山梨県下部町の鉱山に関わる1枚の古い写真

    山梨県下部町の鉱山に関わる1枚の古い写真

1.初めに

 現在日本全国各地で、「市町村合併」が急速な勢いで進められており、私が住む
山梨県でも「南アルプス市」に始まり、ごく最近「甲斐市」が誕生し、2004年9月13日に
「下部町」「中富町」「身延町」が合併して、新しい「身延町」が誕生します。
 これに伴って、鉱物ファンなら誰でも知っている「夜子沢の透明石膏」産地の中富町
「信玄の隠し湯」や「下部(草間)鉱山」で知られている下部町の名前もなくなります。
 2004年3月に、私のHPを見た下部町役場に勤務するAさんから、メールをいただいた。

 『 下部町の閉町記念事業として、町の歴史を綴った写真集を作成しており、編集
   作業を進めている中で、1枚の古い写真を入手した。』

 で始まり、その写真が何の写真なのか、持主の遺族の方も分からない、という。

 『 写真に写った「興亜鑛業所」などいくつかの情報から、鉱山に関係するのでは
  ないか、と「下部町史」を調べてみたが、下部鉱山に関する記述が全く無く
  冨里鉱山についても僅かな記述で、採掘した年代など書いていない。
   郷土史に詳しい方や温泉郷の古老に尋ねたりしたが、全くわからず、そんな時
  私のHPで手がかりとなる一文
「下部町の下部鉱山(草間鉱山)で、昭和13年
  14年に併せて700トンのマンガンが採掘された」
を発見した。』というものです。

   Aさんからは、
 『 戦後、昭和30年〜44年にかけて、下部の草間克六氏(現・相模屋旅館主人)が
  権利を買い、下部鉱山(株)を起こして採掘を続けた。「草間鉱山」と呼ばれるのは
  そのためである。』
など、地元の人以外では知り得ない貴重な事実を教えて
 いただいた。
  そこで、これらの情報も併せて下部町のマンガン鉱山について調べてみたが
 この1枚の写真について全てを解明すには至らなかった。今後、時間を掛けながら
  解き明かしてみたいと、考えています。
  完成したばかりの立派な写真集をお送りいただいたAさんに、厚く御礼申し上げます。
(2002年9月調査)

2. 閉町記念写真集「黎明(れいめい)」

 2.1 写真集発行の経緯
     写真集の「発刊によせて」、下部町・土橋町長が次のように書いています。

   『 ・・・・下部町は、「昭和の大合併」と呼ばれる昭和31年(1956年)9月30日に
    下部町(旧富里村)、久那土村、古関村、共和村が合併して誕生し、平成16年(2004年)
    9月13日にその48年の歴史に幕を閉じる。
     閉町にあたり、先人の生きた時代の写真を町民に提供していただき、記念集と
    して発刊した。
     旧村時代から下部町が発足した昭和の各年代毎に編集してある。今あるこの
    町が、それぞれの
時代の黎明期を支えた多くの人たちの智慧と汗のうえにつくり
    あげられたことに私たちは感謝し、またこれを誇りとしなければならない。
     先人たちの培ってきたまちづくりの志を受け継ぎ、それを活かしていくことが
    私たちの使命であり、これからの新町建設に求められている。・・・・・』

    下部町閉町記念写真集表紙

 2.2 写真集の構成
    写真集は、カラー写真をまじえた160ページの立派なもので、6つの章と編集後記から
   構成されています。
    

    第1章 ふるさと 下部町の自然
    第2章 昭和の大合併前
    第3章 昭和前期編
    第4章 昭和後期編
    第5章 平成編
    第6章 資料編
        編集後記

    編集後記を読むと、編集を担ったAさんのご苦労と仕事を成し遂げた安堵感のようなものが
   伝わってきます。

   『 ・・・・本町発足以前の旧村時代を含めた96年間の写真400枚以上を掲載した。当時を
    知る方々が少なくなっている中、膨大な数の写真を1枚1枚検証して説明文を加えていくのは
    予想以上に困難な作業でしたが、何とか写真集の形にまとめることができた。・・・・』

    この写真集の特徴は、同じような仕事に携わっている妻によると次の通りです。
   @資料編は僅かに4ページで、読むよりも”見る”を主体に編纂
   A写真のすぐ下に、詳しい解説があって読みやすい。
   B上質紙でカラー写真もあり、お金を掛けている。(それに引きかえ、・・・・・・・)

3. 下部町の鉱山に関わる1枚の古い写真

 3.1 写真
    鉱山に関わる写真は、第2章に掲載されている1枚です。Aさんからいただいた本の写真を
   スキャナーで読ませました。実物は横30cm、縦21cmで、70年近い年月で、セピア色
   になっています。

