白瀬南極探検隊  東京都出身 田泉 保直 写真技師 ( Photographer Yasunao Taizumi from Tokyo , Shirase Antarctica Expedition )









        白瀬南極探検隊  東京都出身 田泉 保直 写真技師

           ( Photographer Yasunao Taizumi from Tokyo , Shirase Antarctica Expedition )

1. はじめに

    2015年1月19日南極探検旅行に出発、2月2日夜無事帰国した。旅のダイジェスト版か趣味の切手、鉱
   物、コインなどで第一報すべきなのだが、旅行中に知った白瀬南極探検隊に参加した“タイズミ”について
   調べた結果をまとめてみた。

    19日の夕刻成田を発ち、20日深夜(以下現地時間)、南米最南端のフェゴ島にある観光地・ウシユアイア
   のホテルに投宿した。ウシュアイアの町中に、『TOKIO 17,017km』の方角と距離を書いた標識があり、
   観光列車、その名も「世界の果て号」に乗り、さらに時差が12時間なので地球の裏側に来たことを実感す
   る。

        
          東京まで 17,017kmの標識                  「世界の果て号」

    21日夕刻、われわれ一行121名を乗せた耐氷船「オーシャン・ダイヤモンド号」(8,282トン)は、10日間の
   南極探検に向けてウシユアイア港を出航した。

    24日、クルージングの後バリエントス島に上陸したのを皮切りに、南極大陸に3回、島に6回、合計9回
   上陸し、ペンギン、クジラなどの動植物観察を行った。

        
            ペンギンの群れと探検船            上陸用ボートとザトウクジラ
         

    『年寄りの冷や水』と笑われるかもしれないが、「南極海での寒中水泳」にも挑戦した。
    ( もっとも、南極は”夏”なのだが )

        
             いきなり飛び込み                 ”思ったより冷たくない”
              【左手にカメラ】                      【痩せ我慢?】

    パラダイス・ハーバーでは、念願のミネラル・ウオッチングで「アタカマ石」の大きな露頭を見て、南極が
   鉱物資源に恵まれていることを再認識した。

        
                  全体                           部分
                             「アタカマ石」露頭

    英領南極のポ−ト・ロックロイ郵便局では記念押印をさせてもらい、孫娘や友人に絵葉書・書状50通余
   りを投函した。(例年、3月末から5月初めに日本に着くようだ)

        
           郵便局(左)と土産店(右)                  Shime副局長と押印
                        イギリス領南極 ポート・ロックロイ

    目的地へ移動中、船内では探検隊講師による南極講座や映画会、BBQそして「チャリティオークション」
   などが開催され、退屈になりがちな船旅は快適なものだった。
    今回の航海図にペンギンなどを描いた肉筆画がオークションに出品され、1,000米ドルまで競ったが及ば
   ず、W夫妻が1,100ドル(13万円)で落札した。
    これが縁でW夫妻とお話すると、私が小学2年まで過ごした福島県からの参加で「子どもの頃、近所に白
   瀬南極探検隊に参加した“タイズミ”という人が住んでいて、可愛がってもらった」、と聞き驚いた。私が南
   極探検旅行に参加した理由の1つが、甲斐出身・村松 進隊員の足跡を辿ることにあったので、Wさんが
   “タイズミ”に関心を持つ気持ちが十分理解でき、帰国後すぐに調べてみた。

    “タイズミ”とは、活動写真技師として第二次探検から参加した「田泉保直」だと判った。田泉が隊員や
   ペンギンなどの姿を撮った活動写真(ムービー)は、帰国直後『日本南極探検』の題名で1912年(大正元
   年)6月に公開された。これは、日本のドキュメンタリー映画の初期のものとされている。その後もカメラマン
   として初期の日本劇映画界で活躍し、昭和31年には福島県岩瀬郡(現須賀川市)に住んでいた。

    白瀬南極探検隊には、外地・樺太を数え20都道府県から31名が参加しており、一人ひとりにドラマがあ
   ったはずだ。それらを少しでも後世に残しておきたい。
    ( 2015年1月〜2月 参加 2月 報告 )

2. 田泉が南極探検隊に参加した経緯

    白瀬南極探検隊は、日本を出て南極大陸に上陸し、日章旗を掲げ日本に帰ってきた、とばかり思い込ん
   でいた。調べてみると、白瀬自身、第一次と第二次の南極探検と書いていることに気づいた。

