何年か前にも水晶の採掘を描く絵葉書とその原画となった写真を入手したことがあり、
なぜ水晶採掘を描く絵葉書が発売されたのかが気になった。調べていくと、大正天皇の
即位を記念して大正3年(1914年)に東京で開催された「東京大正博覧会」と関係があり
そうだ。
この博覧会の展示施設(今ならさしずめパビリオン)の1つに、『鉱山大模型館』があり、
その内部に全国各地の鉱山や鉱物資源採掘の模様を実物さながらのジオラマで再現し
ていた。その1つが『水晶採掘の実況』だった。
古書店で入手した、「鉱山大模型館案内」によれば、鉱山大模型館は、「水晶堂」主・
五味 道蔵氏が経営したもので、館内に鉱物標本を製作販売する水晶堂売店があり、
2階には、水晶や瑪瑙を採掘する鉱区(ジオラマ)があった。
「乙女坂水晶礦採掘の実況」絵葉書は、実際の水晶採掘の様子を伝えるために、この
売店で販売したものではないか、と推測している。
仕事も忙しいのだが、こうして新しいテーマについてHPをまとめようという意欲が湧いて
くるから不思議だ。まさに 『 忙中閑有 』 の毎日だ。
( 2010年5月 入手・調査 )
最近入手した絵葉書に、4つの会場の地図と展示の明細が描かれているので紹介する。
会場は、4つあり、それぞれの場所、展示内容は次の表のようになっている。
会場名 | 場 所 | 展 示 | 備 考 | 第1会場 | 上野 (現在の動物園 〜科学博物館) | メイン会場 | 第1会場と第2会場の間に 「エスカレータ」 |
第2会場 | 上野 不忍池周辺 | 池を横断する ケーブルカーが目玉 | 『鉱山大模型館』 | 第3会場 | 青山 練兵場 | 飛行機が目玉 飛行場があった | 青山を第2会場としている HPもあるが誤り |
第4会場 | 芝浦 芝浦駅(廃駅)の東 芝浦埠頭 | 水上飛行機 |
第3会場 第4会場
出品者は6,300人、出品点数は12万5千点だ、と「見物案内」にある。
鉱物関係の展示には、「鉱業館」と「鉱山大模型館」があった。「鉱業館」は、建坪277坪
で、鉱物、地質標本、鉱物土石類、宝玉、金銀銅鉄その他の製錬品、鉱業用機械および
器具などを展示していた。
入場料は、下表のようになっていて、平日、夜間割引があったり、総額5,000円の現金
が当たる福引券がついていた。
区分 | 入場料金 | 備 考 | 平日 | 15銭 |
15銭券と20銭券には 福引券がついていた
【入場券10万枚に一組】
5組、50万枚、ごとに抽選 |
日曜 祭日 | 20銭 | 夜間 | 5銭 |
鉱山大模型館から時計回りに不忍池を取り巻くように売店が並んでいた、
売店
2枚の絵葉書には違った図柄の記念スタンプが押されている。
3.2 鉱山大模型館の性格
「見物案内図」によると、「鉱山大模型館」は、『公私設余興』のグループになっていた。
『 余興館は、協賛会経営の演芸館、活動写真館の外、私設余興館はサークリング
ウェーブ、座禅堂、自働一分写真、通俗活動写真、エスカレーター、鉱山大模型、
美人島旅行、南洋館、遊覧索道車等にて、是等の入場料は5銭乃至30銭等ならん 』
これによると、「鉱山大模型」は、「美人嶋旅行館」などと並んで、”見世物”や”余
興”と同列の扱いだったようだ。
「美人嶋旅行」、とある
どんな内容だったのか、
知りたい読者もいるので
ないだろうか。
「美人嶋旅行館」
3.3 「鉱山大模型館」
古書店で、「鉱山大模型館案内」なる小冊子を入手した。こんなものが、と言うくらい
良い値段だったが、”惚れた弱み”で買ってしまった。
2つ折りになっていて、名刺を一回り大きくした小さなものだが、表紙には鉱山大模
型館のイラスト、館の特徴、館内の配置図、しおりには経営者のあいさつ文などが記
載してあるので、以下紹介する。
(1) 鉱山大模型の外観と特色
