高橋是清と3つの金銀山











                高橋是清と3つの金銀山

1. はじめに

    2月の出来事といえば14日の「バレンタイン」を連想する人がほとんどで、26日に起きた「二・二六
   事件」を思い浮かべる人は少なくなってきただろう。
    東京に珍しく大雪が降った昭和11年(1936年)2月26日早朝、青年将校が率いる「反乱軍」が政府
   や軍の要人宅を襲撃した。このとき、“ダルマ”と愛称され、首相を経験した高橋是清大蔵大臣も7発
   の銃弾を受け、さらに袈裟懸けに切られ命を落とした。
    戦後、昭和26年12月1日発行された50円紙幣は「高橋50円」と呼ばれ、明治44年から大正2年まで
   日銀総裁だった高橋是清の肖像が描かれている。

    
                 高橋是清を描く50円札
                 【昭和26年12月1日発】

    
   昭和60年(1985年)4月18日に発行
  された「工業所有権制度100年記念」
  の切手にも高橋是清が描かれている。
  これは高橋是清が明治18年、初代の
  「専売特許所長」(現在の特許庁長官)
  を兼務していたことによる。
   所長だったのは32歳のときだったが、
  切手には一般に馴染み深い晩年の姿を
  採用したようだ。

    このように、明治から昭和にかけて幅広く活躍した高橋是清の生涯を調べてみると私の研究分野
   のひとつ、鉱物・鉱山関係ではペルーのカラワクラ銀山や群馬県天沼金山などの経営にことごとく
   失敗していたことを知った。

    2015年は、デフレからの脱却をめざす「アベノミクス」の成否が問われる年であると同時に太平洋
   戦争の終戦(敗戦)70年を迎える。
    高橋是清が大蔵大臣としてとった「放漫財政」の2番煎じが“異次元金融緩和”で、終戦の前には
   開戦があったわけで、その引き金の一つが二・二六事件との見方もできる。

    本稿をまとめるにあたり、ペルー銀山関係の貴重な資料を提供いただいた三井串木野鉱山・五味
   篤 社長に深謝いたします。
    ( 2015年1月 作成 )

2. 出生〜農商務省時代

    大島清著「高橋是清」のサブタイトルに“数奇な生涯”とある。その最後からもわかるように、波乱に
   満ちた一生だった。

    嘉永7年(1854年)、幕府御用絵師・川村庄右衛門と女中の間に生まれた。和喜次と名づけられ、
   すぐに仙台藩士・高橋覚治の家に里子に出され、後に養子になる。
    維新後、実父・庄右衛門は困窮し、団子店を開いたりした。是清は川村家と頻繁に往来した。庄右
   衛門の性格は、「細心留意の人で日記を欠かさず、純情の人」と記されている。是清が若いころから
   マメに記録を残し、異常なほどの記憶力で回顧談を語ることや一面お人よしなところがあり、奴隷に
   売られたり、ペルー銀山で騙されたりするのは庄右衛門ゆずり、と説く人もいる。

    11歳のとき、仙台藩留守居役・大童(だいどう)の計らいで、横浜の医師・ヘボンの塾で英語を学ぶ。
   13歳のとき、銀行のボーイとして働きはじめ、酒などをおぼえ、悪評が立ち、密航をくわだてたことも
   あった。
    慶応3年(1867年)、14歳のとき勝小鹿ら3名とアメリカに派遣されることになった。藩から相当の学
   費が支給されたが、是清は幼いという理由で、商館主ヴァンリードに託されたが着服されてしまう。
   ホームステイ先であるサンフランシスコの彼の両親に騙されて年季奉公の契約書と知らずにサインし、
   オークランドのブラウン家に、さらに税官吏に売られる。

    このころ日本では明治維新が大詰めを迎えていた。幕府が倒れたことを知った留学生たちが帰国する
   ためサンフランシスコに集まってきた。
    是清が奴隷に売られていると話すと、名誉領事・ブルークスに調停をたのみ、契約は破棄され自由の身
   になった。
    是清ら一行は、明治元年(1868年)12月横浜に着き、外国官権判事・森有礼(ありのり)の書生になり、
   英学や漢学を学ぶ。

