異聞・奇譚 「天保通宝」 玉塚天保銭












               異聞・奇譚 「天保銭」
           玉塚天保銭(たまつかてんぽうせん)

1. はじめに

    2014年7月、某地方都市の骨董市を訪れた。ある露店の奥まったところに古銭が入った小箱が
   いくつかあった。この日は、ここだけが目的なので時間は”タップリ”あり、箱の中の古銭を一枚、
   一枚調べながら、”オャ?”、と思うものや欲しいものを抜き出した。

    ”オャ”、と思った1枚に、『天保銭』に刻印を打ち朱を入れた「近代絵銭」というか「改造銭」の類
   (たぐい)があった。方穿(ほうせん:中央の四角い穴)の仕上げが雑なのが気になるが、「本座広
   郭(ほんざこうかく)」だとすると極ごくありふれた1枚だが、銭面の左(向かって右)に『天保銭は』
   と右に『人の鏡』が分かち書きされ、背面の右には『玉塚榮次郎』、とそれぞれに”朱”が入って
   いる。私にとって、初めて見る手(種類)の「天保銭」だった。

        
             銭面(表)                    背(裏)
                       「玉塚天保銭」

    一通り探し終わって店主に値段を聞くと、5,000円の値が付いて店頭にあった「天保銭」の『山口
   ○○』や『薩摩△△』を売りたいらしい口ぶりで、「こんなのより、あっちの方が」、となかなか値段
   を言わなかったが、「天保銭が1,500円、他の雑銭は1枚300円」、とのことで、言われるままに払っ
   た。

    帰宅して、インターネットで調べてみると、この天保銭は、「玉塚天保」、と呼ばれ、『自(みずか)
   ら天保銭と称した男』・初代 玉塚榮次郎(1860年-1920年)が大正5年に組織した「天保銭会」の
   会員や関係者に配布したものらしく、何種類かあるようだ。
    榮次郎が創立した株式売買の「玉塚商店」は現在みずほ証券となり、玉塚榮次郎の4代目が
   ローソン社長の玉塚元一氏だということも知った。

    以前のページにも掲載したように、、明治初期に1文銭=1厘だったから、100文の表示のある
   通貨としての「天保銭」は、本来なら100倍の10銭として通用すべきところ、その12.5分の一の8厘
   としてしか通用せず、世の中の人から軽んじられることがあったようだ。

    ・ 陶貨
    ( Coins made of Cray , Tokyo )

    榮次郎が唱えた『天保銭主義』は、『収入の80%で生計を立てる』、という経済観念と『自分は
   完璧な人間ではない』、という謙虚さをベースにした処世哲学だったと受け取った。
    人口も減り、GDPも減少し日本経済がシュリンク(収縮)するこれからの時代、もう一度見直して
   も良いのではないだろうか。
    ( 2014年7月 入手・編集 )

2. 「天保銭」とは

    銭文にある「天保通宝(てんぽつうほう)」が正式な名称で、江戸時代末期の天保6年(1835年)
   に鋳造が始まり、中断しながら幕末まで発行され続けた。金貨や銀貨でない銭貨(銅貨)にもかか
   わらず、100文という高額であることを理由に、発行を発案した金座・後藤家の主導で鋳造が行わ
   れた。
    重量は5.5匁で、一文銭6枚(6文)足らずの銅を溶かして鋳型に流し込めば100文になる”おいし
   い仕事”に携わった幕府と後藤家は潤ったが、庶民はインフレに悩まされた。

    天保銭は大判小判と同じく金座で作ったからだろうか小判型で、銭面(表)には「天保通宝」、
   背(裏)には、100文に通用することを示す「當百」と大判小判と同じように後藤家当主の花押(か
   おう)が入っている。

        
             銭面(表)                    背(裏)
                         「天保銭」
                        【本座細郭】

    品位(組成)は銅78%、鉛12%、錫10%と定められ、見た目が”山吹色(黄色)”で、どこまでも小判
   を意識して造られたようだ。

    発行当初は、「日月のかわることなく天地とともに伝わらん」、と激賞された天保銭だったが、『薬
   九層倍』、ならぬ18倍( 100文/5.5文 ≒ 18 )のおいしさを財政難に悩む各藩などが見逃すはず
   がなかった。
    幕府から藩内通用銭の鋳造許可を得たあと、勝手に全国通用の「天保銭」を鋳造した藩があっ
   た。薩摩、筑前、土佐、南部(盛岡)、水戸、久保田(秋田)、会津、加賀、長州などの諸藩で、幕
   府に隠れて鋳造した「地方密鋳銭」が多量に出回るようになり、天保銭は価値を下げて行った。
    金座の管理下で鋳造されたものは『本座銭』、と呼ばれ、品質のバラツキが少なく良質だが面白
   味に欠け、地方で作られた『密鋳銭』の方が材質(=色)・銭文・形状にバラエティ(特徴)があり
   古泉家の人気(=評価)が高いのは人と同じようだ。

