奈良国立博物館 「第68回 正倉院展」









       奈良国立博物館 「第68回 正倉院展」

    ( The 68th Annual Exhibition of Shoso-in Treasures , Nara National Museum )

1. はじめに

    2016年10月、新聞を読んでいると私の興味ある「鉱物(金属)」、「貨幣」、「歴史」に関する記事がいくつ
   か掲載された。

    @ 正倉院展に「アンチモン塊」初出展
       これまで「白銅塊」とされていた金属塊が分析した結果「アンチモン塊」と判明し、初めて出展された。
      同時に正倉院に伝えられている日本最初の流通貨幣「和同開珎」などが展示される。
       ( 10月22日〜11月7日 会期中無休 )

    A 奈良の都にペルシャ人役人
       平城京跡跡から出土した木簡にペルシャを意味する「破斯(はし:正しくは波斯)」という役人の名前
      が書かれていた。この木簡が平城宮跡資料館で開催される「地下の正倉院展」で展示される。
       ( 木簡は11月1日〜11日13日展示 10月15日〜11月27日 月曜日休館 )

         
        「アンチモン塊」                  「奈良の都にペルシャ人役人」
                  読売新聞記事より引用

    10月は月末に恒例の「秋のミネラル・ウオッチング」があり、その下見や準備などで遠出は難しく、終わって
   から行くことになる。両方を1日で見ようとすると11月7日までに行かなければならず、しかも休館日の月曜日
   やそれでなくても混雑する土日と祭日は避けるべきだと思うと必然的に10月31日に自宅を発ち、11月1日
   (火曜日)に展示を見学、その日は岐阜県中津川市周辺に泊まって翌日はミネラル・ウオッチングをして帰宅
   する2泊3日のスケジュールが決まった。

    日本を代表する観光地の一つ奈良に土地勘がほとんどない田舎の爺さんが車で行って動きが取れるのか
   気になっていた。奈良の石友・Yさんに、お薦めの駐車場などを問い合わせしたところ、奈良国立博物館近く
   の駐車場と奈良の観光ポイント情報を懇切丁寧に教えてくれた。まさに、『持つべきものは友』だ。
    こうして、何も不安のない状態で、寧楽(なら)の都に上るMHだった。
    ( 2016年11月 見学 )

2. 寧楽(なら)へ

    恒例のミネラル・ウオッチングが無事に終わった翌日の10月31日、朝食を終えて自宅を出た。11月1日の朝
   から「正倉院展」を見学する予定なのでこの日のうちに奈良に着けばよいので、ノンビリと下道を走り、何か所
   かで道草を食うことにした。

 (1) 長野県某所の骨董市
      ここでは、毎月月初めに骨董市が開催され、ほぼ毎月欠かすことなく顔をだしている。11月度は曜日の
     関係で10月31日から開催するというので、その初日に訪れた。

      
                             骨董市

      古銭・古文書・郵趣品などを探して15店ほどを見て回ると、オルゴールが置いてあった。金メッキした地に
     エナメル塗装した筐体の上蓋にバラを描く陶板を貼りつけた凝(こ)った造りだ。オルゴールの仕掛けが蓋
     (ふた)の部分に組み込まれているのも珍しい。曲名が孫娘の名前と同じ、” Kanon ” なのでプレゼントに
     しても良いなと思い買う気になった。

         
                  外観                              内部
                             「アンチモン」製 オルゴール
      手に持ってみて、ズシリと重いので、” ピン ” ときた。これは鉛に『アンチモン』を加えて鋳造して作った
     ものなのだ。「正倉院展」の『アンチモン塊』を観に行く道すがら出会ったのも何かの”縁”と、店主の言い
     値で購入した。

     【後日談】
      2016年11月4日、新しい切手「伝統的工芸品シリーズ 第5集」が発行された。「仙台箪笥」、「瀬戸
     染付焼」、「播州そろばん」など全国の伝統工芸品10点(種)をシートに収めたものだ。この中に、「東京
     アンチモニー工芸品」を描く1枚が納められている。(上段右から2枚目)

      
       「伝統的工芸品シリーズ 第5集」

      切手をよく見ると、金メッキした筐体、菫の花を描く陶板が貼りつけられた蓋など、私が骨董市で入手したものと
     同じ造りだ。

      
                「東京アンチモニー工芸品」切手

      東京の伝統工芸品として「江戸切子(きりこ)」は有名で知っていたが、「アンチモニー工芸品」があるの
     は、この切手の発行予告を読んで初めて知った。
      ただ、昔入手した戦前のエンタイア(封筒)の差出人の住所が東京・浅草で、取り扱い商品に『高級
     アンチモニー製品』とあるので、この周辺に地場産業が昭和8年(1933年)にはあったことになる。

