3.1 表面
表面には、発見者3名と建設者5名の名が刻まれている。
□ は写真から判読不可能個所を示す。
高木勘兵衛
発見者 吉村吉兵衛
川上 巖
錫鉱記念碑
建設者 寺嶋 昇
小川弥之介 吉村勘六
西尾浦次郎 □田長四郎
3.2 裏面
裏面には、この碑を建設した由来が刻まれている。この石碑が建てられた
のは、今から90年前の大正4年(1915年)だった。
□東濃之地在砂錫甚多世来嘗之知也明治
十有七年高木吉村及江州人川上三氏発見
焉後二年三井物産会社令狛林之助創始経
営頗利潤地方至明治二十四年安保豊次郎
西尾馬五六郎新田演一郎吉村吉五郎小川
弥之介西尾浦次郎吉村勘六等有志数十輩
結社代営者二年遂□於小川西尾寺島吉村
□田五人之当□□来□□経営二十年大正
二年□東都人高橋源三郎氏代経営□至今
□固益邦家□□自今亦必多矣□発見□者
高木川上二氏久己故□記由来刻石以傳□
□之□□□□□□氏選文 活堂謹書
大正四年三月建之
4. 砂錫採掘の歴史
この石碑の碑文、「中津川市鉱物博物館」にある「スズ鉱」に関する展示、そして
「日本希元素鉱物」誌と「苗木地方の鉱物」誌の内容をもとに、木積沢はじめ苗木
地方の錫鉱採掘の歴史と当時の様子を追ってみよう。
4.1 発見
石碑によると、明治17年(1984年)、高木、吉村、そして江州(現在の滋賀県)の
川上の3氏によって発見された。(中津川市鉱物博物館の展示には明治15年
(1882年)ごろの発見、とある)
発見者3人のうち、高木勘兵衛氏の足跡、人となりについては「日本希元素鉱物」
「苗木地方の鉱物」などに詳しいので、引用してみよう。
『 ・・・・苗木の水晶は恐らく徳川時代から採集加工されていたものであろう。この
水晶類に目をつけたのが筆者(長島乙吉)の旧主人、中津川の高木勘兵衛翁で
あった。翁は、風変わりの奇行に富んだ人物であった。
水戸天狗党の武田耕雲斎一行が戦に敗れて中山道を下り、中津川の本陣に
泊ったとき(、苗木地方から沢山の刀を集めこれを売ろうと持参したが、耕雲
斎も路用少なくなった時で、利を博することはできなかった。
( 水戸天狗党が挙兵したのが元治(げんじ)元年(1864年)3月で、加賀藩の手で
捕らえられたのが同年12月であるから、この間の出来事であろう )
また、豚を飼ったが流行病で死んでしまい、木曽川に捨てた等、面白い人で
あった。この逸事から、人々は彼を”豚勘”と渾名した。
明治初年、東京には時々内国博覧会があって、勘兵衛翁は水晶を出品した。
これが縁となって時の大学教授、地質調査所長・和田維四郎先生の知遇を受ける
ことになった。
彼の蒐集熱は高調(潮?)し、苗木地方の砂鉄と異なる黒い砂の鑑定を和田先生
巨智部忠承先生に乞い、砂スズと教えられ、後に土地の有志と共に鉱区権を設定
杉邨次郎氏の紹介で、三井物産に売山した。
明治17年(1884年)、勘兵衛翁は上京し、東京神田に「金石舎」と称する、金銀・宝石
鉱物標本店を開業した。この頃は、鉱物標本は東京御茶ノ水の科学博物館で製作
各学校に配布していたが、次第に民間の業者に任せることになり、博物館の標本
材料が東京の金石舎、京都の島津製作所、そのほかに払い下げられたことなども
あって、金石舎も盛大となった。
苗木地方の砂スズは、ペグマタイトやペグマタイト性の鉱脈が分解してできた漂砂
鉱床で、各種の鉱物が含まれ、まさに鉱物の標本室である。この砂鉱のうち、水晶と
思われていたものがトパズと教えられ、高木翁は無傷の湯飲み茶碗大のもの他
約200個を愛媛県市ノ川鉱山産の輝安鉱と共に、明治25年(1892年)米国・シカゴの
世界博覧会に出品し銅牌を得た。(金を送れば、金牌といわれたが銅で我慢した)
この湯飲み大のトパーズとは、直径5cm、高さ6cmのもので、福岡村や苗木の川流れ
品で、結晶面は擦れているが内部は無色透明、無傷で、1個5円から25円くらいに
売れたらしい。
( 現在の価格で、5万〜25万円であろうか )
翁は、更にトパズの採集に力を注いだので、郷里の人は翁を呼ぶのに”豚勘”に
かえて”トパーズ勘兵衛”を以ってした。トパーズがひすいと共に日本の宝石として
世界に知られた由来である。
(長島乙吉氏が「金石舎」に小僧奉公に出たのが、この後明治32年(1899年)である)
錫鉱を採掘した際に出た”選鉱滓”が時々東京の「金石舎」のもたらされ、その中から
