岐阜県中津川市木積沢の「錫鉱記念碑」その2











    岐阜県中津川市木積沢の「錫鉱記念碑」その2

1. 初めに

   長島乙吉、弘三氏による「日本希元素鉱物」を読むと、中津川市木積沢に
  「錫鉱記念碑」がある、との記述があり、2006年3月初めに訪れた。碑文を写真に
  収め、錫鉱採掘の様子なども混じえて、HPに掲載した。碑文は写真に撮れば
  自宅で解読できるだろうと思っていたが、碑文表面の苔や光の反射の具合で
  一部解読できず、不明のところは”□”にして掲載した。
   これを読んだ千葉県の石友・Mさんが、「岐阜県図書館レファレンス」で引用
  している文献に碑文が記載されていたと、その内容をメールで知らせてくれた。
   私の写真の不明部分のほとんどが明らかになったが、逆に大幅に違う個所も
  あることがわかった。そこで、次の週に、再度訪れ確認したところ、「岐阜県図書
  館レファレンス」で引用している元の文献で、碑文の内容は、20文字脱落している
  ことがわかった。
   意図的に抜いたのか、書き写す際に間違えたのかはわかりません。
   「広開土王碑文」を旧陸軍将校が改竄したと言われる古い出来事を思いださせる
  一件であった。
   碑文は建設後90年を過ぎ、文字の一部が崩れ始めているので、拓本にとって
  記録して置きたい、とも考えている。
   碑文の情報を教えてくれた、Mさんに、厚く感謝申し上げます。
   さらに、Mさんから「岐阜県図書館レファレンス」は、”レファレンス”(参照する)
  とある通り、次の4つの文献を引用し、その内容を忠実に伝えているだけで、加筆
  削除など、意図的な操作は何も行っていない、と教えていただいた。

  @  『郷土読本』(昭和2年、原文の掲載されていたもの)
  A  『郷土読本』(昭和44年)
  B  『ふるさとの遺跡探訪』
  C  『福岡町史 通史編』下巻

  それらのアドバイスを踏まえ、HPを修正した。Mさんに、重ねて御礼申し上げます。
  ( 2006年3月訪問 、同月再訪 、同月内容見直し )

2. 産地

   中津川から256号線を付知町に向かって走ると、高山の交差点がある。
  ここを左折し、高山大橋を渡り、道なりに2km弱行くと、「記念碑」前のバス停が
  あり、ここに「錫鉱記念碑」がある。

    「記念碑前」バス停

3. 「錫鉱記念碑」

   「記念碑前」バス停の脇に、高さ2m弱の石碑が建っている。表面には「錫鉱
  記念碑」とあり、発見者、建設者の名前が見える。
   裏面には、この碑建設の由来が漢文で刻まれている。

       
          表               裏
               「錫鑛紀念碑」

 3.1 表面
     表面には、発見者3名と建設者5名の名が刻まれている。

                           高木勘兵衛
                発見者       吉村吉兵衛
                           川上 巖

         錫鉱記念碑

                建設者       寺嶋 昇
                  小川弥之介  吉村勘六
                  西尾浦次郎  梅田長四郎

 3.2 裏面
     裏面には、この碑を建設した由来が刻まれている。この石碑が建てられた
    のは、今から90年前の大正4年(1915年)だった。

    (1) 「岐阜県図書館レファレンス」による
        Mさんに頂いた「岐阜県図書館レファレンス」で引用している文献にある
       碑文の内容は、次のようなものである。

       我東濃之地存砂錫甚多世未曽知之也明治十有七年高
       木吉村及江州人川上三氏発見焉後二年三井物産会社
       令狛林之助創始経営頗利潤地方至明治二十四年安保
       豊次郎西尾馬五六郎新田演一郎吉村吉五郎小川弥之
       助西尾浦次郎吉村勘六等有志数十輩結社代営者五年
       遂帰於小川西尾寺嶋吉村梅田五人之事業爾来拮据経
       営以至今日固益邦家非少自今亦必多矣而発見之者高
       木川上二氏久已故聊記由来刻石以伝後世云爾
              阿部氏選文  活堂謹書
            大正四年三月建之

    (2) 両者比較
        「岐阜県図書館レファレンス」による碑文の内容でも、”それなりの意味”は
       通じ、これだけを見た人は、碑文の現物がこうなっている、と思うだろう。
        しかし、碑文の実物と比較してみると、違い(文字の脱落)が一目瞭然で
       ある。

           碑文現物                  「岐阜県図書館レファレンス」による
       写真から復元+現地再確認                ”○”部分、脱落

   我東濃之地存砂錫甚多世未嘗之知也明治   我東濃之地存砂錫甚多世未曽知之也明治
   十有七年高木吉村及江州人川上三氏発見   十有七年高木吉村及江州人川上三氏発見
   焉後二年三井物産会社令狛林之助創始経   焉後二年三井物産会社令狛林之助創始経
   営頗利潤地方至明治二十四年安保豊次郎   営頗利潤地方至明治二十四年安保豊次郎
   西尾馬五六郎新田演一郎吉村吉五郎小川   西尾馬五六郎新田演一郎吉村吉五郎小川
   弥之介西尾浦次郎吉村勘六等有志数十輩   弥之助西尾浦次郎吉村勘六等有志数十輩
   結社代営者五年遂帰於小川西尾寺島吉村   結社代営者五年遂帰於小川西尾寺嶋吉村
   梅田五人之事業爾来拮据経営二十年大正   梅田五人之事業爾来拮据経営○○○○○
   二年更東都人高橋源三郎氏代経営以至今   ○○○○○○○○○○○○○○○以至今
   日固益邦家非少自今亦必多矣而発見之者   日固益邦家非少自今亦必多矣而発見之者
   高木川上二氏久已故聊記由来刻石以傳後   高木川上二氏久已故聊記由来刻石以伝後
   世云爾    阿部氏選文  活堂謹書      世云爾    阿部氏選文  活堂謹書
         大正四年三月建之                   大正四年三月建之