         
      「アンチモニー」製品を扱う商店の封筒

      東京のアンチモニー工芸品の歴史と製造について、日本工業大学の松野先生らの論文が参考になる。
     これによれば、起源は明治10(1877)年とされ、明治維新で仕事を失った鋳物師・彫刻師 達が、鎧・兜・
     刀剣などの武具の製造技術を生かして探し求めたのがこの分野だった。
      アンチモニーは比重が6.69、融点が630.7℃の銀白色の光沢があるもろい金属で、西洋では16世紀頃
     から合金にして鏡や印刷用活字に使われた。
      アンチモニー製品といわれているが、鉛が80%〜90%、アンチモンが10%〜20%、さらに必要に応じて錫
     を少々混ぜた合金だ。この合金地金を溶かして鋳造した製品は、私がオルゴールを手に持って感じたよ
     うな”ズシリ”とした重量感があり、鋳肌(表面)は滑らかで、鋳造後の冷却時に収縮(鋳縮み)がほとんど
     無いという特性のために、鋳型に彫刻されてい る素晴らしい模様や繊細な文字等が鮮明に仕上がるの
     が、他の金属にない大きな特徴である。さらに、他の金属鋳物製品のどれよりもピンホール等の欠陥が少
     なく、メッキの乗りが良いため、金・銀・銅等のメッキ を容易に施すことができるので、見栄えの良い製品を
     作れること、金型代も安く、大きさやデザインの割に 安価に作ることができ、かなりの量産も可能で、納期
     も短いという、結構ずくめだ。

      当初、アンチモニー製品は日本橋を中心にして貴金属製品・銅器・錫器や煙草道具を扱う問屋商
     人の所に出入りしていた職人・下請け・仲買人によっ て持ち込まれて市場に出始め、その後、問屋が
     横浜の輸出業者に販売したことで輸出が始まった。
      輸出アンチモニー工芸品は、素晴らしい彫刻のある作品で、欧米諸国で贈答品として広く利用される
     ようになった。明治37、38年の日露戦争後、富国強兵の国策に従って外貨獲得可能な輸出産業に
     成長した。
      大正12(1923)年の関東大地震で東京の下町は大災害を蒙ったにもかかわらず、師弟や関連出入り
     業者、またその縁者としっかり結ばれているこの業界は、他の地に移転することなく、東京で再興した。
      昭和初期の恐慌にも業界の結束が固く、この不況を乗り越え、アンチモニー産業は不況に強いといわ
     れるようになった。
      戦時色が強まるにつれ、企業統制が進められ、さらに 「奢移品等製造販売制限」が施行され、太平
     洋戦争に突入すると企業の統合、さらには事業停止に追い込まれた。

      昭和20(1945)年の終戦1か月後には早くもアンチモニー製品同業組合再発足の集まりがもたれ、昭和
     25(1950)年の朝鮮戦争勃発による進駐軍の増加はアンチモニー製品の国内需要さらには輸出を増やし
     まだ大企業が復興していない中、外貨獲得という国策に大きく寄与し、東京の地場産業としての地歩を
     固めた。
      戦前は横浜、神戸の外国人商社を通じて輸出してい たが、戦後は輸出商社の多くが東京・浅草
     集中し、日本商社が多数を占めるようになった。輸出高は不況期にも右肩上がり で伸び、不況に強い
     アンチモニー産業の特色を再び示 した。

      昭和40年代以降、地金急騰と近隣諸国の追い上げ、円高による輸出金額の伸び悩みから、輸出は
     しだいに厳しい状況に追い込まれて国内市場にその活 路を求める状況になって、現在に至っている。

     @ アンチモン、それともアンチモニー
       正倉院展に出展されるのは「アンチモン塊」で切手には「アンチモニー工芸品」とある。「アンチモン」と
      「アンチモニー」の違いは何なのだろう。

      51番目の元素”Sb"の英語名は Antimony (アンチモニー)、ドイツ語名は Antimon (アンチモン)だ。
     明治初年にドイツで鉱物学の教育を受けたにもかかわらず、和田 維四郎は、明治37年に出版した
     自著「日本鉱物誌」のなかで、鉱物名の統一、誤って使われている漢字の改訂を試みている。その一例
     として、