鉱山大模型館を描く絵葉書は、骨董市などで必ずと言っていいほど眼にすることが
ある。これを見ると、東京ディズニーランドにある 『ビッグ・サンダー・マウンテン』や
『スプラッシュ・マウンテン』をつい連想する。
大きな岩山で、一条の滝が流れ落ちていて、まるで”アリ”のように働く人々のジオ
ラマが点々と見える。
岩山の頂上付近は展望台になっているようだ。
表紙には、『教育之参考』、とあり、「鉱山大模型館」は、『公私設余興』のグループに
あるが、教育の為になることをアピールしているようだ。
裏表紙には、「鉱山大模型館」の特色が並んでいる。
@ 坑内に大風車あり。冷風汗を吹き去りて、炎天尚暑さを忘る。
A 山上より落下する瀑布は、水沫四方に飛散して夏尚寒さ感ぜしむ。
B 山上にてイルミネーションの夜景を眺むる時は、全会場一目の下に集る。
C 納冷、眺望、2つながら兼ね備へたるは鉱山大模型館の特色なり。
(2) 「水晶堂」が経営
鉱山大模型館の経営者は、神田小川町にあった「水晶堂」主・五味道蔵氏だった。
「鉱山大模型館案内」に入っていた、『しおり』から、氏の思い入れを読み取ることが
できる。
大正博覧会、鉱山大模型は
弊堂多年の実験により苦心
経営つかまつりそうろう次第
何とぞ御高覧の栄を賜りたく
ねがい奉りそうろう
水晶堂主
五味 道蔵
敬具
「しおり」
「水晶堂」、と聞けば、鉱物好きだった宮沢賢治に造詣の深い方なら”ピン”と来るは
ずだ。大正博覧会の4年後、大正7年(1918年)11月29日(日)、宮沢賢治が神田小川
町の水晶堂と金石舎を訪れ、岩手県産の蛋白石、瑪瑙などの鉱物標本を送る約束を
した。そのとき、水晶堂で対応したのは、堂主の五味氏であった可能性が高い。
この「しおり」を読むと、大正3年の博覧会当時、水晶堂は3つの店舗を構えていたこ
とがわかる。
店舗名 | 住所 | 電話番号 | 販売品目 | 備 考 | 水晶堂本店 | 神田小川町1番 | 電本3450番 | 水晶印専門篆刻 | 水晶堂出店 | 上野博品館 | 電下3044番 | 金銀宝石美術細工 | 水晶堂売店 | 池ノ端鉱山模型館 | 電下3208番 | 鉱物標本製作販売 |
最近入手した鉱山模型館の手彩色絵葉書には、「水晶堂売店」が写っている。
(3) 「鉱山大模型館」の中はどうなっていたか?
鉱山大模型館の外観を描く絵葉書は多いのだが、中がどうなっていたか分からな
かった。「鉱山大模型館案内」を見開くと、そこに『鉱山大模型館略図』があり、内部
の様子を知る事ができたので、紹介しよう。
これによると、内部には全国の鉱山や水晶、瑪瑙(めのう)の採掘状況や天狗の
イハヤ(岩屋)などをジオラマで再現していたことがわかる。
それぞれが、どのような情景だったかを別に入手した絵葉書で併せて紹介する。
部門 | 名 称 | 情 景 | 備 考 | 金属 | 仙人鉄山 |
銅鉱採掘
| 岩手県 | 半田銀鉱 | 絵葉書なし | 福島県 | 沼尻硫黄 |
| 福島県 | 佐渡金坑 |
| 新潟県 | 日立銅鉱 | 茨城県 | 立室銀鉱 | 絵葉書なし | 栃木県玉生鉱山 | 精錬所 |
| 「略図」になし | 炭鉱 | 茨城無煙炭 |
| 茨城県 | 非金属 | 水晶坑 |
「水晶採掘の実況」 | 山梨県? | 瑪瑙坑 |
| 島根県? | 伝承 | 天狗のイハヤ(岩屋) |
| ? |
これらの絵葉書は、「鉱山大模型館」内に展示するジオラマが完成してから撮影し
博覧会が開会してから、「水晶堂売店」で販売したものだろうと考えている。
「半田銀鉱」と「立室銀鉱」の絵葉書はこのセットを入手した時にはなかった。逆に
館内略図にない「精錬所」の絵葉書が入っていた。
坑道の中で、長いタガネとハンマー(セットウと呼んだ)を持った坑夫が晶洞らしき箇所を
掘りこんでいる。足元には、タガネやバール状の鉄棒がおいてある。脇には、詰襟を着て
