茨城県常陸大宮市玉川のメノウと珪化木

     茨城県常陸大宮市玉川のメノウと珪化木

1. 初めに

   ひたちなか市でのコンサルタント業も残り2週間となった。ここにいる間に訪れて
  おきたい産地の1つが「常陸大宮市の玉川」だった。

   ここは、私のHPに記載してあるように、過去に数回訪れていたが、行ってみる気
  になった理由の1つは、会社のKさんが、私のHPを読み、石好きの子供にせがまれ
  玉川にメノウ(瑪瑙)を拾いに行ったが護岸工事がしてあって見つからなかった、
  と言っていたので、最近の状況を知りたかった。
   もう1つの理由は、2006年7月、赴任してきてすぐ、山梨に置き忘れてきた「常陸
  風土記」を買い込み、この本に記載されている鉱物産地を回ってみようと思ってい
  た。
   しかし、帰任間際になって振り返ってみると、1つも訪れていないので、せめて近
  くの「玉川」だけは、となった次第である。

   産地は護岸工事がしてあったが、砂利の堆積があちこちに見られ、その中から
  赤〜黄〜白(半透明)までのメノウ(瑪瑙)と珪化木が1時間ほどでかなりの数拾え
  2001年に初めて訪れた当時と余り変わっていないことが確認できた。
   早速、会社のKさんに、見本を差し上げ、最新情報を教えてあげるつもりだ。
  ( 2007年3月採集 )

2. 産地

   国道118号線を常陸大宮に向かって走ると、「静」の信号がある。ここから数km
  のところに、「静神社」があり、このあたりが風土記にある「綾織(しどり)の里」に
  比定されている。
   さらに118号線を北に進むと、「玉川」がある。この上流、玉川が、水郡線と交わ
  る鉄橋あたりから上流の「矢口橋」までの両岸が産地である。

      
     水郡線鉄橋【上流から】      矢口橋【上流を見る】
                玉川のメノウ産地

3. 産状と採集方法

   川岸の砂礫層(褐鉄鉱が粘結剤の役割をしていて堅い)に含まれていたメノウが
  洗い流されて川原や葦原に落ちているのを歩きまわって拾う表面採集になる。
  したがって、いかにありそうな場所の広い面積を探すか、で成果は決まる。
   今回のように冬枯れの時期には、葦原でも探しやすいが、雨が少ないため新た
  に表面に現れてくるものがないため、だんだん採れる数が減る。やはり、梅雨時や
  台風時期の大雨の後に訪れるのが良さそうである。

      
      川岸に洗い流され         葦の根に引っかり
                    産状

4.産出鉱物

 (1)メノウ(瑪瑙)/石英【agate/QUARTZ:SiO2
    風土記にある赤色から、黄色、そして白色(不透明)まで各種に色づいたものが
   採集できる。赤色の原因は、微細な赤鉄鉱だろうと思われる。インターネットを
   検索すると、単なる「石英」を「メノウ」としている例もあるので、間違わないで欲し
   い。

       
          全体に赤          白赤白のサンドイッチ
                    メノウ
 (2)珪化木/石英【petrified wood/QUARTZ:SiO2
     樹幹の細胞中に、水に溶けた珪素(シリコン:Si)がはいり、置換したもので
    材全体や部分的に蛋白石またはメノウ化したものも採集できる。

       
            全体               拡大
                    珪化木

5. おわりに

 (1)常陸風土記と鉱物
    2006年7月、赴任してきてすぐ、自宅に置き忘れた「常陸風土記」を買い込み
    この本に記載されている鉱物産地を調べてみた。

No  産  地 産 出 鉱 物  備     考
久慈郡静織里玉川メノウ火打ち石に適した
2久慈郡藻島駅の海岸碁石に加工して出荷
3久慈郡河内里青紺色の土 アオニ・カキツニと呼び
絵の具として利用
朝廷にも献上
4久慈郡薩都里白色の土絵の具として利用
5香島郡若松浜砂鉄 

    「常陸風土記」から「玉川のメノウ」の部分を引用してみる。

    『 郡の西□里に、静織(しどり)の里有り。上古の時、綾(しず)を織る機を
     いまだ知る人あらざりき。
      時に、この村に初めて織りき。よりて名づく。北に小水(おがわ)あり、丹
     (あか)き石交雑(まじ)れり。色は、ひん碧に似て、火を鑽(き)るにいと
     好(良)し。
     もちて玉川と号(なず)く 』

 (2)常陸風土記とは
     「続日本紀」によれば、和銅6年(713年)、古代天皇制を確立途上にあった朝廷が
    畿内と七道諸国に次のような命令を発した。

    「 諸国の郡郷の名称に好(良)き文字をつけること。郡内の産物について目録
     をつくること。土地の生産力状態を調査すること。山や川・原野の名称の由来を
     調べること。土地の伝承を古老から聞き取ること 」

     現在、出雲、播磨、肥前、豊後そして常陸の5ケ国が完全な形で、その他の国は
    逸文(断片)が知られている。

     常陸風土記の編者は、養老3年(719年)から養老7年(723年)ころまで国守
    ・按察使であった藤原不比等の第3子・藤原宇合(うまかい)と万葉歌人の高橋
    虫麻呂の共著とする説がある。さらに、行政区が郷里制で統一改称されたのが
    大宝令制の霊亀元年(715年)で、これ以前の状況を記述していることから、常陸
    国守・石川難波麻呂との説もある。

 (3)残り少ない茨城県での日々となった。できるだけ多くの産地を回って、現状を眼に
   焼き付けておきたいと思う。

6. 参考文献

 1)江原 忠昭:常陸風土記の世界,筑波書林,1989年
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