『昭和26年6月より8月にわたり、読売新聞紙上に掲載された「郷土を築いた人達」の記事を
・・・・・・集録・・・・・・。講和条約締結により独立した新生日本が誕生したいま
郷土の文化、産業に今日の発展繁栄をもたらした先哲の偉業をしのぶことは・・・・・
必要とおもう。』とあります。
45人の先達の業績について、県幹部職員から1高校生までが、筆をとっています。
『南都留郡宝村の山奥にあった大幡山は、明治17年までは草木の生い茂るたゞの山に過
ぎなかった。それがいま関東中部地方における五大硫化鉱山の1つに数えられ、年産硫化
鉄鉱18,200トン、含銅硫化鉄鉱60トン、亜鉛鉱1,440トンを産する大鉱山となったのは
全く発見者岩村信平氏の功績によるものである。明治17年から現在まで(注昭和26年)
68年間にこの鉱山からは、硫化鉄鉱78万トン、含銅硫化鉄鉱5000トン、亜鉛鉱14,000トンが
産出され、わが国産業の発展に役立った。そして、山腹にはいま146戸。人口750人の
鉱山町が栄えているが、その8割までは”やま”で生活している人達である。
発見者岩村信平氏は今からおよそ100年前安政2年(1855年)宝村の農家に生まれた。
山歩きの好きな氏は明治17年(1884年)農繁期も終わった9月、いつものように山を歩いて
いた時ふと大幡山の本社沢に一塊の含銅硫化鉄鉱の転石を発見した。それから家財を
注ぎ込んでこの山の地質を調べ、ついにこの銅鉱山を開発したのである。発見当時から
この鉱山の基礎を作った約10年間は、並々ならぬ苦労を重ねて同氏の手で経営されて
いたが、(明治)27年〔1894年)資金上の事から鈴木政吉氏に譲られ、次いで(明治)
31年(1898年)石井千太郎氏の所有となった。そしてさらに36年(1903年)、現在の
経営者三菱合資会社に譲られ、型銅年額275トンという記録を出すようになった。
今日では含銅量も次第に低下し現在は銅精錬を中止して、同時にその硫黄分
(30%前後)を硫酸原料として販売しているが、発見当時から約70年間いかに多くの
人々がこの鉱山のかげに生活して来たかを考えると、岩村氏の創業の苦心が苦心が
うかがわれる。
けれども現在では岩村信平氏の名を知っているものがあるだろうか、いまでは
宝鉱山といえば岩村氏のことなど殆んど忘れられ、三菱合資会社をすぐに思い出すのが
普通であろう。また鉱山を経営していた当時の岩村氏の豊かな生活を思うと現在の子孫の
状況は実にお気の毒にたえない。世に尽した人々がだんだんと世間の人々に忘れられて
行くのは実に残念であるが氏の場合にしてもそのころの資料が全然残っていないのは
非常に惜しいことである。氏は大正14年〔1925年)8月71歳で死去宝村大幡の福源院に
さびしく眠っておられる。』