    明治2年、新設された大学南校(東京大学)に入学するがすでに英語の読み書き、会話ができるので
   教官三等手伝いを命じられた。
    こうして是清は16歳で大学教官として英語を教えることになったが、正規の学校では学んでいなか
   った。このとき、フルベッキ博士が教頭として赴任し、是清は博士について勉強に励んだ。
    “好事魔多し“、悪友に誘われ芸者遊びを覚え、大学に辞表を提出する羽目になる。馴染の芸妓・枡吉
   の世話になっていたが、「こんなことでは」と思っていた矢先、唐津藩(佐賀県)が英語学校を建てると聞
   き、明治4年、18歳で教師として赴任することになった。
    英学を白眼視する中、辰野金吾ら多くの人材を育成した。明治5年、唐津藩が伊万里県に合併され、
   キリスト教徒を斬罪することになり、結局是清は東京に戻る。

    是清は、前島密に紹介され、大蔵省十等出仕として駅逓寮で郵便規則の翻訳などをしていたが前島と
   衝突し、辞表を叩きつけた。
    再びフルベッキ博士を頼り、自分が教師だった大学南校の後身・開成学校の試験を受け、生徒になる。
   明治6年、帰朝した森に久しぶりに会い、モーレー博士の通訳として文部省入りを薦められ、督学局十等
   出仕となる。モーレー博士が海外出張になると文部省の仕事はなくなり、大阪英語学校長へ転勤を命ぜ
   られるが受けず、仏教研究に凝る。

    

 明治9年、東京英語学校の教師になるが、
吉原で豪遊した肥田学校長に辞職を勧告し
自分もやめてしまう。
 またまた浪人となり、久しぶりに会った
福井に担がれて乳牛事業をもくろみ、2,000円
(現在の2,000万円)の保証人になり、騙され
てしまう。
 しかし、生活は10行20字詰1枚1円の
英文和訳と2〜2.5円の和文英訳という割の
良い翻訳で成り立っていた。
 是清1人では手が回らず、大学生を助手に
雇って稼いだ。


    明治11年9月に、東京大学予備門に英語教員として勤めることになった。さらに、共立学校(現開成高
   校)をはじめた。
    こうして予備校と翻訳で収入が増えると銀相場に手をだすが、政府が銀の売出しをやめたため損害を
   うけてしまう。
    明治14年、文部省に入るが新設された農商務省に移り、商標登録や専売特許制度確立の仕事に携わ
   ることになる。2年半を費やして立案した商標条例が明治17年に参事院を通り、商標登録所が設置され、
   是清は初代所長に任命された。
    発明専売規則も明治18年(1885年)7月から施行される運びになり、是清は初代の専売特許所長兼務
   を命ぜられた。
    是清はこの年11月欧米諸国へ特許制度調査のため出張を命ぜられる。明治19年3月、アメリカからイギ
   リスに向い、ロンドン滞在中にパリに行き、後年政友会をともに背負うことになる外務書記官だった原敬
   に会う。
    10月帰国の途につき、翌20年正月から商標条例、意匠条例、特許条例の起案に着手し、明治21年12
   月に3条例を公布し、翌年2月から実施の運びになった。
    同時に特許局独立の運動をはじめ、松方や井上の計らいで12万円(現在の12億円)をかけ、築地にレ
   ンガ建てのハイカラな庁舎を新築する。

3. ペルー銀山経営と失敗

    農商務省時代の是清に大きな影響を与えた人物が前田正名だ。前田は農商務省の書記官で、「殖産
   興業」が急務なことを唱えていた。会いにきた前田の『国家感』に是清は非常に感銘を受け、前田の要望
   で特許局長を辞職し、ペルーの銀山に手を出すことになる。

    話は15年ほど前にさかのぼる。ドイツ人ヘーレンは1874年ペルーに移住し、農業事業を進めたが収益が
   上らず、勤勉な日本人の移住を計画する。1876年使用人・ハーベルが来日し移住希望者を募集し、63名
   を採用し渡航申請したが、許可は下りず、一旦発給された旅券を返納する事態になり、日本政府に損害
   賠償を請求し7,300ドル(邦貨7,300円,現在の7,000万円)を受け取る。