眼鏡をかけた「鉱山技師」らしき人物が座っている。
鉱山絵葉書の中には、タガネとハンマーで採掘の様子や削岩機で採掘する脇に「鉱山
技師」らしき人物を配した鉱山絵葉書は定番になっていて、この絵葉書もそれをまねた
ようだ。
4.1 いつごろのものか
絵葉書の宛先と通信文を書く境目を示す仕切り線が下から1/3にあり、「きかは便郵」
となっている所から、明治40年から大正7年3月までに印刷されものである。
したがって、東京大正博覧会が行われた大正3年に発行された可能性は十分ある。
4.2 発行所
この絵葉書には、「甲府市柳町 宮井商会発行」、と印刷されている。当時の柳町に
は、HPですでに紹介したように、水晶細工所やそれらを甲州土産として取り扱う商会
が集まっていた。
甲府市にはお土産品を取り扱う宮井商会があり、現在も続いているのかも知れない。
4.3 どこで販売されたのか
推測でしかないが、「鉱山大模型館」の売店で売られたのではないだろうか。鉱山
模型館を経営した五味氏はその名前から、山梨県もしくはその周辺の出身者だろう。
鉱山模型館には「水晶堂」の売店があり、そこで売ったかも知れないし、他にテナン
トを募集し、その1つに同じ甲州人の「宮井商会」があったのかもしれない。
「鉱山模型館」での展示は、「水晶採掘の実況」とはあるが、あくまでも『模型(ジオラ
マ)』なので、本物の水晶採掘の様子を知ってもらいたくて、『甲斐國 乙女坂水晶礦
採掘の実況』、という絵葉書を販売したのではないだろうか。
日本では、1964年の東京オリンピック以降、1970年の大阪万博をはじめ、数多くの
博覧会が開催された。私の記憶に残るのは次の3つだ。
博覧会名称 (略称) | 開催期間 | 開催地 | テーマ | 入場者数 | 備考 | 日本万国博覧会 (大阪万博) | 1970年3月 〜9月 | 大阪 | 人類の進歩と調和 | 6,421万人 | 「月の石」が人気 あまりに観覧者が多く 『辛抱と長蛇』 と揶揄された |
沖縄国際海洋博覧会 (沖縄博) | 1975年7月 〜1976年1月 | 沖縄 | 海-その望ましい未来 | 349万人 | 国際科学技術博覧会 (つくば博) | 1985年3月 〜9月 | つくば | 人間・居住・環境と科学技術 | 2,033万人 |
今、これらの博覧会の開催された時期を思い返すと、科学技術が進歩し、われわれ
の生活レベルが向上した反面、各地で公害問題が起こるなど、『技術進歩が持つマイ
ナス面』にも気付き始めた時期だったようだ。
文明開化、と言われた明治時代は、西欧の技術、文化を取り入れて西欧に追いつけ
がスローガンだった。しかし、文明開化の恩恵を受けたのは一部の人で、多くの国民は
昔ながらの生活様式を続けていた。
明治末期には、社会下層民の不満が爆発し、足尾銅山や別子銅山では軍隊が出
動するような暴動が発生したりした。政治の面では「藩閥政治」の弊害の極みに達し
ていた。
大正に代わって間もなく開催された「東京大正博覧会」の時代は、『大正デモクラ
シー』、と呼ばれ、政治の面では、政党政治が芽生えていた。
大正博が開催中の大正3年7月には、第一次世界大戦が勃発し、戦場から遠く離
れた日本は戦後復興の好景気で輸出は増大したが国内の物資不足で、物価が高
騰し国民生活は苦しく、全国で騒擾事件が発生する事になる。
「大正博」の展示を概観すると、飛行機やエスカレーターなどの新技術が目を引き
「鉱山大模型館」でも仙人鉄山の『ダイナマイトを用いる図』など新技術が広がり始
めていたことを示している。
(2) 乙女坂鉱山
現在入山が禁止になっている乙女鉱山には、「乙女坂鉱山」、「倉沢鉱山」の2つが
あった。
今回入手した絵葉書は、山梨県にあったか鉱山というだけでなく、甲斐國(山梨県)
特産の『水晶』の採掘を描くもので、今後も大切に保管していきたい。