      『・・・「アンチモニー」を清語(中国語)にて”[金弟]:てい”・・・と云ふ 』、と英語を日本語読みに
     した「アンチモニー」を充てている。さらに、現在われわれが「輝安鉱」と呼んでいる【SIIBNITE:Sb2S3】は、
     「輝[金弟]鉱(きていこう)」という漢字を充てている。
      そんなことがあってか、「アンチモニー」に音の似ている漢字を当てはめて、「安質母尼」と表記されている
     文献が明治時代から終戦直後まである。

      ・ 岩崎 :市ノ川安質母尼鉱山及其輝安鉱.地質雑誌,(1898)
      ・ 比企 :細倉鉱山産毛状硫安質母尼鉱.地質雑誌,(1901)
      ・ 牟田 :柳瀬アンチモニー鉱床について.鉱山地質,(1951)

      一方、「アンチモン」の使用例を探してみると、明治時代にも使われてはいるが例は少なく、1940年代
     以降に増えている傾向がみられる。これは、1941年から始まった日米戦争とその前から激しくなった英語
     排斥とは無関係ではない気がする。

      ・ 安東 :鉱物教科書,(1910)
      ・ 大八木:アンチモン鉱の製錬.電気化学,(1944)

      こうして、現在では「アンチモニー産業」、「アンチモニー工芸品」など半ば固有名詞化した場合を除き、
     一般には「アンチモン」が使われるようになったのだろう。

      次の店に行くと名刺ケースの3倍くらいの紙箱の中に紙幣と古銭が無造作に放り込んであった。古銭の
     中には外国のものもあり、20世紀初頭のロシアの銅貨などに混じって見慣れないコインがあった。表面に
     は、” DEUTSCH ” 、 ” 1909 ” 、” 5 CENT " が読み取れ、裏には「青島」とともに「大徳国宝 伍分」と
     ある。「徳国」とは、ドイツの事だったな、と古い記憶がよみがえる。
      ちなみに外国貨幣の表は”国章”や”君主の肖像”がある面なので、”国章”のある面を表とした。

         
                   表                                  裏
                                  「大徳国宝」貨

      これらの情報から、このコインは中国山東半島にあったドイツの租借地で流通したものだろうと思い至る
     までそれほど時間はかからなかった。
      日清戦争後、三国干渉で中国に恩を売ったドイツは、大洋艦隊の寄港地となる軍港を中国沿岸に
     確保するため、1897年にドイツ人宣教師が山東で殺された事件を口実に上陸、翌1898年には膠州湾を
     99年間の租借地とし、ドイツ東洋艦隊の母港となる軍港が建設された。
      膠州湾租借地の中心となる『青島』はアジアにおけるドイツのモデル植民地として街並みや街路樹、
     上下水道などが整えられ、今なお残る西洋風の町並みや青島ビールなどドイツがこの町に与えた影響は
     大きかった。
      ドイツの13の銀行が共同出資した独亜銀行(中国語では徳華銀行)が青島ドルの紙幣と硬貨を発行
     し、租借地内で中国通貨の使用を禁止したほか、租借地外でも山東鉄道の運賃支払いは青島ドルで
     行うことが強制された。
      ドイツの通貨「マルク」ではなく「ドル単位」にしたのは、19世紀に東アジアで広く流通していたメキシコ
     ドル銀貨(洋銀)を基準に作られた通貨であるためだ。
      裏面に、「毎二十枚當大洋壹元」と、20枚でメキシコ銀貨一枚に相当することが明記されている。

      しからば、このコインがここにあるのは何故だろう。第一次世界大戦でドイツに宣戦布告した日本は
     1914年膠州湾のドイツ要塞を陥落させて、1922年に中国に返還するまで青島を占領下に置いた。たぶん
     この期間に青島で入手した人が持ち帰ったものだろう。

      気になるのはこのコインの価値だが、ネットオークションではコンディションにもよるが数千円〜数万円して
     いて、ワンコインで購入できたのは幸運だった。

 (2) 岐阜県で現金ミネラル・ウオッチング
      長野県の伊那地方に入り、「権兵衛トンネル」を抜けて国道19号線に出る。これを南下すれば日本3大
     ペグマタイト産地の一つ中津川だ。中津川→恵那→瑞浪と車を走らせる。瑞浪には「瑞浪鉱物展示館」が
     ある。ここでは、宝石類だけでなく、思いがけない珍しい国内外の鉱物標本も販売しているので、ここを通
     りかかって時間があるときには立ち寄るようにしている。