    明治21年、へーレンは使用人・井上を日本に派遣し、ふたたび有力者に農場への資金提供(投資)と
   農民移住を働きかけることにした。このとき、ペルー産業紹介のつもりでカラワクラ銀山の鉱石を持たせた。
    井上に会った藤村紫朗(元山梨県令)は農場よりも銀鉱石に興味を持ち、東京大学・巌谷博士に鑑定を
   依頼したところ濃紅銀鉱を主とする高品位の銀鉱石と判明した。藤村ら5人が5万円をだして、組合を作る。
    現地調査が必要となり、明治21年11月、巖谷博士の推薦で採鉱冶金科卒・田島晴雄が井上とともにペ
   ルーに出発し、翌年の8月帰国して報告書を提出する。
    (この杜撰な報告書が銀山投資にミスリードすることになる)

       
           田島報告書にMH朱記              ガヴィラン露天掘(2013年)
                   カラワクラ鉱山【「銀嶺のアンデス」より引用】

    田島の報告書を信じた藤村紫朗らの肝煎りで大隈や井上を動かし、井上の下で農商務省次官をしてい
   た前田に話があり、是清にも株主になることを求めた。
    明治22年(1889年)10月、「日秘鉱業株式会社」の設立願いが出され、24人の株主の一人として資本
   金の1/10にあたる5万円(現在の2億円)を投資する。

    株主代表として現地入りを前田に懇願された是清は、明治22年11月16日横浜港を出港し、太平洋を渡
   り、翌年1月7日ペルーのカジャオ港に着いた。
    是清は1989年5月に田島と井上がへーレンと交わした「有限責任日本興業会社」の契約改定にあたり、
   農場を対象から外し、鉱業のみに絞った新契約を妥結する。
    2月12日、到着した坑夫たちを伴い是清は標高4,645mのカラワクラ銀山を目指す。21日カラワクラ銀山
   に到着し、25日に開山式を行い、27日に是清は下山しリマに滞在する。

    3月26日、急遽下山してきた技手・小池の報告は、「富鉱部はすでに採掘済み、残されているのは廃石
   (ズリ石)と同程度の貧鉱」、という驚くべきものだった。
    是清はへーレンの利権を6万ポンド(40万円、現在の16億円)で新会社が買取る再契約を結び6月5日
   に東京に帰着した。
    残された日本人坑夫らも9月に帰国し解散した。田島は詐欺罪で告訴され、懲役3年6ケ月の判決があ
   った。田島は正岡子規や秋山真之らと同じく予備門で是清が英語を教えた一人だった。

    ペルーでの銀山経営の失敗にも懲りず、是清は明治34年(1901年)に群馬県の天沼(あまぬま)金山に
   前田正名らと投資したが収益が出ず、4,500円(現在の約2,000万円)の負債を抱え放棄する。
    天沼金山は是清らが放棄したあとも個人によって小規模に操業され、昭和18年(1943年)に休山した。
   1932年から1942年までに金銀鉱石1,746トンを採掘し、品位は金20.8g/トン、  銀7g/トン、金36.3kg、
   銀12kgを産出した。

    2012年ごろ、鉱物愛好家によって富鉱帯が再発見され、鉱物標本市場にも多数出品されたのでいくつ
   か買い求めた。
    細かい水晶の上に、葉片(ようへん:木の葉の切れ端)〜箔状の自然金が立っているもので、金の品位
   が高いことを物語っている。

    
          天沼金山の自然金
          【マイ・コレクション】

    さらに、群馬県片品村の戸倉鉱山に年少の長男・是賢を送り込んで探査させたが、思わしい結果が得
   られず、撤退した。
    戸倉鉱山は後の根羽沢(ねばさわ)鉱山の一部と思われ、明治35年(1902年)に露頭が発見され、大正
   5年(1916年)日本鉱業が探鉱し、昭和10年(1935年)に三菱鉱業が買収し、金・銀鉱山として操業する。
    このころ、郵便局があったほど人も多く、「根羽沢鑛山」印を押した昭和切手を入手した。しかし、「金山
   整備令」の影響で、昭和18年(1943年)に休山する。
    昭和36年(1961年)に三菱系の荒川鉱業が操業を再開し、昭和61年(1986年)まで採掘した。閉山まで
   に採掘した鉱石32.2万トン。品位は金3.1g/トン、銀202g/トンで1トンの金と65トンの銀を産出した。

