山梨県都留郡宝鉱山の開発者・岩村信平翁

山梨県都留郡宝鉱山の開発者・岩村信平翁

1.初めに

 山梨県には、乙女鉱山の「日本式双晶」、塩山市竹森「ススキ入り水晶」など
その姿・形の美しさで全国的に有名になっている鉱物がたくさんあります。
 しかし、乙女鉱山にしてもタングステンなどの鉱石の産出量は、山口県喜和田鉱山や
茨城県高取鉱山などに比べさほどではなく、鉱山そのものとしては余り有名ではありません。
 そんな中で、都留市にあった宝鉱山は、初め銅山、その後硫化鉄鉱の鉱山として
最盛期には200名近い人々が働き、一時期、日本有数の産出量を誇ったことは
意外と知られていないと思います。
 骨董店をのぞいていると、「郷土を築いた人達」という本が目に入った。パラパラと
目次をみると、「宝鉱山を開発 忘れられた岩村信平翁」というページがあるのに引かれ
購入した。
 「日本鉱山総覧」によれば、宝鉱山の草創期について『明治5年岩村善五衛門が鉱塊を
発見したのに始まり、明治27年鈴木政吉が坑道を開き、出鉱をみるに至った。明治38年に
三菱鉱業の傘下に入った。』とあります。
 「郷土を築いた人達」では、岩村信平氏(岩村善五衛門の息子か?)が苦心の末
宝鉱山を開発したが、この本が書かれた今から半世紀以上前の昭和26年(1951年)に
氏のことは殆ど忘れ去られている、と嘆いています。
 ここにその全文を紹介し、岩村翁の功績を偲びたいと思います。
(2004年2月調査)

2.「郷土を築いた人達」

  この本は、読売新聞甲府支局が編纂したもので”はしがき”には、次のように書かれている。

     表紙

 『昭和26年6月より8月にわたり、読売新聞紙上に掲載された「郷土を築いた人達」の記事を
  ・・・・・・集録・・・・・・。講和条約締結により独立した新生日本が誕生したいま
  郷土の文化、産業に今日の発展繁栄をもたらした先哲の偉業をしのぶことは・・・・・
  必要とおもう。』
とあります。
   45人の先達の業績について、県幹部職員から1高校生までが、筆をとっています。

3.「宝鉱山を開発 忘れられた岩村信平翁」

  この記事は、現都留市にある谷村高校の生徒であった里吉 益枝さんが書いたものです。
  「日本鉱山総覧」はじめ、鉱物、鉱山関連の書物の記述と若干違う点がありますが
  全文を紹介したいと思います。

     宝鉱山挿絵

  『南都留郡宝村の山奥にあった大幡山は、明治17年までは草木の生い茂るたゞの山に過
   ぎなかった。それがいま関東中部地方における五大硫化鉱山の1つに数えられ、年産硫化
   鉄鉱18,200トン、含銅硫化鉄鉱60トン、亜鉛鉱1,440トンを産する大鉱山となったのは
   全く発見者岩村信平氏の功績によるものである。明治17年から現在まで(注昭和26年)
   68年間にこの鉱山からは、硫化鉄鉱78万トン、含銅硫化鉄鉱5000トン、亜鉛鉱14,000トンが
   産出され、わが国産業の発展に役立った。そして、山腹にはいま146戸。人口750人の
   鉱山町が栄えているが、その8割までは”やま”で生活している人達である。
    発見者岩村信平氏は今からおよそ100年前安政2年(1855年)宝村の農家に生まれた。
   山歩きの好きな氏は明治17年(1884年)農繁期も終わった9月、いつものように山を歩いて
   いた時ふと大幡山の本社沢に一塊の含銅硫化鉄鉱の転石を発見した。それから家財を
   注ぎ込んでこの山の地質を調べ、ついにこの銅鉱山を開発したのである。発見当時から
   この鉱山の基礎を作った約10年間は、並々ならぬ苦労を重ねて同氏の手で経営されて
   いたが、(明治)27年〔1894年)資金上の事から鈴木政吉氏に譲られ、次いで(明治)
   31年(1898年)石井千太郎氏の所有となった。そしてさらに36年(1903年)、現在の
   経営者三菱合資会社に譲られ、型銅年額275トンという記録を出すようになった。
    今日では含銅量も次第に低下し現在は銅精錬を中止して、同時にその硫黄分
  (30%前後)を硫酸原料として販売しているが、発見当時から約70年間いかに多くの
   人々がこの鉱山のかげに生活して来たかを考えると、岩村氏の創業の苦心が苦心が
   うかがわれる。
    けれども現在では岩村信平氏の名を知っているものがあるだろうか、いまでは
   宝鉱山といえば岩村氏のことなど殆んど忘れられ、三菱合資会社をすぐに思い出すのが
   普通であろう。また鉱山を経営していた当時の岩村氏の豊かな生活を思うと現在の子孫の
   状況は実にお気の毒にたえない。世に尽した人々がだんだんと世間の人々に忘れられて
   行くのは実に残念であるが氏の場合にしてもそのころの資料が全然残っていないのは
   非常に惜しいことである。氏は大正14年〔1925年)8月71歳で死去宝村大幡の福源院に
   さびしく眠っておられる。』

4.おわりに

(1)今から半世紀前でも、「宝鉱山」の創業者は忘れられた存在だったようですから
   今では、すっかり忘れられています。
   「日本鉱山総覧」にある、鉱山の発見者・岩村善五衛門と岩村信平氏の関係も
   知りたいところです。
(2)宝鉱山のあった宝地区には、バス停「宝鉱山」はじめ「宝小学校」「宝郵便局」など
   ”宝”を冠した施設が残っています。
   宝郵便局前を通りかかったので、記念押印をしてきました。

     宝郵便局消印

5.参考文献

1)澤田久雄:日本鉱山総覧,日本書房,昭和15年
2)里吉 益枝:宝鉱山を開発 忘れられた岩村信平翁
         読売新聞甲府支局編纂 郷土を築いた人達,1951年
3)宝鉱山の歴史と自然を研究する会編:森の映画館,同会,1991年
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