         
                  外観                                店内
                               「瑞浪鉱物展示館」

      店内のショーケースには現在ネットショップやオークションに出品されている標本が並べられている。その下
     の引き出しの中には、外国産が多いが、即売鉱物標本がズラリと並んでいる。
      「地球一周の旅」で買い損ねたギリシャ産の珪灰鉄鉱【ILVAITE:CaFe2Fe3+O(Si2O7)(OH)】とアンチモン
     を含む鉱物では中国産の「輝安鉱」もあったが、国産鉱物ということで愛知県稲目鉱山の毛鉱【JAMESONITE:
     Pb4FeSb6S14】を購入した。

             
               「珪灰鉄鉱」                           「毛鉱」
            【ギリシャ エーゲ島産】                    【愛知県稲目鉱山産】

      20種の宝石写真が入った絵葉書をお土産にいただき、薄暮の瑞浪を後にして、とりあえず名古屋を抜
     ける算段だ。

      
                 宝石をちりばめた絵葉書

 (3) 寧楽(なら)入り
      退勤時の渋滞に巻き込まれた名古屋市内をようやく抜けて、食事のできる店を探すのだが、どういう理
     由か反対車線側には多いのに入りやすい進行車線側にはないのだ。南に向かっているので、西日が当た
     る側には食べ物店はすくないようだ。雨が降りはじめ、ようやく見つけた四日市の店で遅めの夕食だ。
      亀山から名阪国道に入ると渋滞はとうに解消し順調に飛ばし、寧楽(なら)に入った。この日は、道の
     駅で車中泊だ。

3. 「正倉院」展

3.1 駐車場探し
    翌朝6時前に起きるとまだ雨が降り続いている。奈良市内で朝食をと思い走り出す。天理ICで名阪をおり、
   奈良市内を目指して走る。ファミレスを探すのだが一向に見つからない。カーナビで探すとチエーン店「G」が
   出てきたので市内を突っ切って行ってみると開店時間前だった。仕方なく、コンビニで買ったサンドイッチで朝
   食だ。
    再び市内に戻ると7時半だ。奈良在住の石友・Yさんが一番お薦めの駐車場は8時からとあるので、2番目に
   お薦めの2時間まで無料の「県庁駐車場」にいれる。8時を過ぎると職員などであっという間に駐車場が埋まっ
   てしまった。ここから「正倉院」展が開催されている「奈良国立博物館」までは歩いて10分くらいなので、「一度
   駐車場を出て8時45分に再入場し、10時45分までに出れば駐車料金1,000円が浮く」、と話したところ、妻から
   「地球一周した人が1,000円くらいの駐車料金で何を言ってるの!!」、と叱られてしまった。
    そういえば、博多のあねごに「地球一周しようって人が何こまい事言ってるの!!」、と何度言われたことか。

3.2 入場を待つ
    駐車場から地下道を抜けて奈良国立博物館に向かと名物の鹿が餌欲しさに近寄ってくる。彼らは賢くて
   餌の「鹿煎餅」を持っている人を見分けて(嗅ぎ分けて?)いるようだ。餌を欲しさに、お辞儀をする芸達者も
   いる。

    奈良には何回か来ているのだが、「正倉院」展はむろん、奈良国立博物館を訪れるのすら初めてだ。入場
   口に開場20分前くらいに着くと、すでに300名くらいが並んでいた。前の日にコンビニで入場券を買っておいた
   のは正解だった。

         
              奈良国立博物館                        入場を待つ人々

    開場の9時になって列は動き出した。入場待ちになるのかと心配していたが列は遅々としてだが前に進んで
   いる。10分くらい待ったところで入場できた。残念ながら会場内は撮影禁止なので、これからお見せする写真
   の多くは開場で買った図録「第68回 正倉院展」(1,200円)からの引用だ。

3.3 「正倉院」とは
    「正倉院」とは、正倉が集まった区画をさす。正倉院は古代の国府や郡衙(ぐんが)および寺院などに置か
   れ、穀物や税として納められた布(調布:ちょうふ)などの財物を保管する施設だった。しかし、それらは東大
   寺の正倉を残して全て失われ、今日「正倉院」と言えば東大寺の正倉をさす固有名詞となっている。

    正倉院は大仏殿の北西300mにある南北に長い建物である。北から、北倉(ほくそう)、中倉(ちゅうそう)、
   南倉(なんそう)の3つの部屋に分かれている。
    北倉と南倉は三角形の断面の木材を組み上げて壁面とした有名な「校倉(あぜくら)造り」であるが、中倉
   は東西の壁を角材を組み上げた板倉造りである。
    「校倉造りは晴れた日には木材が乾燥し隙間ができて外気を取り込み、雨の日には木材が膨張し隙間が
   なくなり外気を遮断した」、と教えられた記憶があるが、天候によって建物の気密度が変わることはない。

