福井県大野市中竜鉱山仙翁坑のモリブデン鉛鉱

福井県大野市中竜鉱山仙翁坑のモリブデン鉛鉱

1.初めに

 石友のNさん御夫妻の案内で石川県の尾小屋鉱山(金平金山)で「紫水晶」と
「緑鉛鉱」を採集し、福井県美山町の「みらくる亭」で一夜を過ごした。
 翌日、「自然砒」で有名な赤谷鉱山で”金米糖”や”サイ形”の採集を一緒に
楽しんだ後、現地でお別れした。
 その翌週も同じコースをたどり、石友のKさん親子やYさん一家と金平金山で
「紫水晶」「緑鉛鉱」の採集を楽しみ、福井の「みらくる亭」での一夜を過ごした。
 翌日、赤谷鉱山で各種結晶形態の自然砒を採集し、意気揚揚と中竜鉱山
仙翁坑の「モリブデン鉛鉱」の産地に向かった。
 古い採集ノートを紐解くと、ここには、今から丁度10年前の1993年5月に訪れ
「異極鉱」とそれに伴う、”キャラメル色の透明薄板結晶”が多数ついた標本を
採集した。
 産地の現状を知りたいし、「標本玉手箱」用にいくつか採集したいと思い
仙翁坑を目指したが100m先も見えない「霧」に翻弄され、あえなく敗退した。
 ”麻那姫”は微笑んでくれませんでした。秋にでも、再チャレンジを考えています。
  麻那姫像

(2003年7月訪問)

2. 場所

 大野市から国道157号線を南下、いくつかのスノーシェードやトンネルを抜けると
左手に麻那姫湖がみえ、”麻那姫”像が見える。湖に沿ってさらに南下し
「若生子大橋」を渡り、仙翁谷を遡れば、「モリブデン鉛鉱」を産するズリが
遠望できるはずだった。
 だが、雨こそ降っていないものの、深く霧が立ち込めて、100m先も見えず
どこがズリやら見当も付かない。
  仙翁谷

3. 産状と採集方法

   「日本鉱産誌」によれば、仙翁坑は、中竜鉱山の一部として、明治中期に盛況を迎えたが
  この本が出版された昭和31年には、休山していたようです。
   同書には、丸山(太平)鉱山が隣接していたとの記述ようで、もしかしたら、丸山鉱山
  なのかも知れません。
   古生代の粘板岩・石灰岩の互層とこれを貫く角閃安山岩からなり、鉱床はレンズ状を
  なしていた。
   閃亜鉛鉱、方鉛鉱、黄銅鉱などを採掘し、それらのズリが草木も生えない真っ黒い姿を
  山肌に現わしていたのを記憶している。
  仙翁坑ズリ遠望【平成5年】
   産出状況として、次の2つのタイプがあった。
   @異極鉱の上に生成したもの
     この場合、モリブデン鉛鉱の上を異極鉱が覆っており、生成の順序が
    モリブデン鉛鉱→異極鉱であったことがわかります。
     白い異極鉱がついた鉱石を片っ端からルーペで覗きながら探すと良いでしょう。
    平成5年には、20ケに1ケ位の確率で発見できました。
   A閃亜鉛鉱や方鉛鉱の塊を覆う茶褐色の”ヤケ”の上や晶洞の中に生成したもの。
     ズリ石の表面を舐めるように見回し、太陽光で「モリブデン鉛鉱」の結晶が”キラリ”と
    光るのを見逃さないことです。

   どちらのタイプも目が慣れるまで、苦戦しましたが、目が慣れれば、比較的簡単に
   見つかりました。HPなどを見ると、その後訪れる人が多かったようで、現在では
   採集するのは多少苦戦するのかも知れません。
  仙翁坑ズリ【平成5年】

4. 採集鉱物

   平成5年に採集したものを引っ張り出そうと、2階の鉱物標本部屋で標本箱を
  全身汗まみれになりながら、ひっくり返してみたのですが、仙翁坑産の鉱物は
  1つも見つかりませんでした。(違う部屋にある?)
   その代わり、兵庫県新井鉱山のモリブデン鉛鉱(ミメット鉱と共生)が見つかりました。
  下記の2点をご覧頂くまで、もう少し時間を下さい。
(1)モリブデン鉛鉱【Wulfenite:MoPbO4】
   モリブデンと鉛の酸化による2次鉱物で、透明でキャラメル色の四角な薄板結晶で産する。
   オーストリアの鉱物学者・Frantz Wulfenにちなんで命名された。
  モリブデン鉛鉱【平成5年採集】
(2)異極鉱【Hemimorphite:Zn4Si2O7(OH)2・H2O】
   白色の皮膜状で、部分的に半球状をなして産する。
  異極鉱【平成5年採集】

5.おわりに 

(1)モリブデン鉛鉱は、日本では採集できないものとばかり思い込んでいました。
   そんな訳で、平成4年に、今はなくなった東京の「凡地学」で外国産のものを
   購入していました。
    平成5年に、仙翁坑を訪れ、「モリブデン鉛鉱」を自分の手で採集して
   認識を新たにした次第でした。
(2)平成5年5月に訪れたとき、昔鉱山(やま)を所有していたという山菜採りの夫婦の話では
   「昭和24、5年頃、このあたりのあちこちで狸掘りで採掘していた。その当時は
   この付近一帯は『バケモノ谷』と呼ばれ、誰も近づかなかった。今でも30mもある
   竪坑が口を開けているから、充分注意するように」とのことであった。
(3)2階の標本を押し込んである部屋の標本を見直していると、一つひとつ採集した時
   購入した値段、あるいは頂いた人の顔などが浮かんできます。
   それでも、4,000点を越え、必要なものが簡単に探し出せず、私のメモリの限界を
   越えようとしていますので、本格的な整理が必要だと痛感しています。

6.参考文献

1)東京地学協会編:日本鉱産誌(BT-b),砧書房,昭和31年
2)地学団体研究会地学事典編集委員会編:地学事典,平凡社,1970年
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