     ≪第一次南極探検≫
    明治43年12月1日館山を出航し、翌明治44年3月3日に南極圏(南緯66度30分以南)に入ったが、南半
   球はすでに冬に向かいつつあり、日増しに厚くなる氷に進路を阻まれた。3月15日、開南丸は船首をオー
   ストラリアに向け、解氷期に再度挑戦を期すことになった。
    ( 日本を出発するのが遅すぎたのだ )

     ≪第二次南極探検≫
    5月1日、シドニー港に入港し、この後6ケ月間、野営生活を送ることになる。ここで、4名が除隊、それを
   埋める形で田泉保直を含む4名が新たに参加した。
    11月19日、再び南極探検の途についた。南極に上陸後、白瀬らの「突進隊」は明治45年1月28日、南緯
   80度5分に到達、日章旗を掲げ、この辺りを「大和雪原(やまとゆきはら、現やまとせつげん)」、と命名した。

     
                   大和雪原に立つ白瀬らを描くFDC

    私が訪れた最も南の郵便局は、イギリス領のポート・ロックロイ局(南緯64度49分)で、妻宛の書状に記
   念押印し、Shime副局長のサインをいただいた。

     
                英領南極ポート・ロックロイ局の記念カバー

    上陸した地点で最も南はアルゼンチンのブラウン基地(南緯64度53分)だった。ここには郵便局がない
   ので、基地の記念印を押し、隊員のMs.Astrioのサインを貰った記念カバーに、30日帰港したウシュアイア
   局で押印した。

     
                   ブラウン基地の記念印とMs.Astrioのサイン入りカバー

    『閑話休題』

    白瀬は第一次探検の模様をスチール写真に撮る準備はしていたが、映画(ムービー)に撮影するのは、
   予算がなくて諦めていた。しかし、第二次探検記録を映画に撮りたい、との思いがつのり、後援会長・大隈
   重信に相談した。
    大隈は当時親しくしていた映画会社のM・パテー商会社長・梅屋庄吉に依頼をしてくれ、無償で撮影技
   師と機材を提供してもらえることになった。
    社長は、自社の撮影技師を派遣しようと思っていたが、この技師は、「今、人気役者のシリーズを担当し
   ているので手が放せない」、と未知の大陸・南極行きを断ってきた。 その代わりとして抜擢されたのが、
   撮影助手の田泉保直(当時23歳)だった。

     

 東京都出身、23歳
逆算すると明治21年
(1888年)ごろの
生まれ。
 M・パテー商会の撮影
助手になるまでの経歴は
詳らかでない。

      田泉保直
  【大和雪原に立つより】

    田泉自身は南極に積極的に行きたい、との思いはなかったらしいが、梅谷から、「南極に行かなければ
   クビだ!」、と脅され、強引に命令された、というのが真相らしい。
    梅谷は、田泉に1万円(現在の3,500万円)の生命保険を掛けていた。万一の場合、5,000円は撮影機材
   の損料として、残りの5,000円を田泉の遺族に支払うという契約を結ぶ。
    さらに、それまで4円50銭(現在の2万円)だった月給を、一気に80円(現在の30万円)にアップした。これ
   は、南極という未知の大陸での危険手当を含んでいるにしても、23歳の青年にとっては破格の高給だった。
    梅谷には、田泉が無事に帰ってくれば、彼が撮影したフィルムを配給する興行収入で田泉に掛けた保険
   金や給与を回収でき、万一の場合でも保険金が下りて決して損はしないとの読みがあったのだろう。
    ( 結果は梅谷の読み通り、興行収入で大儲けした )

    田泉が横浜を「熊野丸」(5,000トン、明治33年就航)で発ったのは、明治44年10月14日正午だった。一
   時帰国していた多田、第二次探検隊に新たに加わった池田農学士、そして補充の樺太犬29頭を率いた
   樺太アイヌ・橋村弥八が一緒だった。熊野丸は、神戸と門司に寄航し、10月19日払暁、長崎港に投錨、
   10月20日長崎を出港し、タウンズビルに寄航し、11月15日にシドニーに着いた。

    田泉は多田に促され、池田とともにシドニー港内ダブル・ベイに浮かんでいる開南丸に向ってハンカチを
   振った。ここまで乗ってきた熊野丸に比べあまりにも小さい204トンの開南丸を初めて見た田泉の心境は
   いかばかりだったろうか。

