岐阜県中津川市木積沢の「錫鉱記念碑」その4 「第2錫鉱記念碑」











    岐阜県中津川市木積沢の「錫鉱記念碑」その4
             「第2錫鉱記念碑」

1. 初めに

   既に、岐阜県中津川市木積沢の「錫鉱記念碑」について3回にわたりHPに
  掲載した。これらを読んでいただいた、千葉県の石友・Mさんから、『記念碑の
  ある”作十(さくじゅう)”とは、屋号なのか?』との問い合わせをただいた。

   茨城県ひたちなか市への赴任を前にした2006年6月末、「ハンマに封印」する
  直前に岐阜県苗木地方を訪れた。
   記念碑近くの長谷川さん宅で、”作十”について聞くと、『あの家とその下の
  家も”作十”と呼んでる』、とのことで「屋号」なのか「字」なのか判然としなかった。
   長谷川さんは、『 わたしんちにも錫鉱の記念碑が立っとるで、見て行かまいか』
  と、家の裏手にある石碑まで案内してくれた。これが、私が勝手に名前を付けた
  「第2錫鉱記念碑」発見のキッカケである。
   そこには、台座を含めると大人の背丈以上もある立派な石碑が立っていた。
  残念なことに、この日はデジカメなどの取材用具を持参するのをスッカリ忘れ
  再訪を約束をして、引き揚げた。

   2006年7月、ひたちなか市に、技術士の資格を生かした「コンサルタント」として
  赴任した。仕事が軌道に乗るまで、「ハンマに封印」と、固い決意で赴任したが
  1週間の診断で、処方箋作成の目処も立ち、2週目の週末には、栃木県西沢
  金山跡など近県の産地や骨董市などを回る余裕も生れてきた。

   お盆休みに甲府に戻り、長野県や岐阜県の産地を回るミネラルウオッチングの
  最終日に、気になっていた「第2錫鉱記念碑」を訪れ、石碑の写真を撮ったり
  碑文を書き写したりさせていただき、当主から昔話を伺うことができた。
   取材と発表することを了解してくれた長谷川さんに厚く御礼を申し上げます。

   この「第2錫鉱記念碑」にも、『・・・・東都高橋源三郎氏更ニ代営ス・・・・・』とある。
   2006年7月、西沢金山訪問と相前後して入手した「西沢金山大観」を読むと
  明治期の西沢金山経営者に高橋源三郎氏の名前がある。時代的にも同一人物
  である可能性が高い。
   栃木県の山奥の西沢金山と岐阜県の錫鉱採掘が一本の糸に繋がっていたのか。
  これらの謎解きに没頭していると、しばし暑さを忘れることができる。
  ( 2006年6月訪問 、8月再訪 )

2. 産地

   中津川から256号線を付知町に向かって走ると、高山の交差点がある。
  ここを左折し、高山大橋を渡り、道なりに2km弱行くと、「記念碑」前のバス停が
  あり、ここに「錫鉱記念碑」がある。
   「第2錫鉱記念碑」は、この手前約100m、道路右手の長谷川仁一さん宅の
  裏手にあり、道路からはその存在は全く知ることができない。

    「第2錫鉱記念碑」と当主・長谷川氏

3. 「第2錫鉱記念碑」

   「第2錫鉱記念碑」は、高さ約80cmの台座を含め約2mの立派なもので、表面
  には「開祖 長谷川金彌翁碑」とあり、裏面には、この碑建設の由来がカタカナ
  混じり文で刻まれている。

       
          表               裏
               「第2錫鉱記念碑」

 3.1 表面
     表面には、開祖 長谷川金彌翁とあるところから、この一帯を開拓した長谷川
    家の先祖・金彌氏を顕彰したものであることが知れる。

 3.2 裏面
     裏面には、この碑を建設した由来が刻まれている。この石碑が建てられた
    のは、碑文の中に「御大典紀念」とあるところから、昭和天皇が即位式を行った
    昭和3年(1928年)頃で、今から約80年前だった。

    (1) 建立当時の碑文
        建立当時の碑文の全文をご紹介する。数字の部分は、アラビア数字に
       置き換えてある。

       翁付知村長谷川常五郎2男ニシテ安政3年ニ
       生レ五男三女有若山194番戸ヲ開拓亦
       當地開墾ニ努力セリ大井町字岡瀬澤ニ於テ
       梅田長四郎氏ト共ニ錫鉱発見経営中央大
       正5年東都高橋源三郎氏更ニ代営ス己ニ
       御大典紀念親族有志建之   彩霞謹書