    2006年にミネラル・ウオッチング(鉱物採集)で根羽沢鉱山を訪れ、ここの代表的な金・銀鉱石で、結晶
   が紅色をしているところからルビー・シルバーと呼ばれる「濃紅銀鉱」を採集した。また、鉱石はトラックで
   茨城県の日立鉱山に運ばれて精錬されたと地元の人に聞いた。

       
      鉱山印を押した昭和切手(D欄群馬)           ルビー・シルバー(濃紅銀鉱)
              根羽沢鉱山の郵便局印と代表的な金銀鉱石【マイ・コレクション】

4. 日銀から政界へ

    鉱山での失敗で家屋敷を手放す羽目になる。敷地1527坪に洋館つきが4,500円(現在の2,000万円弱)
   にしか売れなかった。
   事情を知っている先輩・友人は同情し、なかでも無理にペルーに行かせた前田正名は責任を感じ、是清
   を日銀総裁・川田に引き合わせた。
    川田としては、『鉱山師(やまし)』の噂のある是清をいきなり正社員にするわけにもいかず新築中の
   日銀の建築所に年俸1,200円(現在の500万円)の事務主任として拾い上げた。明治25年、是清は39歳
   になっていた。

    明治28年、日銀との連携を改善すべく横浜正金銀行本店支配人として送りこまれ「正金の高橋か、高橋
   の正金か」、と言われるまでになり、副頭取に推され、明治31年、在外支店事務視察で欧米に出張する。

    明治32年2月、是清は突然日銀副総裁を命ぜられた。副総裁時代の功績は、日露戦争の軍事費(戦費)
   を賄うため何度も欧米にでかけ外債を募集したことである。
    ( 司馬の「坂の上の雲」に、外債募集でアメリカを訪れた是清と後にバルチック艦隊を破る作戦を立案
      した秋山真之との出会いが描かれている )

    外債募集の功績に対して、明治38年には貴族院の勅選議員に勅任され、明治40年には、男爵に列せ
   られる。明治44年、日銀総裁となる。大正2年2月、日銀総裁から政友会に入る。

    以下、是清の政界での動きを年表風に追ってみると、恐慌からの経済復興に尽力し、日中戦争そして
   太平洋戦争の開戦につながる右翼と軍部の台頭に最後まで抵抗し、命を落とした姿が読み取れる。

    ・ 1913年(大正2年)2月:第1次山本内閣の大蔵大臣に就任
    ・ 1918年(大正7年)9月: 原内閣の大蔵大臣に就任(2度目)
    ・ 1921年(大正10年)11月:原総理暗殺され内閣総理大臣に就任し、大蔵大臣兼任、政友会総裁
    ・ 1922年(大正11年)6月: 高橋内閣総辞職
    ・ 1924年(大正13年)6月:加藤高明内閣の農商務大臣に就任
    ・ 1927年(昭和2年)3月:金融恐慌はじまる。
                  4月:田中義一内閣の大蔵大臣に就任(3度目)
                     3週間の支払い猶予と大量の紙幣増発で恐慌を沈静化
    ・ 1931年(昭和6年)12月:犬養内閣の大蔵大臣に就任(4度目)
    ・ 1932年(昭和7年)5月:犬養総理暗殺(五・一五事件)で総理兼務
                     斎藤内閣の大蔵大臣として留任(5度目)
    ・ 1934年(昭和9年)11月:岡田内閣の大蔵大臣に就任(6度目)
    ・ 1936年(昭和11年)2月:二・二六事件で暗殺される。(享年83歳)

5. おわりに

 (1) 2015年の経済
      2015年の新年を迎え、気になるのは2015年の経済だ。2014年は @消費税率がアップした上、
     「アベノミクス」による A 物価高 B 極端な円安が引き起こされ、収入が伸びる見込みのない年金
     生活の私にとって、暮らしにくくなった、と実感する1年だった。