      
                南倉           中倉            北倉
                      正倉院正倉【展示図録より引用】

    正倉に使われている木材の『年輪年代測定』によって、大仏開眼の天平勝宝4年(752年)よりも前の740年
   から750年にかけて建立されたことが明らかになっている。

3.4 「正倉院宝物」
    正倉院の宝物は何回かに分けて献納された。

  (1) 大仏開眼会の献物と道具類
       天平勝宝4年(752年)の大仏開眼会で皇族・貴族からの献物や式典に使われた道具などが時期が
      いつかは明らかになっていないが宝物として納められた。
       献物には水精(水晶)玉、瑪瑙坏(めのうのつき)、琥碧誦数(こはくのじゅず)などの玉石類もある。
      道具類には仏前で上演された伎楽の面・衣装・太刀などのほか会場を飾った幡(ばん)、金銅製の金
      具などがあった。

  (2) 聖武天皇遺愛品の献納
       天平勝宝8年に聖武天皇が崩御した。その77日に妃の光明皇后によって聖武天皇遺愛の品650点
      ほどが東大寺に献納された。その際の献物目録が『国家珍宝帳』である。これから、正倉は東大寺のみ
      ならず国家にとっても特別な宝庫になった。

      
                           『国家珍宝帳』
                         【展示図録より引用】

       ご遺愛の袈裟・王羲之の書法(手本)・楽器・太刀・香木・鏡・屏風・枕・床几など芸術性や技術
      の高い品々が含まれ、これらが正倉院宝物の主役にふさわしい。

  (3) 薬物の献納
       聖武天皇遺愛の品が献納された同じ日に、光明皇后は『種々薬帳』にある60種類の薬物を大仏に
      献納した。現在残っているのは40種で、それら全てが舶載品(輸入品)だ。
       麝香(じゃこう)など動物、黄連などの植物、そして「寒水石」、「竜骨」、「紫鑛」など鉱物の名前が
      目録から読み取れる。

      
                            『種々薬帳』
                         【展示図録より引用】

  (4) その後、光明皇后による献納
       光明皇后はその後3回にわたって宝物を献納した。それらは皇后遺愛の品であったり、その後発見さ
      れた聖武天皇遺愛の品だったりした。皇后最後の献納品は父・藤原不比等直筆の屏風絵で、これは
      不比等の往生を願ってのことと考えられる。

  (5) 東大寺の倉庫として収蔵品
       奈良時代もしくは奈良時代からあまり隔たっていない時期に正倉への入庫を制限した。それ以前に
      東大寺から移された宝物。

3.5 「第68回 正倉院展」 展示品のハイライト
     正倉院展は戦争の痛手から立ち上がろうとする国民に、日本文化の源流の一つと言える正倉院宝物を
    展示して力づけようと、敗戦の翌年の昭和21年(1946年)第1回が開かれ、今年で68回目だ。

     正倉院展を前にして、杉本宮内庁正倉院事務所長が東京で開催した出展宝物の解説や開催早々
    作家・葉室麟氏の「鑑賞記」が新聞に掲載され、単に美しい工芸品だけでなく、現存最古の戸籍や写経
    所で働く人々が待遇改善を要望する上申書の下書きなど貴重な古文書も私の興味をそそる。
     もちろん私の趣味の鉱物にからむ「アンチモン塊」や古銭の「和同開珎」や「神功開宝(じんぐうかいほう)」
    も見逃せない。

      
                          杉本所長の見どころ紹介
                             【読売新聞より引用】

      
                  葉室氏の鑑賞記
                 【読売新聞より引用】

     順路に従って1点、1点鑑賞していく。時には戻ってもう一度見直す品もいくつかるほどだ。それらの中で
    私のお気に入りをいくつかご紹介する。

  (1) 「漆胡瓶(しっこへい)」
       これが今回展示の目玉の一つで前評判が高かった品で、入場券や展示図録の表紙を飾っている逸
      品だ。表面に黒漆を塗ったペルシャ風の水差で、そのエキゾチックで優美なフォルムは観た人々を魅了
      する。
       1,200年の時を経ているにも拘わらず、ひび割れもなく、表面に貼りつけられた草花や鳥獣の形を切り
      抜いた銀の薄板が剥がれ落ちてもいないのでどのようにして作ったかも謎だった。
       X線透過写真を撮った結果、無数の横線が見えることから、薄くて細い木を巻き上げた「巻胎(けんた
      い)技法」が使われたことが明らかになった。