    こうして、白瀬隊長以下27名の乗員と樺太犬30頭が勢ぞろいし、4日後に開南丸は再び南極をめざして
   シドニー港を後にした。

     
           第二次南極探検隊員(明治45年1月1日)
                  【撮影:田泉保直】

3. 田泉が使用した撮影機材と活動

    「活動写真」は” motion picture “ の訳語で、現在の「映画」のこと。1895年(明治28年)に誕生したフラ
   ンスのリュミエールのシネマトグラフ、翌年のアメリカのエジソンのバイタスコープは、ともに1997年(明治
   30年)に日本に輸入され、公開された。

    日本で国産第一号の活動写真が公開されたのは、1899年(明治32年)で、田泉が 南極で活動写真を
   撮った明治45年は、活動写真が生まれて間もない、日本映画の黎明期だった。田泉が使ったカメラと同型
   機が東京国立近代美術館フィルムセンターの展示室にあるらしい。

     

     撮影機材についての田泉の談話

 『 カメラはイギリス製のワーウイックという四角い箱の
 やつで、機械の中にネガフィルムが200フィートだけ
 入るようになっていました。重量は三脚も入れて10貫
 目(田泉の別の談話では13貫目、約40kg)ほどです。
 機械も三脚も一緒にソリに載せて渡辺近三郎(賄方)
 さんと西川源蔵(糧食担当)さんと私と3人で曳いた
 ものでした。
  フィルムは全部で4,000フィート(別な記録では8,000
 フィート)もって行きました。このネガフィルムは、イース
 トマン・コダック社のオルソマティックというごく感度の
 低いものでした。撮影機のレンズは、ツアイス社
 (ドイツの有名なレンズメーカー)のF3.5のものでした。 』

   田泉使用の撮影機【同型機】

    明治44年11月19日にシドニー港を出港した後の田泉の活動の様子を「野村直吉船長航海記」や綱淵
   謙錠著「極」の記述から追ってみる。

    明治45年
    1月3日   「午後1時、天気良し。南極大陸洲を発見し、為め引期せる元旦式を執行に附、大騒ぎ乗組
            一同中室上に集合している姿は実に滑稽である。・・・・」
            (1月1日のキャプションのある集合写真はこの日、田泉が撮影した)

    1月19日   突進隊5名、観測隊2名を上陸させた開南丸は、田泉ら沿岸隊を乗せエドワード7世ランドに
            向けて出帆した。

    1月23日   エドワード7世洲に着く。
            「五時三十分、橇一台に活動写真器具及び食料の幾分を載せ防寒衣を着け田泉写真技師、
            西川、渡辺の二隊員上陸せり。活動写真の撮影の都合上方向を変え西方を指差して歩行
            せり。同人等は本船より南方約一浬半(=1.5海里≒2.8km)の所にて写真撮影するを目撃
            す。・・・
             ( 田泉は途中から引き返したが、先に進んだ二隊員は失踪騒ぎを起こす )

             
                                口絵22【野村直吉船長航海記より】

             十時頃、田泉写真技師一人帰船し同行の二隊員は橇を氷盤に置き探検するとて山方へ
            登り行きたりとの報である。
            ・・・船員は飲料氷塊積み終りペーングエン鳥捕獲の為交代にて上陸することとす。同鳥を
            捕らえんとせると共に三宅絵工兼水夫が画書に出掛けるとき柴田水夫同乗小端艇に行く
            ところを(田泉写真技師が)活動写真撮影せり。・・・・・」

    1月24日   「(午後)六時頃、三宅画工兼水夫、釜田水夫の二人小端艇に乗し用達するを、田泉写真
             技師は陸上に在って撮影せり。当時の現所を絵画にて参考とす。」

             
                                口絵23【野村直吉船長航海記より】

     2月2日    白瀬らを上陸させた地点に開南丸は戻る。
              「(午後)十時頃、全帆を下し機関停止。汽笛にて信号するも天幕小屋及び人姿の見へ
               なき為猶入進し。・・・・・・」

     2月3日    白瀬らの引き揚げにかかる。
              「(午後)四時三十分前、・・・・田泉君は写真の為喜び上陸せり。・・・・・・」

     2月4日    「十時四十五分、根拠地出帆す。」

     開南丸が新西蘭(ニュージーランド)北島のウエリントンに入港し、その沖合に投錨したのは、3月23日
    未明だった。
     天候の荒れ以外は一見平穏にみえた帰航の船路も、その後の南極探検隊分裂の兆しはすでに生ま
    れていた。かつて、書記長という立場から白瀬批判の隊員に担ぎ上げられていた多田恵一が、二次探
    検スタート時に平隊員に降格され、ウエリントンに入港したころには、正面から反白瀬の立場をとるよう
    になっていたようだ。