      わたしにとって、「デフレ」、「円高」は大歓迎で、火野正平のいう、 『人生、下り坂最高!!』なのだ。

      明治から太平洋戦争終戦後までの株価と物価の指標として郵便はがきの料金を重ねてみた。

       
                     高橋是清蔵相時期の株価と物価
                  【The Capital Tribune Japanの図に加筆】

      是清が蔵相だった20年間(1913年〜1936年)、マクロにみると株価は右下がりで、今と似たデフレ
     状態だったといえるだろう。
      ちょうど100年前に起きた第1次大戦では、戦場から遠くはなれていたため潤った日本だったが戦後
     のバブル崩壊の後、関東大震災という自然災害に見舞われ、さらに世界恐慌の影響が及び、日本経
     済は行き詰っていた。
      特に農村は深刻な不況に見舞われ、東北地方を中心に『娘の身売り』がさかんにおこなわれ、社会
     問題になる。軍隊の兵や下士官は農村出身者が多く、これらと直に接する青年将校の何とかしなけれ
     ばとの思いが二・二六事件を引き起こしたとの見方がある。

      不況から抜け出るために蔵相としての是清がとったのが「放漫財政」と呼ばれる金融緩和策だ。この
     手法は「アベノミクス」でも『異次元の金融緩和』などともてはやされたが、過去の不景気対策で繰り
     返しとられた常套策だ。

      このあと、政治家と官を巻き込んだ“金(かね)”にまつわるスキャンダルが起こると、政治不信になっ
     た国民の支持を得た軍部が台頭する。是清は国の進路を誤るような軍部の要求に抵抗して命を落す
     ことになる。

      この後、軍の暴走に命がけで歯止めをかける政治家は少なく、中国に進出した軍は満州国を建国す
     る。そして国際連盟を脱退に追い込まれ、世界の中で孤立していく。
      太平洋戦争開戦を目前にした昭和15年2月2日、斎藤隆夫は帝国議会で、3ケ月もあれば片付くと
     言っていたのが、始まって3年経つのに収束の兆しすらみられない支那事変に対する疑問という形で
     「反軍演説」を行うが、議会は斎藤の議員除名を決議する。こうして、昭和16年12月、米英蘭支を相手
     に無謀な全面戦争に突入する。

      重要案件を議会に諮らず「閣議決定」で決めてしまうなど、昨今の世の動きに当時と似たものを感じ
     るのは私だけだろうか。

 (2) 『コミケ』と『郵趣』
      「コミケ」をご存知だろうか。マンガやゲーム、アニメ、音楽、鉄道、SFなどのサブカルチャーのファンが、
     年に2回世界中から東京ビッグサイトに集結する「コミックマーケット(通称コミケ)」のことだと、1/12の
     NHKの放送をみて初めて知ったMineralhuntersだ。
      (見逃した方のための再放送 NHK総合 1月18日(日曜日) AM 3:00〜3:35 )

      あらゆるジャンルの同人誌がならぶ、“トップ・オブ・サブカルの祭典”と紹介されているが、売られて
     いるのは同人誌だけでなく人形、衣装、アクセサリーなど幅広い。放送の中で、「表現の自由と法規制」
     の問題を映し出す場面もあった。

      3日間の開催でなんと60万もの人を集める「コミケ」の魅力を出品者の一人は「ネットで見てくれてい
     るファンと直に会える」ことをあげ、購入者の一人は「手作りのここでしか入手できない作品がある」こと
     に価値を見出している様子だった。

      私の趣味の1つ、郵趣でも「スタンプ・ショー」が東京で3日間開催されるが、来場者数は7,500人と
     「コミケ」の1%強しかない。
      ここで売られる商品の中に、「FDC(First Day Cover:初日封)」と呼ばれる、発行された切手を貼って、
     発行初日に切手にちなむ局の印を押した封筒がある。それらのほとんどは、「○○版」などと呼ばれる
     画一的な大量生産品だ。

       

本稿をまとめるにあたり、
「工業所有権制度100年記念」
の初日カバーを探し、左の品
を入手した。

封筒には切手のデザインの
一部が2色で手書きされた、
“手作り感”一杯で、この様
な品に惹かれる私だ。


      『古希記念 南極ミネラル・ウオッチング』 に出発の日が近づいてきた。趣味のミネラル・ウオ
     ッチングだけでなく、各種の記念カバー作成・押印そして南極の郵便局事情調査など手当たり次第に
     楽しもうと思っている。

       『 やるのは、今しか ないでしょう 』

6. 参考文献

 1) 大島 清:高橋 是清 財政家の数奇な生涯,中公新書,昭和44年
 2) 五味 篤:銀嶺のアンデス,アンドレス・デル・カスティージョ協会,2014年



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