   安政年間(1850年)頃から寛永通寳銅一文銭、鉄一文銭、および真鍮四文銭などの通用について
  額面と実勢相場の乖離が激しくなり、文久永寳(四文銭)の発行に至り相場はさらに混乱し、文久
  2年(1862年)12月に、幕府は改めて天保通寳を100文で通用させるよう通達を出したが、実際に
  100文銭としての通用は困難との申し出もあり、幕府は慶応元年(1865年)閏5月に、鉄一文銭
  =1文および天保通寳=100文の基準に対し以下のような増歩通用を認めざるを得なくなった。

    ・ 寛永通寳背文銭および耳白銭:6文
    ・ その他寛永通寳銅一文銭   :4文
    ・ 寛永通寳真鍮四文銭      :12文
    ・ 文久永寳四文銭         :8文

    つまり、寛永通宝一文銭と天保通宝の交換比率は100:1ではなく、25:1となった。

     
        背文銭     耳白銭     一文銭    真鍮四文銭     四文銭
       【玉点文】   【中字次鋳】  【日光正字】  【文政小字】     【玉宝】
                       「寛永通寶」                「文久永寶」
                              幕末の銭貨

    天保銭は明治になっても一部の地方では鋳造され、明治2年に佐渡島で造られたものが知られ
   ている。通貨としては、8厘(現在の約100円)の価値で、廃貨になる明治20年まで使用できた。
      明治初年のはがき代が5厘だった。8/5×52円≒80円

3. 玉塚榮次郎と「天保銭主義」

 3.1 玉塚榮次郎の経歴
      榮次郎は、万延元年(1860年)11月、小島五平治の5男として、江戸日本橋の西河岸に生ま
     れ、幼くして親戚の玉塚栄蔵のの養子になった。
      苦労した甲斐があって、明治24年、33歳だ日本橋青物町に株式を売買する玉塚商店を開業
     した。翌明治25年には、正式に仲買人としての認可を受け、証券売買の仲買人そして金銀地金
     商として営業を開始した。
      養子を迎え2代目とし、会社は着実に発展し、「玉塚証券」となり、現在の「みずほ証券」につ
     ながっている。

         
                表                    裏
                   昭和7年「玉塚商店」年賀状

 3.2 『天保銭主義』
      榮次郎は、自らの処世哲学を『天保銭主義』と唱え、この趣旨にに賛同する人も増えた大正
     5年、「天保銭会」が誕生した。

      『天保銭主義』、とはどのようなものなのか、榮次郎の残した言葉から追ってみる。

      『 私の唱える天保銭主義は、之を実生活の上に施せば八分主義、即ち収入の八分を以て
       生活を立て、二分は之を貯蓄して、将来発展の資を作れ、不時の用意に備え置けよと申す
       のであります。     』

      『 天保銭主義というのは、八分目主義であります。自分は天保銭と同じように、人並より二分
       足りないという気持ちを以て事にあたれば、どんな苦労もつらくないし、腹が立つこともない
       わけです。また、一銭に2厘足りない天保銭でも、熱心に貯蓄していけば、いずれの日にか
       何万円という大金になって、大きな力を持つようになります。人間も向上心に燃えて努力す
       れば、その中(うち?)に第一流の人物になることが出来るものです。
        もし、日本中の多くの人が、私の言う天保銭主義に共鳴して、謙虚、勤勉、常に八分目の
       生活を続け、向上心を持って努力するならば、誰も不平や不安を抱かなくなり、日本の国は
       健全に発達し、幸福な社会が実現できると信ずるものであります。          』

      先の言葉が生まれる原体験が、「天保銭会」の会員に「玉塚天保銭」を配った時に包んでい
     たと思われる『舌代(しただい/ぜつだい:口上書』に綴られているので引用させていただく。
      大正甲寅一月、すなわち大正3年なので、「天保銭会」が正式に発足する前のもののようだ。

