栃木県馬頭町古代産金の里

栃木県馬頭町古代産金の里

1.初めに

栃木県馬頭町は、今では栃木県になっていますが、徳川時代から廃藩置県の
ごく初期までは、茨城県の一部でした。
TVを見ていると、馬頭町小砂(こいさご)にある、「窯業史博物館」に、古代から
現代までの焼物が展示してあるとのことで、焼物に興味のある妻を連れて訪れた。

窯業史博物館
ここで、下野国沙(砂)金収納堂跡鐙瓦の文様をデザインした布巾を購入した。
また、「小砂と史跡」の絵葉書を買うと、その中の1枚に「日本最古天平19年、
古代産金の川・武茂(むも)川」があった。係の、その名も大金さんに聞くと、
古代産金の里の碑があるとの事で訪れた。
健武山神社の脇に建つ石碑は、ここが日本最古の産金の里であった事を後世に伝える
ため、昭和63年に建立したとある。
近いうちに、神社の遥か前を流れる武茂川でのパンニングをやってみたいと考えて
いる。
(2001年6月訪問)

2.小砂焼

"Koisago"とは読めず、ボストン美術館に収蔵されている四方壷を収集した
エドワード・モースの著書”Catalogue of the Morse Collection of Japanese
pottery"には、”Kosuna"と記載してある。
小砂は、かつて水戸藩に属し、幕末の名君、徳川斉昭公が、藩の経済政策として、
殖産興業を取り上げ、なかでも日々使用する陶器を領内で調達すれば、藩の外に
お金が出て行かず、領民の利益になると考えた。
陶土の見本を、尾張、会津、平戸の各藩から取り寄せ、これと同じ土を探すよう
指示したところ、藩の辺境の地、小砂の大金 彦三郎の持山(高野(こうや)の山)
で陶土を発見した。
水戸城下(偕楽園の常磐線寄りの場所)に製陶所をお手元金(ポケットマネー)で作り、
小砂に藩営の製陶所を設置する計画まで作ったが、藩重臣のコンセンサスが得られ
なかった。
(陶土探索指示からここまでの経緯は、今のどこかの国の外からきた大臣と官僚の
やり取りを彷彿とさせます。)
そこで、小砂の名家、大金 彦三郎が、烈公の理想を実現すべく、自らの持山に
窯を築き、嘉永4年(1851年)に御用瀬戸を試焼するに至り、これが「子砂焼」の
始まりとされている。
ここの陶土は耐火性に勝れ、開国にゆれる安政2年(1855年)海防のための大砲を
鋳造するため、那珂湊に建設した反射炉用の耐火煉瓦製造にも使われた。
日本窯業史研究所の大川 清博士が、昭和50年、国山窯を開設し、小砂青磁の開発に
成功し、現在に至っている。

3.窯業史博物館

ここは、日本窯業史研究所に併設した博物館で、古代から現代に至るまでの
焼物を展示しています。その時々に企画展があり、私たちが訪れたときには、
「東国出土の施釉陶器」が公開されていた。
また、那珂湊に建設した反射炉用の耐火煉瓦も展示してあった。

那珂湊反射炉用耐火煉瓦
受付では、各種の文献や各地の遺跡から出土した瓦の文様をデザインした布巾を
売っており、その中に下野国沙(砂)金収納堂跡鐙瓦と陸奥国沙(砂)金収納堂跡
鐙瓦の文様をデザインしたものがあり購入した。
奈良時代の天平19年(747年)に奈良の大仏建立にあたり、渡金のための黄金が
不足し、陸奥国から献上し、聖武天皇が大変お喜びになった。と理解してしていましたが、
下野国からの産金が奏上されたというのは初めて知った。
下野国沙(砂)金収納堂は、馬頭町小口字尾の草にあったとあります。

沙(砂)金収納堂跡鐙瓦文様 左:下野国右:陸奥国

4.産金の里

馬頭町の市街から茨城県大子町に向かって走ると、左側に健武山神社があり、その
入口に高さ5mはあろうか思われる「古代産金の里」石碑があります。

「古代産金の里」石碑
健武山神社は、名前から分かるように、日本武尊をまた、産金に関係するところから
金山彦命の2神を祭神としています。
神社の説明板には、「この地方の産金は、那須のゆりがねとして、和歌にもよまれ、遠く
都にもその名を知られていた」とあります。
承和2年(839年)、黄金を産する山に鎮座する武茂の神に従五位下の位が授けられた。
ここにきて、山金として採集したのか、目の前の武茂川でゆり板をつかって砂金として採集
したのか分からなくなってしまいました。
近くの商店の方に聞くと、最近金を採集したと聞いた事がないようなので、もっと聞き
込みが必要です。

5.おわりに 

(1)小砂のことは、HPの石友に掲載してある、古書店「常陸野」の大内さんにも
聞いており、今回初めて訪れて、古代産金の里であった事を知った。
次回は、神社の遥か前を流れる武茂川でのパンニングをやってみたいと考えている。
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