         
              入場券                       X線透過写真
                                   【展示図録より引用、左右反転】

  (2) 「大幡脚端飾(だいばんのきゃくたんかざり)」
       今でも私が住む山梨県では少なくなったとはいえ男児が生まれた家には五月節句に鍾馗様や武者
      を描いた「幡(はた)」と呼ぶ幟(のぼり)を立てる家がある。これの豪華版だろう。幡の一番下に縁飾りと
      してつけられたものだ。
       当時、日本国内でも絹糸を密に織り込んでこのように複雑な文様を作り出すことができたのだ。

      
                      「大幡脚端飾」
                    【展示図録より引用】

  (3) 「写経司解案(しゃきょうしげあん:写経所の上申書下書き)」
       天平11年(739年)ごろに書かれた写経所で働く職員の待遇改善を求める上申書の下書きだ。具体
      的に6項目の要求が書かれているが、これが清書されて上級機関に提出されたかどうかは不明である。

       @ 紙が少なく人が多い。当分の間人数を調整し、紙が来る8月中旬に招集して欲しい。
       A 浄衣(作業衣)を換えて欲しい。
       ? 毎月5日は休暇が欲しい。
       C 装丁担当や校正担当の食事内容が悪いので改善してほしい。
       D 常に机に向かって座って仕事しているので胸が痛み足が痺(しび)れる。3日に一度、薬として酒を
         出して欲しい。
       E 毎日麦を出して欲しい。

      
                                「写経司解案」
                              【展示図録より引用】

  (4) 「アンチモン塊」
       現物を観て、鋳型に溶かした金属を流し込んだ鋳塊(インゴット)だと解った。形はかまぼこ状で、角々
      の丸みが鋳物で造られたことを示している。表面は黒灰色で、「破面」とされる面は灰色で「スター」と呼
      ぶ純度の高いアンチモン特有の羊歯(しだ)状の模様が観察でき、切ったり、無理な力を加えて折った
      面ではなく、型に流した後再び結晶したことを示している。
       幅8.4cm、厚さ4.5cm、重さは 1,088g とある。

         
                  外観                             断面
                                「アンチモン塊」
                              【展示図録より引用】

       従来、「白銅塊」とされていたが最近の科学的な分析で「アンチモン塊」だと判明した。白銅とは、
      2016年現在流通している10円青銅貨に使われている青銅に20〜25%の錫を加えたもので、外観が白く
      見えるところからその名がつけられた。

       【後日談】
        Mineralhunters としては、アンチモン塊がどこで採れた鉱物を原料にして造られたのかに興味がある。

       1998年に、奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から日本最古の貨幣「富本銭」が出土した。富本銭の
      成分を分析したところ、銅とアンチモンの合金であることが判明した。金属を溶かすのに使った「坩堝(る
      つぼ)」なのか、「湯」と呼ぶ溶かした金属を入れた「取鍋(とりべ)」なのか、からもアンチモンが検出され、
      付近でアンチモンを含む鉱物「輝安鉱」が見つかった。
       アンチモンを加えた銅は融点が低くなり、摩耗しては困る貨幣として必要な硬さが得られ、さらには金
      色の輝きを増す。ここで輝安鉱を溶かしてアンチモンを得ていたと想像するのに難(かた)くない。
       しからば、輝安鉱はどこで採れたものだろうか。多くの人は四国愛媛県の「市之川鉱山」を思い浮か
      べるだろう。明治時代、市之川鉱山では輝安鉱の大きな結晶が採れ、それらの多くが海外の博物館に
      収蔵されている。
       2016年4月から7月の「地球一周の旅」で鉱物関連博物館をいくつか見学してきたが、ギリシャのアテネ
      大学やロンドンにある自然史博物館には日本を代表する鉱物として市之川鉱山産の輝安鉱が展示
      してあった。

         
                 アテネ大学                 自然史博物館【ロンドン】
                            市之川鉱山産「輝安鉱」

       当然私のコレクションの中にもある。結晶の長さ17cm、頭付き、母岩付け、ラベルも付いている。

      
      市之川鉱山産「輝安鉱」【マイコレ】

      アンチモンを得た輝安鉱の産地は市之川鉱山だろうと推測する理由がある。日本書紀や続日本記な
     どに、伊予国(愛媛県)から金属や鉱石が献上された記述があるからだ。