4. 碑文の違い
 4.1 相違点
     Mさんからのメールにもあったが、「傳」→「伝」、「介」→「助」など、旧字体を
    新字体に改めたのは、時代の趨勢で致し方あるまい。
     しかし、次の20文字が、”脱落”しているのは、聊(いささか)いただけない。

     『 二十年大正二年更東都人高橋源三郎氏代経営 』

     脱落部分は、そのままでも、意味は十分わかると思うが、現代語に訳すと
    次の通りである。

     『 (小川氏等5人による経営が)20年経ち、大正2年(1913年)、今度は東都(東京)
      の高橋源三郎氏の経営に代わって(今(大正4年)に至っている) 』

 4.2 違いの起きた理由
     「岐阜県図書館レファレンス」で引用している原典の内容が「現物」と違っている
    理由をあれこれと私なりに、推理してみた。
     違いが起る原因は、いくつか考えられるが、性善説と性悪説から考えてみるのも
    一興だろうと思う。

  4.2.1 性善説
   (1) 単純ミス説
       「人間はミスをする動物である」といわれるほど、単純なものから複雑なものまで
      私たちの周りで、頻繁に起こっている。

       ”勘違い”などによる、単純ミスが原因だったとすると、次のように考えられる。
      この碑文には『経営』という語が3ヶ所に登場する。書き写す人が、2番目の
      『経営』の後に、3番めの『経営』以降の文を続けてしまった。そのため、この間の
      20文字が抜けてしまった。

   (2) 実績説
       錫鉱が明治17年(1884年)に発見されてからの30年近い歴史に比べ、東京の
      高橋氏が経営してから碑が建てられるまで、2年足らずしかない。この期間は
      ”とるに足りない期間・事跡”だと”原典”を編集する人が勝手に判断し、削除
      した。

  4.2.2 性悪説
       地元の人が発見し、地元の手で経営されたと言うことを力説したいという
      ”変な郷土愛”の強い人が、「東京の人が経営していた」と言うのは具合が悪い
      と考えて、削除した。あるいは、削除するように指示した。

5. おわりに

 (1) Mさんは、自宅に居ながらにして、『錫鉱記念碑』の情報を入手できるなど、便利な
    時代になったことは、喜ばしい限りです。
     その一方では、情報は取り扱う人によって、悪意のあるなしに関わらず、如何
    様にでも”加工”されてしまう危険性を孕んでいることも事実である、と再認識
    させられた。

 (2) 「岐阜県図書館レファレンス」で引用している文献と実物の碑文の違いが、悪意に
    基づくものとは全く考えてはいない。「広開土王碑」では、旧陸軍将校が持参した
    漆喰で碑文を改竄して「拓本」をとったと言われる、古い出来事をついつい連想して
    しまった。

    朝鮮半島北から中国東北部にあった高句麗の好太王(広開土王)の功績を称える
   記念碑が414年に息子の長寿王によって、丸都(がんと:現中国吉林省)の西に
   建立された。碑の高さは6.2mもある巨大なもので、1800字の碑文が刻まれて
   いる。

    
 その中に辛卯(かのとう)の年(391年)に”倭”が
海を渡って百済・新羅を破り臣民とした。そこで
好太王は、みずから水軍を率いて百済を攻め
打ち破った、という意味の文がある。
 日本の学者には、ここにでてくる”倭”を大和朝廷と
みて、南朝鮮の任那(みまな)に「日本府」をおいて
2世紀あまり、そこを支配した、という見方が
あった。
( 朝鮮半島を併合する、理論的な根拠にでもした
 かったのだろうか? )
 しかし、近年、朝鮮の学者から、碑文の読み方や
日本が用いた”拓本の信憑性”などについて
根本的な批判が出され、そのような見方は改め
なければならない、という反省が起っている、と
「世界史への旅」にある。

     好太王碑と碑文
  【「図説日本史」から引用】

 (3) 拓本で思い出したが、石友・Mさんから、五無斎が「九曜紋」を刻んだ場所の
    新たな情報をいただいている。
     @ 野沢温泉村
     A 三石勝五郎の「寝覚の床」の詩にある「長野県御嶽山」頂上附近
       ( ここは、1979年の水蒸気爆発による火山灰などの噴出物に埋もれた
        可能性もあり )

     これらの場所も探索せねば、と考えると、今年も忙しくなりそうです。

 (4) 「岐阜県図書館レファレンス」で引用している文献のコピーを入手していただけ
    そうなので、それらをよく読んで見たいと考えている。

6. 参考文献

 1)長島 乙吉、弘三:日本希元素鉱物,日本砿物趣味の会,1960年
 2)長島 乙吉:苗木地方の鉱物,中津川市教育委員会,昭和41年
 3)和田 維四郎:日本鉱物誌(初版),鞄結梺z地活版製造所,明治37年
 4)原田 準平:日本産鉱物文献集,北海道大学理学部
           日本産鉱物文献集編集委員会,1959年
 5)木村 清治ほか編著:新総合 図説日本史,東京書籍梶C1995年
 6)大江 一道、山崎 利男:物語 世界史への旅,山川出版社,1991年
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