     ニュージーランドに到着後、白瀬以下、武田、池田、田泉、その他、西川、吉野といった隊員までが開
    南丸と別行動をとり、普通の汽船便を利用して、他の隊員や船員より一足先に日本に帰るというのだ。
    往路シドニーまで日豪航路の汽船で行った田泉や病人が汽船で帰るというのは納得でき、田泉につい
    ては大隈の了解も得られていた。
     が、白瀬隊長が探検隊の旗艦ともいうべき開南丸を見捨てて汽船便で帰るのは常識的におかしい。
    この理由について探検隊編の「南極記」では、“船員給料、隊員手当等を作り置かんとするため”として
    いるが、後から取って付けたような理由だ。

     この問題は最終的には白瀬隊長のほか村松秘書・武田学術部長・池田学士・田泉写真技師・病気の
    安田木工の5人が開南丸と別行動をとることになる。

     3月28日、隊員一同は隊長室に押しかけ、「隊長等の定期船での帰国に全員反対」の声を押し切って、
    3月30日、田泉を含む白瀬一行がユニオン会社のアオレンジ号という汽船で出発し、4月3日にシドニーに
    着いた。シドニーから日光丸に乗った白瀬らは5月12日に長崎に到着した。翌13日の「時事新報」に「南
    極探検隊員に内訌(ないこう:うちわもめ)あり」という見出しで、多田恵一が送った告発状が掲載される。
     こうして、白瀬と多田の不仲が表面化するが、多田が南極探検隊脱隊と言う形で決着し、多田は沈黙
    を守る。
     田泉らは、5月16日、横浜に到着そこからただちに鉄道で入京した。

4. 撮影したフィルムと田泉のその後

    6月20日、開南丸は品川湾に回航し、出発地の芝浦埋立地に帰還した。会長・大隈重信はじめ朝野の
   名士多数が臨席し、集まった群集は5万人と報じられた。
    夜は早稲田大学ほか学生5,000人による堤燈行列が行われた。
    翌21日、白瀬以下探検隊一行は早稲田の大隈邸を訪問し帰朝報告を行った。

    6月25日、大隈重信をはじめ後援会幹事、それに白瀬はじめ探検隊幹部は青山御所に招かれ、南極で
   撮影した活動写真を皇太子殿下(大正天皇)・同妃殿下(貞明皇后)・皇孫殿下御三方(昭和天皇・秩父
   宮・高松宮)ならびに各殿下の台覧に供した。
    活動写真は、M・パテー商会の技師によって上映され、白瀬は感激に緊張しながら写真説明を行った。
   特に海豹(アザラシ)射撃やペンギン捕獲の光景には、各殿下が身を乗り出して興深げに御覧になり、活
   動写真が終わってから大隈を通じて献上された皇帝ペンギンと南極鷹(正式名:とうぞくかもめ)の剥製に
   も、皇孫殿下御三方は珍しそうに手を触れて観察しておられた。

    田泉が撮影し持ち帰った実写フィルムは現像・編集され、短篇ドキュメンタリー映画 『日本南極探検』の
   タイトルで梅屋庄吉のM・パテー商会が配給し、明治45年(1912年)6月28日に浅草の国技館で公開した。
    『南極実景』とする資料も存在するようだ。

    ・ 製作       梅屋庄吉
    ・ 出演者      白瀬矗
    ・ 撮影       田泉保直
    ・ 製作会社    M・パテー商会
    ・ 上映時間    20分

     台覧に供したのは、一般公開の3日前ということになり、内容は同じものだった可能性が高い。このフィ
    ルムの一部はインターネットでも閲覧できる。

     http://kobe-eiga.net/kdff/program/2014/10/tokusyu1/

           
          出港前の開南丸          開南丸の船尾        橇での荷物陸揚げ
                            田泉撮影映画の一部

    映画の公開によってM・パテー商会社長の梅屋庄吉は莫大な興業収入を得たとされる。M・パテー商会
   は、同業3社と合併し、「日活」と名をあらため、日本を代表する映画会社の1つになる。

    南極から帰った、数え52歳の白瀬を待っていたのは、南極探検隊隊長の栄光もさることながら、巨額の
   借金だった。一行26人に給金を支払おうとすると、後援会にあるはずの全国から寄せられた義捐金数万
   円(現在の1億円)がなくなっていた。これは、後援会の人々が飲み食いに費やしたものだという。
    借金返済のため、軍服や剣は無論、自宅まで売り払ってもまだ足りなかった。借金に追い立てられた
   白瀬は次女・武子を連れて、田泉が極地で写したフィルム一巻を携え、国内各地だけでなく遠く朝鮮・満
   州・台湾にまで映画講演旅行に赴いた。