      日本書紀の持統天皇5年(691年)7月の条に「伊予国司田中朝臣法麻呂等、宇和郡御馬山ノ白銀
     (しろがね)三斤八両ト[金非](あらかね)一籠献ズ」
とある。

      白銀はアンチモンで[金非](あらかね)は籠に入れられ”金属にあらず(ではない)”ものとするとアンチモン
     の鉱石「輝安鉱」と考えることもできそうだ。

      これをなぞった形で続日本紀の文武天皇2年(698年)7月の記述に「乙亥伊予国白[金葛](しろめ、
     びゃくろう)ヲ献ズ」
「乙酉伊予国[金葛]鉱(すずかね)ヲ献ズ」、とある。

      白[金葛](しろめ)は錫を含む鉱石とされるが、愛媛県には錫の鉱山はなく、これもアンチモンと考えられ、
     [金葛]鉱(すずかね)はその鉱石の「輝安鉱」と考えられる。

  (5) 「和同開珎」と「神功開宝」
      和同開珎(わどうかいちん) 15枚と神功開宝(じんぐうかいほう) 1枚が展示されていた。和同開珎は
     和銅元年(708年)に造られ、国内で広く流通した最初の貨幣で銅銭は、天平宝字4年(760年)に万年
     通宝が発行されるまでの間、およそ50年の間鋳造され続けた。
      従って、皇朝十二銭(奈良〜平安にかけて順次発行された12種類の銅銭)の中では最も発見数が多
     いが、その大部分は埋蔵されていた出土品で今回された品のような伝世品(でんせいひん:埋まることなく
     大事に保存されてきたもの)は珍しい。
      神功開宝は、皇朝十二銭にひとつで、天平神護元年(765年)から延暦15年(796年)までの間発行さ
     れた銅銭だ。和同開珎についで発見数は多いが、製造技術が退化していたのか、銅が入手難になった
     せいで15%近く(和同開珎は約1%)鉛を混ぜたためなのか文字が不明瞭で出来栄えが悪い。

         
               15枚の和同開珎                    和同開珎と神功開宝
               【展示は横一列】
                         伝世品の「和同開珎」と「神功開宝」
                             【展示図録より引用】

4. 郵趣 in 「正倉院」展

    展示品を見終わってお土産を買おうとミュージアムショップに行ったのは10時を回っていた。まずは、「展示
   図録」を買う。その近くに、記念スタンプと用紙が置いてあった。その用紙と持参した(この日の朝買った)
   封筒にスタンプを押した。

      
                        記念スタンプ

    スタンプは3種類あり、緑色が「大幡脚端飾(だいばんのきゃくたんかざり)」、青色が正倉、赤色が漆胡瓶
   だ。

    展示会場を後にして外に出ると奈良中央郵便局臨時出張所のテントがあり、切手の販売や記念カバー
   (封筒)に押印をしてくれている。
    正倉院展開催に先立つ2016年10月21日に新しい切手「正倉院の宝物シリーズ第3集」が発行されていた
   1シートだけ購入して持参していた。第1集と第2集は、それぞれ2014年と2015年の10月に発行されていて、
   自宅のどこかに1シートはあるはずだが探しきれず持参できなかった。

            
               第1集                 第2集                第3集
                             「正倉院の宝物シリーズ」切手

    スタンプのデザインと封筒に貼る切手の組み合わせを考えてみると、今回展示の目玉の「漆胡瓶」は第2集、
   「大幡脚端飾」は色が違うが第3集に入っている。2014年の正倉院展で大人気だった「鳥毛立女屏風」は
   第2集だ。(展示の目玉と発行する切手のデザインを合わせれば良さそうなものだが・・・・・・。)

    テントではシート単位の販売だけでばら売りしていないという。責任者(県庁内郵便局長)が、「私の郵便局
   で1集、2集を含め、バラ売りしています」というので妻を残し私だけ駐車場のある県庁まで行って切手を購入
   してきた。
    局長さんに記念の押印をしてもらい、1通だけ自分で押印したいと頼むとやらせてくれた。私がスタンプを押
   している後を鹿がウロウロしているのは、奈良ならではの光景だろう。

         
              テントの郵便局                       記念押印するMH
                                           【後ろで鹿が見ている!!】