    下部町の鉱山に関わる写真

   写真の下には、次のような解説があります。

  『 鉱山発掘の地鎮祭か(昭和10年頃)
    「下部鉱山」か「富里鉱山」の発掘に伴う地鎮祭と思われる。冨里鉱山は湯之奥集落の
    対岸にあり、昭和10年頃発掘開始。茅小屋金山の入口近くにある下部鉱山は開始時期は
    不明だが、昭和13・14年には680トンのマンガンが掘られている。いずれも昭和40年
    頃まで発掘が続けられた。撮影場所の湯町分校は昭和4年に完成したもので、本校統合に
    なる昭和41年まで使用される。その後昭和63年までは青年の家や下部保育園として利用
    される。』

 3.2 写真の推理
    この写真が何を写したものなのか、持主の遺族の方も分からない、という。
    Aさんに調べていただいた情報などから次のようなことが推理でき、上の写真の解説へと
   繋がった。

   @やや右下に立てられた旗は「所業鑛亜興」とあり、鉱山に関係する。
    昭和10年〜14年ごろのものらしい。
   A左下には、神官が2人おり、神事が執り行われようとしている。
    竹と榊のような常緑樹を4隅に立て、その周りに御幣をつけた注連縄が張られている。
    この中央に、盛り砂があるのではないだろうか。
   B右中には”来賓”と思われる人々が椅子に腰掛けている。
    最前列のヒゲを蓄えた在郷軍人服姿の人が、当時の冨里村長
   C左中には、国民服姿でゲートルを巻いた、鉱山(鉱業所)の一団(鉱員)が整列
    前のほうは、背広姿の人たちで、所謂”職員”らしい。
    テーブルの上に式辞を広げ挨拶をしているのが、鉱業所関係のトップらしい。
    この人は、神官と同じように椅子に座っていたところから、都会の本社から来た
    社長もしくはその代理人らしい。
   D来賓、鉱業所関係者の後ろに並んでいる人々は、鉱山のある地区の住民らしい。
    しかも、集合場所の案内立て札が3つあり、3つの地区ごとに並んでいるらしい。
    これだけの人が集まるのは、下部区全体に関わる大規模な事業らしい。
   Eその後ろでは、神事など関係ないとばかりに、子ども達が走り回っている。
   F校庭の桜の木は若木で、植えられて(湯町分校ができて)から数年しか経っていない。
    桜の木や周りの山の木にも、葉がないので、季節は冬
   G現地では(山深く、狭くて)できないので、温泉郷のこの場所(湯町分校)で執り
    行った。

 3.3 下部町のマンガン鉱山
    「日本鉱産誌」や「日本のマンガン鉱床」を読むと、昭和10年代初頭に開坑した
   下部町の鉱山には、マンガンを採掘した「冨里鉱山」と「下部鉱山」がある。
    それぞれの鉱山の所有者、産出量は次の通りです。
    ここには、「興亜鉱業所」の名前が出てきませんので、上の写真が何時頃でどのどちらの
   鉱山のものか断定することはできません。

下部町のマンガン鉱山(昭和10年〜19年分)
鉱山名項目10年11年12年13年14年15年16年17年18年19年
下部鉱山
(昭和30年〜
草間鉱山)
所有者   功刀崇臣




産出量
(トン)
   500180257
冨里鉱山所有者


功刀崇臣兼子七郎←?←?←?←?←?
産出量
(トン)
含む
?→
含む
?→
含む
?→
150含む
?→
703

4.おわりに

(1)下部町の冨里マンガン鉱山は、「富里型鉱床」の名前にもなった通り、特徴ある産状を
   示していたらしい。
   @Braunite(ブラウン鉱)を主要鉱石とする。
   A冨里鉱山のように輝緑岩と共生するケースと、珪石鉱床に伴うケースもある。
   B鉱体は塊状
   冨里鉱山は湯之奥集落の対岸にあった、と言われていますが、未だ訪れていません。
(2)1枚の古い写真をキッカケに、私の住む山梨県にあった古い鉱山について、いろいろな
   ことを調べてみたが、未だに判らないことの方が多い。
   実地探査や文献漁りなどで、できるだけ空白を埋めていきたいと考えている。
(3)このような機会をつくっていただいた、下部町役場のAさんに改めて感謝しています。

5.参考文献

1)吉村豊文:日本のマンガン鉱床,マンガン研究会,昭和27年
2)日本鉱産誌編纂委員会編:日本鉱産誌T−B,東京地学協会,昭和29年
3)下部町役場 企画財政課編:閉町記念写真集 黎明,山梨県下部町,2004年
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