    田泉はその後もカメラマンとして初期の日本劇映画界で活躍し、次のような作品の製作に携わっている。

     公開年・月・日 タイトル      配給会社
     1912.06.28   南極実景      M・パテー
     1921.05.27   温泉の一夜    松竹蒲田
     1921.06.17   渦巻く潮      松竹蒲田
     1921._._    華族        松竹蒲田
     1921._._    呪の巫女     松竹蒲田
     1921._._    青春の思い出  松竹蒲田
     1921._._    天草一揆     松竹蒲田

    しかし、大正末以降の作品は残されておらず、映画界を去ったのだろうか。昭和31年には福島県岩瀬郡
   浜田村前田(現須賀川市)に住んでいた、とあるので、Wさんの記憶にあるのは今の私と同じ70歳ごろの
   田泉の姿なのだろう。

5. おわりに 

 5.1 南極での撮影機材
      今までも北海道や標高2,000mを越える甲武信鉱山などで真冬に写真を撮影した経験はあったが、
     それは1日、2日間のことであった。南極探検旅行は自宅を   出て戻るまで、2週間以上にわたって
     寒冷地で撮影を続けるという未経験の領域だった。

      私は、下表のような撮影機材を持参した。

区分 型式 メーカー  記録方法 持参した理由
静止画 動画
デジカメ OptioW60 PENTAX  ◎  ◎ 使い慣れている
COOLPIX S9700 Nikon  ◎  ◎ GPS、光学30倍の望遠機能付きで新規購入
ビデオ HYBRIDCAM 日立  ○  ◎ 動画はビデオでと思い込んでいた

          これらを使うための三脚、予備のバッテリー各1〜2ケ、そして充電器を各1ケ持参した。船の電圧は
     220Vだが充電器は問題なく対応できた。しかしコンセントの口金が日本と違うのでC型変換プラグを
     2ケ持参した。
      今にして思えば、三脚とビデオは荷物になっただけだった。

      持参・使用した記憶媒体の数量と撮影した写真枚数・撮影時間は下表の通りだ。

記憶媒体 容量 記録済 未使用 撮影枚数(静止画換算) 撮影時間(分) 用途
SDHC 8GB 3 1 2,922 Nikonデジカメ
4GB 2 3 1,832 PENTAXデジカメ
SD 2GB 2 0 916 PENTAXデジカメ
1GB 1 0 229 ビデオカメラ(静止画)
DVD-RW 60分(両面) 3 3 180    〃    (動画)
   合   計 11 7 約5,000枚+180分  

 5.2 南極での撮影の難しさ
      使い慣れないカメラを持参したため、絶景ポイントで撮影できなくて困り果てていた方もおられた。
     横殴りの雪混じりの雨や上陸用ボートの船縁で浴びる潮水でレンズが曇ってしまう。水濡れが嫌で
     ゴム手袋をつけると“隔靴掻痒”、脱げばかじかんだ指はカメラの“誤操作”を招き、いらだたしい思いを
     幾度もした。

      講師のサイモンさんから南極で上手な写真をとるポイントの1つは、露出補正機能[+/−]の活用だと
     教えられ、[−(露出不足)]にしてみたが効果は今一だった。

      撮りやすいペンギンに比べ、クジラはどこに現れるか予測がつかず、海鳥の動きは素早く、さらに、
     立松のいう「南極の景色はページをめくるように変化する」ためシャッターチャンスを逃すことが多く、
     運と根(粘り)の世界だった。

         
                荒れるドレーク海峡                 ポーレット島のクジラ

         
              ゼンツーペンギンの親子               朝焼けに迎えられ帰港

       今と違い不十分なカメラ性能やフィルム感度で撮影する田泉の苦労が偲ばれた。

6. 参考文献 

 1) 綱淵 謙錠:極 白瀬中尉南極探検記(上)(下),新潮社,1983年
 2) 立松 和平:南極にいった男 小説・白瀬南極探検隊,東京書籍,2008年
 3) 野村直吉船長航海記出版委員会編:野村直吉船長航海記,成山堂書店,平成24年
 4) 白瀬南極探検隊100周年記念PJ実行委員会編:大和雪原に立つ,平成25年


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