全部使わずに貯めておいて、後年
      独立するときの資金の一部に充てたことは繰り返し紹介した。成功した後も、この自らの体
      験から、『節約・貯蓄』の大切さを折に触れ周りの人々にも説くようになったのだろう。

  (2) 「天保銭主義」の起源
       「天保銭主義の起源」と題する節があるので、引用する。

       『 大正3、4年の頃だったと記憶します。其頃店の小僧の一人に長谷川某と云うものが居っ
        て、度々(たびたび)翁に小言を云はれました。或時翁は蟇口(がまぐち)から一個の天保
        銭を取り出して長谷川に与へ「よく之れを見るがよい。此の天保銭は當百と印(しる)され
        て百文の値にはなっているが、実際においては八十文即ち8厘にしか通用しない。お前も
        顔・形は人並みだが少し頭の働きが足りん所は恰度(ちょうど)天保銭だ。それでお前に
        之れをやるから肌身離さず持っていて、自分の足りない事を忘れぬようにしろ」と訓戒した
        のが、そもそもの起源となったのです。
         と云ふのは長谷川は店と立会場との使い役をしていたので、いつしか此の天保銭の
        一條が東株市場内に知れ渡り、その内新聞記者の訪問となって、だんだんと処世訓の
        意義が高調されるようになったのであります。                          』

       つまり、「天保銭」の通貨としての面と「少し足りない(人は完璧ではない)」という暗喩の面
      から『天保銭主義』という処世哲学が生まれてきたと考える。

 4.2 天保銭主義とは
      次の2つが「天保銭主義」とは何かを正しく伝えられると思い引用する。
  (1) 「天保銭の掛額」
       この内容は、前のページで紹介した天保銭会員に「玉塚天保銭」を配布するときに包んで
      いた「舌代」が印刷された紙の内容と同じもののようだ。

       『 私の小僧時代に遠方へ使いに行く時、昼食(ちゅうじき)の料として主人より天保銭2枚
        づつを貰いました。其時私はそれを皆は使はず、必ず幾分を貯へておきました。凡そ人は
        費すべき金と費してはならぬ金とを深くわきまへることが肝要と心得ます。又天保銭は
        八文で、自分も二文足りない人間と思ひ益々勉強すれば遂には當百になることが出来、
        随って腹も立たず慢心も起らず世渡りが安心と心得ます。この考より私は其昔を忘れぬ
        為め常に天保銭を肌身より離しませむ。                              』

       若い頃の栄次郎は悪筆で、それを書き写す小僧たちを泣かせたとある。あるとき井伊家に
      客として招かれ、その席上頼まれた揮毫でしみじみと悪筆の恥ずべき事を悟り、翻然書道に
      精進するようになった。
       各地の小学校や青年・処女(!)集会所、そして理髪店などに寄付した「天保銭の掛額」で
      大正3年に書いたものが残されているので引用する。

       
            「天保銭の掛額」
        【「玉塚天保銭翁」より引用】

  (2) 「天保銭主義八常」
       天保銭が八文(8厘)通用だったせいか、”八”という数字にこだわりがあったようにも思わ
      れる。
       栄次郎の説いた、8つの処世訓を紹介する。

       反省       己を天保銭と思ひ、知徳才能の足らざる人間と思ひて慢心憤怒不平など
                 起さぬ事

       向上       己を天保銭と思ひ、二分の不足を思ひて當百の人間にならんと奮闘努力
                 する事

       抑制       己を天保銭と思ひ、己の欲の十分を願はず八分目満足して二分は将来に
                 預け置くものと思ふ事

       貯蓄       己を天保銭と思ひ、常に収入の八分目にて生活し、二分の余裕は後々の
                 為めに貯ふる事

       節約       己を天保銭と思ひ、八厘ほどの端銭も凡て寶と思ひて軽々しく扱はぬ事

       堅忍       己を天保銭と思ひ、何事も一時に十分の功を思はず、急がず撓まず、
                 一分、二分と着実に進む事

       理財       己を天保銭と思ひ、金の用ふべき場合を能く弁(わきま)へ
                 無益の金を惜しみ、有益に使ふ金を惜しまぬ事

       精励       己を天保銭と思ひ、己の今日あるを喜び、一日一生のつもりにて業務に
                 励むる事

       「天保銭主義」の「八常」は”常に心がけるべき8つの大切”とでもいうもので、誰にでも理解
      でき、私でも全部は無理にしてもその1つか2つはすぐにでも実行できそうだ。全部やろうと
      思わず、1つでも2つでも着実に実行することができれば、すでに『堅忍』もできたことになる。

       このように解りやすい処世訓であったことから、「天保銭会」の会員は10万人を数えたとあ
      る。『玉塚天保銭翁』には、これら会員から寄せられた感動の手紙も掲載されている。

 4.3 天保銭会の解散
      栄次郎が亡くなっておよそ3ケ月後の大正10年3月27日、本部において貯金会員に対する
     最後の大抽選会を行い、同日夕刻より天保銭会発展のため支援していただいた100余名を
     ステーションホテルに招待し会の解散を披露した。
      大正5年ごろに発足し、わずか5年の寿命だったのは、栄次郎個人のカリスマ性に依存した
     会だったからではないだろうか。

5. おわりに

 5.1 『鏡』 それとも 『鑑』
      『玉塚天保銭』を手にして、そこに彫られた『天保銭は人の鏡』を読んだとき、『鏡』の文字に
     違和感を覚え、この天保銭は贋物(がんぶつ:にせもの)ではないかと思ったほどだった。
      「手本」という意味であれば「鑑」の字をつかうべきで、ものを映す例(たと)えに使われる「鏡」
     誤りだと思ったからだ。『玉塚天保銭翁』を読むと、幼少時、貧しさの中で育ち、十分な教育を
     受ける機会がなかった事を知り納得した。

      後年、栄次郎は悪筆ゆえにかいた恥を雪(そそ)がんと熱心に書を学ぶようになり、その腕
     前は「日本書道会」や「全国書道大会」に出品するまでになっていた。大正6年と大正9年に出
     品した3点の書があるので引用する。

       
             玉塚天保銭翁の書
          【「玉塚天保銭翁」より引用】

      右の書には、『天保銭一顆以為終身鑑』とあり、『鑑』の字を使っていて、書を学ぶようなって
     気づいたようだ。

 5.2 『天呆穿人(てんぽうせんじん)』?!

      真ん中の書からは、栄次郎が『天保銭人(てんぽうせんじん)』と称していたことがわかる。

      『玉塚天保銭翁』を読むと、長寿の男性を意味する『翁』と言われた栄次郎は60歳で亡くなっ
     ているのだ。先日、男性の平均寿命が80歳を超えたというニュースがあったが、私は、栄次郎
     よりも10年近く馬齢(ばれい)を重ねていることになる。

      ”天然呆(ぼ)けの鉱物を穿つ(うがつ:音はせん=掘る)老人”から『天呆穿人』、とでも自称
     しようかと思っている。

6. 参考文献

 1) 玉塚天保銭翁編纂会編:玉塚天保銭翁,一鳳社金山印刷所,昭和7年
 2) 小川 浩著:古銭の収集<新版>,徳間書店,昭和41年
 3) 日本貨幣商組合編:日本貨幣カタリグ2014,同組合,平成25年
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