「フェルグソン石」、「苗木石」、「サファイア」そして「金緑石(クリソ・ベリル)」などが
発見され、明治37年(1904年)の「日本鉱物誌初版」に載せられた 』
4.2 砂スズ採掘とその賑わい
(1) 錫鉱採掘
発見から2年後、三井物産が採掘権を得て、「東濃採鉱社」を設立、付知(つけち)川
ぞい(木積沢上ノ島)に製錬所を建設し、木積沢川や一ノ瀬川一帯で砂錫を採掘した。
その当時の採掘風景を示す写真が、鉱物博物館に展示されている。これを見ると
姉さん被りをした女性をはじめ、大勢の地元の人々が農閑期と思われる冬枯れの
景色の中で働いている様子が読み取れる。地元の人々に現金収入の途を開き、碑文に
ある 『 頗利潤地方 』 ( 地域を非常に潤した )ことが理解できる。
(2) スズの選別と製錬
砂礫の中に混じったスズ石は、まず、「糶場(せりば)」と呼ばれる畳一枚ほどの大きな
「みぞ」に運ばれ、静かに水を流しながら砂鉱を入れると、軽い砂は流れ、スズ石が
残る。こうして粗く選り分けられたスズ石は製錬所に運ばれ、ざるなどを使ってさらに
選別される。( 今様、パンニングである )
選鉱されたスズ石は、炭が真っ赤に熱した溶鉱炉に入れられ、溶け出たスズは
鋳型に流し込み、柱状のインゴットにされた。
製品は、大坂まで送られたが、中央線が開通していなかったので、名古屋まで往復
4日間かけて、馬で運ばれた。
(3) 当時の賑わい
その当時、錫鉱採掘に従事する人々の羽振りの良かった様子が次のような唄に
残されている。( 出典は 「鬼みかげ紀行」 )
『 スズコ掘り掘り溜めたる金を 辻屋の2階で 茶々、無茶苦茶に 』
スズコ:錫鉱
辻屋 :当時、中津川市にあった料亭の名前
(4) 砂スズ採掘の終焉
しかし、砂スズの繁栄は長くは続かなかった。採掘開始から30年、次第に採算が
合わなくなり、大正中頃(1920年ごろ)には幕を閉じた。
この背景には、田畑の間を流れる”沢”という狭い範囲の漂砂鉱床であるため
小規模であったことが大きいのではなかろうか。
( 日本国内での、スズ鉱山は、その後50年以上続く )
(2) 苗木の砂スズに伴って発見された希元素鉱物は、「フェルグソン石」で明治37年
(1904年)であった。「苗木石(Naegite)」が、小川琢治氏によって発見され、和田
維四郎によって命名されたのも同じ年であった。
それから、丁度100年経った2005年に原産地の「苗木石」を採集できたのも
奇しき縁である。
(3) 碑文は写真に撮れば解読できると思っていたが、部分的に判読できなかったので
近々、再訪を考えている。
(4) 千葉県の石友・Mさんから「掲示板」に書き込みしていただき、”五無斎”こと
保科 百助が「金石舎」の主人(高木 勘兵衛のこと)との接点があったことを
教えていただいた。
五無斎は、明治42年(1909年)4月〜10月に行った第2回県下漫遊・鉱物
採集の旅の日記を「長野県地学標本採集旅行記」として残している。
明治42年7月29日のページに次のようにある。
『 二万は河南村へ角閃剥岩を採りに、両大家は高津屋へ砂質片麻岩、晶質
想起す今より十年の昔、東京の標本屋・金石舎の主人(名称忘れたり)某が
石灰岩等を採集に、五無斎は豊島病院へ日参。
八木教諭(貞助:「信濃鉱物誌」の著者)は、電気石の好標本1個を採集した
との事。
五無斎を標本採集人として召し抱へんと東京なる某旅館に来り、ビールやら
洋服の装飾品を贈りて五無の歓心を買はんとしたる折示したるものと同一
なるを。当時五無の一商人の召抱人とならぬを見て取り産地を秘してコソコソ
と逃げ帰りたる事のありたるが、今や其産地を確むるを得たり。然れども
其産出の多からざる由なるぞ遺憾なる 』
”十年前”といえば、明治32年(1899年)、長島乙吉氏がわずか9歳で東京
「金石舎」に小僧奉公に出た年であった。
歴史にタラ、レバは禁句だが、もし、五無斎が「金石舎」の標本採集人となって
いれば、当然、長島乙吉氏とも出会ったはずで、違った”五無斎像”が遺された
であろう。
6. 参考文献
1)長島 乙吉、弘三:日本希元素鉱物,日本砿物趣味の会,1960年
2)長島 乙吉:苗木地方の鉱物,中津川市教育委員会,昭和41年
3)和田 維四郎:日本鉱物誌(初版),鞄結梺z地活版製造所,明治37年
4)原田 準平:日本産鉱物文献集,北海道大学理学部
日本産鉱物文献集編集委員会,1959年