      この碑文から、次のようなことがわかる。

      @ 金彌氏は、大井町岡瀬澤で錫鉱を発見した。
         いつ、発見したかは、残されていない。金彌氏が安政3年(1856年)で
        あったことから、この地方(東濃)で、錫鉱が発見されたとされる明治17年
        (1884年)には、28歳であった。
      A 梅田長四郎氏と共同経営
      B 大正5年(1916年)、高橋源三郎氏に経営権を譲渡
      C 「第2錫鉱記念碑」が建立された、昭和3年(1928年)には、金彌氏は70歳
        を超えていたことになり、”古希”の記念として建立されたとも考えられる。

    (2) 追加の碑文
         昭和9年(1934年)に、金彌氏が亡くなったことを記すために、一行
        追加して刻まれている。

        昭和9年6月30日死ス79歳 4男伝市謹書

4. 碑文の比較

    (1) 「錫鉱紀念碑」

       比較のため、「錫鉱紀念碑」の碑文の全文を示す。
       なお、この碑文は現物の写真から復元したものに、現地再確認を加えた
      ものである。

       我東濃之地存砂錫甚多世未嘗之知也明治
       十有七年高木吉村及江州人川上三氏発見
       焉後二年三井物産会社令狛林之助創始経
       営頗利潤地方至明治二十四年安保豊次郎
       西尾馬五六郎新田演一郎吉村吉五郎小川
       弥之介西尾浦次郎吉村勘六等有志数十輩
       結社代営者五年遂帰於小川西尾寺島吉村
       梅田五人之事業爾来拮据経営二十年大正
       二年更東都人高橋源三郎氏代経営以至今
       日固益邦家非少自今亦必多矣而発見之者
       高木川上二氏久已故聊記由来刻石以傳後
       世云爾    阿部氏選文  活堂謹書
         大正四年三月建之

    (2) 両者比較
        「錫鉱紀念碑」と「第2錫鉱記念碑」を読み比べて、その違いと共通点は
       次の通りである。

       @ 「錫鉱紀念碑」に、長谷川金彌氏の名前は見えない。
          しかし、共同経営者とある梅田氏の名前は、残されている。

         『・・・・等有志数十輩結社代営者五年遂帰於小川西尾寺島吉村
          梅田五人之事業爾来拮据経営二十年・・・・』

          長谷川金彌氏は、”有志数十輩”とある内の一人であったと思われる。
         この明治24年(1891年)に、金彌氏は35歳であった。

       A 両方の碑に共通して、高橋源三郎氏の名前が見られる。

石碑高橋氏に関する記述  備      考
錫鉱紀念碑大正二年更東都人高橋源三郎氏代経営以至今大正5年(1916年)建立
第2錫鉱記念碑大正5年東都高橋源三郎氏更ニ代営ス昭和3年(1928年)頃建立

      錫鉱紀念碑には、高橋氏が錫鉱経営に乗り出したのは、大正2年(1913年)
     とあるが、「第2錫鉱記念碑」からは、金彌氏の錫鉱採掘場は大正5年(1916年)
     に譲渡された、と読み取れる。

5. おわりに

 (1) 千葉の石友・Mさんに依頼された、「”作十”は屋号なのか?」については、屋号で
    なく、地区の呼び名”字”であると、長谷川さんから教えていただいた。
     「錫鉱紀念碑」のある三叉路から下一帯を”作十”と呼んでいたらしいが、それを
    知るのは、長谷川さんのように80歳近い人だけになってしまっている。

 (2) 長谷川さんは、「第2錫鉱記念碑」は、「向こう(「錫鉱紀念碑」)のように、公のもの
    と違って個人のもんじゃけん」、と謙遜しておられる。しかし、錫鉱の発見・採掘に
    携わった個人の業績が石碑として残されているのは、貴重なことである。
     取材と発表を快く許可してくれた当主・長谷川さんに改めて御礼申し上げます。

 (3) ”謎は謎を呼ぶ”
     「錫鉱紀念碑」と「第2錫鉱記念碑」にも、『・・・・高橋源三郎氏・・・代営・・・・・』とある。
    2006年7月、西沢金山訪問と相前後して入手した「西沢金山大観」を読むと、明治期
   の西沢金山経営者に高橋源三郎氏の名前がある。時代的にも同一人物
   である可能性が高い。
    栃木県の山奥の西沢金山と岐阜県の錫鉱採掘が一本の糸に繋がっていたのか。
    これらを明らかにすのが、次の課題である。
    

6. 参考文献

 1) 梁木 毅六:西沢金山大観, ,1916年(大正5年)
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