      
            「玉塚榮次郎」舌代
          【「趣味のブログ」より引用】

      『 私が小僧の時代は遠方へ使ひに行く時、昼食の
       代として主人から天保銭を一枚・・・・貰ふた事
       がありましても、       其時私ハそれを使ひ
       ませんで、           貯へておきました。
       何でも人は           □へすべき金以て□へ
       ・・・・・・・・・・・         金とを□別(わきまえる)のが
       肝要と心得ます        又 天保銭ハ八文で
       自分も亦二文足りない人だと思って居れバ
       腹も立たず世渡りガ安心と心得ました。此考から
       私ハ苦を忘れぬために天保銭を傍に所持致し居ります。
             大正甲寅一月        玉塚 榮次郎述     』

4. 『玉塚天保銭』

    榮次郎は廃貨(通用しなくなった貨幣)となった「天保通宝」を買い集め、自分の処世訓を彫り込
   んで、「天保銭会」の会員や関係者に配った。これらの天保銭を『玉塚天保銭』、と呼び、彫られて
   いる文字に何種類かあるようだ。

     『天保銭は人の鏡』
      もっとも量が多いようだ。最初は一枚一枚タガネで彫り込んだようだが、会員が増え間に
     合わなくなり、プレスで打刻するようになったようだ。
      私が入手したのはこの多量生産品の一枚だ。

     『天保銭は吾が鏡』
      「人の鏡」と同数作られたとされるが、「吾が鏡」のほうが少ないようだ。

     『海運橋』
      海運橋は玉塚証券の発祥の地。「海運」は「開運」につながるのだろうか。

     『山石』
      山石とは、”^”の下に”石”。面と裏に打刻されている。上の年賀状から判るように、玉塚の
     屋号は「角ヱ」だから、何の記号なのか不明。

     後鋳品
      「玉塚天保銭」の形をしているが、銭文の丸みなどから本物の天保銭ではなく、後世に鋳造
     した品。
      「天保銭会」で配布したものなのか、はたまた「玉塚天保銭」が普通の天保銭の10倍くらいの
     値段で売買されていることから儲けを狙った”贋物(がんぶつ:にせもの)”なのか、私には鑑定
     眼がない。

              
             面            背              面            背
                  『吾が鏡』                       『海運橋』

            
             面            背                      後鋳品
                  『山石』                      【2014年7月ヤフオク品】
                          各種の『玉塚天保銭』
                     【「天保銭の小部屋」、ヤフオクより引用】

5. おわりに

 5.1 『天保銭主義』
      玉塚榮次郎は、少年期の小僧時代に、主人から昼食代として貰った天保銭(8厘:現在の約
     100円)を使わずに貯めておいた。青年期に、それらが元手となって自分の会社を立ち上げる
     までになり、”貯蓄の大切さ”を身をもって実感したのだろう。小僧時代、後年は会社経営者と
     していろいろな辛苦があったのは想像に難(かた)くなく、窮地を乗り越える(あるいは招かな
     い)ためには、”謙虚さ”も大事だと悟ったに違いない。
      榮次郎が唱えた、『天保銭主義』のフィロソフィーの2本柱は、彼の実体験から生まれたもの
     だけに共鳴する人は多く、「天保銭会」会員は10万人を超えたとも伝えられている。

      最近話題になっているのが、雑誌『中央公論』の6月号に載った「消滅する市町村523〜壊死
     する地方都市〜」という記事だ。
      20歳〜39歳の若い女性人口に着目し、現状の出生率(合計特殊出生率は1.41)と社会的移
     動を前提とした場合に、四半世紀後の2040年で人口が1万人を切る自治体が523自治体にの
     ぼるとされている。
      私が住む山梨県でも、2014年2月の大雪で数日間孤立した山間部など現在でも過疎化が進
     んでいる自治体は存続すら危ぶまれている。
      一方、甲府盆地中央にある昭和町のように人口が増加している自治体もある。その魅力(特
     徴)は次のようだ。

      ・ 働く場(工業団地)が近くにある。
      ・ 大型ショッピングモールが近くにあり買い物や生活に便利
      ・ 持ち家が比較的容易(隣接する甲府市に比べ地価が安い)
      ・ 小さな役場(周辺の同じ人口規模自治体の6割の職員数)
      ・ 充実した公共施設(分散して造らず一箇所に集中)

      以前のぺージで、”終の棲家(ついのすみか)”として何回か紹介した事態が現実味を帯びて
     きているようだ。

      ・ 石の「用と美」
       ( Usage and Beauty of Stones , Chiba Pref. )

      ・ ミネラル・マーケット 2013
       ( Mineral Market 2013 , Tokyo )

      ” さあ、どうする Mineralhunters ”

6. 参考文献

 1) 小川 浩著:古銭の収集<新版>,徳間書店,昭和41年
 2) 日本貨幣商組合編:日本貨幣カタリグ2014,同組合,平成25年
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