    「アンチモン塊」のデザインのものと3種の記念スタンプを組み合わせて作成した記念カバー4種だ。

         
                アンチモン塊                          漆胡瓶

         
                大幡脚端飾                           正倉

    この近くで昼食を済ませ、次なる目的地の平城宮跡資料館を目指す ” Mineralhunters " だった。

5. おわりに

 5.1 石友に感謝
     甲斐国(山梨県)の老夫婦が、はるばる都まで『寧楽(なら)登り』できたのは石友・Yさんの懇切なる
    情報を提供いただいたからと、深く感謝している。
     おかげで、この先も、順調に旅を続けることができた。

     【余談】
     東大寺の大仏を造るのに必要な銅は「輝コバルト鉱」や「コバルト華」で有名な山口県長登銅山から
    はるばる寧楽に運ばれ、その銅は「寧楽登り」と呼ばれた。いつしか銅山は、奈良登り→長登り→長登銅山
    と呼ばれるようになった、と書いてあるのを読んだ記憶がある。

 5.2 和同開珎
     私の年代の人は、「和同開珎」を中学校の社会で「わどうかいほう」と習ったはずだ。しかし、「珎」の字は
    「珍」と同じで、「ちん」と読むべきだという説が出て、両方の読みを併記している本も見かけるが、現在では
    「わどうかいちん」に定まった感があり、展示図録でも読みは「わどうかいちん」だけになっている。和同開珎
    は、2012年のIMF(世界銀行)年次総会を記念して発行された切手10種のなかに、銀銭と銅銭を描く1枚が
    ある。

      
          和同開珎を描く切手
         【2012年10月12日発行】

     1999年に「富本銭」が発見(正しくは再発見)され、日本最初の貨幣とされたが、発見数も少なく流通
    した形跡もなく祈祷や儀式に使った「厭勝銭」との位置づけだ。

    ・ 古銭型録 『校正古銭鑑大成』
    ( Old Coin Catalogue " Kousei Kosen Kagami Taisei " , Tokyo )

     広く流通した最初の貨幣は、「和同開珎」となる。私の趣味の一つは「古銭収集」だ。「古銭を集めて
    います」、というのに「和同開珎」を持っていないのに気づいた。正倉院展を観て帰ってくると、馴染みのコイ
    ン商から、「○○で即売会を開きます。和同開珎が2枚あります」と連絡があった。
     即売会の2日目に行ってみると和同開珎が3枚あった。1枚は「極美品」と呼べるもので、2枚は”青錆”が
    出たり、”欠け”があり、その分△万円ほど安かった。店主が言うには、「和同開珎は青錆があってもなくても、
    価格に大差ない珍しい古銭です」、と解説してくれた。どうせ買うならと思い、「極美品」を手に入れた。

      
                表                 裏
                       「和同開珎」
                        【マイコレ】

 5.3 「正倉院展」展示図録 コウエツ
     日本テレビ系列で水曜日の夜10時から、”地味にスゴイ 校閲ガール・河野悦子”というドラマを放映して
    いる。夜遅い(!?)放送なので、録画しておいて後日観ることが多い。
     石原さとみ演ずる雑誌編集者を目指す河野悦子(略してコウエツ)が希望する雑誌社に入社したものの
    配属されたのは校閲部だった。コウエツの時には暴走とも思われかねない妥協しない仕事ぶりは、作家や
    編集者の心を動かし、暗く沈滞していた職場の雰囲気までも変えていく。それにしても、子供だとばかり
    思っていた石原さとみから女性の色気を感じるようになるとは。私も歳をとるはずだ。

     コウエツの眼になり代わって展示図録を読む(眺めるのではない)と、いろいろ気になる箇所がある。

     ・ 貨幣の表裏と説明して掲げられている図は、裏表
       私のコレクションの「和同開珎」の写真のように、左に表、右に裏がくるべき。

     など、このドラマを観たせいばかりではないと思うが目についた。

     10話構成のドラマはいよいよ次回が採集会、でなくて最終回なので見逃せない。

6.参考文献

 1) 和田 維四郎:日本鉱物誌,,明治37年
 2) 原田 淳平監修:日本鉱産物文献集 1872〜1956 ,北海道大学地質学鉱物学教室,1959年
 3) 松原 聰、宮脇 律郎編、日本産鉱物型録,東海大学出版会,2006年
 4) 松 野 建 一et al:アンチモニー産業の歴史と生産技術 −外貨獲得に貢献した東京の地場産業−
                 日本工業大学 工業技術博物館,2016年
 5) 田邊 一郎編著:市之川鉱山物語,現代図書,2016年
 6) 奈良国立博物館編:第68回 正倉院展図録,天理時報社,2016年
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